魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

『悪魔の傾聴』とBAND-MAIDの「alone」

昨年(2023年)11月のツアーファイナルの模様を収めたブルーレイのジャケット写真。2024年3月リリース。Amazon.co.jpより。

「気づけないままワナにはまってた…」

BAND-MAIDの来年(2025年)のツアーの日程が発表されましたが、海外ツアーの予定は今のところないようですね。海外での「お給仕」がないと、ファンカムを上げてくれる人がいないので、個人的にはちょっと残念。


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実は先日、上の動画ではありませんが(これはファンカムではない)、BAND-MAIDアメリカでのある日のコンサートがまるごと入った2時間ほどのファンカムを見ていて、確か三曲目か四曲目がこの「alone」でした。「alone」を聴き直すのは、私は久しぶりだったのですが、音質のいいファンカムで、ヴォーカルの彩姫さんが冒頭、低音域ぎりぎりで歌う歌詞の内容が、日本人である私の胸にまっすぐに刺さってきました。

君の中に飛び込んだ
複雑な迷路みたいだ
いつまで経っても抜けられそうにないや
気づけないままワナにはまってた
Suffocating, running out of breath
(息が詰まる 息が苦しい)
どうしようもなくて
ただただ泣いた…

「中村淳彦あつひこの『悪魔の傾聴』みたいだな」と、ふと思いました。ただこれだけだと飛躍しているようなので、少し説明を加えます。

「傾聴の三原則」

「傾聴」という言葉に心理学的な意味が加わったのは、比較的最近のことであろうと思われますが、私の認識では、これはカール・ロジャース(Carl Ransom Rogers, 1902 - 1987)というアメリカの臨床心理学者の手法を日本に普及させようとする上で、この平凡な日本語に奇妙な負荷がかけられることとなったもののごとくです。とはいえこの「傾聴」なる言葉がロジャースの用いたどの言葉の訳語に当たるのかは、私にはよくわかりません。
ロジャースの「傾聴の三原則」なるものは、今日では専門家の領域を越えて広く知られているが、そのためにかえって表面的にしか理解されていない、と日本語版ウィキペディアには書いてあります。

  • 無条件の肯定的配慮
  • 共感的理解
  • 自己一致

中村淳彦氏が『悪魔の傾聴』(2022年)で説かれているメソッドも、これと一脈通じるところがあるのですが、中村氏は別にロジャースを研究したわけではなく、ただインタビューの相手の「本音」と信じるものを引き出すべく、いろいろと試行錯誤しているうちに、似たような手法に落ち着いたということらしい。ただ中村氏の場合、「傾聴」の目的が要するに「売れる」記事を書くことなので、一見すると精神医療の専門家の場合よりも不純で軽薄でいい加減に思われますが、実は精神医療の専門家よりも中村氏のメソッドの方が徹底している。「いつも心に底辺を」などという座右の銘を掲げるお医者さんは日本中どこを探してもいないでしょう。「いつも心に底辺を」とは、要するに「自分は人間のクズである」という強い自覚を持て、ということです。でなければ「上から目線」を敏感に察知され、「底辺風俗嬢」の赤裸々な告白を聞き出すことなどとてもできないでしょう。

「二次受傷」の恐怖

この『悪魔の傾聴』という本の「はじめに」には、このメソッドを習得するメリットとして、こんなことが書いてあります。

  • 話上手でなくても、相手にとって充実したコミュニケーションになる。
  • 相手に対する理解が深くなる。
  • インプットが増えて、視野が広がる。
  • 相手に好感を持たれて、信頼される。
  • 異性に持てる。

さらに「ビジネスだったら成約率はアップし、筆者のような著述業なら、いい取材ができて本が売れる可能性が高くなり」「男女間ならば関係が進行する」、従って「悪魔の傾聴は、収入があがって人間関係も広がり、婚活や恋活にも効いてくる」「メリットだらけ」の「魔法のようなメソッド」だという。
だまされてはいけません。この言葉には裏があります。そして著者の中村氏は、これを重々承知の上で書いています。
「二次受傷」という言葉があります。たとえば近ごろ日本では地震や大雨など災害が多いですが、被災者の物理的な支援の他に、いわゆる「心のケア」のために被災地におもむき、被災者の心の傷と向き合う専門家たちが、被災者と同様の心の痛みに悩まされることがある。被災者と同様のトラウマを抱え込み、夜眠れなくなったり、家族に八つ当たりしたりするようになるのです。この「二次受傷」については専門家たちの間では広く知られていて、研究も進んでおり、対策も講じられているようですが、中村氏の場合はぜんぜん別の世界で心の壊れた人たちと向き合っているので、氏自身、深刻な「二次受傷」をまともに経験している。私は氏の著作を全部読んだわけではないが、私が読んだ中では『名前のない女たち最終章』(文庫版、2010年)という本が一番面白かった。何が面白かったかというと、この「二次受傷」によって、「傾聴」に徹する中村氏自身の心が壊れてゆく様子がありありと窺われる、そこが面白かったのです。

「現実からの逃避行さ…」

この「二次受傷」に対する実戦的な対策を、中村氏はこの『悪魔の傾聴』の中でいろいろと上げているので、このメソッドを仕事などに取り入れようと思う人は、これをしっかりと習得すべきだと私は思うのですが、その一つに「受容力」を鍛える、というものがあります。そうして「受容力」は心理学の本などをいくら読んでも鍛えられるものではない、経験を積むしかないと中村氏は主張する。氏は強い希死念慮を抱いた若い女性とともに、その女性の自宅マンションの屋上に上がった時の例を挙げています(これも確か『名前のない女たち最終章』にあった話だと記憶します)。

女性:ここから飛び降りたらグチャグチャになるよね。薬飲んで助かったときは本当に苦しかったから、絶対に死ねるためにここなの。決めているの。
中村氏:死にたいっていつも思っているの?
女性:日常茶飯事だよ。見慣れた風景だもん。実は今も死にたいし、昨日も死にたかった。あの遺書を書いたときも一晩中、ここで悩んで躊躇した。一気に飛んじゃったら楽になるのにね。
中村氏:怖いよね。無理だよ。
女性:怖い。すごく怖かった。
中村氏:痛いだろうし。
女性:うん。
中村氏:死ぬのやめれば?
女性:飛び降りたくても、ここから飛べる自信はないし、いままで何十回とチャレンジしているけど、どうしてもできない。

こうして自殺は回避できたわけですが、中村氏が主張するのは、ここで一番いけないのは、相手の様子に驚いて、自分自身が取り乱してしまって、感情的に「死んだら駄目だ」などと発言することです。そのような独善的な発言は、かえって相手の反発を招き、結果的に相手を屋上から突き落とすことにもなりかねない。事実、この女性は「自殺を止めようとする人がいるじゃないですか。そういう人、すごく嫌。わたしに死なないでほしいのはその人たちのエゴであって、関係ないもん」とも言っているのです。
ただ、上記のような冷静な対応は、中村氏のように、常日頃から「受容力」を鍛えることを心がけている人だからこそできることで、われわれ素人がたやすく真似できるものではありません。ここに「悪魔の傾聴」における「悪魔のワナ」があるのです。相手の心の傷と正面から向き合い、相手の本音を「傾聴」することに大成功を収めたあげく、自分自身の心も壊れてしまって、上のBAND-MAIDの歌詞にもあるように「どうしようもなく」なり、「いっそ一緒に死のうか?」てな結論に突き進むこともあり得る。事実、若い人たちの場合、このような最悪の結果に向けて突っ走ってしまう例も少なくないのであろうと察せられる。BAND-MAIDの「alone」の歌詞の最後の、

現実からの逃避行さ…

というフレーズは、このぎりぎりの崖っぷちで踏みとどまろうとする意志を示した言葉だと思います。

 

 

抒情詩「地下に監禁される日々」他一篇

トニ・ロベール=フルーリ「パリの精神病院において患者を鉄鎖から解放する精神科医フィリップ・ピネル」。ウィキメディア・コモンズより。

わからないわよ あなたには

「死んだことのない人が、死んだ人のことがわかるかな」――山下清

わからないわよ あなたには
 一度は死んでみなければ
 二度も三度も殺された
女子の気持ちはわからない
胸を刺されて失血死
 突き落とされて墜落死
 果ては焼き場で焼死して
もう肉体はぼろぼろよ
肉体よりも精神よ
 心の傷は癒やせない
 からだは買えば済むけれど
心はそうは行かないの
愛した人に殺されて
 その愛人に殺されて
 親にも子にも殺されて
もう精神もぼろぼろよ
少し寿命が長いだけ
 少し苦労も多いのよ
 だけどわたしは不老不死
気にしない 気にしない
だからあなたは知らないの
 あなたは何も知らないの
 一度わたしと死んでみて
いい経験になるかもよ

地下に監禁される日々

地下に監禁される日々
 罪を重ねるこの遊び
 さらさらと鳴るこの鎖
中毒になるこの薬
今日は狂人 あす死人
 だからしなくていい避妊
 抱かれたいから脱いだ服
父さん 遊ぶ金が浮く
ねえお父さま このわたし
 紳士に奉仕する天使
 好きにしていい人形よ
もう人間は廃業よ
縄でしばって鞭で打ち
 つるせば みごと地獄
 死んだわたしを抱きしめて
浮いたお金でうるおって

地下に監禁される日々
 罪をつぐなうこの遊び
 さらさらと鳴るこの鎖
楽に死ぬならこの薬
今日は犯人 あす死人
 ちなみに彼はもう他人
 今の奥さん 超美人
今の愛人 大詩人
だけどわたしは不老不死
 歴史に奉仕する天使
 千年生きているお化け
死ぬのはいつも他人だけ
どうせ効かないこの薬
 しっかり飲んで死んだふり
 生き返るまでひと眠り
起きてびっくり またひと

(日本語訳)ハイネ「ムーシュのために(Für die Mouche)」

最晩年のハイネと「ムーシュ」ことエリーゼ・クリニッツ(筆名の一つに「カミラ・セルダン」とも言う)。ハインリヒ・レフラー画。ウィキメディア・コモンズより。

今から170年ほど前にドイツ語で書かれた詩をご紹介します。私はドイツ語はわからないので、英訳からの重訳になります。ドイツ語原文はこちら。参照した英訳はこちらこちら。邦訳では井上正蔵教授のものが一番参考になりました。(2024年11月)



俺は夢を見た 夢で見たのは
夏の月夜の廃墟だった
それは在りし日の栄華の 今は見る影もない残骸
ルネッサンス期の遺跡だ

瓦礫の山のあちらこちらに
荘重なドーリア式柱頭を冠した石柱が立ち
その天をする高さは
かみなりさまを見下ろすばかりだった

足もとに所狭しと散乱する
崩れ落ちた門扉もんぴや山型の屋根
人や動物の像もあれば ケンタウロススフィンクス
チュロスやキメラなど 幻獣の像もある

おびただしい数の女神像が
伸び放題の雑草に覆われて倒れていた
「時間」という名の梅毒におかされたニンフの
顔からは 高い鼻がもげていた

大理石でできた ふたのないエジプト石棺サルコファガス
このがらくたの中に 無傷で残っていた
その中には一人の男性の遺体が これまた完全体で
悲しみを帯びた静かな顔をして 横たわっていた

首をぴんと伸ばした女人像列柱カリアチード
これを頭に乗せて しっかりと支えているように見えた
そうしてこの石棺の両側には およそ雑多な人物像の
淺浮き彫りバ・レリーフが認められた

見よ これぞオリュンポス山の栄光と
そこに住む性欲旺盛な神々の姿
そのかたわらにはアダムとイブが
可愛らしいイチジクの葉で前を隠して立っている

ここには没落炎上するトロイ
パリスやヘレネ ヘクトールの姿も見える
すぐそばに立っているのはモーセとアロン
エステル ユディト ホロフェルネスやハマンも一緒だ

また見る愛神アムール
フィーバス・アポロ ウルカヌスとその妻ヴィーナス
プルートー プロセルピナ メルクリウス
酒神バッカス プリアポス そしてシレノス

そのかたわらに立っているのはバラムの驢馬ろば
今にも口を利きそうなほど本物そっくりだ
そこにはまたアブラハムの試練の姿
娘たちに泥酔させられるロトの姿

ここにはへロディアの娘の踊る姿
バプティストの首が盆に載せて運ばれる
ここには地獄と魔王サタンの姿
聖者ペテロが天国の門大鍵おおかぎげている

これに代わって目に映るもの
それは主神ゼウスの欲望と罪の数々
いかにして白鳥となってレダと交わったか
いかにして金貨ダカットの雨となってダナエをはらませたか

ここには野獣を狩る処女神ディアナの姿
あとに従う猛犬マスティフたち 身なりのよいニンフたち
ここには女装したヘラクレスの姿
手には糸巻き棒を持ち 紡錘スピンドルを回転させている

次に見るのはシナイ山
イスラエル雄牛おうしとともに山麓さんろくにある
十二歳のイエス・キリストが寺院の中で
権威オーソドックスを論破している姿も見える

対照的なものがことごとく隣り合わせになっていた
それはすなわちギリシャの官能主義と
ユダヤ精神主義だ アラベスク風の
蔦葛つたかずらが双方に巻きついていた

ところが奇妙なことに
こうして芸術作品に見とれているうちに
俺はいつしか故人となって
その大理石の棺の中に横たわっていた

そうしてわが枕もとには
一輪の妖花が咲いていた
その葉の色は硫黄色いおういろで 紫でもあった
狂った魅力がその花に君臨していた

人はこれを「受難の花」と呼び
昔「神の子」が殺され
彼のあがないの血が流された日に
ゴルゴダの丘に咲いたと伝えられる

人は言う この花こそ流血の目撃者で
「神の子」を処刑するために刑吏が使用した
拷問器具一式の記憶を
そのうてなの額縁の内にとどめているのだと

さよう この拷問部屋全体に
受難パッション」の小道具がすべてそろっていた
縛る縄 責める鞭 血の杯や茨の冠
十字架があり 鉄槌があり 打つべき釘があった

わが墓のかたわらに その花はたたずんでいた
そうしてわが亡きがらの上に身をかがめると
死者をいたむ女性の身振りで 口をつぐんだまま
わが手や わが目や わがひたいに口づけをした

すると夢とは不思議なもので
この硫黄色いおういろの「受難の花」が
一人の女性へと姿を変えた
それは彼女だった わが意中のひとだった

それは君だった わが最愛の子よ
その花のキスで君だとわかった
こんなに柔らかいくちびるの花は君しかいない
こんなに熱い涙を流す花は君しかいない

俺は目を閉じたまま 君を見ていた
目を閉じたまま 君の顔をじっと見ていた
君は俺を見ていた 狂喜に満ちた目をして
月光を浴びた亡霊の姿で

われわれは黙っていた だが俺には
君の口に出さない想いが読めた
口に出してしまえば恥知らずな女になる
恋は口に出さずにいてこそ花なのだ

そうして沈黙とは何と雄弁なものだろう
何の隠喩も 何の隠語もなしに
何の言葉のあやも 何の言葉の飾りもなしに
一切をありのままに 正直に告げてくれる

諸君には信じられまい この優しい語らいにも似た
沈黙の対話というものを
歓喜と恐怖とで出来た この夏の夜の甘美な夢のうちに
時間は何とすみやかに過ぎたことか

われわれが何を話したか それはいてはならない
ほたるにはけ 草地に何を光るのか
河水みずにはけ 何を流れるのか
西風にはけ 何を吹き 何を嘆くのか

カーバンクルにはけ 何を輝くのか
薔薇や花菖蒲にはけ 何をかおるのか
だが殉教者と殉教の花とが 月光のもと
何をわしたかは絶対に明かせない だからくな 

この冷たい大理石の棺の中で
俺は恋人との交歓の夢を
時を忘れて楽しんでいたが この安眠の
よろこびは 出し抜けに打ち破られた

おお「死」よ お前だけが その厳粛な沈黙によって
われわれに最高の快楽を与えてくれる
愛の痙攣けいれんや休みなき快感が与えてくれるもの
それは「幸せ」ではなく 卑しむべき「いのち」なのだ

だが悲しいかな わが至福の時は束の間だった
外から急に雑音が来た
それは侃々かんかん諤々がくがくたる口論だった
ああ わが花はこの騒ぎで消えてしまった

そうだ 俺はこのとき外界に巻き起こった
囂々ごうごうたる非難の応酬に
数限りない声を聞き分けた
それはわが棺の淺浮き彫りバ・レリーフたちの声だった

古代宗教の狂気が石に取りいているのか?
この大理石像たちが言い争っているのか?
野性の牧神パーン雄叫おたけびが聞こえる
モーセの呪いの声も聞こえる

ああ このいさかいは終わらない
「真実」と「美」とは相容れない
人心はヘレネスバルバロイとに
両断されて 常に葛藤している

甲論こうろん乙駁おつばく この不毛な論争は
いつ果てるともなく続き
そこへ現れたのがバラムの驢馬ろば
神々や聖者たちよりも大声を上げ

この畜生が何度も鳴くその奇妙な鳴き声で
そのおぞましい奇声によって
絶望のどん底に突き落とされたこの俺は
自分自身の叫び声で 目が覚めた


 

 

(日本語訳)ボードレール「虚無の味(Le Goût du néant)」他一篇

ターナー「グラウビュンデンの雪崩」。ウィキメディア・コモンズより。

虚無の味(Le Goût du néant)*1

闘志満々だったのに 今は覇気無き精神よ
希望は君にまたがって 拍車をかけていたけれど
今の君には騎手がない 恥を忘れて横たわれ
ほんの小さな石ころにも 足を取られる老いぼれ馬よ

もうあきらめろ わが心 けだものの眠りを眠れ

くたびれ切った負け犬よ 老盗賊の君にとっては
セックスももう味気なく 痴話ちわ喧嘩げんかとてうんざりだ
いざさらば ラッパの歌よ フルートの溜息よ
歓楽よ 誘惑するな むっつりとねた心を

愛すべきの花びらは その芳香を失った

そして時間は かちかちになった死体を 大量の
雪の流れが飲むごとく 僕を飲むのだ 刻々と
――僕は地球の全体を はるか上から眺めるが
もうささやかな隠れ家の一つも見ない 見たくない

雪崩なだれよ 君の崩落に 僕を巻き込み去ってくれ

音楽(La Musique)*2

(ベートーベン)

音楽はしばしば海のように私を運ぶ
 わが蒼き星をめざして
霧深き天井の下 また広き気海エーテルの中を
 私は船出する

胸を張り 肺臓を膨らますこと
 帆布のごとく
の闇に打ち寄せる波 また寄せる大波の背を
 私はよじのぼる

行き悩む船のあらゆる激情が 私の中で
 ぶるぶる震え
順風や 逆風や みだりなる風が私を

 深淵の上にゆさぶる
また時に大凪おおなぎが来て 波のない海に広がる
 わが絶望の大鏡だいきょうめん

*1:悪の華』第二版80。原文はこちら

*2:悪の華』第二版69。原文はこちら

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「讃美歌(Hymn)」他一篇

ジョージ・W・ジョイ「眠るジャンヌ・ダルク」。ウィキメディア・コモンズより。

讃美歌(Hymn)*1

夜明けにも 真昼にも 夕暮れにも
わが歌声に耳を傾けて下さったマリア様
よろこびの時も悲しみの時も 幸せな日々も不幸せな日々も
神様のお母様 わがかたわらを離れ給うな
青春の日々が輝かしく流れ
青空に雲一つなかった時代
あなたの御恵みめぐみは わが魂を絶えず鼓舞して
あなたとあなたの御国みくにへ導いて下さいました
今「運命」の嵐が雨雲を伴って
わが過去とわが現在とを暗く覆う時
せめてあなたとあなたの御国みくにへの希望で
わが未来を明るくお照らし下さい

無題(Stanzas)*2

「われわれはいかにしばしば時を忘れて
 人里離れた自然の広大な王国を愛したことか
 大森林 大荒野 大山脈 ことごとくわれわれ人間の
 知的営みに返事を返す大自然の高らかな声!」――バイロン「島」

私が子どもの頃知っていたある男は 生まれた時から
太陽光が好きで 自然の美を愛でいつくしみ
大地もまた彼に対してひそかに好意を寄せていた
彼の命の炎は天翔あまがける天体によって点火され
そこから彼は 彼の魂にふさわしい
強烈な光芒を導き出していた
ところが彼の魂は みずからが炎々と燃えているさなかにも
それが何の影響によるものなのかを知らないのだった

空にかかる月の光が
私に束の間の幻を見させるのか
確かに月光は古代の賢者たちが
伝えるよりももっと強い支配力に満ちていると
私はなかば信ずる――あるいはそれは
夏草に置く夜露のごとく
覚醒の呪文とともに われわれの上を通り過ぎる
いまだ形を成さない思想の実質エッセンスに過ぎないのだろうか

それがわれわれの上を通り過ぎる時 目は対象に気がつき
今の今まで無関心アパシーのうちに眠っていた感涙が
まぶたへと込み上げるのだろうか
とはいえその対象は
神秘である必要はない むしろありふれたもの
いつもわれわれが目にしているもの ただその時にだけ
切れた弦のひびきのごとき異音によって
われわれを覚醒させる――それは象徴 そして暗号

それは『他界』にこそ存在するであろうものの
象徴そして暗号 『神』が美を通して罰当たりどもだけに
たまわるものなのだ それがなければ
彼らは生きていられず 地獄に堕ちるしかなかっただろう
その源は彼らの心臓の躍動であり
刻苦精励する魂の高揚感ハイ・トーンだ とはいえ
それは「信仰」を通じてではない 彼らは蛮勇ばんゆうをふるって
「信仰」をその玉座より追い落すのだ
内奥ないおうの感情を王冠としていただきながら

*1:『故エドガー・アラン・ポー作品集』(1850年)より。原文はこちら

*2:『タマレーンおよびその他の詩集』(1827年)より。原文はこちら