魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

風野真知雄『密室本能寺の変』(その十)

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薙刀なぎなたを振るって戦う巴御前。楊洲周延ちかのぶによる木版画ウィキメディア・コモンズより。

御殿の有様

弥助がまさかりを二十回ほど振り降ろした頃か、三寸くらい扉が削られ、かんぬきが見えた。手槍の穂先を使って、閂を横に滑らせた。
「開いた!」
蘭丸は先頭に立って廊下に入り、そこから先にある奥の戸を開けた。
床に男が倒れていた。蘭丸は反射的に寝台を見たが、そこに信長はいない。
「ああ・・・」
刀を手にしたまま、おそろしい形相で天を睨んだ信長が倒れていた。
「上様」
蘭丸は信長を抱き起そうとしたが、冷たく硬くなっていた。
蘭丸は悲鳴をあげた。
「兄者、どうしました」
「どうしました」
坊丸と弥助が飛び込んできた。
「上様がお亡くなりに」
続いて薙刀なぎなたを持ち、襷掛たすきがけをした女人たちも入って来た。
「どうなさったので?」
弥助が答えた。
「上様がお亡くなりです」
「そんな馬鹿な。ご自害ですか?」
女人たちは口々に甲高い声で叫び、騒ぎ出した。
「うるさい。騒ぐな!」
女人たちを怒鳴りつけた蘭丸は、落ち着きを取り戻して言った。
「とにかく、上様を明智勢に見せては駄目だ」
首を獲られるなどあってはならない。
「ではどうする?」
坊丸が尋ねた。
明智勢はすぐそこに迫っている。蟻の這い出る隙間もないように取り囲まれている。
「火を放つ。御殿を焼き尽くすのだ」
「よし、 わかった」
坊丸は、女中たちに台所から油を持ってこさせた。御殿の床、信長の遺骸に万遍なくかけた。御殿の中に鉄砲のための火薬が相当量あったので、これらも床に撒いた。火を点けた。地獄の業火もかくやの事態となった。

本能寺炎上

「火が出たぞ。どうしたのだ」
光秀は自分の前に立ちはだかる斎藤利三に聞いた。
「わかりません。間もなく鎮圧しますので」
事実御殿の前で、必死に抵抗している者達も二十人位だろうと思った。
「上様に逃げられてはいないだろうな」
光秀は苛立ちを隠せないまま言った。
「この包囲からは誰も逃げられません」
斎藤利三は冷静な口調で言った。
だが、光秀は思った。上様ならいかなる危機も切り抜けるだろう。以前信長が言った言葉を思い出した。
「戦に負けるのは仕方がないが、首を獲られるのだけは我慢ができない」
この火は、信長が自らを焼き尽くす為の火ではないのか?
その時、御殿の屋根のどこかから、何かがボンと音を立ててはじけた。火の粉が渦巻いている。
「火を消せ、消せ!」
光秀は叫ぶが何もできない。激しくなってきた雨の勢いも、火の勢いの前には何ほどでもない。
火はやがて黒煙になった。雨にいぶされた。明智勢もせた。黒煙が上がる度に火の勢いは強くなった。
御殿の周囲では、男女を問わず誰も逃げず、最後の戦いを繰り広げていた。彼らは鉄砲の弾薬を入れ替える。弾薬が少なくなると、御堂から畳を運び、御殿の回廊の前に並べる作業を行なっていた。蘭丸が叫んだ。
「まだ近づけるな。上様の遺骸が全て焼き尽くされるまで」
蘭丸は思った。自分は寝苦しい夜に見る悪夢の中にいるのではないのか。その時、隣にいる坊丸の胸に矢が突き刺さった。
「兄者は生きて、上様の仇を討ってください」
坊丸が胸の矢を抜き、息の下で言った。
仇を討っても、この悲しさ、虚しさは消えないだろう。
それなら、ここにいた方がいい。
「嫌だ。わたしもここで死ぬ」
坊丸が倒れた。
同時に蘭丸の胸にも矢が突き刺さった。
「わあ」
吶喊とっかんの声と共に、明智勢が押し寄せてくるのが見えた。

光秀の尋問

「敵軍全滅!」
光秀は思わず御殿の前に走った。兵士に言った。
勝鬨かちどきよりも消火せよ。信長殿の遺骸をたしかめよ」
「まだ危ないです」
斎藤利三が光秀に駆け寄り、身体を押した。
すぐ脇の黒焦げになった柱が崩れ落ちてきた。地面に激突して折れると、赤い炎を吐いた。
「信長殿の遺骸は見つかったか?」
「まだです」
「五十ぐらいの細身の男を探し出せ」
「この者は?」
御殿の前で頭の一部が銃弾で吹き飛ばされた、白い着物の男を指さした。
「これは違う。影武者だ」
弓矢や槍の戦のころにはなかった遺骸だ。光秀は自分が信長を見間違う訳がないと思った。
「では、この中です。逃げた者はおりません」
火の勢いが強く、とても近づけない。弾けるような音もする。
「誰か見ていないのか?生き残った者に聞け」
胸のあたりが血に染まった、槍傷を負った小姓が光秀の前に引き出された。
「信長殿は?自害されたのか?」
「いえ、どうも御殿の中に居た時に誰かに殺されたとか」
「いつ、誰に殺されたというのだ?」
「わかりません。御殿には誰も入れません。上様はいつも一人で就寝されますので」
「何だと・・・手当してやれ」
小姓が倒れた。おそらく助からないだろう。
「光秀さま、最後までここにいた女を連れてきました」
女が引き出された。
「手荒に扱うな」
女の着物と髪が真っ黒に汚れ、奮戦の有様を物語っていた。
明智様、これは一体何のおつもりですか」
女は食いつく様に光秀を睨みつけた。
女子おなごにはわからぬこと。それより、信長殿はどこだ?」
「上様はお亡くなりです」
「そなた、ご遺体を見たのか?」
「ちらりと」
「それは間違いなく信長殿だったのだな?」
「間違いありません。お顔に悔しさが浮かんでおりました」
「どんな風に亡くなったのだ。斬られたのか、鉄砲で撃たれたのか?」
「それは、わかりません。御殿の中に籠もられたまま、亡くなられたようです」
「詳しく申せ」
明智様の謀反をお知らせするために、弥助がまさかりで無理やり扉をこわして、開けました。開けてみたら、上様は既に亡くなられて」
「では誰か一緒に入った者の仕業か?」
「いいえ、上様は一人で就寝されます」
「では、やったのは刺客であろう?」
明智様、この期に及んで何をとぼけておられます?」
「とぼける?」
「大方、明智様が雇った刺客でございましょう。大それたことをなさいましたな」
女は胸を張り、光秀を睨みつけて、天罰でも下そうとする態度だった。
「よい、追って沙汰いたす。連れていけ」
女の思い込みの強さにあきれながら命じた。(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

 

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「メッツェンガーシュタイン(Metzengerstein)」

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オムニバス映画『世にも怪奇な物語』(1967年、フランス・イタリア)の第一話「黒馬の哭く館」(原題「メッツェンガーシュタイン」)中のジェーン・フォンダとフランソワーズ・プレヴォー。インターネット・ムービー・データベースより。

テキストはグリスウォルド編『エドガー・アラン・ポー最新作品集』第一巻(1850年)のヴァージョンに拠る。なお創元推理文庫版『ポオ小説全集』第一巻所収の訳文(小泉一郎教授訳)は『アラベスクとグロテスクの物語』(1840年)のヴァージョンに基づいており、以下の小生の訳文との間に多くの異同がありますのでご注意ください。原文はこちら


生前はあなたの疫病神だったこの私、死後はあなたの死神となる。――マルティン・ルター

それは実体のない仮の姿に過ぎない。

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ブレーメンに生まれ、サンフランシスコで活躍したグラフィック・デザイナー、ウィルフレッド・サティ(Wilfried Sätty, 1939 – 1982)による挿画。professorhswaybackmachine.blogspot.comより。

恐怖と変死ファタリティとはいつの世も随所にはびこってきた。だからこの物語に日付を附する必要はない。ここではただこの物語の当時、ハンガリー国内では「転生思想」に対する隠然とした、とはいえ確固たる信仰が行なわれていたことだけを記すにとどめる。この「転生思想」そのものの虚構性、もしくは蓋然性についてはここでは論じない。だが私としては、われわれの不信の多くは(ラ・ブリュイエールが万人の不幸について述べているように)「われわれが孤独に耐えられないことから来ている」と言いたい。*1
とはいえこのハンガリーの迷信には相当馬鹿げた点が幾つかあって、東洋の本家オーソリティの説とは本質的に遠くかけ離れていた。たとえば、ある知的で鋭いパリジャンの言葉を借りるならば、ハンガリー説では「霊魂が触知できる肉体に宿るのは一度きりで、その後、馬やら犬やら人間やらのかたちを取る場合、それらはいずれも実体のない仮の姿に過ぎない」のである。

隣人が友人であることは稀である。

メッツェンガーシュタイン家とベルリフィッツィング家とは何世紀にもわたって対立してきた。これほどの名家同士が互いを不倶戴天の敵と見なし合ってきたことはかつてなかった。両家の不和の由来はある古い予言にあるらしかった。いわく「騎手が愛馬を制するごとく、メッツェンガーシュタイン家の限りある命がベルリフィッツィング家の不死の命を制覇する時、ある高貴なる名が恐るべき失墜を遂げるであろう」
この予言自体にはほとんど、というよりもぜんぜん意味がなかった。しかしながら近年、これよりつまらない原因からひとしく重大な結果が生じた例がある。またこの隣接する両家は、あるごちゃごちゃした統治に関する諸問題において、久しく相拮抗する影響力を行使してきた。あまつさえ、隣人が友人であることは稀である。ベルリフィッツィング家の高い城壁からはメッツェンガーシュタイン家の窓を見ることができ、こうして窓の内部に見出された封建的豪奢以上のものは、富においても年季においても劣っているベルリフィッツィング家の人々の反感を掻き立てた。それゆえこの予言が、いかに阿呆らしくとも、うから先祖伝来の嫉妬心を刺激されるたびに衝突する傾向にあった両家を反目の状態に維持したのは何ら不思議なことではない。この予言は、もし何かを意味するとすれば、すでに優勢な一族が最終的に勝利することを意味すると見られ、当然ながら、より劣勢な一族がより激しい敵意を燃やす一因となっていた。
ベルリフィッツィング伯ウィルヘルムは高貴な生まれだが、この物語の頃には一介の好々爺で、ただメッツェンガーシュタイン家に対して度を過ぎて執念深い個人的嫌悪感パーソナル・アンティパシーを持っていたことと、馬と狩りとが大好きで、肉体的非力や高齢や知的無能力にもかかわらず、日々危険を冒して狩猟に参加していたこと以外、特記すべき事実はない。

時計の振り子はより深い意味を帯びて揺れる。

これに対してメッツェンガーシュタイン男爵フレデリック は未成年だった。彼の父親であるG大臣は若くして亡くなり、母親のメアリー夫人も時を経ずして後を追った。フレデリックは当時十八歳だった。都会では十八年という歳月は短い。しかし地方では――特にこのハンガリー王国のように高山峨々たる地方では、時計の振り子はもっと深い意味を帯びて揺れているのである。
父親の統治に付随したもろもろの特別な事情により、この若者は父親の死後、ただちにその全財産を相続した。ハンガリー貴族がこれほどの富を所有するのは稀であった。彼は無数の城を受け継いだが、そのうち美しさと規模の点で冠たるものは「メッツェンガーシュタイン城」と呼ばれていた。彼の領土の限界は一度も確定されたことがなかったが、彼の支配は外周約八十キロメートルの範囲におよんでいた。
かくも若く、かくもその性分が世に知れ渡っている後継者が、かくも莫大な富を相続するに当たって、これをどう使うかについては、ほとんど人のくちにものぼらなかった。そして実際、わずか三日のあいだに、この跡取り息子は外道中の外道*2とも言うべき振舞いにおよび、それは彼のもっとも熱烈な信奉者たちの期待をはるかに上回るものであった。酒池肉林の破廉恥行為。言語道断の背信行為。前代未聞の残虐行為。これらのものが彼の震え上がった家臣たちの頭にすばやく叩き込んだものは、使用される側がいかに卑屈に媚びへつらい、使用する側のいかなる良心の機微に訴えようと、今よりのち、この悔い改めることを知らない小カリグラの毒牙と対峙するなら、身の安全はまるで保証されないだろうということだった。四日目の夜にはベルリフィッツィング家の厩舎が炎上した。それで隣人たちの一致した意見によって、男爵のすでに恐るべきものであった凶状リストに放火の罪が付け加えられた。

彼は見れば見るほど魅せられた。

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パオロ・ウッチェロ「サン・ロマーノの戦い(フィレンツェ軍を指揮するニッコロ・ダ・トレンティーノ)」。ウィキメディア・コモンズより。

もっともこの事件によって引き起こされた騒動の最中、この青年貴族自身は、メッツェンガーシュタイン城の上階の広く寂しい一室で、ひたすら物思いにふけっているように見えた。部屋の四壁には絢爛たる、とはいえ年古りて色あせたタペストリーが陰鬱に垂れ下がっていて、そのおもてにはあまたの名だたるご先祖様たちの勇姿がおぼろげに描かれていた。ここでは、アーミンの毛皮を着けた司祭や高位の聖職者らが、最高権力者や独裁者たちと仲よく腰かけて、世俗の王の願いをはねつけたり、魔王アーチ・エネミーの反乱を教皇至上命令によって弾圧したりしていた。あそこでは、背が高くて色の黒いメッツェンガーシュタイン家の諸侯が――彼らの精悍な軍馬は倒した敵の亡骸カーカスの上を飛び越えながら――その精力旺盛な姿によって、これを観るもっとも肝の据わった人物をも驚倒せしめた。そしてまたここでは、そのかみの貴婦人たちの白鳥のごとき艶姿あですがたが、耳には聞こえない音楽に合わせて、幻のダンスの迷路メイズの中をさまよっていた。
だが男爵が次第に高まりゆく隣家の厩舎の喧噪に聴き入るか、聴き入るふりをしているうちに――さもなくば、おそらくはもっと斬新な、もっと思い切った悪行の計画を練っているうちに――彼の目はわれ知らず、ある不自然な色をした巨大な馬の姿に向けられ、それは彼の宿敵の一族の祖先であるところの一人のサラセン人の所有であることが絵に示されていた。馬自身は絵の前景に横向きに突っ立っていて、そのうしろでは敗北を喫した騎手がメッツェンガーシュタイン家の者の凶刃ダガーたおれていた。
みずからの視線がおのずと注がれた先に気がついた時、フレデリックは唇に凶悪な笑みを浮かべた。だが彼は目を離さなかった。それどころか、彼はみずからの五感の働きを鈍化せしめるかに見えるこの圧倒的な誘惑が理解できなかった。自分が覚醒しているという意識と、この夢みるがごとき非合理的インコーヒレントな感覚とを両立させることは困難だった。彼は見れば見るほど魅せられ、このタペストリーから目が離せなくなる気がした。だが外の騒ぎが急に激化したため、彼は強いて目を離して、隣家の火事で紅く染まった窓を見つめた。
とはいえその動作は一瞬で、彼の視線は機械的カニカルに壁へと戻った。するとその間に、あの馬の頭部の位置が変わっていた。以前はうつぶせに倒れた騎手の上に、これを憐れむかのごとく傾けられていた馬の首が、今はぴんと伸びて、これを観ている者の方を向いていた。以前は無かった目がこちらを見ており、それは人間的な力強い表情を帯びて、異様な赤さで爛々と輝いていた。明らかに激怒している馬の膨れ上がった口からは気持ち悪い歯の全部がむき出しになっていた。
恐怖に呆然として、彼はドアの方へとよろめいた。ドアを開け放つと、紅い光が部屋に差し込み、揺れ動くタペストリーの上に彼の影を鮮明に投射した。彼は敷居の上で少しふらついた際、その影がベルリフィッツィング家の祖先に当たるサラセン人を刺し殺したばかりの得意げな、血も涙もない自分の祖先の絵姿に寸分違わず重なっていることに気がついて慄然とした。

「この馬は命拾いをした証拠に火傷を負っているからです」

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poeteiro.comより。

滅入った気分を変えようとして、男爵は急いで外に出た。城の正面玄関プリンシパル・ゲートで、彼は三人の厩舎員たちと出会った。非常に難儀して、命を危険にさらしながら、彼らは炎の色をした、巨大な暴れ馬を取り押さえていた。
「誰の馬だ。どこで手に入れた」と不機嫌そうなしわがれ声ハスキー・トーンで尋ねた男爵は、今目の前にいる獰猛な動物が、あのタペストリーの中の謎めいた馬の相似形カウンターパートであることにすぐに気がついた。
「これはあなた様のものです」と厩舎員の一人が言った。「少なくとも、他に所有者オーナーを名乗る者はおりません。われわれはこの馬がベルリフィッツィング家の炎上している厩舎から、全身に汗をかき、湯気を立てながら逃げてくるところを捕らえたのでございます。われわれはてっきりこれが伯爵家所有の外国産の馬の仲間だろうと思い、迷い馬として連れ戻したのですが、あそこの厩舎員たちはこの馬に見覚えがないと申します。妙な話で、なぜならこの馬は命拾いをした証拠に火傷やけどを負っているからです」
「馬のひたいにW. V. B. の烙印がはっきりと見えます」と二人目の厩舎員が割って入った。「私はもちろん、これがウィルヘルム・フォン・ベルリフィッツィングの頭文字イニシャルだと思いました。ところが城中の誰もがこんな馬は知らないと断定的ポジティヴに申すのです」
「おかしなこともあるものだ」考えごとに気を取られながら、見たところ自分でも何を言っているのかわからない様子で、若い男爵は言った。「これはお前の言う通り、実に見事な馬だ――桁外れの馬だ。しかも、まさしくお前の言う通り、実に猜疑心の強い、御しがたい馬だ。だが、これは俺の馬にしよう」彼は少し考えてから付け加えた。「おそらく、メッツェンガーシュタイン家のフレデリックのような騎手ならば、ベルリフィッツィング家の馬小屋から来た悪魔でも乗りこなせるかも知れない」
「殿、それは違います。先ほども申し上げたかと存じますが、これは伯爵家の厩舎から来た馬ではございません。でなければ、あなた様の御前プレゼンスに連れて来たりは致しません」
「なるほど」と男爵は素っ気なく言った。ちょうどその時、彼の寝室付きの小姓が顔を真っ赤にして飛んできた。彼は主人の耳もとに口を近づけて、ある部屋のタペストリーの小さな一部分が突然消失したことを告げ、さらに微に入り細を穿って報告を始めたが、この後半は低い声で話し合われたので、厩舎員たちの激しい好奇心を満たすような内容は何も漏れ聞こえなかった。
若いフレデリックはこの会話中、様々な想いで動揺しているように見えた。しかし彼は間もなく落ち着きを取りもどし、「その部屋に今すぐ鍵をかけて、その鍵を俺によこせ」と厳しく言いつけた時、彼の顔は毅然たる悪相を呈していた。
「ベルリフィッツィングの老狩猟家の惨めな死に様をご存じですか」と家臣の一人が語りかけた時、小姓はすでに去って、男爵が自分のものとすると決めたくだんの巨大な馬は、メッツェンガーシュタイン家の城から厩舎へと続く長い道のりを、旧に倍する獰猛さで飛んだり跳ねたりしながら連れて行かれるところだった。
「いや」男爵は咄嗟に家臣の方を振り返った。「死んだだと?」
「死にました。この知らせはメッツェンガーシュタイン家にとって、必ずしも悲報ではあるまいと存じますが」
男爵の顔を微かな笑みがよぎった。「どんな死に方をした?」
「無謀にも狩猟用の愛馬を何頭か救おうとして、炎に巻かれたのです」
ほんとーインディード!」と、あたかもある刺激的エキサイティングな考えが当を得ていることをゆっくりと心に刻みつけるかのように、彼は発音を引き伸ばした。
本当インディード」と家臣が繰り返した。
最悪ショッキング!」男爵は小声でそう言ったきり、無言で城に帰った。

心優しい人々は彼の悪逆非道な振舞いを忘れていた。

この日から、フレデリック・フォン・メッツェンガーシュタインの外面的な行動に、目立った変化が現れた。事実、彼の態度は彼のすべての信者をして失望せしめ、また娘の嫁ぎ先を探している多くの母親たちの期待をも裏切るものであった。彼の生活習慣は、以前にもまして、近隣の貴族社会アリストクラシーのそれと反りの合わないものとなった。彼はもはや自分の領地から一歩も出ず、広い世間に一人の友もいなくなってしまった。とはいえ、それは彼がそれ以降絶えず乗り回していたあの化け物じみた、獰猛な、炎の色をした馬が、彼の友人と名乗る不思議な権利を有していなければの話だが。
それでも隣人たちからは長い間、定期的に、無数の招待状が届いていた。いわく「男爵には何とぞわれわれの饗宴に臨席プレゼンスを賜りたく」「男爵は私たちと一緒にいのしし狩りをお楽しみなさいませんか」――これに対して「メッツェンガーシュタインは狩猟をしない」「メッツェンガーシュタインは出席しない」というのが彼の簡潔にして無礼千万な回答だった。
このような度重なる侮辱に、気位の高い貴族たちが耐えられるわけもなく、さような招待は次第に素っ気なくなり、回数も減り、そのうち全然来なくなってしまった。これについて、あの不幸なベルリフィッツィング伯の未亡人は「メッツェンガーシュタイン男爵は、同類とつどうのが嫌なのだから、家に居たくない時も家に居ればいい。彼は馬との付き合いソサエティの方を好むのだから、馬に乗りたくない時も馬に乗っていればいい」とさえ言ったと伝えられたが、これは確かに先祖伝来の癇癪玉の愚かしい破裂に過ぎず、ただわれわれが通常よりも何か強いことを言おうとすると、往々にして何が言いたいのかわからないことを言ってしまうという奇妙な一例を示しただけだった。
にもかかわらず、心優しい人々は、この青年貴族の行動変容を、彼が若くして両親を亡くしたことによる無理もない悲しみのせいであるとしたが、彼らはこのように言う時、彼が両親と死に別れた直後の数日間、いかに悪逆非道に振舞ったかを忘れていた。そして中には実際、彼が若くして爵位と莫大な富とを手に入れたことで過度に思い上がっていると言う者もいた。また他には(男爵家の侍医など)彼の病的なうつ傾向と遺伝的な精神疾患とに言及することをためらわない者もいた。また一般には、呪いだの祟りだのといった、もっと怪しい性質の暗いヒントが流布していた。

この馬の人を射すくめるような、一瞬の鋭い視線。

実際、男爵のこの新しい馬に対する異常な愛着――この馬の悪鬼のごとく凶暴な性質の新たな見本が示されるたびに新たな力を獲得するかに見える愛着は、すべての分別ある人間の目に、普通ではない、おぞましいものと映るようになった。昼の日盛りも――夜のしじまも――病める時も健やかなる時も――晴れた日も荒れた日も――若い男爵はこの巨大な馬のサドルの上に釘づけになっているようで、彼はこの荒くれ馬とそれほど気が合うのだった。
その上、幾つかの事実が、その後の出来事とともに、騎手の偏執マニアと馬の能力とに対して、ある常軌を逸した凶々まがまがしい性格を与えることとなった。馬の一跳躍の距離が正確に測定され、それはいかなる馬鹿げた予想をもはるかに上回るものであった。一方、男爵は彼の馬のコレクションのうち、他の馬にはそれぞれの特徴に合った呼び名を付けていたが、この馬にだけは名前を与えなかった。またこの馬の馬小屋は他の馬のから離れた場所に設けられていて、グルーミングやその他の必要な世話オフィスについては、これを敢行するのは所有者オーナー自身に限られており、他の者はこの特別な厩舎に近づくことさえ許されなかった。更に問題視すべきは、この馬がベルリフィッツィング家の火災から逃げてきたところを取り押さえた厩舎員たちは、鎖の馬勒チェーン・ブライドル輪縄わなわとを使って馬の逃走を阻止することに成功したにもかかわらず、その危険な騒動の最中、あるいはその後のいかなる期間にも、その馬体に実際に手を触れたと確信を持って言える者が三人のうちに一人としていなかったことであった。高貴な血統の馬がその立居振舞いに優れた知能を示す例は珍しくないが、ただこの馬には迷信などとはおよそ無縁な、もっとも粘液質フレグマティックな人々をさえ力ずくで納得させる幾つかの事実があった。たとえばこの馬の恐ろしい地団駄スタンプに殺気を感じて、周りを取り囲んでいた群衆が恐怖に息を呑み、後退あとずさりすることがあったり――この馬の人を射すくめるような、一瞬の鋭い視線に血気盛んな男爵の顔が青ざめ、腰が引けることもあると言われた。

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チェーン・ブライドルを装着した白馬のフィギュア。truevintageantiques.comより。

とはいえ男爵の周囲の者のうち、誰もが彼のこの悍馬かんばに対する強い愛着を疑わない中で、少なくともただ一人だけ例外がいた。それはある不様で醜い低身長の小姓であって、彼の体は全部が不格好で、彼の意見に耳を貸すものなどほとんどいなかったが、彼は(彼の意見が仮にも言及に値するならば)「ご主人様はあの馬のサドルに飛び乗る時、いつもほとんどわからないくらい微かに、理由のない身震いをしていらっしゃる。そしていつものように遠乗りから帰っていらっしゃると、ご主人様は勝ち誇ったような意地悪な表情で、顔のあらゆる筋肉がゆがんでいる」などと主張してはばからなかった。

摩訶不思議な光が生じて大気に染みわたった。

ある嵐の夜、深い眠りから目をさましたメッツェンガーシュタインは、狂おしく階下へ駆け下りると、大急ぎで馬にまたがり、森の迷路メイズの中へと飛び込んでいった。それ自体は別に珍しいことでもないので誰も気にとめなかったが、彼がいなくなってから数時間後、家の者ドメスティックたちが彼の帰りを切実に待ちわびていたのは、大規模な火災により、濃密に発生した青白い炎の影響で、壮麗なメッツェンガーシュタイン城が音を立てて基礎からぐらついていることがわかったからだった。
火は最初に発見された時点で既に手の付けようがなく、建物のいかなる部分を救おうとする努力も所詮は空しいことが明らかだったので、度肝を抜かれた隣人たちは、その周囲になすすべもなく無言で立ち尽くすばかりだったが、それほど同情してもいなかった。ところが人々の目はやがて新たに現れた恐ろしい見ものに釘づけとなり、一人の人間の苦境の方が、命なき建築物のいかなる惨状よりもこれを目撃した者の心をはるかに強く揺さぶるものであることをまざまざと示した。
森からメッツェンガーシュタイン城の正門メイン・エントランスにかけて、古いオークの樹が立ちならぶ長い一本道を、乗馬帽を吹き飛ばされ、乗馬服も乱れている一人の騎手を乗せた一頭の馬が、疾風を追い越す勢いで駆け抜けてきた。
騎手自身、暴走をいかんともしがたいのは明らかだった。彼の顔に現れた苦悶の表情と、彼の手足の狂おしい動きとは、懸命の努力が払われている証拠エビデンスだった。極度の恐怖に噛みしめられ、噛み裂かれた唇からは、ただ一度だけ悲鳴が漏れた。炎と風との咆哮の上に、蹄の音が高らかに鳴り響いた。次の瞬間、馬は城門と堀とをたった一度の跳躍で突破クリアして、城内の崩れかけた階段を駆け上がり、騎手もろとも渦巻く火の混沌カオスの中へと消えた。
風がぴたりと止んで、死のような沈黙が後に続いた。城全体はなおも白い炎に包まれながら、魔訶不思議な光が生じて遠く静かな大気に染みわたり、それと同時に城壁の上にどっしりと居座った煙で出来た巨大な雲は紛れもなく一頭ののかたちをしていた。

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バイアム・ショーによる挿画。ウィキメディア・コモンズより。

 

ポオ小説全集 1 (創元推理文庫 522-1)
 

*1:原注:ルイ=セバスチャン・メルシエは『2440年』の中で、私同様、「転生思想」を大真面目に支持している。アイザック・ディズレーリは「これほどシンプルで、理解しやすい思想システムはない」としている。「グリーン・マウンテン・ボーイズ」のイーサン・アレン大佐もまた「転生思想」を信じていたと言い伝えられている。

*2:訳注:原文「暴君ヘロデ以上に暴君ヘロデぶる(out-herod Hero)」。シェイクスピアの『ハムレット』中の台詞から生まれた慣用句。ポーの好む言い回しの一つ。「赤い死の仮面(The Masque of the Red Death)」参照。

風野真知雄『密室本能寺の変』(その九)

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久遠の像(新宿中央公園)。蓑を借りようと立ち寄った太田道灌と、貸さなかった農家の娘との大変美しい故事に因んだもの。ウィキメディア・コモンズより。

蘭丸たちの応戦

近習たちが御殿前に集合したが、誰一人として鎧兜の装着をしていなかった。
やはりこの入洛は不用心、無謀だったと蘭丸は思った。
「兄者、明智光秀さまだそうですね」
坊丸が言った。
「そうだ」
蘭丸は頷いた。
五十挺ある鉄砲は回廊にズラリと並べられた。それぞれ、火縄に点火され、弾込めが済んでいた。大きな庇が張り出しているので、鉄砲が雨に濡れる心配はない。北の方角にある妙覚寺の信忠にも救援要請の一斉射撃を行なった。
「弥助、上様はまだ起きて来られぬか」
蘭丸は入り口で戸を叩いている弥助に尋ねた。
「はい」
弥助は再び叫んだ。
「うえ、さま。あけち、みつひで、むほん、でございます」
慌てているせいか、いつもよりたどたどしい日本語だ。
「おのれ、光秀如きに上様は討たせない!」
蘭丸は明智勢を睨みながら、明智勢の兵力を素早く思い浮かべた。兵員数六千人前後、鉄砲はせいぜい三百挺。
「奴にこの寺は落とせない。我らは御堂の周囲で鉄砲を以て応戦する。女や坊主どもにも弾込めを手伝わせよ」
「ははっ」
坊丸が渡り廊下を御堂の方へ走った。そちらにも、鉄砲を持った一団がいる。
蘭丸は、一人が鉄砲三挺を使うことを指示した。回廊の手すりに鉄砲を乗せ、入ってくる兵士を狙い撃ちにした。明智勢の兵士は、森や植栽の間を駆け、玉砂利を敷いた庭に飛び出してくる。
遮蔽物が何もないので、バタバタと倒れていく。明智勢の勢いはその辺りで止まる。
明智は雨のため、鉄砲は使えない」
蘭丸は年若い小姓に言った。
「弥助、上様を起こすのは一旦止めて、鉄砲を撃ってくれ」
「わかった」
弥助は鉄砲の名手で、飛距離の長い弾を撃てた。
「弾込めの人手が足りない。坊主は使えないのか」
蘭丸は怒鳴った。
「坊主はおらんぞ。臆したようだ」
高田竹虎が言った。
蘭丸は歯噛みをした。奴らは何処かに隠れて成り行きを見ているのだ。我らを助けるつもりなど無い。糞坊主ども。
「手助け致す」
「味方だ。討つな!」
京都の治安維持部隊の兵士たちが、明智勢の包囲をかいくぐって駆けつけた。これで兵員は二百人前後確保できた。
「信忠様の軍はまだか?」
「まだです」
「そうか」
「上様が脱出する手もあるのでは?」
坊丸が蘭丸に聞いた。
「いや、下手に動くよりここにいた方がよい。光秀ごとき愚か者、是非もないわ!」
蘭丸は、まるで信長が乗り移ったかのように言い放った。
だが、明智勢は前に戸板を何枚も重ねて盾をつくりだした。それでじりじりと包囲を狭める作戦らしい。
「大丈夫だ。ここは一刻(二時間)かかっても破られることは無い」
御殿の中ならば、鉄壁の守りが起動するものを・・・。蘭丸は次第にれてきた。

光秀

光秀が本能寺の門扉を開いてから、既に一刻以上は経過した。
雨はまだ降っている。
「まず本能寺の堂宇を獲れ。そこから御殿を狙え」
「本能寺の堂宇はどんどん墜ちています」
伝令が言った。
「よし」
光秀も堂宇伝いに進んだ。
本能寺の僧侶は皆無抵抗だった。僧兵は一人として見当たらなかった。
光秀は銃声や怒号の中でふと思った。
戦の形も変化したものだ。昔は源平合戦のころの面影があった。最初弓合わせをし、適当な折に突撃し、形成不利なら、すぐさま引き揚げる。戦国時代になり、太田道灌によって足軽衆が登場したが、まだ長閑のどかであった。名刀自慢もあった。
戦ではあるがどこか儀式めいていた。何よりも戦死者の数が少なかった。せいぜい数十人。百人死んだら大戦の証となった。
今は桁違いに、死屍累々の惨たらしい光景が当たり前になりつつある。
おそらくは、上様が戦の様式を変えたのだ。信長が二十七歳の時の桶狭間の戦いが、その黎明だったのだろう。今川義元を討ちとった後、執拗なまでの追撃を行い、信長は怖いとの評判を作り出した。そして鉄砲の採用が信長の戦をますます苛烈にした。
「光秀さま、危険です。お下がりください」
いつの間にか前線に出ていたらしい。
「いや、行かせよ」
上様は、この光秀が攻めていると知ったころだろうか?後悔せぬ。信長に屈辱を与えないよう、生け捕りは命じていない。しかしこの手で信長が討てると思うと、喜びに震えた。おそらく人が人に憧れたり、敬ったりする心の奥底には、憎しみに近い感情が隠れている。それを実感した。

蘭丸

蘭丸は一層焦った。兵員が圧倒的に足りないのだ。防御は出来ても、反撃には出られない。
信忠様の軍が到着しないのは、妙覚寺も攻撃対象になっているからだろう。明智は緻密な頭脳の持ち主だ。抜かりは無いだろう。とすれば、頼りになるのは馬廻り衆五百人だが、家康のいる光明寺は、西南の方角、長岡にある。如何せん遠すぎる。
そこへ、高田竹虎が叫んだ。
「鉄砲の弾があと少ししかない」
蘭丸は御殿の入り口を指さして言った。
「この中に、まだ弾薬が山ほどある」
「そうなのか」
「ああ、上様にはすまないが、入口を破らせてもらう」
蘭丸は弥助を呼んだ。
「おぬしのまさかりで、この戸を叩き壊してくれ」
分厚い戸を手で叩きながら言った。
疑問が湧いた。たとえ上様は熟睡していても、この物音に気が付かないなどということがあるだろうか?

再び光秀

一方、光秀も焦っていた。
信長のいる御殿になかなか近づけないまま、時間が流れる。
「やはり二百人を超える護衛がいたようです」
さすが蘭丸だ。
「しかも軒下に位置しているので、鉄砲が使用できます」
「こちらも本能寺の元々の本堂を抑えたのではないか?」
「上様のいる御殿の前に、もう一つ御堂の建築物があり、我らの射撃が遮断されています」
光秀は空を仰いだ。天はわしに味方しないのか。雨は止まないのか。
数人が突破できても、御殿の手前で討ち取られる。ここから見ても御殿の前は、死屍累々の有様だ。信長らしき男も、御殿の回廊で、槍で突き、弓を射たりしているようだ。
「それは影武者だ!」
光秀は叫んだ。
信長は危機を感じたならば、真っ先に逃げる人だ。金ヶ崎の戦のように、見栄も外聞も振り捨てて逃げる人だ。
既に空は明るくなってきた。京都の治安維持部隊も信長救援に駆けつけたらしい。もしここに精鋭の馬廻り衆が雪崩れ込んできたら・・・わが軍から、堪らず逃亡兵が出るかもしれない。わしはしくじったのか・・・。冷静さを失い、崩れそうな光秀は、自分を叱咤激励した。(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

 

風野真知雄『密室本能寺の変』(その八)

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大江山絵巻』。酒呑童子に関する最古の典籍とされる。ウィキメディア・コモンズより。

光秀、老いの坂を下る。

老いの坂(京都と亀山城の中間地点)の峠を下った所で、光秀は青い光の渦を発見した。
「利三、あれを見よ」
「ホタルが湧き出たとこですな。こちらへ来ます」
利三は兵士たちに言った。
「行軍を停めるな。歩き続けよ」
ホタルの光の中、兵士たちは黙々と進軍を続けたが、小さな話し声が馬上の光秀に聞こえた。
「俺たち、もう死ぬな」
「何でそんな縁起の悪いことを言うのだ」
「見ろよ、ホタルが飛ぶ中を歩いている俺たちは、随分気味が悪いと思うぞ」
「ホタルが気味が悪いって生まれて初めてわかったよ」
「確か酒呑童子しゅてんどうじがいたという大江山はこの近くだったな」
「だから何だ」
「いや、俺は酒呑童子を退治に行く気分だ」
馬上の光秀は微笑み思った。この者たちは、酒呑童子ならぬ織田信長を討ちに行くと知ったら、びっくり仰天するだろう。そして、僅か六千人で上様を討てるのか?
妙覚寺の信忠の兵の数は五百人、信長の危機に駆けつけるべく配備されている馬廻り衆・歩兵の数凡そ四百ないし五百人。合わせて千人前後。千対六千の勝負になる見込みだ。勝利の可能性は五分五分。織田軍は強い。特に馬廻り衆は、何れも一騎当千だ。
沓掛村に到着したので、夜食を取らせることにした。時刻はもはや子の刻(深夜十二時)。
光秀は物頭や侍大将を集め、信長襲撃を打ち明ける事にした。

要塞化された本能寺中心部

「お蘭、疑心暗鬼ではないのか?」
寝室の中にも護衛を、と懇願する蘭丸に言った。
「お蘭、安心させてやる」
囲炉裏の周囲には畳が敷かれていたが、うしろは板敷の寝室である。中央に南蛮渡来の卓、その周囲に五脚の椅子、一番奥に信長の寝台が備え付けられている。壁側には連子窓が作られていた。
昨年の二月末の馬揃えの後、密かに本格的な改修工事をさせたのだ。
「でも、息苦しいのでは?」
「上を見よ」
信長は天井を指さした。
寺社によくある造りだが、天井の下に約三尺の隙間があった。そこにも、太い垂木が組み込まれ、連子窓が作られていた。
「これでは外から窓まで距離があるので、誰も忍び込めません。風も通ります」
「そうだ。角度にも気を配り、万が一、あの窓から矢が射られても、鉄砲を撃ち込まれても、床に立っている者には当たらないようになっている」
蘭丸は心底感心した。
信長は、更に得意そうに壁を叩いた。
「これは板壁に見えるが、下から六尺程は鉄板がはめ込まれている。床も鉄格子で囲まれている。瓦の下は、鉄板だ」
「そうでしたか」
「いざという時は、小姓達と半日籠もり、どんな攻撃にも耐えられる」
「半日あれば、信忠さまも馬廻り衆も駆け付けてまいりましょう。明智殿も・・・」
蘭丸は、初めて安心した。
「お蘭、家康は明日、光明寺でわしを待つ間に、謎の集団に襲われ、横死する。朝廷にも手は打ってある。羽柴のようなお調子者は信用などしておらぬ。わしはもう休む」
「はっ」
「お蘭もゆっくり休め」
蘭丸は信長の四面楚歌の状況を切なく思いながら下がった。
信長は自ら戸を閉め、内側からかんぬきを掛けた。
密室の出来上がりです。しかも合鍵はない。

天正十年六月二日朝

蘭丸は、夜通し信長の身辺警護をするつもりでいたが、いつの間にか寝入ってしまった。
東の空が明るくなったころ、気がついた。本能寺の外が騒がしい。
足軽衆が喧嘩でも始めたか。地響きもする。門番が慌てた様子で駆け込んできた。
「大勢の兵士が攻めてきました」
「何だと。徳川か?」
「いいえ、旗印は水色桔梗です」
明智・・・入れてやれ」
蘭丸は言った。
「攻めてきているのに、入れるのですか?」
門番は驚いて聞き返した。
「攻めてきているだと」
次の瞬間、門番の背に矢が突き刺さった。
蘭丸の脇の柱にも矢が二本突き刺さった。門の方からも、数十人の兵士が矢を射かけてくる。
「嘘だろう」
蘭丸は愕然とした。何が起こったのかわからなかった。
明智の襲撃だ。迎え撃て」
味方の絶叫を聞いて、蘭丸は我に返って叫んだ。
「鉄砲を並べろ!信忠さまの応援を頼め!」

光秀、突入。

梯子を使用した兵士によって、門扉が開けられた。門番たちは既に逃げていたらしく、突入は容易だった。
「光秀さま、この雨では鉄砲が使えません」
斎藤利三が言った。
火縄が濡れ、火は消えてしまう。不発は射手にとっては致命的だ。次の弾込めをしている間に敵が近ついてくるのだ。
「鉄砲は使わぬように言ってあるな」
「はい」
「裏門は開いたか?」
「開いたようです」
斎藤利三は、背伸びをして桔梗紋の旗印を見て言った。本能寺の詳しい絵図面は光秀の頭の中にある。侍大将たちも持っている。光秀は斎藤利三と兵と一緒に門の中へ入った。
「左手の奥だぞ」
光秀が叫んだ。
「わあ、わあ」
兵士たちが声を張り上げた。
光秀は、本能寺御殿を取り囲むまでは静かに行動したかった。兵士たちは恐怖心のせいか、威勢がいいのは声だけで、腰は引けていた。事実、兵士たちは情けない会話をしていた。
「ここには信長さまがいるのではないか?」
「じゃ、俺たち信長さまを討つのか?」
「どんな事になっても知らないぞ」
「でも、ここで逃げたら俺たちが殺される」
「目の前の敵を倒すだけだ」
無理もない。下剋上の世とはいえ、敵と味方が入れ替わる状況に納得がいかないのだろう。
光秀自身も奥へ進みながら、何時しか叫んでいた。
「上様、いや、織田殿の命運は尽きている。わしが取って代わるしかないのだ。進め、進め!」(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

 

風野真知雄『密室本能寺の変』(その七)

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ゲンジボタルの群れの発光。山口県下関市にて。ウィキメディア・コモンズより。

島井宗室との密談

信長は御堂の囲炉裏に戻り、島井宗室と話を始めた。茶頭の長谷川宗仁もすでに帰った後で、今度は宗室が茶を点てた。宗室は信長のもう一つの茶室を見物し、待機していたのだった。

宗室は、袂から袱紗を信長の膝元まで押し出した。
「煎じる必要はありません。茶碗に少量入れて、湯を注ぐだけです」
そう言うと、宗室は自ら毒見でもするかのように、飲み干した。
「どれ、わしも」
信長も口に含んだ。
「む、口の中がサッパリするな」
「そうでございましょう。茶と違って、夜飲んでも眠れなくなることはありません」
「そうか。良い物をもらった」
そこから先は、声が低く小さくなったので、部屋の隅で控えていた蘭丸には聞き取れなかった。だが、二人の表情からすると重要な話らしい。
蘭丸は思った。それにしても、島井宗室はますます以て油断ならない奴だ。上様は眠る前に茶を飲むと眼が冴える質だと知っていたのだろうか。上様は、やはり茶の湯を好んでしているのではないな。
辛うじて聞き取れる言葉は、明軍・海賊などだった。
「島井、武器の手配も頼む」
「承知しました」
「それにしても、おおゆみというのはよい武器だ」
「そうでございましょう。唐土もろこしから来た武器です。上様がお使いになれば、広まりますよ」
「鉄砲もこのわしが使ったからこそ、広範囲に普及した」
「おっしゃる通りです」
宗室は頷き、言葉を続けた。
「上様は、魏の曹操を・・・」
信長の表情が途端に不機嫌になった。
「ですが、曹操を超えて・・・」
宗室がもう一度言った。
暫くすると、信長は機嫌を直した。
話が長いので、蘭丸は境内を一廻りするために、席を立った。
話がまるで解らない。魏の曹操と言えば三国志の英雄だが、それが上様とどの様な関係があるというのだろう。

蘭丸は、弥助や数人の小姓を連れて、見回りをした。
一本の梅の木の横の躑躅つつじの木の陰に男がかがんでいた。怯えたような顔をしている。
「そこにいるのは誰だ」
「あ、あっしは五郎作と言います」
「確かに寺男の五郎作です」
弥助が言った。
その時、台所の方から出てきた女中が蘭丸の背中越しに声をかけた。
「何よ、五郎作。また覗いてたの?」
「そうじゃなくて、採れたてのきゅうりと茄子をやろうかと思って」
実際、籠ににきゅうりと茄子が入っていた。
女中が言った。
「この人は大丈夫ですよ。もう二十年もここにいる、手先の器用な人ですよ」
疑うに足りない、小柄で風采の上がらない初老の男だ。蘭丸はそう判断した。次の瞬間、
「蘭丸、そっちに見たことのない女がいるぞ」
小姓の一人が叫んだ。
「何だと」
台所の中で、一生懸命皿洗いをしていた。しかし織田家の女中が言った。
「知らない女です」
密偵ではないかと思った蘭丸は声をかけた。
「何処から来た」
「何処から?・・・明智様の所からです」
明智殿?」
「信忠さまのご家来から、こちらに大勢の客が来て、人手が足りなくてお困りと聞いたので・・・もしかして、ご迷惑でしたか?」
女は不安げに尋ねた。
二条にある明智屋敷の女中が親切心から手伝いに来ていたのだ。間者ではない。
「いや、そんなことはない」
蘭丸は答えた。
「ああ、よかったです」
女は人のよさそうな笑みを見せた。
明智殿は今どこにおられるかな」
「わたしなどにはわかりませんが、坂本のお城では?」
「そうだな」
と返事をした蘭丸は思った。光秀は今、丹波攻略のために亀山城にいる筈だ。

光秀、亀山城を出立する。

出陣の支度を整え終わり、大手門にいた光秀に京からの使いがやって来た。
昨日までひたすら信長の身を案じていた自分の心変わりが信じられなかったが、後悔はしないと思った。
朝から二度目の使いは、光秀に跪いて言った。
「光秀さま、茶会が終わると、酒宴になりました」
「公家たちの機嫌はよかったか?」
「そのようです」
「その後は?」
「御殿に入り、島井宗室と茶の湯の席を」
「何、島井宗室。それはいかんな」
「それと碁打ちが対局を行う予定とか」
「よし」
信長は今晩本能寺に宿泊するだろう。何者かの暗殺が成功するか、それともこの光秀の軍が間に合うか。
「仕度、全て整いました」
侍大将の報告を受けた斎藤利三が言った。
馬上の光秀は、篝火に照らされた亀山城を見て、再び戻る日はあるのかと思った。
途中、野条(亀岡市篠町)で駆けつけた兵士らを含め、勢揃いを行なった。六千人が京を目指した。戌の刻(夜八時)になっていた。兵士達は、夜中の雨中の滑りやすい道の行軍に、だいぶ機嫌を悪くしていた。

再び御堂:碁の対局が始まる。

御堂では、二人が碁盤を前に向かい合っていた。本因坊算砂(日海)と林利玄である。
二人とも本能寺の年若い僧侶である。二人は速いペースで石を置いていく。
碁盤の半分程が黒白で埋まったころ、突如二人の指し手が止まった。
「これは三劫か」
盤面を見ていた信長が不思議そうに言った。
信長の様子にハラハラしていた蘭丸は、隣の高田竹虎に尋ねた。
「三劫とは何だ」
「劫とは、将棋の千日手のようなものだ」
「ああ」
「それが盤面に三つも出た」
離れているので盤面は見えない。
信長は唖然として言った。
「こんなことがあるのか」
「きわめて珍しいです」
「では終わるしかないか」
「はい」
日海が神妙に頷いた。
「面白いのう。わしも一人で今の棋譜を辿ってみよう」
二人が帰ると、信長は御堂に戻った。もう夜もだいぶ更けている。
信長の供をした蘭丸は、御堂の階段の手すりで、発光しているゲンジボタルを見つけた。
信長は平氏を自称しているので、蘭丸は少し気落ちした。(続く)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)

密室 本能寺の変 (祥伝社文庫)