魔性の血

拙訳『吸血鬼カーミラ』は公開を終了しました。

ルキアノスと「麗しの売春婦」

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アンゲリカ・カウフマン「プリュネにキューピッド像をプレゼントするプラクシテレス」。ウィキメディア・コモンズより。

「あなたは自分の情婦を聖域に安置させた。この栄誉を私のために惜しみ給うな。人々は私の姿を見、あなたの名を讃えるのです」――アルキプロン『遊女の手紙』より「プリュネからプラクシテレスへ」

「私はあらゆる種類の売春婦たちを見た…」

先日、エドガー・アラン・ポーの「群衆の人(The Man of the Crowd)」という短編を訳していて、以下の一節に出会いました。

また私はあらゆる種類、あらゆる年代の売春婦たち(women of the town)を見た。私はまだ若くて本当に美しい売春婦を見て、その姿は見る者の心にルキアノスの文に出てくる、表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物フィルスが詰まっていたという彫像のことを想わせた。

これは語り手が19世紀のロンドンのカフェの窓から雑踏を眺めているシーンで、彼女たちは通りを行き交う人たちに対して客引きをしているので「街娼」ということになります。「街娼」は古い日本語ですが、今の日本では何と言うのでしょうか。

ルキアノスの「にわとり」

この「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」(たぶん女神像)という言葉が出てくるルキアノスの作品をチェックしておこうと思いました。トマス・マボットの注によれば、この文言はルキアノスの「夢またはにわとり」という文章の第24節にあるとのことで、さっそく当たったみましたが、いささか手間取りました。言葉通りの表現がどこにもないのです。
まずこのルキアノスの「にわとり」の内容をご紹介します。これはプラトン風の対話篇で、ただ登場人物は哲学者ではなく、ミキュロスという靴直しの職人と、彼が飼っている一羽のにわとりです。このにわとり君、ただ単に人語をくするだけでなく、前世ではピタゴラスだったこともある、と言う。ピタゴラスが輪廻転生説を支持したことは周知の通りです。で、この偉大な哲学者の生まれ変わりであるところのにわとり君は、ついさっきまで大金持ちになる夢を見ていたというミキュロスに対し、みずからが輪廻転生を繰り返す間に重ねた経験に基づいて、富や名誉がいかに空しいものであるかを説きさとす。そうした文脈の中で、彼(にわとり君)が人々からもっとも羨望さるべき国王の地位にあった頃の思い出話として、以下の一節が出てきます。

にわとり:私が治めていた国は広くて肥沃でした。わが国内のもろもろの都市は人口においても美しさにおいても世界に冠たるものでした。航行可能な河があり、立派な港がありました。わが陸軍は大軍で、わが槍兵は数知れず、わが騎兵隊は精鋭ぞろいでした。わが海軍も同様で、私はまた計り知れない富を蓄えていました。王者の威厳を示すいかなる小道具も欠けてはいませんでした。無数の黄金のプレートをはじめとして、あらゆる持ち物が贅を尽くしたものでした。私は自国民から最敬礼されることなしに宮殿を出ることが出来ず、彼らは私を神様だと思っていて、私が通り過ぎる姿をひと目見ようと押し合いへし合いするのでした。熱狂的な崇拝者たちのうちには、私の馬車や、衣装や、王冠や、従者たちのいかなる細部をも見逃すまいと、民家の屋根に登る者さえいる始末でした。
私は自国民のそのような愚かしさを大目に見てやることすら出来たのです。にもかかわらず、みずからの地位に関する苦悩と心痛とを思う時、私は自分が惨めで仕方がなかった。その頃の私はさながらペイディアスや、ミュロンや、プラクシテレスらの手に成る巨像のようなものでした。それらはすなわち三叉槍トライデントを持つポセイドンや、稲妻サンダーボルトを持つゼウスであって、全身が象牙と黄金とで出来ている。ところがちょいと内部なか を覗いてみると、そこにあるものはと言えばモルタル瀝青ピッチの付着した棒やら、ボルトやら、釘やら、板やら、くさびやら、その他あらゆる目も当てられぬもののごちゃ混ぜです。二十日鼠やドブネズミどものあり得べき植民地を別としてもね。それが王座というものです。(ルキアノス「にわとり」)*1

にわとり君、なかなかいいことを言う、と私は思いますね。そうして上の一節の後半部分をポー流に要約したのが「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という言い回しであるらしい。
しかしよく見ると、上の文章には「パロスの大理石(Parian marble)」という言葉がどこにも見当たりませんね。もう少し調べてみる必要があると思いました。

「クニドスのアプロディテ」

上の文章にはペイディアスとかミュロンとかプラクシテレスとかいった人名が出てきますが、これらはいずれも古代ギリシャ彫刻の巨匠たちの名です。これらの人たちが素材としてブロンズの他に大理石を用い、また大理石を用いる場合には、もっぱらロス島産の大理石を用いたことは、大プリニウスの『博物誌』で確認できました。ルキアノスの作品の中で「パロスの大理石」という言葉が出て来るものでは、次の一文が印象的です。

庭木の鑑賞を十分に楽しんだわれわれは、神殿のなかへ入っていった。女神は中央に鎮座している。パロスの大理石を使ったたいへん美しいその作品は、軽く笑った驕慢な表情を見せている。衣服は少しも纏っていず、その美しさが裸形のなかで露わになっているが、恥部だけは一方の手でそっと覆っていた。(偽ルキアノス異性愛少年愛」)*2

この文章はプラクシテレスの代表作「クニドスのアプロディテ」を描写したもので、オリジナルは現存しないが、後世の模造品がいろいろ残っているので、それらを通して面影を偲ぶことが出来るそうです。下は日本語版ウィキペディアに掲載されている画像で、「クニドスのアプロディテ」のローマ時代の模造品を、さらに後の時代になって復元させたものだとか。

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「クニドスのアプロディテ」ウィキメディア・コモンズより。

プリュネ(Phryne)に関する補足

ギリシャ高級娼婦ヘタイラプリュネについて、こちらの記事で触れた際には「フリュネ」と英語読みにしましたが、直すのが邪魔くさいのでそのままにしておきます。ちなみにこちらのボードレールの訳詩にも「フリュネ」が出てきます。
さて、プラクシテレスは実はこのプリュネの常連客で、「クニドスのアプロディテ」は彼女がモデルだ、という説があります。出どころはどうもアテナイオスの『食卓の賢人たち』らしい。

彫刻家のプラクシテレスは彼女(プリュネ)を愛して、彼女をモデルにして、クニドスのアプロディテを作った。(『食卓の賢人たち』第13巻第591頁)*3

プリュネが霊感を与えたのはプラクシテレスだけではない。プリュネといえば、お祭りの最中に、何を思ったか、衆人環視の中でいきなりすっぽんぽんになって海に入っていった、という逸話が有名ですね。その際、海岸に殺到した野次馬どもの中には、プロの絵描きも混じっていた。

とはいえプリュネは本当に美しい女で、彼女の肉体のふだん人目にさらされることのない部分までもが美しいのだった。それゆえ彼女の裸体を見るのは容易ではなかった。なぜなら彼女はいつも全身をチュニックで覆っており、また決して公衆浴場を利用しなかったからである。にもかかわらず、ポセイドン月の祝日、エレシウスでの厳粛な祭事中に、大勢のギリシャ人が見ている前で、彼女は衣服を脱ぎ、髪をほどいて、波と戯れに海へと入っていった。こうしてアペレスは彼女をもとに「海から上がったアプロディテ(Aphrodite Anadyomene)」を描いた。(『食卓の賢人たち』第13巻第590頁)*4

これが今の日本だったら、どうでしょうか。きっとみんな「モバイル・フォン」片手に海岸へと押し寄せて、写真や動画をSNSに投稿しまくるんでしょうね。いや、その前に、公然わいせつの現行犯で逮捕されておしまいですね。いずれにせよ、殺風景な時代になったものです。

ルキアノスの「肖像」

ポーはこの「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という言い回しを使ってくだんの売春婦は外見は美しくとも、内面は悪徳まみれである」と言いたいのではないかと思います。まあ常識的に、もっぱら人道的観点から考えて、ただただ生活の必要のためだけに体を売っている女性に対して「悪徳まみれ」とは少し言い過ぎのような気もしますが、いわゆる「色恋営業」で客を引っかけ、これを骨までしゃぶり尽くしながら、自分は贅沢三昧で遊び暮らしているとなると、世間の風当たりも強くなるでしょう。事実アテナイオスは、上の高級娼婦ヘタイラプリュネについて、喜劇詩人ポセイディッポスの『エペソスの女たち』からの引用として、こんな台詞を紹介しております。

「一昔前、テスピアイのプリュネは、あらゆる遊女仲間の間で抜群に有名だった。あなたはまだ新米だけど、それでも彼女が裁判にかけられたことは知っているはず。彼女は民衆裁判所で、全市民を堕落させたとして、死に値する罪に問われた。けれど彼女は裁判員一人一人に対して涙ながらに命乞いをして、かろうじて刑を免れたのよ」(『食卓の賢人たち』第13巻第591頁)*5

なおプリュネが死刑を免れた経緯については、法廷で弁護人が彼女を素っ裸にしてみせたところ、その美しさに感激した裁判員たちが皆無罪に投票したからだという説もある。そのシーンを描いたのがこちらの記事でご紹介したジャン=レオン・ジェロームによる絵画です。
この女性の内面の美醜という点について、上に引用した「にわとり」よりもしっくりくる表現が、ルキアノスの「肖像」という作品の中にあります。簡単に内容を紹介しますと、これはリュキノスとポリュストラトスという二人の青年の対話篇で、まずリュキノスが「さっき街を歩いていて、通りすがりに、誰だか知らないが、目が覚めるほど美しい女性を見た」と切り出す。そこでポリュストラトスが「どんな女性だったか、教えてくれ」と言う。リュキノスは返答に窮し、過去の大彫刻家(プラクシテレス等)や大画家(アペレス等)や大詩人(ホメロス)たちの作品から「いいとこ取り」をしてこれらを寄せ集めることで、彼女の見目麗しさを説明しようとする。これに対してポリュストラトスは答える。

ポリュストラトス:だが、よき友よ、君はまるで稲妻がそばを走り過ぎたかのように一度彼女を見ただけであり、はっきりしたものだけを、つまり身体とその姿だけを、めているように見える。ところが、魂の美点の数々については君は見ていないし、彼女にあるそちらの美しさがどれほどのものか、身体よりもそれがどれだけはるかによく、神々しいものであるか、ということを君は知らないのだ。
しかし僕の方は、彼女の知り合いであるし、何度も言葉を交わしたことがある。同郷の人間なのでね。僕は、君も知っているように、なごやかさや、親切心や、心の大きさや、節度や、教養を、美しさよりも誉める人間なのだ。そういう性質のほうが、身体よりも優先されるべきだからね。衣服のほうを、身体よりも嘆賞するのは、不合理だし、滑稽でもある。
しかし、完璧な美とは、僕の思うに、魂の美徳と身体の見目麗しさとが出会っている場合だろう。間違いなく僕は、たくさんの女性が、見目はよいが、他の点ではその美をはずかめる人間で、一言口を開けばその花が衰え、枯れてしまう――正体が明かされて醜い姿をさらす、もともと悪い主人である魂と不相応に同居していたので――という例のあれこれを君に示すことができるだろう。
そしてこういう女性は、エジプトの神殿と似ているように思える。かの地の神殿そのものは、とても美しく壮大だ――高価な石材で造られ、黄金や絵画で華やかに飾られている。ところが、その内部で神を捜してみると、それは猿であったり、イビスであったり、山羊であったり、猫であったりする。そういうような女性をたくさん見ることができるのだ。(ルキアノス「肖像」)*6

この最後に出て来る異形の神をまつったエジプト神殿の比喩の方が、先の「にわとり」に出て来る巨匠らの手に成る巨像の比喩よりも、ポーの「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という警句の意味内容とよくマッチしているように思います。ちなみにポリュストラトスは、ここから始まって、くだんの女性が備えている「魂の美点」を以下のように数え上げる。

  • 声の美しさ。歌のうまさ。竪琴の弾き語りが巧みなこと。座談の妙手で、言葉の発音が正確で、滑舌がよいこと。古今の詩歌に通じていること。
  • 詩歌だけではなく、雄弁家、歴史家、哲学者の著作に親しみ、教養を積んでいること。思慮分別に富み、研ぎ澄まされた知性を持っていること。ここでは当時、知的女性の代表格と考えられていたアスパシア、ピタゴラスの妻テアノ、サッフォー、プラトンの『饗宴』に出て来るあのディオティマといった人たちの名がずらりと並ぶ。
  • 温厚な性格と弱者への思いやり。ここではアンテノルの妻テアノやホメロスの『オデュッセイア』に出て来る王妃アレテとナウシカ姫が引き合いに出される。
  • 伴侶への愛と貞操の堅固さ。オデュッセウスの妻ペネロペ、アブラダタスの妻パンテイア。
  • そうして最後に一番大事なこと、それは謙虚であることです。

ポリュストラトス:というのは、これほど勢威ある地位にありながら、彼女は、順境のゆえに傲り高ぶることもなく、自分の幸運をたのむあまり人間の分際を越えて尊大になることもない。むしろ、人びとと同じ地面に立ちながら、優美さに欠ける低俗な思い上がりを避け、訪ねてくる者に庶民的な、分け隔てのない態度で接する彼女であるし、暖かい心で示す歓待ぶりと善意は、より地位の高い人から表わされるのに勿体をつけていない分だけ、それにあずかる者にはいっそう喜ばしいのだ。自分の権力を、人を見下すことに用いるのではなく、むしろ逆に親切を施すことに使う人間は、運の女神から授けられた幸福にふさわしい人だと思われ、こういう人びとだけが、正当にも、世間のねたみを免れるのだ。(ルキアノス「肖像」)*7

こうして出来上がった女性像は、一点非の打ち所のない理想的な女性像です。ところが面白いことに、ここで賞めちぎられている女性もまた「売春婦」なのです。読んでいるうちにうすうす気が付くように書かれているのですが、彼女は当時ローマ皇帝の愛妾を務めていたパンテイアという高級娼婦ヘタイラ(上のアブラダタスの妻と同名)で、それゆえ幾ら相手が皇帝の愛人だからといって、一介の売春婦に対しておべんちゃらが過ぎるのではないか?といった批判もあるようですが、私にはとてもそんなケチな作品とは思えません。とにかく一人の女性の美しさを、これほど絢爛たる措辞をもって賞揚した文学作品を、不勉強な私は他に知らないからです。しかもなお面白いことに、この「肖像」という作品には続編*8があり、そこではこの「肖像」に対してパンテイア本人から「賞めすぎだ」とのクレームが来たという設定で、これに対して反省の弁を述べると見せかけて、これを逆手に取り、更にもう一段彼女を賞め上げてみせるという離れ業をやってのけております。驚くべき文才です。

まとめ

結論として、この「表面はパロスの大理石で覆われながら、内部には汚物が詰まっている彫像」という句は、学生時代、古代ギリシャ語(ルキアノスギリシャ語の作家です)の授業の際に読まされた上記のようなもろもろのルキアノスの作品がポーの頭の中でごっちゃになり、化学反応を起こした結果、生まれた言い回しではないかと考えられる。従ってルキアノスのものというより、ポー自身が発明した警句と言った方がいいかも知れません。ちなみにポーはこの警句がとても気に入っていたようで、他の書評やアフォリズムでも(全然違う文脈で)用いております。
最後に、「クニドスのアプロディテ」の模倣作の一つとして「メディチ家のヴィーナス」というのが有名ですが、これの画像はポーの「密会」という短編の日本語訳のページに掲載したので、ここではこれまた「クニドスのアプロディテ」に触発されたとおぼしき有名な絵を一枚貼っておきます。

ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」

ボッチチェリ「ヴィーナスの誕生」。ウィキメディア・コモンズより。

こうした画像を眺めていると、ポーが「正銘の美人(the unequivocal beauty)」と讃えた売春婦の面影が何となく目に浮かんでくるような気がいたしますが、いかがでしょうか。

*1:プロジェクト・グーテンベルク版の英訳からの重訳。呉茂一教授の原典訳(『神々の対話―他六篇 (岩波文庫 赤 111-1)』所収)も一応参照はしました。

*2:ルキアノス選集 (叢書アレクサンドリア図書館)』(内田次信教授全訳)に拠る。なおこちらのサイトでは同じ訳文が全文無料で公開されています。ちなみにこの「異性愛少年愛」(原題「エローテス(さまざまな愛)」)という作品は、偽書の疑いのある作品ですが、英語版ウィキペディアによれば、偽書の疑いをかけられたのが20世紀の初めのことなので、ポーの時代にはまだルキアノスの真作だと信じられていた可能性があります。内田教授の訳は、私が読んだ限りでは、古代ギリシャ語作品の現代日本語訳としてもっとも流麗な訳文です。

*3:柳沼重剛訳『食卓の賢人たち〈5〉 (西洋古典叢書)』に拠る。

*4:この部分は英訳からの重訳です。興味深いことに、故柳沼重剛教授の原典訳では、プリュネは全裸にはなっておりません。

*5:これも英訳からの重訳。

*6:内田次信訳。京都大学学術出版会『ルキアノス全集〈4〉偽預言者アレクサンドロス (西洋古典叢書)』所収。こちらのサイトに別の方の原典訳が無料で公開されています。

*7:上記内田次信訳に拠る。

*8:「『肖像』の弁明」。こちらのサイトに「似像のために」というタイトルで原典訳が公開されています。

(抄訳)エドガー・アラン・ポー「タマレーン(Tamerlane)」

「グーリ・アミール(王墓)」。サマルカンドに現存するティムール(=タマレーン)の墓。ウィキメディア・コモンズより。

エドガー・アラン・ポーの初期詩篇のうちの一つ。臨終の床におけるタマレーン(=ティムール大帝)の独白という形式で綴られている。人生の真相に迫らんとする少年詩人の歌声をお楽しみ下さい。原文はこちら


導師よ 俺は死を前にして(第1行~第26行)

導師よ 俺は死を前にして
懺悔ざんげがしたいのではない
俺が非道の限りを尽くしてふけってきた罪の重さを
このに及んで減じてもらおうなどと
夢にも思うとすれば 俺は阿呆だ
俺にはもう寝ぼけている時間などないのだ
あんたの言う「希望」とは何か
それは身を焦がす欲望の炎に過ぎない
俺に「希望」があるとすれば いやもちろんあるが
それはもっときよき源より発するものだ
爺さんよ あんたを愚弄する気はないが
俺が今したいのはそんな話ではない

どうか恥を忍んでありのままをさらけ出す
この俺の胸のうちを察してくれ
この俺に残されたのは盛名とともに
冷めてゆく情熱の一部分のみ――
それは地獄のオーラのごとく わが玉座星飾ほしかざ
宝石のきらめきのうちにかすむ栄誉とともに――
また一つの苦痛とともに それは堕地獄の苦痛も
もはや恐れるに足りぬほどの激痛なのだ
おお若かりし日々を
いたずらにいとおしむ俺の心よ
死んだ時間の死なない声は
いつ果てるともなきリズムを刻みながら
呪文にも似た調べをなして
お前の空しさの上に 弔鐘と鳴る

わが激情はその災いの時より(第65行~第95行)

わが激情はその災いの時より
猛威をふるうに到った それで権力の座に就いて以降は
世人が俺を根っからの
悪人と見なしたのも無理はない
とはいえ導師よ 俺が今よりもはるかに
とがっていたわが少年時代――
その頃(なぜなら人間は誰しも
年を取れば丸くなるものなのだから)
その頃でさえ この悪漢が女の弱さに
弱いことを知っている者が一人いたのだ

人を好きになる楽しさ
それは言葉ではとても言えない
だから俺は愛した女の
美以上の美についても 言葉で言いあらわそうとはするまい
心に残るその顔の輪郭は
さだめなき風にそよぐ影のごときものだ
それで思い出すのは 知識欲に燃える目で
古代の書物のあるページを見つめていると
意味のある文字が 遂には
意味のないファンタジーへと
溶解するのを 俺は感じた

それはそれは愛らしい少女だったよ
少年時代のわが恋は
天上の天使たちさえ焼きもちを焼きかねない
そんな恋だった 彼女のまごころは神棚で
俺のあらゆる想いと望みとは
香煙とくゆり立ち お供えとなった
それはすべて彼女の初々しいお手本にならって
幼稚でまっすぐでピュアだったから
どうして俺はこれを捨て 光にそむき
内なる炎を頼んで漂ったのか

サマルカンドを見よ(第165行~第186行)

このサマルカンドを見渡すがいい
世界に冠たる都市だ この陸離たる壮観は
他市の追随を許さない 主要国の命運は
この都市の掌中にある かつて栄華を誇った
あらゆる花の都を尻目に
この都市は時代を独走中だ
この都市の無価値な敷石のかけらは
他国の玉座の一角を成すことだろう
そうしてここを築き上げたのはこの俺だ ティムールだ
この王冠をいただいた無法者が
諸帝国を傲然ごうぜんと踏み荒らす姿に
万人が仰天したのだ

おお恋愛よ われわれが天国に望むものを
下界で体験させてくれる精霊よ
シロッコの吹き荒れる平原に降る
慈雨のごとく心をうるおす者よ
お前はひとたびその神通力じんずうりきを失うや
人心を砂漠のごとく荒廃させる
理念よ 音程のはずれた音楽と
狂気から生まれた美とによって
人生をがんじがらめにする化け物よ
さらばだ 俺は世界を制覇したから

俺が家に帰ると(第213行~最終行)

俺が家に帰ると 俺の家はもう無かった
わが一族は離散していたからだ
空き家の苔むしたドアを出ようとすると
俺は足音を立てないで歩いていたにもかかわらず
何かしら物音が 誰かの声らしきものが
懐かしい声のようなものが 玄関に響いた
地獄よ お前の火の寝床の上に
これよりも惨めな思いをしている者の姿を
見せられるものなら 見せてくれ

導師よ 俺は固く信ずる――
俺は知っているのだ――なぜなら
亡き人々が住む遠い国から
欺瞞など存在しない幸せな国から
この俺を連れ去ろうとしてやってくる「死」が
その鉄製の門扉もんびを半開きにしていて
そこからあんたの目には見えない「真理まこと」の光が
「永遠」を通して差し込んでくるから――
俺にはわかる 魔王イブリースは
人生にわなを仕掛けているのだと
でなければ 俺が「恋」の神様の
聖なる森をさまよっていた頃――
「恋」はその白い翼の上に
誠心誠意だけから立ちのぼる
燔祭はんさい供物くもつの薫りを載せて
日々送り届けてくれるのに――
その心地よい隠れ家は格子窓から
差し込む天空の光にあふれ 下界から分離され
どんな微塵みじんも どんな小蠅こばえ
「恋」の炯眼けいがんがことごとく闡明せんめいしてくれるのに――
「野心」はそもそもどのようにして
この純愛の楽園へと姿なく忍び込み
果ては「恋」の長い髪の中でげらげら笑いながら
跳梁ちょうりょうするまでに到ったのだろうか

(島田謹二訳)ウィリアム・モリス「海辺の庭園」

マリー・スパルタリ・スティルマン「ケルムスコット・マナー」。ウィキメディア・コモンズより。

今回ご紹介するのは英詩人ウィリアム・モリス(William Morris, 1834 - 1896)の「海辺の庭園(A Garden by the Sea, 1870)」というタイトルの短い詩の、わが国の英文学者・島田謹二博士(1901 - 1993)による日本語訳詩です。原詩は、ここには引用しませんが、非常に有名なもので、確か『黄金詞華集ゴールデン・トレジャリー(Golden Treasury)』の第五巻(ローレンス・ビニョン編)に選録されていたと記憶します。
ウィリアム・モリスは、今の日本では、詩人としてよりもデザイナーとしての方が認知度が高い。100円ショップに行くと、ウィリアム・モリスが考案した図柄による小物が販売されていたりしますね。下の「いちご泥棒(Strawberry Thief)」の図柄は、ケルムスコット・マナーの庭でツグミがイチゴをつまみ食いしているのを見て思いついたと言われている。

ウィリアム・モリス「いちご泥棒」。ウィキメディア・コモンズより。

「海辺の庭園」の原詩はきちんと韻を踏んだ定型詩ですが、島田博士はこれを文語自由詩に訳された。そのきわめて甘美な調べは、思わず涙を誘われるものがあり、特筆に値すると思います。以下、例によってコピーライトを無視して全文引用しますが、これまた例によって今の若い読者にも読みやすいように、新字体を使用し、振り仮名を補うなど、多少手を加えております。

われは知る、百合と薔薇とを
植ゑ込みし小さき園生そのふ
露しげき朝明あさあけゆ露しげき夜半よはにかけ
願ふらく、一人のひと
その園生そのふ、そぞろ歩まん。

そが中に一鳥いつてう鳴かず、
真木柱まきはしら、家のあらなく、
林檎樹りんごじゆに果実ぞ見えね、
花咲かね、みどりの小草をぐさ
そと踏まむひとのみ足を
今もわが見なん願ひや。

渚より海鳴り聞こゆ。
はるかなる紫の丘ゆ流るる
美しき河ふたつ、園生そのふをぬけて、
鳴りやまぬ海に注げり。
蜜蜂はちもゐぬ野花咲く山暗し。
船いまだ見しこともなき渚辺なぎさべ暗し。
そこにこそみどりなす大波さやぎ、
鳴りどよむ潮騒ひびく
あくがれのその園生そのふまで……
そこにこそあくがれて
昼となく夜となくわれ叫ぶ。
そのために、われはいつか
ありとあるよろこびをまたく失ひ、
耳はひ、まなこはつぶれ、
得んこころ投げやりに、
見出みいださんすべせつに、
く失ふよ、
――世の人の求むるものを。
さはれわがぬちおとろへ、よろよろとよろぼひ歩め、
今もなほ残る息吹きにたづねなん、
その園にして、幸福さちへゆく道、
かの「しに」のあぎとの中に――
大海おほうみの波さやぐほとり間近まぢか
一度ひとたびは見、一度ひとたびはくちづけつ、
われゆ一度ひとたび裂かれたる
忘れ得ぬ面影を求め求めて……

園生そのふは「そのう」と読みます。また最後から二行目の「われゆ」が「われめ」となっている版がありますが、「われめ」では意味が取れません。この「ゆ」は万葉集の有名な歌に、

田子の浦ゆ打ち出でてみれば…

とある、あの「ゆ」で、「より」の古形とされる助詞です。
もう一つ、この抒情詩は叙景がよく効いていると思います。叙景といっても、「蜜蜂はちもゐぬ野花咲く山暗し」なんて、およそ飾り気のない、シンプルなものですが、寂しい情景が目に浮かび、胸を突かれます。

BAND-MAIDの『Unleash』

画像生成AIのStable Diffusionによって「生成」された小鳩ミク。Kindly_Fox_4257さんがredditに投稿した画像から拝借しました。お許しを。

「世界征服」はハッタリか?

BAND-MAIDをめぐる謎の一つは、メンバー側とマネージメント側との間に、何か温度差のようなものが感じられることです。
BAND-MAIDの今年(2023年)の第一次北米ツアーは5月14日(日本時間では5月15日)から開始されるとのことですが、今回は前回と打って変わってチケットの売れ行きが思わしくなく、アメリカのファンからはマネージメント側の営業努力が足りないとの批判が出ている。一方でヨーロッパのファンからは「BAND-MAIDはいつになったら帰ってくるのか?」との苦情が寄せられている。このようなことはすべてマネージメント側の不手際で、メンバーには何の責任もないように思うのですが。これはあくまで一傍観者の印象に過ぎませんが、マネージメントサイドはBAND-MAIDについて、世にも奇妙なコミックバンドといった認識しか持っておらず、これをその音楽的実力に見合ったもっと巨大なプロジェクトに育て上げようという気などさらさら無いように見受けられます。
公式ホームページには、BAND-MAIDが、

目標として掲げる世界征服へ向け、全世界規模での躍進を続けている。

と記されている。この「世界征服」なる文言について、これは所詮ハッタリであり、景気づけであり、いわゆる「受け」狙いのジョークに過ぎないとする説もある。確かにマネージメント側はそのように捉えているフシがあるが、メンバーは結構本気なのではないか、と私は思う。

Our way らしさを求め
Make sounds とどろかすんだ
世界つかむまで Never ending !

上はBAND-MAIDの「Manners」という曲の歌詞からの引用ですが、このセリフがハッタリとは、私にはどうしても思えない。最新曲「Memorable」の歌詞にも、

We don't surrender !
(われわれは降伏しない)

とあるのは、この野望に向けた決意をあらためて表明したものと見られます。

デジタルの世界は偽物の世界

先日「Spotifyが音楽AIによって生成された楽曲数万曲を削除した」という記事を読みました。「人工知能」の社会進出による脅威は、今のところ、日本においては「言葉の壁」によってある程度緩和されていて、日本政府はきわめて呑気に構えているように見えますが、そのうち社会秩序が根幹から脅かされるに及んで、もはやG7どころではない大騒ぎになるだろうと考えると、何となく愉快でないこともありません。

news.yahoo.co.jp

AIによってコピーライトが脅かされるというような話を時々聞くのですが、アーティストたちの心配ももっともではありますが、その前に再確認しておかなければならないのは、デジタルデータの世界では、そもそもコピーライトを主張する方がおかしい、という点です。
今さら過ぎて、あらためて書くのも恥ずかしいくらいですが、そもそも簡単にいくらでもコピーを作成できることがデジタルデータの最大の特徴です。デジタルの世界とはすべてが複製であり、「本物」のない世界なのです(当たり前ですよね)。このような世界において「コピーライトを守ってくれ」と要求するとすれば、要求自体が矛盾をはらんでいることは明らかです。
だからどうしてもコピーライトにこだわるのであれば、アナログの世界に戻るしかない。音楽の場合で言えば、レコーディングなどは一切行わず、もっぱらライブ活動に励むことです。もちろん、それでメシを食っていこうなどとは夢にも考えてはいけません。われわれの目には触れませんが、そうした道を選んだ「天才ミュージシャン」は、世界中に無数に存在するだろうと思います。
だがそれでは困るのが大企業です。音楽が「産業」として成り立たなくなれば、資本主義社会における歯車が一つ欠けることとなり、これは資本家たち(と資本家たちによって支持されている政治家たち)にとってはいささか面白くありません。だから彼らは音楽的才能に恵まれた人たちに対して「われわれはコピーライトを保護します」などと甘言を弄して曲を書かせ、録音し、コピーを無数に作成して、宣伝のために世界中にばらまくのです。
BAND-MAIDもまたこの「コピーばらまき作戦」によって成功を収めたバンドの一つです。もし「Thrill」(2014年)のミュージックビデオがYouTube上で公開されていなかったら、BAND-MAIDなるバンドはとっくの昔に消滅していたであらうと言われてゐる。
「Thrill」のミュージックビデオを見たことがない人がいるかも知れないので、リンクを貼っておきます。再生回数がようやく1,900万回を突破したそうです。


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BAND-MAID入門に最適なEP『Unleash』

とにかく今の資本主義の世界においては、「経済を回す」ために、大量の商品が生産されて流通しており、音楽作品もまたそのうちの一つでしかない。それらの作品にはいろいろと真偽不明の「アーティスト名」のラベルが貼ってあるが、その「アーティスト名」とひも付けされているものは、すべて企業が収益を上げるために捏造した宣伝のための虚像イメージに過ぎません。そうして現代の聴衆というか、音楽データの消費者たちは、このようなアーティスト像の虚実には本当は何の関心もない。スマートフォンから垂れ流される音楽をイヤホンを通してただ聞き流しているだけの人たちにとって重要なのは、束の間の快楽であり、かりそめの娯楽であり、憂き世のつらさから、生きる苦しみから、ほんのしばらくの間だけでも気をそらすことができればそれでいいからです。
ところがそうやって大量に生産され、配布され、消費される音楽データの中に、ふとわれわれの注意を引きつけるものがごく稀にある。それはアーティストというか、それらの楽曲を作った人たちが、表現しなければならないと切に感じているものと、表現するための手段、方法あるいは技術との間で、確かにもがき苦しんだ、その痕跡を(周到に隠蔽されているにもかかわらず)聴き手が見つけ出してしまう場合です。それが見つかるのは、見つけた人に何も特殊な能力があるからではない。意識するとしないとにかかわらず、人間は常に「人工知能」には残すことのできない人間の痕跡をいたるところで探し求めているものだからです。
以上のようなきわめて稀なケースが「from now on」をはじめとするBAND-MAIDの近年の楽曲に当てはまる。その魅力はわれわれが通常、憂さ晴らしのために消費する他の音楽データとはひと味違います。そこにはわれわれに対して注意するよう、察知するよう、理解するよう訴えかける何かがある。そうしてBAND-MAIDをしてこのような境地へと押し上げた、というか、追い詰めた最大の要因は、やはりコロナ禍であったと見てよいでしょう。少なくともBAND-MAIDの音楽的モチベーションに対しては、コロナ禍はむしろプラスに作用したと断定してよさそうです。BAND-MAIDの近作、特にEP盤『Unleash』(2022年)は、ファンのよろこびそうなコンテンツを取りそろえて「売れたらいいナー」などとほくそ笑むような余裕のある、迎合的なスタンスで作られたものではまったくなく、言わばいまわのきわにおいて「私たちはROCKこれりたいんだ!!」との本音を吐露したかのごとき快作で、BAND-MAID入門には打ってつけだと思います。
下はタイトルナンバー「Unleash!!!!!」のライブ映像。


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悲劇役者としての遠乃歌波

昨年(2022年)のAFTERSHOCK FESTIVALにおける勇姿。アメリカのファンの方がredditに投稿した画像を拝借しました。お許しを。

「from now on」の悲劇性

BAND-MAIDの謎の一つは、ファンの意見にまとまりがないことです。
たとえばファンが推すメンバーは皆それぞれ違う。「ギターが凄い」「ベースが凄い」「ドラムが凄い」と、みんな違うことを言う。ヴォーカルの彩姫さんについては「彼女をナマで見て、初めて凄いシンガーだとわかった」などと言う。
ファンが好きなナンバーとなると、もっとヴァラエティに富んでいます。最近ある人がredditに「BAND-MAIDの『グレーテスト・ヒッツ』なるアルバムはないのか?」という質問を投稿したところ、複数の人が「それは100曲入りのCDボックスになるだろう」と回答した。確かにBAND-MAIDの楽曲は粒ぞろいで、取捨選択は難しい。ただやはり10年ものキャリアがあり、しかも演奏スタイルが年々変化しているので、ファンになった時期によって「お気に入り」の曲はバラバラみたいです。今BAND-MAIDを支持しているファンの多くはコロナ禍前からのファンで、アルバム『WORLD DOMINATION』(2018年)や『CONQUEROR』(2019年)あたりを好むらしく、最新ブルーレイのセットリストが新曲中心であることに不平を鳴らしているが、今年(2023年)の国内ツアーのセットリストは『Just Bring It』(2017年)からの曲が多く採られ、あたかももっと古くからのファンに敬意を表しているかのごとくである。アレンジは変わっているのでしょうが。
私は「新米」ですので、好きなのは比較的新しい曲、それもインストゥルメンタル曲ですね。『Unseen World』(2021年)のおしまいに入っている「without holding back」という曲もいい曲だと思いますが、何よりも魅力的なのはやはりあの『Unleash』(2022年)の冒頭を飾る「from now on」の悲劇的な曲調です。ヴォーカルが凄いとか、歌詞が素晴らしいとかは、後からだんだんわかってきたことで、少なくとも「Choose me」や「Domination」程度では、ここまでBAND-MAIDにのめり込むことはなかった。これは確かです。
下は「without holding back」の日米のミュージシャン(のたまご)によるカバー。


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The Warningの「Evolve」

メキシコの三人組ガールズバンド、The Warningの今年(2023年)のUSツアーは、BAND-MAIDよりも一足早く始まっている。下のファンカムは4月30日、サン・ディエゴのHouse of Bluesにて撮影されたもの。曲は「Evolve(進化)」。


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ドラムの女の子の「ギャー!!」という叫び声が何とも恐ろしい。まさにホラーですね。歌詞はこんな感じ。

このままでは事態は悪くなるだけ
一瞬で解決しましょう
 私は危険ではない
 私が危険そのもの
人の値打ちはお金では測れない
これは死ではなく再生
 私は危険ではない
 私が危険そのもの
変わるとは何か
教えて

(コーラス)
偽装された人格以上の
何かになるのを手伝って
痛みは生き残るための
進化するための代償

私の涙を拭いて
私は凶器
凶器は泣いたりしない
 私は危険ではない
 私が危険そのもの
タイマーを入れて
時を刻ませて
遅くならないように
 私は危険ではない
 私が危険そのもの
変わるとはどんなことか
あなたに教えてあげる

(コーラス くりかえし)

結局のところ、このThe Warningの魅力とは、若くて可愛らしい女の子たちが、このように悪夢のごとくネガティブな音楽をやるところから生ずるギャップにあり、そこにBAND-MAIDの魅力と相通じるものがある、と一応は言えるのですが、注意しなければならないのは、これは決してお嬢ちゃんたちがヘビメタの真似事をやっている、といったレベルのものではなく、また可愛らしいマリオネットとヘビーな音楽とを組み合わせることでユニークな魅力を生み出そうとするBABYMETALのアプローチとも全く異なる、という点です。The Warningはヘビーメタルに新しい生命を吹き込むすべを知っていて、この陳腐な音楽形式を確かに次の段階へと「進化」させようとしているかに見える。彼女たちは一流の悲劇役者なのだ。そこがBAND-MAIDの悲劇性とリンクするのです。

涙の「証拠映像」

わたくし思うに、「悲劇役者」と「悲劇の人」とは違う。一流の「悲劇役者」であるために、「悲劇の人」である必要はない。たとえば恋愛経験などまったくない小学生の女の子で、特に指導を受けなくても、感動的なラブソングを切々と歌える子がいます。このようなことはすべて先天的な素質によるものです。優れた悲劇役者は、悲劇的な生涯を送ってはいけない。その才能の価値にふさわしい、栄光に包まれた人生を歩まなければなりません。
上記の通り、The WarningのUSツアーはすでに始まっているのですが、その日程たるや、BAND-MAIDに輪をかけてハードで、しかもすでに書いた通り、六月は他のバンド(MUSEなど)のサポートとしてヨーロッパを回る予定になっている。ちなみに昨年のツアーはもっと過酷だったそうで、ほとんど年がら年中世界を飛び回っており、skyp2tさんのこちらの記事によれば、途中でベースの女の子がダウンして、椅子に座って演奏する場面もあったとのこと。
BAND-MAIDも去年のツアーではリードギターの遠乃歌波さんがダウンした。これについてはこちらの記事でも触れましたが、先日発売されたブルーレイに付属のドキュメンタリーには、その「証拠映像エビデンス」が収録されておりましたね。あるアメリカのファンはあれを見て泣いたと書いておられたが、ファンはみな同様の思いを抱いたことでしょう。
あのドキュメンタリーを見ていてもう一つ引っかかったのが「ケンカしたかった」という歌波さんの言葉です。まあツアー中にメンバー同士で大げんかして、誰かが病院に担ぎ込まれでもしたら、スケジュールに支障が出て大変でしょうが、たとえばたまにプライベートで彼氏と大げんかして、わんわん泣いたりすると、よいストレス解消になるかも知れません。彩姫さんなどは始終やってそうに見えますが(単なる臆測です。すいません)。それほど歌波さんは自分に厳しく、ストレスを溜め込みやすいタイプに見えるのです。
あのドキュメンタリーには歌波さんが彩姫さんに未完成の「Memorable」を歌って聞かせるシーンが出てくる。あれは本当に貴重な映像です。そもそもよほどきれいな心の持ち主でない限り、あのメロディは書けません。繰り返しになりますが、美しい悲劇を書いたり演じたりできる人は、悲劇的な生涯を送ってはいけない。栄光に包まれた、幸せな人生を歩まなければなりません。
下は世界数ヶ国のファンによる「Memorable」のカバー。


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