煙草の花々は、そのまどろみの香りによって、蒼ざめた夜気の痛みをやわらげていた。その危険なけだるさに満ちた吐息は、悪しき妄想をとめどなく生ぜしめた。
沈黙はその熾烈さゆえに恐るべきものであった。それは『夜』を乱心せしめる苦悩の沈黙であった。植物は私たちが交わそうとしている言葉をひそかに恐れていた。木々の考え込んでいるありさまは、暗い未来を憂慮している預言者のように沈痛だった。
月の光よりも青い目のヴァリー、月の光よりもさらさらとした緑の髪のヴァリーが、私を待っていた…その朦朧たるシルエットは、緑草の上に浮かび上がり、緑葉の間にはめ込まれていた…かつて愛した人の面影を、私はしばし見つめていた。
「ヴァリー…」
彼女は目を上げなかった。あたかも死せる彫像のようであった。
「ヴァリー…」
ようやくこの亡霊の真っ青な顔に、生気がよみがえった。
「あなたを取り戻すためにここへ来たのよ。あなたは私のもの、なぜなら私はあなたの『初恋の人』だから。あなたは私のもの、それはとりわけ私があなたを苦しめた最初の人間だから。あなたは私たちを分かちがたく結び付けている『過去』を完全に消去することは出来ない。あなたのその狭量で一徹な恋心、それは何年もの幸せな愛の暮らしに可能な力よりも、もっと強い力で私たちを結び付けている。あなたは私から逃げることは出来ても、私を忘れることは出来ない」
「ヴァリー、私はあなたを忘れたことはないし、忘れたくもない。忘れたふりをすることも出来なければ、知らぬふりをすることも出来ない」
ヴァリーの目が勝利のよろこびに輝いた。私を屈服させたことで悦に入っているその胸のうちはひと目で見て取れた。勝者の驕りが暴君の声を男性化した。
「そうだろうよ。だからこそ私はここへやってきたのさ」
その心ない薄笑いを見て、私はかつてと同じように震え上がった。
「ヴァリー、私はあなたのもとへは帰らないわ」
彼女は食い入るように私を見つめていた。そのゆがんだ唇には名状しがたい侮蔑の念が浮かんでいた。
「ヴァリー、私はほとんどあなたを理解しておらず、あなたの愛し方を間違えていた。私はみずからの嫉妬心を飼い馴らすすべを知らなかった。みずからの猜疑心や、被害妄想や、うらみつらみを克服するすべを知らず、私の憐れな恋心はそうした感情でいよいよ激しくなると同時に腐敗してしまった。私は自分自身に対して忌むべき存在と化した者のうちでも、もっともけちくさい不信感に満ちた、もっとも不快な人物だった。私は凝った責め道具でみずからを繰り返し拷問にかけることで、あなたに迷惑をかけた。私は自分自身の死刑執行人だった。このようにしてあなたの、そうして自分自身の品位をも傷つけたことを、ここに跪いて永遠にお詫びするわ」
ヴァリーの見下したような二つの目は、なおも私の目を離れなかった。
「あなたは私を勝ち取るすべを知らない」彼女はゆっくりと言った。「この私を支配したがる者と向き合った時に、私が感じる敵愾心を屈服させるだけの腕力も、忍耐力も、胆力も、あなたは持ち合わせてはいない」
「その通りよ、ヴァリー。愚痴も不平も言わないわ。私はただあなたが愛というものを教えてくれたことには言葉では言い尽くせないくらい感謝しているの。この愛をあなたと分かち合えないのが残念だけれど」
「『私の人生が明るくなるように、私を愛して』と言ったはずよ」
「そうして私はあなたの意に添えるほどお利口さんではなかったのよ」
彼女のドレスの帯には、飢えた唇のように物欲しげにひらいた洋蘭の花が数本さしはさまれていた。彼女はそれを手に取ると、その細長い非情な指で、一輪また一輪とその花びらを散らし始めた。
「あなたが私を愛しているのと同じように私もあなたを愛している、と言ってもあなたは信じてはくれないでしょうね。あなたは出会いの時から私の正体を見抜いていた」と彼女は言った。「私は心ある女になりたかった…あなたに対しては、私はいつも心なく振舞ってきた。にもかかわらず、私が愛したかったのはあなたなのよ。あなたが愛と呼ぶそのユニークで真摯な情熱を心に感じることの出来ない私こそ憐れまれるべきだわ。なぜならそのような未知の優しさ、そのような手の届かない甘美さを探し求めて、あてもなくさまよい歩くこと以上に悲しいことなど考えられないもの。
Eros m'a fait aimer sans me fermer les yeux.
(エロスは私に盲目的な恋を許さなかった)
「あなたは私に対して償うことの出来ない過ちを犯したのよ。あなたは私の中にいる『漁色家』を慰めてはくれなかった。『漁色家』とは心ない奸策の人物、肉欲の塊でありながら夢を追い求めている人物よ。夢は叶えられず、『漁色家』は憤死するの。彼女は今日死んだわ」
「そう」私は溜息をついた。
「もしも優しい想い人が、あなたをより愚かしい献身と自己犠牲とにふけらせてくれないならば――もしもさほど悲痛ではない恋愛が、あなたを凡人のレベルへとひきずりおろしてしまうならば――もしも無気力な人間が、あなたをその波乱のない生きざまに従わせようとするならば――そんな時は大声で私を呼んで。私は猛禽のように舞い降りて、この鉄の爪であなたをつかむ。その爪はあなたを傷つけるかも知れないけれど、その代わりあなたを無限の高みへと、それはささいなことで一喜一憂している月並みな恋人たちが思いも寄らず、及びもつかない境地へと、あなたを連れ去るでしょう」
彼女がこのように後悔の念に満ちた物悲しい声で話すのは初めてだった。私は暗闇の中へと身をひそめながら言った。
「ヴァリー…ヴァリー…」
「私は別人に、より心ある人間になってみせる。ええ、見ていてごらんなさい。私はすでに少し変わった…少なくとも私自身はそう信じているの。今の私に怖いのは睡眠だけ。もう二度と目が覚めないのではないかと思われるほどの深い眠りだけよ。私はいま死よりも恐ろしいメタモルフォシスのさなかにあるの…」
「あなたはそこまでして自分を変えたというの…」
「私にはあなたが必要なのよ。自分で思っていたよりももっともっと、あなたが必要なの…」
煙草の花々は息も絶えなんばかりに蒼ざめていた。その吐息は私の理性を鈍らせ、意識を混濁させた。夜の芳香は強い勢いを持ち、ためにそれほど狡猾でも危険でも邪悪でもないすべてのものに対して優位に立った。
E dell'antico amore sentii la gran potenza…
(そして在りし日の恋心の大いなる力を感じた…)
おお生ける炎の衣を身にまとった倒錯のベアトリスよ、花々の雲の中からほとばしり出た影よ。おお尽きることなき悲恋の追憶よ。
*訳者注「そして在りし日の恋心の」云々:ダンテ『神曲』煉獄篇第三十歌より。
「人は誰しも『過去』に属しているの」ヴァリーは力をこめて言った。「もしも因果の鎖から自由になれたなら、人生何の苦労もいらないでしょうよ。私はあなたの『過去』。だからあなたは私のもの」
「そうして人は『未来』にも属している。私は『未来』のもの、エヴァのものでもあるのよ…」
「『過去』は『未来』よりも確かだわ。『未来』はあてにならないけれど、『過去』はもう二度と消せない文字で記されているのだから」
ヴァリーの声は威厳に満ち、有無を言わせぬ響きがあった。私は真っ向から反論することができなかった。
「私は今夜エヴァにこう言ったばかりなの、『あなたが今ここにいることから生まれるよろこびのうちのほんの少しを、私は世界中にまきちらしましょう』と」
「悲しみに匹敵するようなよろこびなんてあるかしら。悲しみはよろこびよりも強いものよ。人はよろこびを忘れることは出来ても、悲しみを忘れることは出来ない。私はあなたの『不幸せ』、だからあなたは私を愛し続けるの。『幸せ』なんて嘘っぱち、『不幸せ』だけが真実よ」
「どうして可能なものを手の届かないものにしてしまうのかしら」と私は問うた。「『幸せ』は決してはかないものではない、それは『夢』と同じほど確かなものよ。ただ『幸せ』を守り抜くためには、『幸せ』を勝ち取った時よりももっともっと多くの血を流さなければならないの」
「私はあなたに『幸せ』なんかよりもっと高い理想を持ってもらいたいのよ。自由になってよ、何者にも食い物にされぬように。自由になってよ、そしてあなたの上にあるものを見つめて。私との時もそうだったけれど、あなたはたとえ淡くはかない恋心でも、胸にきざせば途端に臆病になってしまう。私はあなたがそうして人に傷つけられることで、私たち二人の間柄が悪くなるのを恐れているのよ」
私は耳を傾けながら、彼女の声の中の新しい真剣味に驚き、とまどった。
「私はある巨人の道のことを考えるの」と彼女は言った。「『未来』とは岩壁をうがたなければ開けない道のようなものよ。絶壁の上に張り出した巨石を目の前にして、人々は愚かしくも手をこまぬいて立ち尽くす。けれど一人の巨人が立ち上がり、先頭に立って進む。彼は野草と石塊とをかきわけて、英雄的な道を切り拓く。のどが渇き、孤独感が彼をさいなむ。彼は出口を目前にして非業の死を遂げる。あらゆる弱小者たちの群れが、抗しがたい勢力となって、彼が通した道へと殺到する。その光景は、先駆者たる巨人が斃れたまさにその場所に、雲集する蟻の群れとも見えることでしょう…あなたがもし本当に何か偉大なものを持っているのなら、彼のように生きなさい。みずからの宿命へと突き進みなさい。卑しい『幸せ』などはさげすんで、より高貴な人生を選びなさい。より悲惨な人生をね」
「世界中にありふれた『不幸せ』よりも、稀に見る『幸せ』の方が、値打ちがあるのではないかしら」と私は言い返した。
「静かに澄み切った気持ちでいましょうよ。今は嘘とまことの深淵を探るには及ばない。『夜』は疲れている…ちょうど私と同じように疲れ切った顔をしているわ。けれど明日、私は夜明けとともによみがえる。そうしてあなたのために含み笑いをしている『四月』となってあげましょう。『四月』のよろこびは秋の悲しみを秘めている、今はまだ目を覚まさない収穫期の悲しみを」
「ヴァリー、『過去』に夜明けは来ないわ。『過去』は最後の星のまたたきとともに消えてゆくの。夜明けを知るのは『未来』だけ」
「真実も理性も思慮分別もうんざりよ。素直な恋心以外のものはみんな大嫌い」
私は昔日の悲しみのすべてをもって彼女に答えた。
「恋にもまた希望に満ちた朝があり、燃える真昼があり、悲しい黄昏があり、星もない長い夜がある。恋がどんなに移ろいやすいものか、それはあなたの方がよく知っているはずよ。メタモルフォシスを死よりも恐れているあなたの方が」
ヴァリーは顔をそむけて、後ずさりした。
「飽満した人間だけが誘惑に乗る。あなたの心は怒りと憎しみに飽き飽きしている、だからあなたは私のもとへ帰ってくるの…あなたは帰ってくる、なぜなら憎しみは物事の一面しか見ないから。何物もそれ自体としては善くも悪くもない。この規則は人間にもひとしく当てはまる。あなたは私自身が審判するほど私を明快には審判しない。それでいて私を愛したことがあり、今も愛しているなどと言う…あなたが私の欠点しか見ようとはしないその思い上がりこそ、血に酔い痴れた吸血鬼があなたの心の中にひそんでいる証拠よ。私はと言えば、私はもっと幸せ。私はもっぱら見たいものだけを見る。それも私の幻想を壊さない程度に、ほんの少しだけ、かすかに見るの…あなたは帰ってくる。私は以前こう言ったわね。『心ないのはあなたの方よ。なぜならあなたはわけのわからない責め方をして、私をあなたの心の聖域に、いかなる嫌疑もかからない場所に、きっぱりと安住させてはくれないのだもの。私は確かに男たちをもてあそんだわ、彼らをいじめるのは面白いから。彼らは折にふれ私を笑わせてくれるから。けれど私は男を好きになったことは一度もない。誓ってもいい』またこうも言ったはずよ。『嫉妬や猜疑で私を苦しめないで。私がこうして飢えた両手を差しのべて、あなたの愛以外にはもはや何も要らないと思っている時に…私は時を越え、もろもろの恋を越えた次元であなたを愛している。その他のことはすべてただの気まぐれ、重要でもなければ長続きするものでもないわ』」
「そうしてヴァリー、あなたはそう言った舌の根も乾かぬうちに、こんなひどいことを言って私を追い払うのよ。『あなたなんか大嫌い…何て口やかましい人…あなたは私の月光と百合の道を暗くするのよ』」
「おお、それではあなたの青白い『四月』はどうなるの」ヴァリーは溜息をついた。「私は心に『春』のあらゆる遺産を受け継いでいるのに…もう一度その心を開いて私を抱きしめて。私はどんなかすかな苦痛の記憶をも呼びさまさない。私たち二人のものではないどんな残り香をももたらさないわ。神殿に入る敬虔な信者のように、私はあなたの心の中に入り込み、そうしてそこに年を経て色あせたよろこびを見つけたならば、新しく咲いたばかりのよろこびと取り替えましょう。あらゆる希望をはらんだ大いなる『可能性』に思いを馳せる時、私の心は花々に満ちあふれるの…」
「ヴァリー、私はあなたを幸せにはしてあげられないわ。あなたが私にいま心を傾けているのは、私があなたを災いのように避けているから、虎口を脱するようにあなたから逃げているから。あれ以来…あなたを愛して以来…私は夢も希望も、自信すら失ってしまった。けれどそんな私に『救済者』がやってきたの…予期せぬ『救済者』、エヴァが…」
「あなたは私たちの過去に醜さと悲しみ以外は何も見まいと必死なのね。でも白百合を思い出して」
…空はヒマラヤスギと真珠母と象牙とで出来たすばらしい天井のようであった。木々はすらりとして白く、ムーア人の城の円柱さながらだった。『夜』はボアブディルの神秘的な宮殿のようで、いにしえのあらゆる夢想にふけっていた。
「覚えているわ、ヴァリー」
「あなたにはもともと『幸せ』になる権利なんかないのよ。自分自身の言った言葉を思い出してごらんなさい。『恋とは自己放棄、恋とは自己犠牲』『恋とは崇拝する対象の前に跪くこと』」
彼女は言葉を切って、儀式的に誦した。
《 L’amour est un calvaire ou fleurissent les roses. 》
(「恋、それは薔薇の花咲く処刑場」)
死んだ蛇が一匹、私たちの足もとに横たわっていた…斜めに差し込んだ月光が、奇妙にも、その緑色のうろこをくすんだ金色に輝かせていた。それはゆっくりと蛇行しながら打ちふるえているように見えた。私はサン・ジョヴァンニの謎めいた言葉を思い出した。
『死んだ蛇たちは愛する者のまなざしのもとでよみがえる。リリスの魔力ある目は彼らを活性化する、月光が澱んだ水をふたたび流動化させるように…死んだ蛇たちはみずからの姿を薄闇に溶け込ませ、そこで彼らの目は残忍な光を放つ。なぜなら彼らはリリスの忠実なしもべであり、リリスが指示した獲物の様子を冷ややかにうかがっているのだから』
「どんなよろこび、どんな心の安らぎが、あなたがかつて私の唇から学んだ聖なる苦痛に匹敵し得るというの」ヴァリーはそう尋ねた。
…『熱病の聖母』はその死の息吹きによって庭を腐敗させてしまった。ジキタリスとベラドンナはその芳香と邪気をみなぎらせ、『聖母』へと差し伸べた…蛇は『聖母』の瘴癘の祠へとたどり着くと、供え物として、その毒あるいのちを吐き出した…爛れた月は樹々を蝕み、紅薔薇はその生々しい傷口から出血した…私はこの病める庭から逃げ出したかった。けれども私の目はヴァリーの目から逃れるすべを知らず、その夜気よりも緑色の髪や、夜気よりも青いひとみに釘付けになっていた。
「白百合を思い出して」彼女は執拗に繰り返した。
煙草の花々の死屍累々たる闇の上に、はるかなともしびが弱々しい一筋の光を投げかけた…それは私の『救済者』の寝室から来るのだった…その光は静かな星影のように優しかった…
やがてその光は消えた…闇は死せる蛇たちの説く教えに聴き入っていた…ヴァリーの病的な髪の色は月光のもとでふたたび落ち着いたものとなった。
「よろこびよりもつらい痛み、痛みよりも深いよろこび…」と彼女は言った。「憎しみよりも恐ろしい愛、愛よりも甘美なる憎しみ…『心の安らぎ』をさげすみ、見下すありとあらゆる熱き想い…」
ともしびがふたたび星の光を投げかけた。それはエヴァの手の中でゆらめいているのだった。その蒼ざめた、透明な影は、次第に私たち二人の方へと近づいてきた。
まことにこの二人の女こそ、私の運命をつかさどる二人の『大天使』に違いなかった。緑の服を着たヴァリー、紫の服を着たエヴァ。闇の中で妖しく光り輝く、この二人こそ。
「今こそ魂の時」とエヴァがつぶやいた。
私たち三人の間を苦痛に満ちた沈黙の時が流れた。私が口にする言葉ですべてが決まるのだった。私の未来はこの一瞬の決断にかかっていた。私の上に、選択のあらゆる恐怖がのしかかった。
そうして最後の言葉をささやいた時、私は白みゆく空に断末魔の吐息を聴いた…
「さようなら…また会いましょう…」
(『一人の女が私の前に現われた』完)