魔性の血

拙訳『吸血鬼カーミラ』は公開を終了しました。

千野境子『江戸のジャーナリスト 葛飾北斎』

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岩松院 『八方睨み鳳凰図』は北斎最大の作品。ウィキメディア・コモンズより。

表題のノンフィクションにつきまして、一天一笑さんから紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

千野境子ちのけいこ『江戸のジャーナリスト 葛飾北斎』(国土社)を読了して。
現在、産経新聞客員論説委員を務める千野境子が、北斎晩年の名画、信州・小布施おぶせの東町祭屋台の天井絵や、岩松院がんしょういん本堂の天井絵を取材して、かつて新聞記者だった自分と重ね合わせ、関係文献を読み込み、当時としては超長命の北斎が生きた時代の動きなども捉えながら、北斎の人となりや家族関係を丁寧に熱意をこめて書き著した、精度の高い北斎入門書です。
江戸時代にジャーナリストとの言葉はありませんでしたが、著者はジャーナリストに必須の“鳥の目・虫の目”をもった写実主義者として、浮世絵師の枠内にとどまらない北斎の縦横無尽の活躍ぶりを年代ごとにトレースしていきます。
2021年2月~4月、東京都墨田区すみだ北斎美術館で開催された「筆魂 線の引力・色の魔力 ―又兵衛から北斎・国芳まで―」には北斎の新しく発見された絵が出品されました。
北斎をめぐるニュースは現在でも人々の耳目を集めます。*1

少年時代

北斎は十歳前後で貸本屋の小僧として働き始めます。当時としてはさして珍しいことではありません。そして十四歳前後で、彫師について、木版印刷の版木の文字彫も始めています。
この少年時代の経験は、後年浮世絵を描く時、山東京伝さんとうきょうでん黄表紙本の挿絵を描く時、馬琴の『椿説弓張月ちんせつゆみはりづき』の挿絵を描く時に大いに役立ったことでしょう(大衆・町人の好みが肌でわかる、読み書き能力も鍛えることができる)。

引っ越し魔

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勝川春章『雪月花』。ウィキメディア・コモンズより。

引っ越し魔の北斎はエピソードには事欠きません。しかし、自分自身の絵に対しては、生きている限り倦むことなく、精進を継続しました。周囲に理解されずとも前進あるのみ。なので画号もかなり頻繁に変わりました。
1779年、勝川春章に弟子入りして、翌年、勝川春朗(初代)名義で出発します。1794年に破門され、俵屋宗理(二代目)を名乗ることが許されます。しかし、1799年に北斎辰政ときまさを名乗り、画風も一変させます(描くために長寿を願っての説もあり)。
1806年、北斎を名乗り、『新編水滸画伝』の挿絵を描き、読本『椿説弓張月』の挿絵を描きます。滝沢馬琴と協力関係を築き、ロングセラーとなりますが、後に見解の相違で馬琴とは決裂します。お互いに妥協しませんね。
1810年、戴斗たいと(初代)を名乗る頃には、弟子が200人程になっていました。
1820年、還暦を前に、為一いいつを名乗ります。
1831年、「富嶽三十六景」を発表。
天保の飢饉。1833年、三浦屋八衛門と偽り、浦賀に隠れ住む。
1834年、「冨獄百景」を発表、画狂老人まんじを名乗ります。
1842年に水野忠邦による天保の改革(倹約令発令)を避けるように小布施に逗留します。小布施には都合4度訪れ、各所の天井絵を完成させます。
1849年、遍照院(東京都台東区浅草6丁目)境内の長屋で没します。
絵画に取り憑かれながらも、時代の流れに巻き込まれず、画業を全うしました。

娘・お栄(葛飾応為)の存在

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葛飾応為『三曲合奏図』。ウィキメディア・コモンズより。

澤田瞳子の『星落ちて、なお』の中に、河鍋とよの異母兄・周三郎の「北斎になりたかった親父は、お前にも北斎の娘の役を望んだ」とのセリフがありますが、これは北斎の三女のお栄のことを示していると思われます。
お栄は絵師・南沢等明とうめいに一度嫁ぐも、離縁して戻って来てからは、北斎と起居を共にし、画業では有能なアシスタントで、応為の画号を名乗っていました。北斎晩年の信州・小布施の天井絵は、応為の助力がなければ、出来上がらなかったと思われます。応為の落款の絵は極僅かです。生涯に九十三回引っ越したといわれる“引っ越し魔”北斎にとって、お栄は欠くことのできない人材だったのでしょう(勿論、信州に招いてくれた高井鴻山の存在が一番ですが)。
弊衣へいい粗食を旨とし、売れっ子画家にしては赤貧洗うがごとき暮らしをしていた北斎と共に過ごすのは、お栄にとって、諦めか生き甲斐か、どちらだったでしょうか?

シ-ボルト事件

オランダ商館の医務官として着任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは植物学者でもあり、日本の民俗学的コレクションを5000点以上、国外に持ち出しました。鳥類・哺乳類・爬虫類の標本。植物標本も一万点以上持ち出しました(プラント・ハンターでもしていたのですかね?)。その中に、幕末に売れた『北斎漫画』の資料もかなりの数含まれていました。
幕府が持ち出し禁止にしていた日本地図を持ち出し、返却に応じなかったので、スパイ容疑をかけられ、国外追放処分を受けます。
この為、シーボルトが再来日できたのは、1858年、日蘭修好通商条約が結ばれ、追放令が取り消されてからの事でした。
オランダに帰国したシーボルトは、オランダ政府に叙勲され、オランダ領東インド陸軍参謀本部付きとして、日本関係の仕事に就きました。

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シーボルトが愛した遊女お滝。二人の間に生まれた娘イネは西洋医学を習得した日本最初の産婦人科医。

ロシアにおける北斎

1844年、海軍学校を卒業した海軍士官セルゲイ・キターエフは、浮世絵に興味を示し、帝政ロシアに持ち帰ります。太平洋航路が勤務だったので、船が入港すると、版画や浮世絵を買い集めました。
ロシア革命後、ソ連に保管されていましたが、1966年、ヴォロノワ学芸員の尽力により、プーシュキン美術館で、初の葛飾北斎展が開かれ、日の目を見ます(日ソ共催)。

こうして弛まぬ探求心をもった北斎の絵は、ジャポニズムの華として、世界各国の展覧会の目玉となり、来館者を満足させたのでした。
時代の波に呑まれず、画業に打ち込んだ北斎と、ジャポニズムに惹かれ、北斎コレクターとなった人々の物語をお楽しみください。
天一


映画「HOKUSAI」予告編。
www.youtube.com

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「密会(The Assignation)」

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アーサー・ラッカムによる挿画。ウィキメディア・コモンズより。

テキストは例によっておおむウィキソース版に拠りますが、誤入力とおぼしき部分は他の版に拠っております。なおこの短編小説のタイトル(“The Assignation”)ですが、参照させていただいた諸家の旧訳では「しめしあわせ」「約束」「約束ごと」などとなっておりますが、どの英和辞典をひもといても「恋人同士が人目を忍んで会うこと」「忍び会い」「逢引き」などと明記されており、今風に「不倫」と訳すのもありかな?とも思います。


待っていておくれ 私は遅滞なく
あの谷間へと駆けつけて 君と落ち合おう
(チチェスターの司教ヘンリー・キングが妻の葬儀に際して詠んだ歌)

それが君のあるべき姿だ。

君自身の想像力の輝きに心奪われ、君自身の青春の火に焼かれて、はかなく逝った謎の男よ、私は君の姿をふたたび目の前に見る。それは今の君の現実の姿、すなわち亡霊と化した君の姿ではなく、君のあるべき姿だ。星に愛された海上の楽園ヴェネツィア、そこに聳え立つパッラーディオ式宮殿の広い窓は物言わぬ海の秘密を意味ありげな面持ちで見下ろしている、君の第二の故郷ともいうべきあの幻想の都市ヴェネツィアにおいて、赫々かっかくたる瞑想に人生を浪費している。もう一度言うが、それが君のあるべき姿だ。確かに俗界とは違う世界があり、大多数の思想とは違う思想があり、ソフィストの論理とは違う論理がある。だから私は君のしたことをもっともだと思う。夢見ることに費やした時間ゆえに君を責めるのは酷であり、君のもろもろの道楽も、それは君の無限の精力エナジーの発露に他ならず、これを生命いのちの無駄遣いだとして非難するのは当たらない。
私がくだんの人物と三度目か四度目かに会ったのは、ヴェネツィアの「溜息橋ポンテ・ディ・ソスピリ」と呼ばれる屋根付きの橋の下であった。その遭遇の記憶をたどるにはいささか努力を要する。とはいえ私はその深夜を、「溜息橋」を、麗しのひとの面影を、そうしてその狭い水路に出没したロマンスの神様のことを忘れない。

常になく暗い夜だった。

常になく暗い夜だった。大広場ピアッツアの大時計はイタリア時間の夜五時を打った。カンパニール広場に人通りは絶え、ドゥカーレ宮殿の灯火は速やかに消えていった。私は小広場ピアツェッタから大運河カナル・グランデ経由で帰宅する途中だった。だが私のゴンドラがサン・マルコ水路の入口に差しかかった時、水路の奥の方から女性の狂おしい、ヒステリックな、長く尾を引く金切り声が聞こえてきた。私は立ち上がった。船頭がびっくりした拍子に一本しかないオールを取り落とし、夜の闇に見失ってしまったので、ゴンドラは流れに身をまかせ、大運河から狭い水路へと迷い込む他なかった。ゴンドラが黒いコンドルのように「溜息橋」へと向かって漂っていたところ、突如としてドゥカーレ宮殿の窓という窓、および階段下にかけて、数限りない松明たいまつの火がともされ、黒洞洞こくとうとうたる夜が一瞬にして世の常ならぬ白昼と化した。
母親が手を滑らして、抱いていた子を上階の窓から水路の中へ落してしまったのだった。水面にはもはや手がかりはなく、私のゴンドラ以外には何も見当たらなかったにもかかわらず、多くの屈強な泳ぎ手たちがすでに川に飛び込んで、水深の浅いところを探っていたが、おそらく子どもはもっと深いところに沈んでいるのだろうと思われた。宮殿の玄関の黒い大理石の敷石の上、水路からほんの数歩のところに、一度見た者なら誰しも忘れられない人の姿があった。それは侯爵夫人マルケッサアフロディテ――全ヴェネツィアの憧れの的であり、花の都における華ともいうべきひとであると同時に、奸策にけた老侯爵メントーニのうら若き妻でもあり、今この瞬間、濁った水の中で彼女の愛撫を想い、命の限り彼女の名を呼んでいるであろう幼な子の母親でもあった。
彼女は一人で立っていた。彼女の小さな白い素足は黒い大理石の上で輝いていた。彼女の髪は舞踏会用に結い上げたものをなかばほどいただけで、ダイヤの髪飾りを光らせ、咲いたばかりのヒヤシンスのようにカールしながら、その端正クラシックな顔の周りを幾重にも取り巻いていた。その華奢デリケートな体にまとっているものは綿紗ガーゼのように薄くて白い布一枚のようだった。とはいえ真夏の夜の空気は暑くてよどんでおり、彼女もまた彫像のごとくたたずんでいて、その身を包んでいるかすみのごとき衣装も、ニオベの体を包んでいる重い大理石の衣装のように、そよぎもしなかった。

ニオベ像の写真

フィレンツェウフィツィ美術館所蔵のニオベ像。ウィキメディア・コモンズより。

ところが奇妙なことに、彼女の大きな明るい瞳は子どもが落ちた水路とは全然違う方角に釘付けになっていた。「溜息橋」をはさんで宮殿の向こう側に建っている旧共和国の牢獄は、わたくし思うに、ヴェネツィアの中でももっとも威風堂々たる建築物だ。とはいえ彼女は自分の子が溺れかけているというのに、どうして下を見ず、この建物の方ばかりを見ていたのだろう。メントーニ侯爵夫人の寝室の窓のちょうど向かい側に当たるその建物の壁面の暗い窪みニッチ――その暗がり、その建築装飾アーキテクチャ、そのつたの絡んだ荘重な軒蛇腹コーニスに、彼女がこれまで気づかなかった何者がひそんでいたというのだろうか。無論ナンセンス!このような場合、動転した人間の目は、千々に砕けた鏡のごとく、いたるところに悲しみの相を認め、身近に迫る災いの影を遠く離れたあらゆる場所に見出すものではないか。

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「溜息橋」を挟んで左手が宮殿、右手が旧牢獄。ウィキメディア・コモンズより。

侯爵夫人マルケッサがいる階段下よりはるか上、水路に面した宮殿のアーチの中に、盛装したメントーニ侯爵その人のいかにも好色漢チュロスらしい立ち姿があった。彼は時としてギターをかき鳴らすのに没頭し、折に触れてわが子の捜索に指示を出しながらも、倦怠感アンニュイに死ぬほど悩まされているように見えた。私は最初に悲鳴を聞いて立ち上がった姿勢のまま、呆気あっけにとられて身動きできないでいたので、顔面蒼白、直立不動の状態で、黒いゴンドラに乗って波のまにまに漂っている私の姿は、周囲の野次馬たちの目にはあたかも冥土の使者のごとく映ったに違いない。

ハリー・クラークの挿画

ハリー・クラーク「私は立ち上がった姿勢のまま身動きできないでいた」publicdomainreview.orgより。

ナポリのそよ風にゆれる白百合のごとく

すべては無駄骨だった。もっとも精力的に捜索していた者たちの多くが追及の手をゆるめて諦めかけていた。子どもには(母親にも)絶望あるのみだった。その時、旧共和国の牢獄の一部を成している壁面、侯爵夫人マルケッサの寝室の窓の真向かいにあると先ほど述べたあの壁面の窪みニッチから、袖のない外套クロークに身を包んだ一人の人物が現れて、一瞬ためらったあと、目もくらむ高さから水路をめざして真っ逆さまに飛び込んだ。次の瞬間、彼は侯爵夫人マルケッサのかたわら、大理石の敷石の上に、まだ息のある子どもの体をしっかりと抱いて立っていたが、そのとき彼の袖のない外套クロークが水の重みで帯紐がゆるんで彼の足もとにずれ落ち、度肝を抜かれた野次馬たちの目の前に、当時その名をヨーロッパ中に轟かせていた一人の青年の優美な姿が現れた。
彼は黙っていた。そうして侯爵夫人マルケッサの方は、今にも子どもを受け取って、胸に押しつけ、しっかりと抱きしめて、愛撫で窒息させるところでもあったろうが――その前に別の人間の腕がくだんの部外者から子どもをひったくって、いつの間にやら、遠く宮殿内へと連れ去っていた。そうして侯爵夫人の方は、唇をふるわせ、その目には――プリニウスアカンサスのごとく「柔らかくてほとんど液体リキッドの」*1その目には、涙がこみ上げてきた。あらゆる女性的な感情が彼女の全霊に息づき、大理石の立像に血が通った。彼女の血の気のなかった顔が、白い胸が、白い素足が、真っ赤に染まるのをわれわれは見た。そうしてナポリのそよ風にゆれる白百合のごとく、彼女の華奢デリケートなからだ全体に微かな身ぶるいが走った。
彼女はなぜ赤面すべきだったのか。答えは一つしかない。彼女はわが子の身を案じるあまり、その寝室ブドワールのプライバシーをもかえりみず、その小さな足に上靴スリッパも履かず、そのヴェネツィア派の肩にひっかけるべき羽織ドレーパリーすら忘れて飛び出してきたからである。さもなければ彼女の赤面に――その食い入るようなまなざしに――その胸の常ならず高鳴っている様子に――彼女の夫が先に宮殿へと引き上げたあと、くだんの部外者の手をふと握りしめたその手の力の入れ様に、他のいかなる理由があったろう。彼女が別れ際にこの捨て台詞をそそくさとささやいた時の低い、奇妙に低い声のトーンに如何なる理由があったろうか。「負けたわ」水の音に紛れて聞こえてきた彼女の言葉は、私の聞き違いでなければ、こんな風だった。「負けたわ――日の出から一時間後――会いに行きます――もう迷わないレット・イット・ビー

それはいかにも鏡らしい鏡だった。

コンモドゥス帝の胸像の写真

ライオンの皮を被り、右手に棍棒、左手にヘスペリデスの黄金の林檎を持つ暗愚のローマ皇帝コンモドゥスの胸像。ウィキメディア・コモンズより。

騒ぎは収まり、宮殿内の明かりは消え、くだんの部外者は、私は今はそれが誰であるかを心得ていたが、彼は敷石の上にぽつんと立って、想像を絶する興奮に身ぶるいしながら、ゴンドラを探して目をきょろきょろさせていた。「私のゴンドラに乗りませんか」と声をかけると、彼は私の厚意シヴィリティを受け入れた。水路に面した宮殿の入口でオールを手に入れて、われわれは彼の家へと向かったが、その間、彼はすばやく落ち着きを取り戻し、われわれのかつてのささやかな交遊について、表面上は非常に心のこもった言葉をもって語った。
微に入り細を穿うがって語ることに快楽を覚える話題が私には幾つかあって、この「部外者」――「部外者」という名で彼を呼ぼう、彼は今なお全世界にとって「部外者」なのだから――この「部外者」の肉体はそのような話題の一つである。彼の背丈はどちらかと言えば人並より少し低かった。とはいえ激しい興奮状態にある場合、彼の体格は本当にひと回り大きくなって、さような先入観を覆すこともあった。軽量で、ほとんどほっそりとした彼の体形のシンメトリーは、「溜息橋」で魅せた敏捷な動きのみならず、更なる緊急時に彼がやすやすとふるヘラクレス並みの怪力をも約束するものであった。口と顎とは神像のごとく――異様で、大きく、狂おしい、清澄リキッドな瞳の色は、純然たるヘーゼルから燃えるような黒へと移ろい――黒く豊かな巻き毛のところどころから法外に広い額が白い光を放ち――私はコンモドゥス帝の大理石像以外、そのように端正クラシックに整った顔を見たことがなかった。とはいえ彼の顔は、万人がその生涯のある時期に目にして、それ以降は決して目にすることのないていのものであった。そこには人の記憶に残るような如何なる特徴的な――如何なる一定の主たる表情も浮かんではいなかった。一度見たらすぐに忘れる顔、それでも思い出したいという漠然とした、永続する欲望を掻き立てる顔であった。この顔の澄んだ鏡の上に、如何なる激情も絶えて影を落とさなかったと言うのではない。ただ如何なる激情もいったん去ってしまえば、この鏡の表面に何の痕跡も残さず、たちまち元の澄ました顔に戻る点でもいかにも鏡らしいのだった。

私は目も眩む思いがした。

Rialto_Bridge_Grand_Canal

カナル・グランデに架かるリアルト橋。ウィキメディア・コモンズより。

その夜の別れ際、彼は私に「明くる朝早々、俺をたずねてきてくれまいか」と言って、その様子には何かただならぬものがあった。それで私は夜が明けてから時をかず、彼のパラッツォへとおもむいたが、それは大運河カナル・グランデのほとり、リアルト橋の近辺にそそり立つ陰鬱な、とはいえ幻想的ファンタスティックな壮麗さを持つ大建築物のうちの一つであった。モザイクで飾られた広い螺旋階段を昇って通されたその部屋のひらけゆくドアからは、無類の栄光が真の光輝とともに噴出バーストし、贅を尽くしたその有様に私は目もくらむ思いがした。
彼が富裕であることは聞いていた。彼の財産について語られる言葉を、私はあえて馬鹿げた誇張と呼んではばからなかったが、今自分の目の前に広がっているこの燦然たる光景を見て、王侯貴族ならいざ知らず、これがヨーロッパの一平民の富が供給サプライし得るものとは到底信じられなかった。
先に述べた通り、日は既に昇っていたが、室内は未だ煌々とライトアップされていた。この室内の様子と、わが友の疲れ切った表情から、私は彼が昨晩は一睡もしていないのだと判断した。その部屋の建築と装飾とは、明らかに客を驚倒させることを意図したものであった。「調和キーピング」とも言わば言うべき装飾性デコラや、民族的属性プロパティにはほとんど注意が払われていなかった。目は対象から対象へとさまよい、ギリシャのグロテスクな絵画にも、ローマの最盛期の彫像にも、エジプトの古拙な彫刻作品にも、安らぎを見出すことは出来なかった。部屋の四壁を取り巻く厚い布飾りドレーパリーは、何やら低い、悲しげな音楽もののねにつれて微かに震えていたが、その音源は見当たらなかった。奇妙な渦巻き型をした幾つかの吊り香炉から発散する矛盾した薫りは、そこに穿うがたれた無数の穴から萌え出でる緑色エメラルド菫色ヴァイオレットの炎の舌とともに、五感を圧倒した。新しく昇ったばかりの太陽の光は、深紅色クリムゾンに着色されたガラスが一枚ずつ嵌め込まれた窓から、部屋いっぱいに差し込んでいた。溶解した白銀の瀑布のごとく、カーテンボックスから雪崩なだれ落ちているカーテンの合間合間に、天然光は燦々と反射しながらあふれ出て、人工の光と非連続的に混じり合い、直隷金糸チリ・ゴールド*2で織り上げられた、液体リキッドに見える厚いカーペットの上に、優しい陽だまりとなってゆらめいていた。

彼は声と態度をがらりと変えた。

「ハ!ハ!ハ!――ハ!ハ!ハ!」私が部屋に入ると、彼は笑いながら私に椅子をすすめ、彼自身はオットマンの上に横になった。「なるほど」私がこの無礼千万な挨拶に面食らっているのを見て、彼は言った。「君はこの部屋を見て驚いたんだな。このおびただしい絵や彫刻や、俺の建築や家具に関する独自のコンセプトに仰天しているのだ。あまりの豪華絢爛さに目を回したかい?だが申し訳ない」ここで彼の声は急に心のこもった低い声になった。「俺の失敬な馬鹿笑いで気を悪くしないでくれ。君は心底びっくりしているように見えた。ところで、世の中には笑うか死ぬしかないほど馬鹿馬鹿しい事柄がある。笑いながら死ぬのはもっとも華々しい死に方に違いない。トマス・モア卿は偉い人だが、知っての通り、笑いながら死んだ。ジャン・ティクシール・デ・ラヴィージの『愚行集』には同様の立派な死に方をした人たちの長い人名リストがある。スパルタには」少し考えてから、彼は続けた。「スパルタ(今のパレオチョリ)には、城砦の西の方、ほとんど跡形もない廃墟の混沌カオスの中に、何か台座のようなものがあって、そこに刻まれた『ΑΑΞΜ』という文字が今でも読める。それが『ΓΕΑΑΞΜΑ(笑い)』の一部であることは疑いの余地がない。さて、スパルタには無数の違う神様を拝むための無数の寺院や神殿があった。そのうち『笑い』の祭壇だけが生き残っているとは妙な話だ。だが今は」彼は声と態度をがらりと変えた。「俺には君を笑いものにする権利はない。君は驚いたかも知れない。ヨーロッパ中のどこを探したって、俺のこのささやかな王家の飾り棚リーガル・キャビネットのようなものは見つからない。俺の他の部屋はこんな風ではない。単なるファッショナブルな殺風景の極限ウルトラさ。ここは流行ファッションよりはましだろう?とは言え、これも流行すると見なければならない。大金持ちの道楽息子どもがいかにも真似をしそうだからだ。だが俺はさような冒涜からこの部屋を守ってきた。こうしてごてごてと飾り立てて以来、俺の下男と俺自身とは別として、この至高の聖域の秘密ミステリーを明かしたのは、もう一人の例外を除けば、君が初めてだ」
私は黙ってお辞儀をした。なぜなら社交辞令と解釈してもよかったかも知れない彼の言葉に対する感謝の意を口にすることを、その場の豪奢と芳香と音楽との圧倒的感覚に加えて、彼の演説と態度との変人性エキセントリシティが、邪魔したからである。
「ここに」彼は立ち上がると、私の腕に寄りかかって室内を散策しながら、おしゃべりを続けた。「ここに古代ギリシャからチマブーエまで、そしてチマブーエから現代に到るまでの絵画がある。多くの選択はご覧の通り、『専門家』たちの意見をほとんど無視している。だがこれらすべての作品は、この部屋のタペストリーにこそふさわしい。ここにあるのは無名の巨匠による傑作シェドゥーブル 、ここにあるのは当時は有名だった画家たちによる未完成の下絵デザインで、彼らの名はアカデミーのご賢察によって、沈黙と俺とにゆだねられた。君はどう思う?」彼はいきなり私の方を見た。「その『悲しみの聖母マドンナ・デラ・ピエタ』を、君はどう思う?」

Guido Reni Madonna della Pieta

グイド・レーニ「悲しみの聖母」(部分)。ウィキメディア・コモンズより。

グイド・レーニの真作だ」持って生まれた熱狂癖を発揮しながら私がそう言ったのは、先ほどよりこの絵から目が離せなくなっていたからだった。「グイド・レーニの真作だ。こんなもの、どうやって手に入れたのだ。これは彫刻における『ヴィーナス』に匹敵する傑作だ」

Venus de' Medici

メディチ家のヴィーナス」。ウィキメディア・コモンズより。

「ハ!」彼は大真面目な顔で言った。「ヴィーナスって、あのメディチ家のヴィーナス?あの小さな頭に金色の髪の彼女のことかい?あの左腕の一部と」ここで彼はほとんど聞き取れないくらいに声を落とした。「右腕の全部は後から取って付けたものだ。それにあの右腕の媚態コケットリーのうちにはあらゆるわざとらしさの 神髄クインテッセンスがある。俺としてはカノーヴァのヴィーナスの方を採りたいね。ベルヴェデーレのアポロも、間違いなく複製コピーだ。俺は芸術音痴だから、あのアポロ像が誇る霊感インスピレーションがわからないのだ。我ながら情けないが、俺としてはやっぱりカノーヴァのアンティノウスの方を採らざるを得ない。『彫刻家は大理石の塊の中に己の姿を見る』と言ったのはソクラテスだっけ?だとすれば、この対句はミケランジェロ独創オリジナルではないことになる。

良き芸術家が胸に抱く構想コンセプトはすべて
大理石が必ず内部に隠し持っている」


Venus Victrix (Canova)

アントニオ・カノーヴァ「ヴィーナス・ヴィクトリクス」。モデルはポーリーン・ボナパルト(ナポレオンの妹)。

俗物と真の紳士の立居振舞いについて

俗物と真の紳士の立居振舞いについて、その違いがどこにあるかとなると、その正確なところはにわかに断言できないとしても、われわれはこれを決して混同するものではないという説があるが、それは正しい。で、その事件のあった朝、私はその説をわが友の外面的態度に最大限に当てはめた結果、それは彼の気質と性格とにより完全に当てはまるような気がした。彼を他の人間と本質的に違う人間だと思わせる精神的特徴、それは彼のもっとも些細な動作にまで浸透している熾烈にして間断なき思考習慣と呼ぶべきものであって、それは彼の嬉戯のさなかにも、爆笑の瞬間にも紛れ込み――たとえばペルセポリスの寺院を取り巻く軒蛇腹コーニスの中で、歯をむき出して笑っている人面マスクの眼中から這いずり出るまむしのごときものを思わせた。
とはいえ、彼がこのように下らないことをだらだらと早口でまくし立てている時の軽薄さと重厚さとの入り混じった口調の中に、私は何か不安な様子――動作アクション会話スピーチにおける多少のわざとらしさ――ある興奮した、何か落ち着かない雰囲気を何度も見て取ったと言わざるを得ず、それは常に私にはわけのわからないものと思われ、また時として、私を警戒心アラームで満たした。彼はまたしばしばセンテンスの途中で、そのセンテンスの初めの方を忘れたかのように言葉を切って、大変な注意力を集中しながら、ある客人の訪れを今か今かと待ち受けているか、さもなければ彼の想像イマジネーションの中でしか聞こえない音に一心不乱に耳を傾けているかのように見えた。

「楽園の人へ(To One in Paradise)」

彼がこのように一見忘我の境地にあるかのごときひととき、私はかたわらのオットマンの上にあった学匠詩人アンジェロ・ポリツィアーノの美しい悲劇『オルフェオ物語』(イタリアにおいて初めて母国語で書かれた歌劇)*3のページをめくっていて、鉛筆でアンダーラインが引かれたある一節を見つけた。それは第三幕の終わりにかけてのもっとも感動的な一節で、いささか不道徳な点はあるにしても、男性なら胸をふるわせずに読むことは出来ず、女性なら溜息をつかずに読むことは出来ない、そんな一節だった。そのページ全体がまだ真新しい涙の染みだらけで、その反対側の空白のページインターリーフに以下の手書きの詩が書き込まれていたのだが、その文字というのが彼のいつもの癖字と全然似ていなかったので、私はそれが彼の筆跡だと認めるのにいささか困難を覚えたほどである。

恋人よ 君に恋して
私は死にかけている
君は青い海に浮かぶ青い島
一つの泉 そして神殿だった
すべては花と果実とで飾られ
その花はすべて私のものだった*4

ああ 長く続くには美しすぎた夢よ
ああ ただ雲に隠れるためにのみ
空にかかった希望の星よ
未来から「前に進め」と
声がする だがわが魂は
物言わず 身じろぎもせず 青ざめたまま
過去という暗い入り江に浮かぶばかり

なぜなら私にとって
命の光は消えたからだ
「もう二度と――もう二度と――もう二度と」
(寄せては返す波の音は
浜辺の砂に向かってそう語りかける)
いかずちに打ち砕かれた木に花は咲かず
翼が折れた鷹に空は飛べない

そうしてわが日々は現無うつつな
そうしてわが夜な夜なの夢はことごとく
君の黒いひとみが輝き
君の白い素足がひらめく場所にある
イタリアの川のほとりの
何という軽やかなその踊り

ああ 君は銀色の柳の木が涙する
霧深いわれわれの国から
爵位ある年老いた痴漢へと
その汚らわしいしとねへと
あの呪われた時間に
海を越えて連れ去られた

この詩が英語で書かれていること、すなわち彼が知っているとは知らなかった言語で書かれていること自体については、私は別に驚かなかった。私は彼の博識と、彼がそれを隠すことに奇妙な快楽を感じているらしいのをよく知っていたので、その程度のことでは驚かなかったのである。ただその書かれた場所には少なからず驚いた。その詩はもともとロンドンで書かれたので、ただその「ロンドンにて」の文字が上から丹念に線を引いて消してあったのだが、注意して読めば読み取れる程度にしか消えていなかった。私が大いに驚いたのは、かつて彼との会話で、ロンドンで侯爵夫人マルケッサと会ったことは一度もないのかと尋ねたところ(彼女は結婚前、何年かロンドンで暮らしていた)、私の聞き間違いでなければ、彼はロンドンには金輪際行った試しがないと請け合ったからである。彼が生まれも育ちもイギリスだという噂は(無論、多分に疑わしい情報は別としても)何度も耳にしていたことは言うまでもない。

そこに現れたのは侯爵夫人の全身像だった。

「ここに一枚の絵がある」彼は私が悲劇を読んでいるのに気が付かないで言った。「ここに、君にはまだ見せたことのない絵がもう一枚ある」彼が布飾りドレーパリーを取り除くと、そこに現れたのは侯爵夫人マルケッサアフロディテの全身像だった。
それは最大の画家が全力を尽くして彼女の超人的な美しさを表現したものだった。前日の夜、侯爵の宮殿の階段で見た神々しい姿が、ふたたび私の目の前にあった。とはいえ彼女の表情は満面の笑みに輝いてはいたものの、そこにはやはり気まぐれな悲しみの影が潜んでいて、それは不可解な変則アノマリーではあっても、およそ完璧な美には必ず認められる性質のものであった。彼女の右手は胸の上で折りたたまれ、左手は彼女の足もとにある奇妙な形をしたヴェースを指さしていた。片方だけあらわになった小さな素足は、今まさに大地を離れて飛び立とうとしていた。そうして彼女の美を取り巻いて礼拝するかに見える輝かしい雰囲気の中で、ほとんど識別できないほどのかすかな架空の翼が、彼女の背後から浮かび上がっていた。
私はその肖像画から、そのかたわらに立ち尽くしているわが友の姿へと視線を移し、本能的にジョージ・チャップマンの『ビュシー・ダンボワーズ』中の力強い詩句を口ずさんだ。

――彼はそこに
ローマ彫像のごとく立ち 「死」が彼を
大理石となす日まで ち続けるだろう

「さあ」彼はしまいにそう言って、琺瑯エナメル加工を施された重量感のある銀製のテーブルの方へと向き直った。その上には幻想的ファンタスティックに着色された二、三のゴブレットとともに、二つのエトルリアヴェースが載っていて、それはくだん肖像画の前景に描かれていたのと同じ変わった型で、ヨハニスベルガーとおぼしきワインで満たされていた。「さあ」と彼は唐突に言った。「飲もう、まだ早いけど――飲もう、本当にまだ早いけど」つっかえつっかえ、彼はそう言って、折も折、黄金製の大きなハンマーを手にした智天使ケルビムが、部屋中に響きわたる音で、日の出一時間後を告げた。「本当にまだ早いけど、構わないさ。昇りゆく太陽に、謹んでこの一献いっこんを捧げよう。もっともこの部屋のランプや香炉は、お日様に負けまいとして、今なお華々しく光り輝いているがね」彼はなみなみと満たした盃で私に乾杯をさせると、矢継ぎばやに数杯のワインを飲み干した。

「夢を見ることが」

「夢を見ることが」吊り香炉の明るい光に向かって、見事なヴェースの一つをかざしながら、彼は漫談を再開した。「夢を見ることが、俺の生涯の仕事だった。だから俺はご覧の通り、みずから夢の別荘バウアーを建てた。このヴェネツィアのど真ん中で、俺はベストを尽くしたのさ。周りを見ろよ、建築装飾のメドレーだ。イオニアの彫刻が大洪水前アンテディルビアンの器物に腹を立て、エジプトのスフィンクスが金ぴかのカーペットの上に寝転がっている。だがこのような効果は小心者にだけ違和感があるのだ。空間属性、特に時間の属性プロパティは、人々をおびやかして美の観照を妨げる虚仮おどしバグベアなんだよ。俺自身、かつてはデコリストだった。だがもう馬鹿の壮大化には飽き飽きした。ここではすべてが俺の目的にぴったりだ。このアラベスクの香炉のように、俺の魂はくゆり焦がれる。そうしてこの室内の錯乱状態は、俺が今まさに旅立とうとしている夢の世界の更なる壮観に向かって、俺を鼓舞してくれるのだ」彼は突然黙り込んで、がっくりとこうべを垂れ、何か私には聞こえない音に耳を澄ましているように見えた。やがて背筋を伸ばすと、彼は天を仰ぎ、チチェスターの司教ヘンリー・キングの詩句を朗々とそらんじた。

待っていておくれ 私は遅滞なく
あの谷間へと駆けつけて 君と落ち合おう

次の瞬間、彼は「酔った」と言って、オットマンの上に倒れた。
階段を駆け上がる足音がして、ドアを烈しくノックする音が後に続いた。次なる異変を予期した私のもとへ、メントーニ家の小姓ペイジが一人飛び込んできて、激情に息を詰まらせながら支離滅裂な語を口走った。「奥様が――奥様が――毒をお飲みに――おお、あのお美しいアフロディテ様が!」
私はびっくりしてオットマンに駆け寄り、彼を叩き起こしてこの一大事を知らせようとした。だが彼の四肢は硬く、彼の唇は鉛色で、彼のつい今し方まで輝いていた目はによって固定されていた。ふらふらと後ずさりした私の手はテーブルの上のひび割れて黒ずんだゴブレットに触れ、その時すべての事の真相が初めて私の脳裏にひらめいた。*5

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アーサー・ラッカムによる挿画。ウィキメディア・コモンズより。



George Snowさんが撮った短編映画。よく出来ていると思います。2008年10月公開。

EDGAR ALLAN POE - The Assignation from George Snow on Vimeo.

 

 

*1:ポーの英文では「soft and almost liquid」、ラテン語原文は「mollis et paene dixerim, liquidus」。小プリニウスの『書簡集』巻五に収められているドミティウス・アポリナリス(Domitius Apollinaris)という元老院議員宛の書簡の中に見える表現です。『プリニウス書簡集―ローマ帝国一貴紳の生活と信条 (講談社学術文庫)』(国原吉之助訳)を当たってみましたが、残念ながら選に漏れており、今のところ原典からの邦訳は無いようです。

*2:「直隷金糸(Chili gold)」。詳細不明。トマス・マボットの注に「この“Chili”はおそらく中国の直隷省(province of Chihli)のことだろう」とあったので、苦し紛れにこう訳しました。

*3:この楽譜も何もない時代のイタリアのオペラが、何と日本で上演されたそうです。こちらの記事をご参照下さい。

*4:トマス・マボットによれば、ここでの「花」は精神的なよろこび、「果実」は肉体的快楽を表わし、「その花はすべて私のものだった」の一行で、侯爵夫人と主人公との関係が100%「プラトニック」なものであったことが暗示されているそうです。

*5:「中世のヴェネツィアン・グラスは毒で満たされると割れると考えられていた」トマス・マボットによる注。

ルキアノスと「麗しの売春婦」――エドガー・アラン・ポー「群衆の人」より

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アンゲリカ・カウフマン「プリュネにキューピッド像をプレゼントするプラクシテレス」。ウィキメディア・コモンズより。

「あなたは自分の情婦を聖域に安置させた。この栄誉を私のために惜しみ給うな。人々は私の姿を見、あなたの名を讃えるのです」――アルキプロン『遊女の手紙』より「プリュネからプラクシテレスへ」

「私はあらゆる種類の売春婦たちを見た…」

要するに「ルキアノスというローマ人は、なかなかいいことを言っていますよ」と言いたい。しかるのち、そのエビデンスをひと通り示して、読者の納得を得たい。
だがその前に、何故ルキアノスか?という点を明らかにする必要がある。実は先日、エドガー・アラン・ポーの「群衆の人(The Man of the Crowd)」という短編を暇つぶしに訳していて、以下のような文章に行き当たったのです。

また私はあらゆる種類、あらゆる年代の売春婦たち(women of the town)を見た。私はまだ若くて本当に美しい売春婦を見て、その姿は見る者の心にルキアノスの作品に出てくる、表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物フィルスが詰まっていたという彫像のことを想わせた。(「群衆の人」eureka0313訳)

これは語り手がある大都会のカフェの窓から雑踏を眺めているシーンで、彼女たちは通りを行き交う人たちに対して客引きをしているので、「街娼」ということになります。「街娼」というと古い日本語だから、今の日本とは関係ないと思う方もいらっしゃるかも知れないが、大阪府警大阪市内のとある繁華街の一角で、2020年12月初めまでの約一年間に数十人の「街娼」を検挙したというニュースはまだ記憶に新しいところです。

ルキアノスの「にわとり」

この「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」(たぶん女神像)という言葉が出てくるルキアノスの作品をチェックしておこうと思いました。トマス・マボットの注によれば、この文言はルキアノスの「夢またはにわとり」という作品の第24節にあるとのことで、さっそく当たったみましたが、いささか手間取りました。言葉通りの表現がどこにもないのです。
まずこのルキアノスの「にわとり」の内容をご紹介します。これはプラトン風の対話篇で、ただ登場人物は哲学者ではなく、ミキュロスという靴直しの職人と、彼が飼っている一羽のにわとりです。冒頭、にわとりが、まだ夜も明けやらぬにもかかわらず、盛大に時を作る。飛び起きたミキュロスはかんかんになって、にわとりを張り倒しに行く。なぜなら彼は大金持ちになった夢を見ていて、一番いいところで眠りを破られたので、憤懣やる方ないのであります。ところがくだんのにわとりがすました顔で「夜明け前から仕事に取りかかった方がはかどるでしょう」などと言うのを聞いて腰を抜かす。このにわとり君、ただ単に人語をくするだけでなく、前世ではピタゴラスだったこともある、と言うのです。ピタゴラスが輪廻転生説を支持したことは周知の通りです。で、この偉大な哲学者の生まれ変わりであるところのにわとり君は、金持ちの夢にこだわるミキュロスに対して、自分が輪廻転生を繰り返す間に重ねた経験に基づいて、富や名誉が如何に空しいものであるかを説きさとす。そうした文脈の中で、彼(にわとり君)が人々からもっとも羨望さるべき国王の地位にあった頃の思い出話として、以下の一節が出てきます。

にわとり:私が治めていた国は広くて肥沃な国でした。わが国内のもろもろの都市は人口においても美しさにおいても世界に冠たるものでした。航行可能な河があり、優れた港がありました。わが陸軍は大軍で、わが槍兵は数知れず、わが騎兵隊は精鋭ぞろいでした。わが海軍も同様で、私はまた計り知れない富を蓄えていました。王者の威厳を示す如何なる小道具も欠けてはいませんでした。無数の黄金のプレートをはじめとして、あらゆる持ち物が贅を尽くしたものでした。私は自国民から最敬礼されることなしに宮殿を出ることが出来ず、彼らは私を神様だと思っていて、私が通り過ぎる姿をひと目見ようと押し合いへし合いするのでした。熱狂的な崇拝者たちのうちには、私の馬車や、衣装や、王冠や、従者たちの如何なる細部をも見逃すまいと、民家の屋根に登る者さえいる始末でした。
私は自国民のそのような愚かしさを大目に見てやることすら出来たのです。にもかかわらず、みずからの地位に関する苦悩と心痛とを思う時、私は自分が惨めで仕方がなかった。その頃の私はさながらペイディアスや、ミュロンや、プラクシテレスらの手に成る巨像のようなものでした。それらはすなわち三叉槍トライデントを持つポセイドンや、稲妻サンダーボルトを持つゼウスであって、全身が象牙と黄金とで出来ている。ところがちょいと内部なか を覗いてみると、そこにあるものと言えばモルタル瀝青ピッチの付着した棒やら、ボルトやら、釘やら、板やら、くさびやら、その他あらゆる目も当てられぬもののごちゃ混ぜです。二十日鼠やドブネズミどものあり得べき植民地を別としてもね。それが王座というものです。(ルキアノス「にわとり」)*1

にわとり君、なかなかいいことを言う、と私は思いますね。そうして上の一節の後半部分をポー流に要約したのが「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という言い回しであるらしい。
しかしよく見ると、上に引用した文章には「パロスの大理石(Parian marble)」という言葉がどこにも見当たりませんね。それはどこから来たものか、もう少し調べてみる必要があると思いました。

「クニドスのアプロディテ」

上の文章にはペイディアスとかミュロンとかプラクシテレスとかいった人名が出てきますが、これらはいずれも古代ギリシャ彫刻の巨匠たちの名です。大プリニウスの『博物誌』には、これらの人たちがブロンズの他に大理石をも素材に用い、また大理石を用いる場合には、もっぱらロス島産の大理石を用いたことが記されている。

これらの芸術家は、すべてロス島産の白大理石のみ用いた。(『博物誌』第36巻4-14)*2

上記の大彫刻家たちの名は、ルキアノスの作品に頻出します。そのわけについてはまた後で触れるとして、「パロスの大理石」という言葉が出て来るものでは、次の一文が印象的です。

アプロディテの神殿、プラクシテレスの巧みな技によるその真に魅惑的な美しさを称えられる作品を収めるあの建築も見ておこうと決まり、クニドスに投錨することにしたわれわれが静かに岸づけできたのは、女神自身が滑らかな凪を現出させ船を導いてくれたからだと思う。(中略)
庭木の鑑賞を十分に楽しんだわれわれは、神殿のなかへ入っていった。女神は中央に鎮座している。パロスの大理石を使ったたいへん美しいその作品は、軽く笑った驕慢な表情を見せている。衣服は少しも纏っていず、その美しさが裸形のなかで露わになっているが、恥部だけは一方の手でそっと覆っていた。(偽ルキアノス異性愛少年愛」)*3

この文章はプラクシテレスの代表作「クニドスのアプロディテ」を描写したもので、オリジナルは現存しないが、後世の模造品がいろいろ残っているので、それらを通して面影を偲ぶことが出来るそうです。『博物誌』には以下のように記載されています。

ラクシテレスの年代については、青銅像作者たちのところで述べた。しかし彼の大理石の作品の名声においては、青銅像作者としての名声以上であった。彼の諸作品は、アテナイのケラメイクスにある。だがプラクシテレスのいずれの他の作品よりも、また世界中にあるいずれの作品よりも優れているものは『ウェヌス』であって、それを見るためにクニドスへと航海して行った人がたくさんある。(『博物誌』第36巻4-20)

下は日本語版ウィキペディアに掲載されている画像で、「クニドスのアプロディテ」のローマ時代の模造品を、さらに後の時代になって復元させたものだそうです。

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「クニドスのアプロディテ」ウィキメディア・コモンズより。

確かに大事なところを片手で隠していますね。

人間の裸は美しいか?

ところでこの「クニドスのアフロディテ」ですが、これは世界で初めての「等身大の女性裸像」ということになっている。ここで少し頭に引っかかることがあります。
そもそも素っ裸の人間の肉体というものは、美的鑑賞に堪えるものなのでしょうか?私の認識では、人間の裸が良いものだ、綺麗なものだ、見ていて楽しいものだという思想というか、物の感じ方は、日本古来のものではありません。明治以後、西洋文明の影響下に生まれた、比較的新しいものです。敢えて言えば「近代的」な感覚です。この話題にはまた触れる機会があるかと思います。
これに対してヨーロッパの美術作品には、少なくともルネッサンス以降は、人間の裸が(神様や天使の役を振られながらも)当たり前みたいに出てまいりますね。ところが西洋においても、このプラクシテレスという人が出て来るまでは、男性の裸はともかく、女性の裸は忌むべきもの、隠すべきものだという考え方の方が支配的だったらしい。

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ミュロン「円盤投げ」のローマ時代の複製。

上はミュロンという人の代表作とされる「円盤投ディスコボロス」というブロンズ像(これもルキアノスの作中に登場します)のローマ時代の複製だそうですが、ご覧の通り、全裸です。当時、運動競技(オリンピックとか)はすべて素っ裸で行なわれていたそうですから、別に違和感もなかったでしょうが、こーゆー筋骨隆々たる男性の裸体像は存在しても、女性の裸体像はなかなか現れなかったというのですね。従ってプラクシテレスの「クニドスのアプロディテ」は、このタブーを破った画期的な作品ということになるのかも知れません。
ここで注目に値するのが、実は「クニドスのアプロディテ」は二体あった、という『博物誌』中の記述です。

彼(プラクシテレス)は二体の像をつくり、それらをいっしょにして売り立てた。そのうちの一体は、ゆるやかな衣をまとっていた。そのため選択権をもっていたコスの人びとがそれを好んだ。ただし彼はそれをいま一体と同じ値でそれを提供した。彼らはそれを上品ぶった、そして勿体ぶったやり方に過ぎないと考えた。(『博物誌』第36巻4-20)

要するにプラクシテレスは着衣の女神像と全裸の女神像の二体を造り、注文を出したコス島の人々に対して、この双方を同じ価格で提示した。これに対してコス島の人々は当然のごとく着衣の女神像を選び、全裸の女神像については「意味不明」として受け取りを拒否した、というのです。もし裸体像の方がそのまま売れ残ってしまっていたら、プラクシテレスはどうするつもりだったのでしょうか?彼の工房は巨額の負債を抱えて倒産し、そこで働いていた職人さんたちはみな路頭に迷っていたかも知れませんね。そこへクニドス市の人たちが救いの神のごとく現れた。

彼ら(コスの人びと)が拒否した像はクニドスの人びとが買った。そして計り知れないより大きな名声を博した。(『博物誌』第36巻4-20)

コス島の着衣像の方はたちどころに忘れられ、何も記録が残っておりません。
ちなみにこの「クニドスのアプロディテ」はどこから見ても美しいということで、クニドス市の人たちはこれを見やすいところに置いた。

それが立っている神殿は、その女神の像があらゆる方向から見られるように完全に解放されている。そしてその神像は、女神自身の恵みによって、そういうふうにつくられたものと信じられている。その像はいずれの角度から見ても等しく嘆賞さるべきものである。(『博物誌』第36巻4-21)

ルキアノスには以下のようにあります。

ところで神殿には、女神を背後から詳しく鑑賞したいという者のために、両側に入口が設けられており、嘆賞できない箇所はなにもないようにしてあった。もう一方から入って、女神の後ろ姿の美しさも容易に眺められるというわけであった。
そこで、女神の全体を見ようと決まり、神域の裏側に回った。鍵の保管役の女性が扉を開けたとき、われわれはたちまち女神の美への驚嘆の思いに捉われた。(偽ルキアノス異性愛少年愛」)*4

かくして「クニドスのアプロディテ」は大ヒット、クニドス市には大勢の人々が詰めかけ、老幼男女を問わず、全裸の彼女を前後左右からしげしげと眺め回して、目を楽しませたということです。ことさらにいやらしい書き方をするようですが、私はこれは本当に異様な光景だと思います。

プリュネ(Phryne)に関する補足

ギリシャ高級娼婦ヘタイラプリュネについて、こちらの記事で触れた際には「フリュネ」と英語読みにしましたが、直すのが邪魔くさいのでそのままにしておきます。ちなみにこちらのボードレールの訳詩にも「フリュネ」が出てきます。
さて、プラクシテレスは実はこのプリュネの常連客で、「クニドスのアプロディテ」は彼女がモデルだ、という説があります。出どころはどうもアテナイオスの『食卓の賢人たち』らしい。

彫刻家のプラクシテレスは彼女(プリュネ)を愛して、彼女をモデルにして、クニドスのアプロディテを作った。(『食卓の賢人たち』第13巻第591頁)*5

プリュネが霊感を与えたのはプラクシテレスだけではない。プリュネといえば、お祭りの最中に、何を思ったか、衆人環視の中でいきなりすっぽんぽんになって海に入っていった、という逸話が有名ですね。その際、海岸に殺到した野次馬どもの中には、プロの絵描きも混じっていた。

とはいえプリュネは本当に美しい女で、彼女の肉体のふだん人目にさらされることのない部分までもが美しいのだった。それゆえ彼女の裸体を見るのは容易ではなかった。なぜなら彼女はいつも全身をチュニックで覆っており、また決して公衆浴場を利用しなかったからである。にもかかわらず、ポセイドン月の祝日、エレシウスでの厳粛な祭事中に、大勢のギリシャ人が見ている前で、彼女は衣服を脱ぎ、髪をほどいて、波と戯れに海へと入っていった。こうしてアペレスは彼女をもとに「海から上がったアプロディテ(Aphrodite Anadyomene)」を描いた。(『食卓の賢人たち』第13巻第590頁)*6

何と大胆な…これが今の日本だったら、どうでしょうか。きっとみんなモバイル・フォン片手に海岸へと押し寄せて、写真や動画をツイッター等に投稿しまくるんでしょうね。……いや、その前に、公然わいせつの現行犯で逮捕されておしまいですね。いずれにせよ、殺風景な時代になったものです。

「夢について、またはルキアノスの経歴」

ポーの「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という一句をめぐって、だいぶ回り道をしているわけですが、「パロスの大理石」についてはこれでひとまず措くとして、次はこの言い回しの意味内容について考えてみます。
ポーはこの言い回しを使って、要するにくだんの売春婦は外見は美しくとも、内面は悪徳まみれである」と言いたいのではないかと思います。まあ常識的に、人道的観点から考えて、ただただ生活の必要のためだけに体を売っている女性に対して「悪徳まみれ」とは少し言い過ぎのような気もしますが、いわゆる「色恋営業」で客を引っかけ、これを骨までしゃぶり尽くしながら、自分は贅沢三昧で遊び暮らしているとなると、世間の風当たりも強くなるでしょう。事実アテナイオスは、上の高級娼婦ヘタイラプリュネについて、喜劇詩人ポセイディッポスの『エペソスの女たち』からの引用として、こんな台詞を紹介しております。

「一昔前、テスピアイのプリュネは、あらゆる遊女仲間の中で抜群に有名だった。あなたはまだ新米だけど、それでも彼女が裁判にかけられたことは知っているはず。彼女は民衆裁判所で、全市民を堕落させたとして、死に値する罪に問われた。けれど彼女は裁判官一人一人に向かって涙ながらに命乞いをして、かろうじて刑を免れたのよ」(『食卓の賢人たち』第13巻第591頁)*7

ところで上のルキアノスの「にわとり」の台詞では、美しい彫像のかげに隠れているものは「悪徳」というよりも「楽屋落ち」で、作品を楽しむ側の人々が知る由もない制作者側の苦しい実情です。実はルキアノスは若い頃、彫刻家に弟子入りして挫折した過去があり、それでこのような台詞が重い響きを持つのです。「夢について、またはルキアノスの経歴」と題された作品の中で一部始終が語られておりますが、彼の母方の叔父さんが彫刻家で、彼は弟子入りしたその日のうちに厳しい修行に耐え切れず、逃げ出してきた。その夜、夢に二人の女神が現れて、一人は「石工術」、一人は「教養」と名乗った。このうち「石工術」の方はこのように語った。

「わたしの姿の卑しい様子とか、服装の汚らしさを嫌ったらだめだよ。ゼウスの像を世に現したあのペイディアスも、ヘラの像を制作したポリュクレイトスも、評判の高いミュロンも、みなから感心されるプラクシテレスも、こういうなりから身を起こしたのだからね。あの人たちは、神様同然に敬われているじゃないか。お前もそういうひとりになれば、自分がだれひとり知らぬもののない有名人になる上に、父親もお前のお陰で羨まれ、祖国も面目を施されるということになるわけさ。」(ルキアノス「「夢について、またはルキアノスの経歴」)*8

これに対して「教養」の方はこう言った。

「お前が石工になったらどんなよいことがあるのかということは、今この人が言いました。要するに、労働者以外の何者でもなく、体力を用いて働き、体に人生の希望のすべてをかけるという人間になるわけです。(中略)またもしお前が、ペイディアスやポリュクレイトスのようになって、人が感心する作品をたくさん作るようになれば、たしかにみながお前の技を誉めてくれるでしょうが、お前の様子を見て、同じようになりたいと願う者は、正気であれば、だれもいないでしょう。どのようになろうと、結局お前は職人と見られ、手を道具とし、手仕事をする者と見なされるのです。」(ルキアノス「「夢について、またはルキアノスの経歴」)*9

目が覚めた時、ルキアノスの心は決まっていた。要するに「アーティスト」などと言えば聞こえはいいが、その仕事の大部分は陽の目の当たらない裏方の仕事であり、地道な忍耐の積み重ねです。それよりも手っ取り早く人々に振り向いてもらえる弁論家ソフィストとして立ちたいと彼は思った。これはもっともなことだと私は思います。だから彼はプラクシテレスらの作品を激賞はしても、彼らのようになりなさいとは決して言わない。「わたしがこの夢を諸君に語って聞かせたのも、若者たちが向上心をもって勉学に励んでほしい、とりわけ貧困のため、本来は卑しくない素質を無にし、弱気のあまり悪いほうへ転落しそうな若者がいたら奮起してほしいと思ったからだ…わたしは、それ以上ではないとしても、少なくとも石工のだれにも劣らない誉れを得て帰ってきたのである」*10と彼はこの文を結んでおります。

ルキアノスの「肖像」

ポーの「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という一句は、この「群衆の人」という短編の文脈の中では、美女の内面の醜さを指摘したものだと言えると思います。この女性の内面の美醜という点について、上に引用した「にわとり」よりもしっくりくる表現が、ルキアノスの作品の中にあります。「肖像」という作品です。
簡単に内容を紹介しますと、これはリュキノスとポリュストラトスという二人の若者の対話篇で、まずリュキノスが「さっき街を歩いていて、通りすがりに、誰だか知らないが、目が覚めるほど美しい女性を見た」と切り出す。そこでポリュストラトスが「どんな容姿の女性だったか、描写してくれ」と言う。リュキノスは返答に窮し、過去の大彫刻家(プラクシテレスら)や大画家(アペレスら)や大詩人(ホメロス)の作品から「いいとこ取り」をしてこれらを寄せ集めることで、彼女の外面の美を描き出そうとする。これに対してポリュストラトスは「そのひとなら個人的に知っている」として話の続きを引き取り、彼女の内面の美を描き出す。この話題の転換点に、以下のような一節があります。

ポリュストラトス:だが、よき友よ、君はまるで稲妻がそばを走り過ぎたかのように一度彼女を見ただけであり、はっきりしたものだけを、つまり身体とその姿だけを、めているように見える。ところが、魂の美点の数々については君は見ていないし、彼女にあるそちらの美しさがどれほどのものか、身体よりもそれがどれだけはるかによく、神々しいものであるか、ということを君は知らないのだ。
しかし僕の方は、彼女の知り合いであるし、何度も言葉を交わしたことがある。同郷の人間なのでね。僕は、君も知っているように、なごやかさや、親切心や、心の大きさや、節度や、教養を、美しさよりも誉める人間なのだ。そういう性質のほうが、身体よりも優先されるべきだからね。衣服のほうを、身体よりも嘆賞するのは、不合理だし、滑稽でもある。
しかし、完璧な美とは、僕の思うに、魂の美徳と身体の見目麗しさとが出会っている場合だろう。間違いなく僕は、たくさんの女性が、見目はよいが、他の点ではその美をはずかめる人間で、一言口を開けばその花が衰え、枯れてしまう――正体が明かされて醜い姿をさらす、もともと悪い主人である魂と不相応に同居していたので――という例のあれこれを君に示すことができるだろう。
そしてこういう女性は、エジプトの神殿と似ているように思える。かの地の神殿そのものは、とても美しく壮大だ――高価な石材で造られ、黄金や絵画で華やかに飾られている。ところが、その内部で神を捜してみると、それは猿であったり、イビスであったり、山羊であったり、猫であったりする。そういうような女性をたくさん見ることができるのだ。(ルキアノス「肖像」)*11

この最後に出て来る異形の神をまつったエジプトの神殿の比喩の方が、先の「にわとり」に出て来る巨匠らの手に成る巨像の比喩よりも、ポーの「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という警句の内容とよくマッチしているように思います。ちなみにこのポリュストラトスは、ここから始まって、相手のリュキノスに、くだんの女性が備えている「魂の美点」を以下のように数え上げる。

  • 声の美しさ。歌のうまさ。竪琴の弾き語りが巧みなこと。座談の妙手で、言葉の発音が正確で、滑舌がよいこと。古今の詩歌に通じていること。
  • 詩歌だけではなく、雄弁家、歴史家、哲学者の著作に親しみ、教養を積んでいること。思慮分別に富み、研ぎ澄まされた知性を持っていること。ここでは当時、知的女性の代表格と考えられていたアスパシア、ピタゴラスの妻テアノ、サッポー、プラトンの『饗宴』に出て来るあのディオティマといった人たちの名がずらりと並ぶ。
  • 温厚な性格と弱者への思いやり。ここではアンテノルの妻テアノやホメロスの『オデュッセイア』に出て来る王妃アレテとナウシカ姫が引き合いに出される。
  • 伴侶への愛と貞操の堅固さ。オデュッセウスの妻ペネロペ、アブラダタスの妻パンテイア。
  • そして最後に一番大事なこと、それは謙虚であることです。

ポリュストラトス:というのは、これほど勢威ある地位にありながら、彼女は、順境のゆえに傲り高ぶることもなく、自分の幸運をたのむあまり人間の分際を越えて尊大になることもない。むしろ、人びとと同じ地面に立ちながら、優美さに欠ける低俗な思い上がりを避け、訪ねてくる者に庶民的な、分け隔てのない態度で接する彼女であるし、暖かい心で示す歓待ぶりと善意は、より地位の高い人から表わされるのに勿体をつけていない分だけ、それにあずかる者にはいっそう喜ばしいのだ。自分の権力を、人を見下すことに用いるのではなく、むしろ逆に親切を施すことに使う人間は、運の女神から授けられた幸福にふさわしい人だと思われ、こういう人びとだけが、正当にも、世間のねたみを免れるのだ。(ルキアノス「肖像」)*12

こうして出来上がった女性像は、一点非の打ち所のない理想的な女性像です。ところが面白いことに、ここで賞めちぎられている女性もまた「売春婦」なのです。読んでいるうちにうすうす気が付くように書かれているのですが、彼女は当時ローマ皇帝の愛妾を務めていたパンテイアという高級娼婦ヘタイラ(上のアブラダタスの妻と同名)で、それゆえ幾ら相手が皇帝の愛人だからといって、一介の売春婦に対しておべんちゃらが過ぎるのではないか?といった批判もあるようですが、私にはとてもそんなケチな作品とは思えません。とにかく一人の女性の美しさを、これほど絢爛たる措辞をもって賞揚した文学作品を、不勉強な私は他に読んだことがないからです。しかもなお面白いことに、この「肖像」という作品には続編*13がありまして、そこではこの「肖像」に対してパンテイア本人から「賞めすぎだ」とクレームが来たという設定で、これに対して反省の弁を述べると見せかけて、これを逆手に取り、更にもう一段彼女を賞め上げてみせるという離れ業をやってのけております。全く驚くべき文才です。

まとめ

結論として、この「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という一句は、学生時代、古代ギリシャ語(ルキアノスギリシャ語の作家です)の授業の際に読まされた上記のようなもろもろのルキアノスの作品がポーの頭の中でごっちゃになり、化学反応を起こした結果、生まれた言い回しではないかと考えられる。従ってルキアノスのものというより、ポーが発明した警句と言った方がいいかも知れません。ちなみにポーはこの警句がとても気に入っていたようで、他の書評やアフォリズムでも(全然違う文脈で)用いております。
最後に、「クニドスのアプロディテ」の模倣作の一つとして、「メディチ家のヴィーナス」というのが有名ですが、これの画像はポーの「密会(Assignation)」という短編の日本語訳のページに掲載する予定なので、ここではこれまた「クニドスのアプロディテ」に触発されたとおぼしき有名な絵を一枚貼っておきます。

ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」

ウィキメディア・コモンズより。

こういう画像を眺めていると、ポーが「正銘の美人(the unequivocal beauty)」と讃えた売春婦の面影が何となく目に浮かんでくるような気がいたしますが、いかがでしょうか?

 

 

*1:プロジェクト・グーテンベルク版の英訳からの重訳。呉茂一の原典訳(『神々の対話―他六篇 (岩波文庫 赤 111-1)』所収)も一応参照はしました。

*2:雄山閣プリニウスの博物誌〈6〉第34巻~第37巻』より。以下『博物誌』からの引用はすべてこの本に拠りますが、この雄山閣版の全訳は貴重な訳業ではありますが、なにぶん英訳からの重訳ということで、多くの疑義があり、ラテン語原典からの邦訳が待ち望まれるところです。

*3:ルキアノス選集 (叢書アレクサンドリア図書館)』(内田次信教授全訳)に拠る。なおこちらのサイトでは同じ訳文が全文無料で公開されています。ちなみにこの「異性愛少年愛」(原題「エローテス(さまざまな愛)」)という作品は、偽書の疑いのある作品ですが、英語版ウィキペディアによれば、偽書の疑いをかけられたのが20世紀の初めのことなので、ポーの時代にはまだルキアノスの真作だと信じられていた可能性があります。内田教授の訳は、私が読んだ限りでは、古代ギリシャ語作品の現代日本語訳としてもっとも流麗な訳文です。

*4:内田次信訳『ルキアノス選集』に拠る。

*5:柳沼重剛訳『食卓の賢人たち〈5〉 (西洋古典叢書)』に拠る。

*6:この部分は英訳からの重訳です。興味深いことに、故柳沼重剛教授の原典訳では、プリュネは全裸にはなっておりません。

*7:これも英訳からの重訳。

*8:内田次信訳『ルキアノス選集』に拠る。

*9:内田次信訳『ルキアノス選集』に拠る。

*10:内田次信訳『ルキアノス選集』に拠る。

*11:内田次信訳。京都大学学術出版会『ルキアノス全集〈4〉偽預言者アレクサンドロス (西洋古典叢書)』所収。こちらのサイトに別人の原典訳が無料で公開されています。

*12:上記内田次信訳に拠る。

*13:「『肖像』の弁明」。こちらのサイトに「似像のために」というタイトルで原典訳が公開されています。

澤田瞳子 『泣くな道真 大宰府の詩』

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太宰府天満宮(福岡県太宰府市)。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


澤田瞳子『泣くな道真 大宰府の詩』(集英社文庫)を読了して。
『星落ちて、なお』で直木賞を受賞した澤田瞳子が、政権争いに敗れ、日本史上もっとも有名な「左遷された男」となった菅原道真すがわらのみちざねの、明日に向かって生きる姿をユーモラスに、時には諧謔を込めて描きます。

菅原道真、失脚。

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『北野天神縁起絵巻』承久本(1219年)巻五に描かれた藤原時平こちらの画像の左端部分。ウィキメディア・コモンズより。

【道真は止足しそくの分を知らず、専横の心があり、前上皇を欺いて廃立を行おうとした。およそ大臣の職にあるべき人物ではなく、法のままに罪するべきだが、特におもうところあって、太宰権師だざいのごんのそちまからす】
このみことのりの「前上皇」云々の部分、実は道真には何の罪状も無く、証拠もない。家格が高いとは言えない道真の異例のスピード出世が、左大臣藤原時平やその周囲の権門の貴族たちに疎まれ、憎まれ、左遷の憂き目に遭ったのだ。
道真は官僚として、驚異的な速さで出世街道を驀進ばくしんしてきた。
二十六歳で官吏登用試験の“方略試”を突破。少壮の官吏として頭角を現し、兵部少輔ひょうぶしょうゆう民部少輔みんぶのしょうに任命され、宇多天皇に仕え、やがて朝廷になくてはならない存在と目される。
同じころ私塾「菅家廊下かんけろうか」を創設し、多くの能吏を輩出、評価された。五十五歳にして右大臣にまで昇り詰める。
しかし、栄達の後、転落する。都から追放され、苛酷な大宰府への片道切符の旅が始まる。路銀は自腹で、つまり道中の宿・食料は自費で賄わなければならない(流人るにんの扱い)。
おまけに太宰府では、政務を執ってはならぬとの条件だ。
この有様は『菅家後集かんけこうしゅう』の「叙意一百韻」に歌われている。
道真一行は四人のみ。初老の道真、七歳の紅姫べにひめ、五歳の隈麿くままろ、唯一の家人けにん安行やすゆきである。

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父の死後、藤原家の刺客の手にかかって死んだとされる紅姫の霊を祀る紅姫稲荷神社(福岡県糟屋郡)の本殿。omairi.clubより。

道真を迎える大宰府の面々

一番の責任者は、大弐・小野葛絃おののくずお(実は演技派)です。その甥の少弐・小野葛根おののくずね(武闘派で鳴る)が、部下の通称「うたた寝殿」(府庁きっての怠け者)太宰少典・龍野穂積たつのぼづみに、道真の世話と監視を命じる。京からマイナス評価を受けないため、道真の日常生活を知る必要がある。
そこに、思い切りがよく、行動力のある小野恬子おののしずこ(葛絃の姪、葛根の妹)が、誰に頼まれたわけでもないのに、自然と関わってくる。
龍野穂積は、優秀な一人息子・三緒みおが成人し、大宰府の書記官に任命されたころから、入り婿の万年少典としての役割は終わったとばかりに、怠ける事に精を出し、勝気な妻(家付き娘)の督子とくこに叱咤される日々を送っている。
かたや道真は大宰府到着当時、子供たちを顧みず、引き籠り、泣き暮らしていた。
「大弐殿は、都よりわしを密殺せよとの指令を受けているだろう。それをご機嫌伺いとは片腹痛いわ」
誤解である。それほど道真の心境は荒涼としていた。

恬子の活躍

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鈴木春信「小野小町」。ウィキメディア・コモンズより。

かつて宮中で恋愛歌人として名を馳せた恬子は、右大臣としての道真を遠目から見たことがある。仕えていた内親王為子ためこが病没したので、宮中に居場所がなくなってしまった。
道真も自分も、どう足掻あがいても京には戻れない身の上。右大臣の地位も、女流歌人としての名声も昔のことだ。ならば泣き暮らすより、楽しく暮らそうではないか。その方法はある。物流の拠点、博多津はかたのつの地の利による方法だ。
恬子は迷子になった隈麿を、屋敷に連れて帰った縁で道真の面識を得る。
その時恬子は、道真の余りにすさんだ様子に腹が立った。博多津の唐物商、橘花きっかさいの老婆・幡多児はたごが賄賂代わりに(大弐の姪だからご機嫌取りに)押し付けた青墨あおずみを井戸に投げ入れる。
恬子はその日のうちに、穂積を供として、道真を橘花斎へと連れ出すことに成功する。
道真は書画、陶磁器、文房四宝に精通している。
橘花斎では、目利きの恵宝えほうに逃げられた直後だった。道真は生き生きとして、漢籍を十六の判別に分類する。“柳公権の漁夫の辞”を発見する。目の前でその様を見た幡多児は、尊大な態度を保ちながらも、道真と契約を交わす。その時名乗った名前が“菅三道かんさんどう”、ついでにでっち上げの身元も拵えた。道真は何故か幡多児の尊大な態度を気にも留めない。
道真は決まった日に張り切って店に出かけ、規則正しい生活を送り、子供たちとも余裕を持って接するようになる。

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柳公権の書「玄秘塔碑」。裴休の撰文による。ウィキメディア・コモンズより。

暗転

そんな道真を愛息・隈麿の事故死が襲う。
孫ほどの年の差の愛息の事故死は道真には真実こたえた。しかも朝廷からは何の悔やみの言葉もない。恬子が道真の屋敷を切り盛りする姿も板についてきた頃だった。
「わしはどこで間違ったのだろう」
「もはや無用の長物だ」
道真は食事もせず、譫言うわごとのように繰り返すばかりだった。
道真のその様子を見た穂積は、いつもの怠け者とは別人のように、役人生命をかけて叫ぶ。
「ええい、泣かれてどうなるというのです。道真さまのそのお目を府庫の欠損を埋めるためにお貸しいただけますか。それができなければ、朝廷からお叱りを受けます」
「欠損?」
穂積は両手をついて、事のあらましを説明した。
「大弐さまはご存じありません。そもそもは、豊原清友なる大帳司の算師が、正税帳を改竄したのが始まりでございました」
「要はわしに、その清友なる算師が使い込んだ銭を補填せよというのだな。しかも、大弐どのには内緒で」
道真の声に力が出てきた。
「さようでございます」
もはや泣いてはなりません。穂積は自分と道真に言い聞かせた。
楚の屈原が世情に悲憤慷慨して、袂に石を詰めて汨羅江べきらこう入水じゅすいしたのを真似るわけにはいかない。この地で生き抜かねばならないのだ。道真の顔つきが変わった。

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横山大観屈原」。ウィキメディア・コモンズより。

補填のための謀略会議

早速、道真の屋敷で会議が開かれる。議長(?)は道真だ。
議題は、算師・豊原清友が、都合六年間で、総額千三百三十貫、何と太宰府の年間予算の一割強を超える額を使い込んでいた。着服していた。
この件を、朝廷に知られないように穴埋めしなければならない。時間の余裕もない。
どの様な有効な方法があるかです。道真は二つの方法があると言います。
参加者は、龍野穂積・三緒父子、小野葛根・恬子兄妹の四人です。

一つ目の方法は、博多津ではまず荷が付くと、役所が安く買い上げる習慣がある。いわば上納だ。この習慣に逆らって召し上げたそれなりに価値のある唐物(没唐物)を内密に売り払う案。これには小野葛根が、官品横領に当たるといって首を縦に振らなかった。
では、残るもう一つの方法は?
ここ博多津で一、二を争う唐物商・砡斎ぎょくさい(主人は評判のよくない濱道はまみち)に、道真が橘花斎で安く仕入れた品を高く買わせる方法です。
この案には、葛根も消極的に賛成します。恬子も「兄さま、やりましょう」と。
この規模の店ともなれば、京の寺院を上得意として抱えています。必ずしも本物の名品は要らない。高額であればあるほど良い品だから、見せびらかし甲斐があると思うような向きもあります。書を飾れば帝や貴族から、莫大な寄進が受けられるのです。

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中国の密印寺に建つ裴休の像。ウィキメディア・コモンズより。

生憎あいにく橘花斎では見繕みつくろえなかったので、【法書要録】に記載されている、中国の書家・裴休はいきゅうの贋物を道真が拵えることになる。
「裴休は仏教に深く帰依きえしていたので、黄檗希運おうばくきうん伽陀かだを記したら、贋作と見破られる事は無かろう。一本四百貫として、四本あれば足りるか。裴休は三十年程前に亡くなったので、当時の墨や紙も何とか入手できるであろう。穂積は、墨と紙の手配をせよ。なるべく古く、質の良いものを」

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唐代の禅僧、黄檗希運臨済宗開祖の臨済義玄の師。ウィキメディア・コモンズより。

「そのお坊さんの伽陀は、何か書物に載っているのですか?」
黙っていた三緒が口をひらいた。
「愚かな。わしを誰だと思っている。かつて白居易にも肩を並べると謳われた菅相国かんしょうこくだ。安行、墨と紙の支払いに充てる銭を用意せよ。足りずば、この屋敷の品物を売り払っても構わない」
愛児の事故死に茫然自失していた道真とはまるで別人だ。

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鈴木春信「笠森お仙と白楽天」。ウィキメディア・コモンズより。

道真の贋作は通用するか?
果たしてこの表に出せない企みの行方は、どうなるのか?
濱道が買い上げたとしたら、どの寺院に持ち込まれるのか?
この騒動の落ち着いた頃、恬子は何故旅立つのか?
ツクツクボウシが鳴く頃、恬子は奥州に向けて出発する。

終わりに

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『北野天神縁起絵巻』に描かれた「清涼殿落雷事件」。菅原道真の死から約27年後、清涼殿に雷が落ち、これに巻き込まれた藤原清貫は即死状態だった。ウィキメディア・コモンズより。

やれやれと思った頃に、奉幣使・藤原清貫きよつらが抜き討ちでやってくる。
道真の落魄ぶりを確かめる目的だ。道真が生き生きと暮らしているのを見れば、今度は東北にでも左遷されてしまうだろう。しょぼくれた道真を演じる必要がある。
果たして清貫を欺けるか?

雲上人うんじょうびと」道真は、どう泥にまみれようとも、本質は変わらないです。
太宰府に左遷された道真が、自分自身を取り戻す行程の物語をお楽しみください。
天一


これまで言い伝えられてきた菅原道真像を陰画とするなら、これを陽画に反転させたような、全く新しい道真像ですね。驚きました。

澤田瞳子『星落ちて、なお』

河鍋暁翠の「弁天」。

河鍋暁翠「巳年の福神遊」から、琵琶を弾く弁財天(右)と笛を吹く吉祥天(左)と太鼓を打つ大黒天(下)。「七福神めぐり資料集」より。

表題作につきまして、一天一笑さんから紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


澤田瞳子『星落ちて、なお』(文藝春秋社)を読了して。
江戸末期に活躍した不羈の画家河鍋暁斎きょうさいの娘とよ(河鍋暁翠きょうすい)、異母兄周三郎(河鍋暁雲きょううん)、そして暁斎の後援者鹿島かじま清兵衛せいべいに焦点を当てた長編小説です。第165回直木賞受賞作でもあります。
何事にも破天荒だった暁斎の死後、約30年の月日の流れを娘のとよの視点から描きます。

この物語は明治22年、暁斎の葬式の場面から始まります。葬式は暁斎の後援者、鹿島清兵衛が、諸事万端を見事に取り仕切ります。
遺された家族は異母兄周三郎、とよ、放蕩者の弟記六、病弱な妹きく、没交渉の姉とみです。
何せ弟子だけでも200人は下らない暁斎でしたから、目に見えるものの後始末だけでも、並大抵ではありません。
一時は狂斎を名乗り、風刺絵を描いていたこともあります。弟子の中には、鹿鳴館ニコライ堂を建てた、建築家のジョサイヤ・コンドルもいます。雅号は暁英です。

ニコライ堂の写真

現在の「東京復活大聖堂」(通称「ニコライ堂」)。ウィキメディア・コモンズより。

とよは、長年他家に養子に出されていた周三郎とはそりが合わないのですが、話し合わなければならないことは多岐にわたります。周三郎は、後始末をせずに自宅に帰ってしまいます。
だが、父暁斎の不羈の画風を受け継いだのはこの異母兄だった。とよは、自分の絵の腕前は、遠く異母兄に及ばないと自覚しています。
この周三郎は、正論をいうのですが、余りにも不器用すぎます。
「親父は、北斎になりたかったのだ。お前に5才の頃から絵を仕込んだのも、北斎の娘の役割を期待したからだ」
周三郎のこの言葉は、若き日のとよにはこたえますが、周三郎の死後は苦にならなくなります。明治30年頃になると、暁斎の特徴の本格的な狩野派、土佐派の画風は古いとされ、周三郎の絵が顧みられることもなくなりました。周三郎は、不遇のまま「河鍋の家はお前だけになる。親父の絵を忘れるな」と言い遺します。
その前後、暁斎の後援者でとよにも良くしてくれた鹿島清兵衛が、養子先の鹿島から廃嫡され、放り出されてしまいます。理由は、ただならぬ放蕩です。
家業を顧みることなく、正妻に任せっきりで、暁斎に絵を習う、笛を習うなど多趣味なだけならまだしも、本郷に儲けの見込めない写真館を開く、決定的なのは名妓ぽん太を落籍らくせきしたことです。正妻の堪忍袋の緒が切れたのです。とよは暁斎の死後、正式に挨拶に出向いています。このようなところが周三郎をして、お前は糞真面目過ぎると言わしめる所以でしょうか?

鹿島清兵衛の写真作品。

「ぽん太」明治28(1895)年頃。撮影:鹿島清兵衛。彼は事故で右手に大怪我をして写真が撮れなくなるまで、日本における先駆的な写真家として活躍しました。www.artagenda.jpより。

とよは、転居を繰り返し、女子美術学校で教鞭をとるが、暁斎の親友の真野八十吉やそきち暁柳きょうりゅう)の仲立ちによって高田商会に勤務する高平常吉と見合い結婚をする。そして一人娘よしを授かります。とよの画業に理解のあった常吉ですが、とよは“画鬼の娘”として生きるには結婚生活は継続できないと判断し、よしが3歳の頃別居し、やがて離婚してしまいます。
それが、大正2年の時です。
とよは暁斎の25回忌法要を執り行うと共に、「河鍋暁斎遺墨展覧会」を開き、大盛況の結果を得ます。
その会場へ設けた茶席に、中年の男女がとよを、ひっそりと訪ねてきます。
それは、かつての鹿島清兵衛とぽん太でした。
清兵衛は、今は三木みき如月きさらぎと芸名を名乗り、笛を専門とする能楽囃子方はやしかたとして舞台に立ち、暮らしているらしい。
とよは三木如月を展覧会後の宴会に誘うのだが、如月はきっぱりと断る。そして「梅若うめわか観覧能」の招待券をとよに手渡す。演目は“きぬた”です。

「砧」

月岡芳年よしとし月百姿つきひゃくし』 84「きぬた」。ウィキメディア・コモンズより。

但し梅若家は、主筋しゅすじにあたる観世家と免状の発行(大事な収入源)をめぐっていさかいをしている。梅若家の舞台の観覧は遠慮している人もいるほどだ。
「必ず来てくださいよ。お待ちしていますから。十月十五日、午後二時ごろです」
お互いの存在が、落魄の原因となったにも拘わらず、寄り添う二人の姿を見てとよは自分と常吉の4年の結婚生活は何だったのだろうと思う。常吉に不満があって別れた訳ではないのだが・・・。

とよは、遭遇した関東大震災で、被災した画室より、娘や周囲の人の無事を喜び、やはり父のように画鬼にはなり切れないが、それでよいのだと思う。
父だったら、惨状のさまをスケッチし始めるだろう。
三木如月は、延期された舞台を務め、依頼された舞台も務め、静かにあの世に旅立つ。

56歳になったとよは気が変わり、一度は断った村松梢風のインタビューを受け、語り始める。異母兄周三郎が見たら、そんな暇があるなら絵筆を取れと言ったろう、と苦笑しながら。
河鍋暁斎の娘として、父の絵を疎み、愛していたことに気が付く。
ならば、これからも父や兄の絵を見て、心躍らせる人がいるかもしれない。そのために自分は父と異母兄について語ろう。とよはそう思った。

河鍋暁斎の弁天

河鍋暁斎地獄太夫」。数多くの同画題の作品のうちの一枚。この着物の柄には閻魔大王や鬼の他に七福神が描き込まれているのですが(元画像参照)、弁財天の姿が見えないのはこの地獄太夫こそ弁財天の化身であることを暗に示しているのだそうです。ウィキメディア・コモンズより。

絵に取り憑かれた河鍋家の人々の物語をお楽しみください。
筆者も以前、河鍋暁斎の絵を見て、画力の高さ、正確なデッサンに圧倒された記憶があります。
天一

2018年4月から6月にかけて、東京富士美術館で催された河鍋暁斎&暁翠の展覧会の紹介動画。


暁斎・暁翠伝