魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

葉室麟『墨龍賦』其之七

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建仁寺禅居庵。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる葉室麟はむろ りん歴史小説墨龍賦ぼくりゅうふ』の紹介記事、第七回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


春日局は語る⑯安国寺恵瓊に引導を渡す

1600年9月15日、関ヶ原合戦の勝敗が僅か一日で決まると、追われる身の恵瓊えけいは、近江佐和山から船で琵琶湖を渡り、坂本を逃れ、更に京都へと潜入し、月照寺へと逃亡します。徳川の追手の気配を感じると、縁の深い建仁寺へと舞い戻ります。
夕刻に、恵瓊は只の僧侶の身なりで山門に到着します。手燭を持った友松ゆうしょうがいます。
「随分待ちましたよ。遅かったですね」
「徳川の目を誤魔化してここまで来たのに、昔馴染みに会うとは、私の運もこれまでか」
友松はゆっくりとかぶりを振って言いました。
「あなたの運のことはわかりません。只見ていただきたい絵があるので、待っていました」
恵瓊は怪訝な顔で尋ねます。「私を待っていたとは、どういうことか?」
「恵瓊殿。あなたは昔から才智を鼻にかけた、小生意気な僧侶でした」
「友松殿こそ、何時も還俗して武士に戻る事ばかりを願っている、頑固者でしたね」
恵瓊はからからと笑いながら言います。
「正にその通り。そんな二人がよくこの戦国の世を生き抜いてきたと真に思います」
「しかし私は最後の最後でしくじった」
淡々と言う恵瓊を、友松は塔頭のひとつ、禅居庵へと案内します。手燭の灯りに照らされて、襖十二面に「松竹梅図」が描かれていました。中国の伝説の鳥・叭々鳥ははちょう二羽が松の大樹の枝に止まっている。優美さ、そして強さを内包している梅(恐らく馥郁たるかおりがする)とともに。動と静とが友松の筆致で見事に表現されていました。恵瓊はじっくりと襖を見て言います。
「さしずめ松は友松殿、梅は私でしょう」
友松は微笑して頷きます。恵瓊は梅を凝視します。
やがて言います。「凛として気高い梅でござる、拙僧もかくありたいと思います」
友松はしみじみと言います。「左様に思って頂けるなら嬉しく存じます」
恵瓊は微笑んで穏やかに言います。「友松殿は拙僧に潔く散って、人としての芳香を残せとおっしゃりたいのでしょう」
友松は恵瓊と視線を合わせますが、何も言いません。
恵瓊は友松に尋ねます。「枝に止まる叭々鳥は、何を表しているのか?」
「はて、何でございましょうかな」
「拙僧には、明智光秀殿と斎藤内蔵助殿に見えます。もしこの松が友松殿であるならば、梅の友でありましょう」
「無論です」恵瓊は、満足気にお辞儀をして合掌をしました。
「有難く存じます。よもや友松殿に引導を渡されるとは思いませんでした」
「差し出がましい事を申しました。お許しください」
友松の言葉に 恵瓊はにこやかな顔で頭を振り、きびすを返して禅居庵を退出していきました。
そして、思い出深い建仁寺に永遠の別れを告げます。

9月20日、六条に潜んでいた恵瓊は、初代京都所司代奥平信昌(徳川家康の娘婿)に捕縛され、石田三成小西行長と共に、大阪・堺を引き回され、10月1日、六条河原で斬首されました。

清風拂明月
明月拂清風

と言い放ち、従容としてこの世を去っていきました。

春日局は語る⑰描き続ける晩年の友松と大坂の陣

関ヶ原合戦後、海北友松は、細川藤孝に古今伝授を受け、和歌をたしなむ八条宮智仁親王と風雅の交わりを結びます。一時秀吉の猶子となっていた八条宮ですが、やはり文人・墨客に囲まれた境遇の方が水に合うようです。八条宮は、桂離宮を造営し、友松に屏風絵の製作を依頼しました。
「浜松図屏風」「網干図屏風」「山水図屏風」等を精魂込めて描きました。いずれも傑作ですが、中でも「山水図屏風」は墨の濃淡の諧調を上手く使い、永徳でも描けなかった、立体感のある山水画を描く境地に達しました。このころ友松69歳。

一方、1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、2年後、将軍位を秀忠に譲ります。関ヶ原合戦後、徳川家と豊臣家は、静かな睨み合いを続けて来た訳ですが、徳川家が実質的に天下を掌握している状況です。徳川家康は辛抱強く、豊臣家滅亡の計画を立案、実行の機をうかがっていたのです(岩井三四二家康の遠き道』をご参照ください)。豊臣家は徳川配下の一大名として生き残るか、抗戦するかのどちらかを選択するしかない状況に追い詰められていました。
1614年、方広寺鍾銘事件が勃発します。家康が仕掛けたこの事件は、大坂夏の陣への導火線となり、再び戦乱の渦に巻き込まれる世の中となりました(この辺りの経緯は岡田秀文『大坂の陣』、葉室麟ほか『決戦!大坂城』をご参照いただければ幸いです)。
友松は、戦乱とは隔絶した京都三条邸で、山名禅高の求めに応じて「禅宗祖師図屏風」を描いていました。これは達磨大師等、禅宗の始祖たちが、悟りのきっかけを得る様子を描いた絵画です。山名禅高の狙いは、大坂城を陥落させ、豊臣家滅亡を画策する主君徳川家康に、天下取りの野望はもう終わらせてもいいのではないかと、絵を以って暗に上申することでした。

 

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

 

葉室麟『墨龍賦』其之六

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建仁寺の方丈と、本坊へと通じる大玄関。この方丈(重要文化財)はもともと建仁寺のものではなく、恵瓊が再建に当たった際、広島の安国寺から移築されたもの。当時は海北友松筆の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されているとのこと。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる葉室麟はむろ りん歴史小説墨龍賦ぼくりゅうふ』の紹介記事、第六回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


春日局は語る⑬石田三成に帯同、恵瓊と再会

1598年、石田三成が九州に赴く際、友松ゆうしょうは同行を許されます。絵師としての地位を確立するため、石田三成の知遇を得る狙いもあったと思います。道中、瀬戸内辺りで、建仁寺再興に奔走する恵瓊えけいに会いに行きます。
久しぶりに会う友松から、再会の挨拶もそこそこに、建仁寺再興に当たっての襖絵や障壁画を自分に描かせてくれと頼まれた恵瓊は、こうべを垂れて懇願する友松の姿に仰天します。
「昔の友松殿の気性なら、そうはなさならかったでしょう」
「そうでしたかな?」
恵瓊は尚も言います。「絵師と言いながら武辺者でおられましたからな。そう、明智光秀殿の重臣、斎藤内蔵助殿の遺骸を奪って秘密裏に葬られたのは友松殿との噂も、伝え聞いておりますよ」
友松は、穏やかに笑うばかりでした。
恵瓊は建仁寺の絵を友松が描く事を即刻承知します。それは、自分が秀吉に気に入られ、6万石の大名に出世したのは、友松が帰蝶御前に書状を渡したのが始まりだと良く知っているからです。友松はそれについても、何も言いません。
友松は、建仁寺の絵を描くことに没頭します。数ヶ月後、絵を見た恵瓊は目を見張ります。
建仁寺の方丈を飾る絵には、水墨画の「竹林七賢図」「山水画」が配置されていました。それだけではなく、方丈の東側玄関に最も近い位置にある、下間げかん二の間に描かれた「雲龍図」には、並々ならぬ迫力が感じられます。八面の襖の中に対峙する阿吽あうん二形にぎょうの蒼龍です。墨の濃淡を巧みに使い分けながらも、見る人を圧倒せずには置かない絵です。
恵瓊は思わず友松に、「真に見事だ。しかし、何となく懐かしく思えるのは何故だろう?」
友松は言います。「それは、かつて恵瓊殿が会われたことがあるからと存じます」
恵瓊は尋ねます。「会ったことがあるとは、どういうことなのかな?」
友松は、「雲龍図」を見つめて言います。「私はこの絵に武人の魂を込めました。ならば、恵瓊殿は今まで会われた武人、例えば山中鹿之助清水宗治殿を思い出されたのはないのでしょうか」
今度は恵瓊が口を開きます。「ならば、友松殿がこの蒼龍の絵に込めた武人の魂とは、
明智光秀と斎藤内蔵助ですね。私が再建しようとしている建仁寺の襖絵に、主殺しの大罪人の魂を込めるとは、困ったことをされる人だ」
「私は明智様を大罪人ではなく、魔王信長からこの世を救った正義の武人と思っております」
「それゆえ、この寺に二人の魂を留めて置こうというのですね」
「いけませんか」
「いかんと言っても、もはや描いてしまったものは、如何ともし難い」
この会話の最中、友松はずっと微笑んでいました。恵瓊も可笑しそうに微笑んでいます。
友松は更に続けます。「私は絵とは人の魂を込めるものであると思います。どの様な権力者でも、人の魂を変えることはできません。絵に魂を込めたなら、変えることのできなかった魂を、後世の人は見ることになりましょう」
恵瓊の目には、墨で描かれた蒼龍が、今にも襖を破り、天に駆け昇っていくように見えました。
この「雲龍図」をあの世の永徳は、どう思ったのでしょうか?憎まれ口を叩くか、友松自身の絵を見つけたと、よくやったと褒めるでしょう?
又恵瓊の眼力と胆力・腹黒さは見上げたものですが、それゆえ6万石の大名に出世し、やがて京都六条河原で処刑される運命に殉じます。

春日局は語る⑭ 遅い結婚と絵師としての開眼

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建仁寺の方丈に展示されている「雲龍図」(複製)。建仁寺の公式ホームページより。

時間が前後しますが、1596年、海北友松は64歳で結婚をしています。相手の名前は清月で、まだ二十代です。近江浅井家に仕えた武士の娘で、友松とは遠縁にあたります。両親を亡くして狩野派の絵を学ぶために京都に出てきたところ、友松と縁がありました。
2年後には長男(後の友雪)にも恵まれます。祖父と孫の年齢差ですね。
恵瓊の伝手つてで、友松が建仁寺に「雲龍図」をはじめ、「花鳥図」「竹林七賢図」「山水図」「琴棋書画図」等を精力的に描いたのは1599年です。
この時、建仁寺の方丈や本坊に描かれた障壁画は約50点、周辺塔頭や末寺も含めると100点にのぼります。いずれも傑作揃いですが、中でも「松に孔雀図」は高評価を得ました。
孔雀も松も墨一色で描きながらも華やかな色彩を見る人に感じさせる、「墨は五彩を兼ねる」との水墨画の神髄を友松は会得していたのです。この時67歳。本格的な絵師としての活躍が、この頃からはじまります。やがて、墨を生かしながら、気迫を込めて描く画風は「友松様ゆうしょうよう」と呼ばれるまでになりました。やっと友松独自の境地に達しました。

春日局は語る⑮秀吉病没後の世の中と恵瓊の動き

1598年8月、太閤秀吉はこの世に未練を残しながら(茶々や秀頼の行く末を心配しながら)この世を去ります。これを機に、徳川家康五奉行石田三成増田長盛長束正家浅野長政前田玄以)の関係悪化が進んでいきます。不倶戴天の様相を呈してきます。
秀吉により関東に移封させられた家康は、着々と実力をつけています。詳しくは門井慶喜『家康、江戸を建てる』をご参照いただければ幸いです。
才子の石田三成は、家康を倒すためには西国の大大名、毛利輝元を味方につけることが肝心と考えます。そこで石田三成毛利輝元を結ぶ為に、安国寺恵瓊が暗躍します。この頃61歳の恵瓊は、南禅寺東福寺の住持となり、更に明征伐により6万石の大名に出世しました。意気軒昂で、自分はまだ人を動かせる力を持っていると信じています。
恵瓊は、石田三成の居城佐和山城で、大谷吉継同席の会談を重ねた結果、毛利輝元大坂城西の丸入りを実現します。恵瓊の腹は、家康(東軍)と三成等(西軍)の対立(関ヶ原合戦)に 乗じて毛利家が天下を掌握するチャンスを掴み、自分は軍師として辣腕を振るう野望を持っています。実は家康には勝てないとの意見の吉川広家吉川元春家督相続人)とは意見が合わず、毛利家は以前ほど一枚岩ではないのが現状ですが、過去の実績に自信がある恵瓊には、時流が読めませんでした。 案の定、広家は黒田長政を仲介に、家康へ密使を遣わして、毛利輝元大坂城を動かず、三成には合力せず(三成は美濃路から大垣城に入る)、全ては“安国寺一人之才覚”として、責任を恵瓊に負わせます。
家康は軍を率いて東上してきます。 数多くの戦場を踏んだ恵瓊は、輝元が大坂城を出ない以上、関ヶ原合戦の勝ち目はないと判断し、せっかく毛利家のために天下取りのチャンスを整えたのに、どうしてわからないのだと歯ぎしりしながらも、さっさと諦め、美濃・南宮山の陣から逃亡します。 関ヶ原合戦については岩井三四二『三成の不思議なる条々』をご参照ください。

 

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

 

葉室麟『墨龍賦』其之五

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狩野永徳筆「唐獅子図屏風」。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる葉室麟はむろ りん歴史小説墨龍賦ぼくりゅうふ』の紹介記事、第五回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


春日局は語る⑪狩野永徳と袂を分かつ

京都の狩野かのう屋敷に戻った友松は、京都の人心の動きにスッキリしない日々を送ります。そんな時、友松は安土城から帰ってきた疲労困憊のていの永徳と正面衝突してしまいます。
前から二人の間には火種がありました。精魂込めた安土城襖絵ふすまえや障壁画等が燃失し、気が立っているタイミングで、お互い口に出したら元に戻れない言葉の応酬をします。友松も人の痛い所を遠慮なく突きます。
永徳「安土城が焼かれて、私が描いた襖絵も灰になってしまった」
友松「それは、お気の毒さまでございました」
永徳「権力者にすり寄って絵を描くから、そんな目に会うと言いたいのか?」
友松「滅相もない。ただ狩野派は天下人の為に描き、天下人と共に滅ぶ運命でしょう」
永徳「何を言う。信長が滅びても狩野派は滅びないぞ」
友松「ではこれからは、永徳様は、美しさのわからない秀吉の為に描くのですか?」
永徳「天下人が誰であっても、私に絵を描かせてくれたらそれでいい。それでこそ、幕府の御用絵師の狩野派は生き残れるのだ」
友松「では、永徳様は絵の為ではなく、狩野家の為に生きておられるのですね?」
永徳「狩野家の為に生きることが、絵の為に生きることになるのだ。狩野の血脈でないお前にはわからない」
友松「如何にも。狩野の血を持たない私がここに居る謂れはありません。本日限りで狩野一門を出ます。長年お世話になりました」
永徳「分かった。ただし生半可なことでは絵師として生きてゆけないぞ。破門はしない。どこにいても狩野派の絵師を名乗って生きろ」
永徳は友松に手を振り、友松は永徳にお辞儀をします。別れ際にも友松は言います。
「覇王信長は美しいものがわかる男でした。信長のために永徳様が仕上げた、豪華絢爛たる絵の見事さに心を打たれました。しかし新たな天下人の為の永徳様の絵は見たいとは思いません」
永徳は何も言わず、庭に視線を向け、物思いに耽っていました。
永徳も、自分自身の描きたい絵と、幕府の御用絵師・狩野派として描く絵との相克に鬱々としていたのかもしれません。しかし多くの狩野派門人達を路頭に迷わせるわけにはいかない事情もあります。そして幼少から教育されているのだから、それぐらい描けて当然という周囲の反応。個性ではなく形を真似よ等、誰にも解らない永徳の懊悩。かたや友松にはその様な縛りがない。天涯孤独の身の上で、狩野派に収まらない絵を描く自由のある友松が、永徳には羨ましかったのかもしれません。破門しないことが、永徳の友松に対するせめてもの心遣いだったのでしょう。
狩野屋敷を出た友松は、真如堂を訪ねます。真如堂の住職・東陽坊とうようぼう長盛ちょうせいとはかねてからの、茶の湯を通じての友人でした。60歳を過ぎても矍鑠かくしゃくとし、胆力・気骨共に充実している人物です。
早速世話になる仁義を切った後、どうしても光秀主従敗死の件が二人の話題になります。

春日局は語る⑫内蔵助の遺骸を奪還

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狩野永徳筆「檜図屏風」。ウィキメディア・コモンズより。

どうしても、見物人に混じって、光秀主従の首級や粟田口の遺骸を見に行く気がしない友松に、長盛はゆっくりと説きます(友松が以前僧侶だった事を長盛は承知しています)。
「かつて僧侶だったそなたなら、友人の斎藤殿の遺骸から目を背けてはならぬ。仏の教えは、人が生きる美しさを追うのではなく、無惨な遺骸を、たじろがずに見るところから始まるのではないのかな」
友松は、目が覚めた思いでした。「私は絵師となってから、美しい物しか見ないようにして過ごしてきました。そのことに、今気が付きました。今すぐ出発します」と玄関を出ます。
本能寺への道すがら、考えます。内蔵助の友人であると思うなら、遺骸を見に行かないのは、友としての義に背く行為であった。辛くても見に行くべきだ。友松は本能寺に到着します。
獄門台に晒されている蔵之助の首級は、傷だらけで腐りかけています。それを見た友松は泣くし事しか出来ません。合掌後、粟田口に到着した時、周囲は真っ暗になっていました。
処刑場には篝火かがり びが焚かれ、手槍を持った番人が4人いました。遺骸が括り付けられた磔柱はりつけばしらが闇夜に浮かびます。野犬が死肉(内蔵助の遺骸)を食べようと、磔柱に飛びかかります。
友松は、投石して野犬を追い払います。番人に追われますが、無事真如堂へ帰り着きます。次の日、友松は早速、長盛に掛け合います。「あのままでは、内蔵助殿の遺骸は野犬に喰われてしまう。あれ程の武士をその様な目に遭わせるわけにはいかない」
「無論。しかし、どうなさるおつもりで?」
「明日の夜、処刑場から遺骸を奪い、この寺に葬りたい。如何いかがかな?」長盛は頷きます。
「しかし、4人の番人はどうする?」
「私がおとりになるから、その間に遺骸を磔柱から降ろして、真如堂迄運んでほしい」
「よし。仏様に関わることは、拙僧が引き受けよう。だが囮は怪我や命に係る。大丈夫か?」
「私も武家の出身です。内蔵助殿の為に今一度だけ、鎧具足に身を包みましょう」
長盛との相談が纏まったので、友松は武器を借りに石谷屋敷を訪問します。
石谷屋敷の当主は、内蔵助の実兄・石谷いしがい兵部ひょうぶ少輔しょうゆう。友松が用件を言うと、当主は何も尋ねることなく、快く鎧櫃を開けて、鎧兜一式と太刀・脇差・長槍を家人に持ってこさせました。友松が鎧兜に見とれると、当主は静かに言います。「これは内蔵助殿が若き日に愛用されたものです。弔いには相応しいでしょう」準備は整いました。久しぶりに長槍をふるうと、友松の気持ちは高揚してきました。後は夜が更けるのを待つばかりです(筆者は50歳を過ぎた友松が、重い具足を着用して動けるか心配ですが)。
棺桶を寺男に担がせた長盛と合流して粟田口へ歩き始めます。その夜道はまるで地獄へ通じているようです。長盛に手伝ってもらい、兜を被り、具足面頬めんぼおを着けます。その姿は、まるで斉藤内蔵助が蘇ったようです。いざ出陣。友松は長槍を使い、野犬の腹を串刺にします。番人たちは、明智の残党が出たぞと言いながら手槍で向かってきます。友松は、粟田口の処刑場から離れ走ります。長槍を持たせたら友松は無敵です。番人は到底敵いません。
友松がもう一度処刑場へ戻ると、磔柱が残っているだけでした。どうやら、長盛は無事に内蔵助の遺骸を真如堂迄運びだしたようです。友松の気持ちは、内蔵助が憑依していたかのような高揚した気持ちから嘘のように沈みます。自分にできたことと言えば、この程度なのだ。いや私にはもっとなさねばならぬことがあるはずだ。自問自答する友松の頭に、安土城とともに自分の絵が焼かれたときの永徳の呆然とした顔が浮かびました。しかし永徳ならば、また素晴らしい絵を描くだろう。ならば自分は、明智光秀と斎藤内蔵助が夢見た世を表すような絵を描こうと決心します。

此処から数年、友松の消息は途絶えます。一方、狩野永徳は、秀吉に気に入られ、大阪城の櫓や御殿、天守に絵を描きます。高価な金泥を使い、牡丹唐獅子やひのきをモチ-フに、後に恠恠くわいくわい奇奇ききとよばれる画風を確立し、秀吉や有力大名から注文を受け、休むことなく描き続け、1590年に亡くなりました。享年48歳。晩年の代表作「唐獅子図屏風」「檜図屏風」は現在も高く評価されています。狩野元信の孫として生まれ、安土城の襖絵作成に当たっては、家督を弟に譲り(信長の不興を買ったときの用心の為)、狩野派隆盛の使命を果たした永徳でした。
ある意味、現代なら過労死ではないかと疑われるぐらい、画業に打ち込みました。

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

 

「ゴシック・ローマン詩体」入門(日夏耿之介『黒衣聖母』より)

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Photo by Phong Bùi Nam from Pexels

以前、こちらの記事で、日夏耿之介ひなつ こうのすけのいわゆる「ゴシック・ローマン詩体」についてほんの少しだけお伝えしましたが、これについてもう少し詳しく知りたいと思われている方もいらっしゃるのではないかと常々考えておりました。私は別に日夏の詩の研究家というわけではありませんけれども、およそ戦後生まれの人間で、俺ほど日夏の詩を読み込んだ男はいないだろう、という程度の自負はあります。死んだ親父が、私が中学のころ、当時刊行が予告されたばかりだった河出書房新社版『日夏耿之介全集』を本屋に予約してくれて、真っ先に届いた第一巻『詩集』は、それこそぼろぼろになるまで読み返したものです。日夏の詩にはそれほど強烈な魅力があるのです。
ただお察しのとおり、現代の日本の言語環境において、日夏の詩の魅力の一端なりとも若い人々にお伝えすることは大変難しい。かと言って日夏の詩が日に日に忘れられてゆく有様を黙って見ているのも誠に淋しい限りである。というわけで、無理を承知で、ここに「ゴシック・ローマン詩体」のサンプルをもう二、三篇陳列し、好奇心旺盛な読者に対して誘惑を試みたいと考えます。

<CONTENTS>


まず代表的なものをひとつ挙げます。わずか六行の短唱です。

「愁夜戯楽第七番」


薔薇ばら きぬ
その罪 あかし矣
小夜さよゆく鐘に
夢みだれ
若きの間を
ああ今宵こ よひの月 熱を病む


もしあなたが上の小詩篇を「美しい」と感じるならば、あなたは既にこの「ゴシック・ローマン詩体」の毒にあたっている可能性があります。
なおこの詩の二行目の行末の「矣」の字は「置き字」と呼ばれるもので、発音しません。すなわち、

その罪 あかし矣

とは、

その罪、あかし!

と同義だとお考え下さい。

次に掲げるのは日夏耿之介の創作詩ではなくて訳詩です。『黒衣聖母』には収録されておりません。

「病める薔薇(The Sick Rose)」

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「ヴァンパイア」。 Anita-Lustさんがdeviantart.comに投稿した画像。元画像はこちら

あはれ薔薇さうびよ、おん身病めり矣。
咆哮はうかうの嵐のなかを
の闇をかけりてゆく
えざる蠕虫はむし

お身が耽楽たんらく臥蓐ふしどをこゝに
見出でたり。
の黒色極秘の愛の
お身がいのちをぞこぼつなる。


英詩原文は、英語版ウィキペディアによれば、以下の通り。

O Rose thou art sick.
The invisible worm,
That flies in the night
In the howling storm:

Has found out thy bed
Of crimson joy:
And his dark secret love
Does thy life destroy.

作者は神秘思想家で画家詩人のウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757 – 1827)。英文学史上、極めて特異な存在です。
なおこの詩は佐藤春夫が『田園の憂鬱』(1919年)という私小説の中で引用したことで、日本でも広く知られるようになりました。日夏の訳は原文に忠実ですが、それでいて「ゴシック・ローマン詩体」の魅力を存分に発揮しています。

最後に『黒衣聖母』からもう一篇ご紹介します。これまた短く、平明な作品です。

「安易」

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gahag.netより。

「心」は「時」にもたれてをる
「時」はかすかにうなづいて
その金髪をまさぐり
滄溟うみのやうなひとみをあげて
唄うたふ「心」をあしらふ

「心」は「時」のひざの上で
安らかに仮睡ゐ ねむつてをるのか



日夏耿之介の第一詩集『転身の頌』はほとんどすべて文語体の詩から成り立っておりますが、第二詩集『黒衣聖母』は上のような砕けた口語体の詩が主体となっております。

テキストについて

ここからが問題です。
上に日夏耿之介の「ゴシック・ローマン詩体」のサンプルを三篇ご紹介したわけですが、実はこれは原文そのままではなく、紹介者の私が少し手を加えております。まず縦書きのものを横書きにしておりますし(日夏の詩の場合、これだけで大変な「改悪」ということになります)、今の若い方々にも読みやすいよう、原則的に新字体を採用し、ところどころ振り仮名を増やしたりしているわけです。で、仮にこの記事を読んで日夏の詩に興味を持たれた方がいらっしゃったならば、より美しい原文の方にぜひ当たっていただきたいのですが、残念ながら、今のところ日夏耿之介の詩集はすべて絶版となっております。
というわけで、以下にご紹介する『日夏耿之介詩集』はすべて「古書」に属するもので、その中でも比較的入手が容易なものだけをピックアップしております。なお日夏の作品は没後70年目に当たる2041年著作権が消滅し、その時点で(志賀直哉らの作品とともに)青空文庫が公開される予定になっているそうで、そうなると日夏の詩の少なくとも一部は無料で閲覧できるようになりますので、本にお金を使うのがどうしても嫌だとおっしゃる方はそれまで待つというのもひとつの選択肢です。詳しくはこちらの記事をご参照ください。

河出書房新社版『詩集』

この記事の上の方で少し触れております『日夏耿之介全集』の第一巻です。活字が大きくて読みやすく、日夏の詩の工芸品的な美しさがよく伝わってきます。またこれまで未収録だった詩が収録されている他に、収集し得る限りの異文が収集され、列挙されておりまして、将来の日夏の詩の愛読者に対して大変な便宜を提供してくれています。日夏の詩集、特に第一詩集『転身の頌』を読み解くには、異文の研究が欠かせません。
というわけで、一度は手に取っていただきたい『日夏耿之介詩集』の決定版とも呼ぶべきヴァージョンではあるのですが、そう断言するのがためらわれるのは、編者の方針にいささか不審な点があるからです。というのはつまり、編者が恣意的に(と私には思われるのですが)日夏の詩を改変している部分があるのです。これについてはまた稿を改めて指摘しましょう。また比較的高価な上に、何分大きくて分厚い本ですので、通勤電車の中で読み飛ばすというわけにはまいらず、現代人のライフスタイルに合わないという欠点はあると思います。

日夏耿之介全集 第1巻 詩集

日夏耿之介全集 第1巻 詩集

 
新潮文庫版『日夏耿之介詩集』

現時点ではこれが一番おすすめのヴァージョンということになりましょうか。薄っぺらい小冊子で、活字も小さくて読みづらいですが、原文の姿を尊重して旧字旧仮名遣いを採用し、何よりも作者自選で、自ら序文も書いているという点が非常に大きな魅力です。
ここで日夏耿之介の詩人としての経歴を振り返っておきます。大雑把に言うと、彼は生前、四冊の詩集を公にしております。

  1. 『転身の頌』(1917年、作者27歳)
  2. 『黒衣聖母』(1921年、作者31歳)
  3. 黄眠帖こうみんちょう』(1927年、作者37歳)
  4. 咒文じゅもん』(1933年、作者43歳)

この第四詩集『咒文』までで詩筆を断ち、以後、批評へと転じております。
この新潮文庫版『日夏耿之介詩集』では、これらの詩集に収められた作品が発表年代と逆順に収録されています。すなわち巻頭にいきなり第四詩集『咒文』が来て、以下『黄眠帖』『黒衣聖母』『転身の頌』の順に配列されているのです。
これはおそらく作者としては最後の詩集『咒文』にもっとも自信があり、それ以前の作品は自身の詩技の未熟な時代の作品(彼のよく使う言葉によれば「若書き」)に過ぎぬ、と考えていたからではないかと察せられる。これはもちろん根拠のあることで、こと完成度という点では、この『咒文』に収められたわずか四篇の詩が他を圧倒していることも事実なのです。ただ私見では、この『咒文』および第三詩集『黄眠帖』は、第二詩集『黒衣聖母』において彼が創出したいわゆる「ゴシック・ローマン詩体」の延長線上にありながら、彼の初期の詩を特徴づけていた表現の華やかさを次第に失い、日本の伝統的ないわゆる「わび・さび・しをり」等の世界へと回帰して行こうとする傾向が見受けられる。これに対して日夏の詩の現在および未来における存在意義は、むしろ初期の『転身の頌』や『黒衣聖母』における伝統的な抒情からの「逸脱」もしくは「破壊」にこそあり得るのではないか、と私には思われるのです。したがって、もし今後もこのブログで日夏の詩をご紹介する機会があるとすれば、おそらく『転身の頌』や『黒衣聖母』からになることが多いであろうと、今は考えております。
この新潮文庫版ですが、残念なことに、誤植があります。『黄眠帖』に収められた「東方腐儒ふじゆの言葉」という風刺詩の最終行から数えて九行目、

はてしなくも かの徳川の御慈世の末期
俄露斯おろしあ国エカテリイナ女帝によていの寵遇を獲て帰朝かへりたる漂民らが
外情を普遍するゆゑをもて上陸禁止を命ぜられし其の折の孤愁を思ひうかべ…

とあるところ、「徳川」が「億川」と印字されています。
なお上の三行で日夏が言及しているのは申すまでもなく、大黒屋光太夫らの大冒険の物語です。井上靖が『おろしや国酔夢譚』を発表する四十年前に、日夏はすでにこのネタを詩に使用していたわけです。

日夏耿之介詩集 (新潮文庫)

日夏耿之介詩集 (新潮文庫)

 
思潮社現代詩文庫版『日夏耿之介詩集』

現在もっとも入手しやすいのがこの版ではないかと思います。しかし新字体に書き直されている上に、二段組のせいか、新潮文庫版より活字が小さく感じられ、要するに読んでいてさっぱり感興が湧かず、日夏の詩のファンである私でさえどこがいいのかわからなくなるような代物です。「近所の図書館にはこれしかなかった」などという場合は致し方ありませんが、もし初めて日夏の詩に触れられるのであれば、出来れば避けていただきたいヴァージョンです。

日夏耿之介詩集 (1976年) (現代詩文庫〈1011〉)

日夏耿之介詩集 (1976年) (現代詩文庫〈1011〉)

 

以上、皆さんが日夏の詩に親しまれるきっかけとなれば幸いです。

葉室麟『墨龍賦』其之四

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明治時代の錦絵で、信長(右端)をまさに討たんとする安田作兵衛国継(中央)と、これを止めようとする森蘭丸(左)。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる葉室麟はむろ りん歴史小説墨龍賦ぼくりゅうふ』の紹介記事、第四回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


春日局は語る⑨本能寺炎上

天正10年5月29日、愛宕山参詣・百韻終了後、明智光秀は4人の重臣たちのみを招集し、謀議をします。メンバーは娘婿の明智左馬之助秀満、従兄弟の明智次右衛門光忠、家老藤田伝五、斎藤内蔵助利三です。光秀は彼らに何かを打ち明けたようです。
6月1日、「上様が中国出陣の閲兵を行うので京都に向かう」と触れを出します。誰も疑いません。雨でぬかるんだ丹波街道を京都に向かって、13000人の明智勢が進軍します。その間、安田作兵衛を偵察に向かわせます。同時に信長に通報する者がいないか警戒を怠りません。
6月2日未明、明智勢は桂川西岸に到着し、戦闘の準備をします。この時、友松は対岸の葦原に潜んでいました。一晩待ったところ、軍馬の蹄や剣の触れ合う音が聞こえました。 長い列を作って桂川を渡河する明智勢を見た友松は、思わず飛び出します。光秀は魔王信長を倒す正しい使命を果たすのだと気持ちが高揚し、彼はやはり蛟龍だったと感激し、新たに龍神雲龍のイメージを膨らませるのでした。そしてその先導役は武士の守護神・摩利支天が乗り移ったかのような斎藤内蔵助に違いありません。明智勢は桔梗紋の幟を立て、本能寺を蟻の這い出る隙間もないように包囲し、火矢を放ちます。信長の警護は30人の小姓達だけです。衆寡敵せず、小姓達は斃れてゆきます。信長は、当初自ら弓を射て応戦しますが、全部つるが切れてしまいます。次には槍を持って奮戦しますが、傷を負います。そこで奥へ退き、女房衆に対して有名な「女子は苦しからず、急ぎ罷り出でよ」との指示を出します(ちなみに信長は実は女性で、この時本来の姿に戻り、女房衆に紛れて脱出したので遺体が見つからなかったとの説があります)。本堂に火が回り、信長は切腹します。享年49歳。討ち入りが終わったのは、午前8時頃でした。
信長の遺体を探しますが見つかりません。不安に陥る光秀に、内蔵助は「信長が火の中へ入ってゆくのをそれがしが見て御座る」と言って光秀を安心させます。次なる標的は妙覚寺にいる中将信忠です。 信忠は父信長を助けに行こうとしますが、状況が理解できると断念して、二条新御所に籠もり、たとえ敵わなくとも戦う腹を決めます。その前に、誠仁親王を無事脱出させます(この間明智勢も休戦に応じる)。 自ら討って出た信忠側は奮戦しますが、明智勢が近衛前久邸の屋根から鉄砲を撃ちかけると、500人の手勢も次々と討ち死にしてゆきます。 信忠は父信長と同じ様に炎の中で自刃します。享年26歳。
友松は、明智勢が気勢を上げる焼け落ちた本能寺跡や、二条新御所の界隈を歩きます。そして何事にも派手好きだった信長の時代が終わり、豪華絢爛を旨とする狩野永徳の時代もまた終わった事を全身で感じ取っていました。質実剛健で、私怨に因らず、天の裁きを行う気概のある光秀の時代が来るならば、その絵師として、存分に自分の腕を振るうことが出来ると希望が湧きます。それと同時に友松の脳裏には“雲龍図”の構想が浮かび上がってくるのでした(以上、本能寺の変については伊藤眞夏『ざわめく竹の森』をご参照いただければ幸いです)。

春日局は語る⑩光秀の迷走

恵瓊えけいは、羽柴秀吉の軍師黒田官兵衛から、光秀謀反・信長死すとの知らせを受け取ります。 秀吉は備中高松城を水攻めして、落城寸前まで追いつめています。毛利家は、このまま高松城城主・清水宗治を見殺しにしては外聞が悪いと、外交僧の恵瓊を和睦の交渉役に派遣して、条件を協議している最中でした。しかし信長の死により事情が変わります。
官兵衛(秀吉側)は信長の側近の長谷川宗仁からの書状を読んで、恵瓊(毛利家側) に協力か自死かどちらかを選択せよと迫ります。勿論恵瓊は協力関係を選びます( 官兵衛と恵瓊の二人が揃ったら、どんな謀略でも成立します)。早速和睦を清水宗治に上申します。毛利家の対面を傷つけず、高松城に籠もる将兵たちの命を助ける方法はただ一つ。そうです。城主清水宗治切腹です。恵瓊が説得工作をします。6月4日、高松城を囲む水面に一艘の小船が出ます。清水宗治は、猛将にふさわしく、見事に切腹します。それを見届けた秀吉勢は、すぐさま中国路からの撤退を開始します。所謂“中国大返し”です。
毛利家では好戦派の吉川元春が秀吉に追手を掛けようとしますが、小早川隆景や当主の毛利輝元は「既に和睦は成った。破っては毛利の名が廃る」と引き止めます。恵瓊はほっと胸をなでおろします。それにしても光秀が主殺しをするとは、偽の国譲り状が効きすぎたか。しかし秀吉は首尾よく光秀討伐を成し遂げるであろう、と北叟ほくそ笑みます。毛利家では未だに元就公の「毛利家は天下を望まず」の遺訓が生きているのです。
光秀は安土城を接収後、近江・美濃の二ヶ国を支配します。6月8日に坂本城に帰還し、 9日には京都に入ります。朝廷や寺社に安土城の金銀財宝を献上します。 ここまでは順調に進みました。
秀吉東上の噂を聞き、半信半疑ながら鳥羽に出陣します。そこで細川藤孝高山右近中川清秀、筒井順啓等を待ち受けますが、誰一人として明智勢と合流しません。
光秀にはざっくりと二つの不安要素があります。一つは「主殺し」の汚名が予想以上に重くて返上しがたい事。もう一つは羽柴秀吉が恐るべきスピードで東進してきて、勢いがあることです。負ける博奕は打てません。よって光秀が書状で催促しても、誰一人として明智勢には加勢しません。細川藤孝は自分の髷を返事として使者に渡します(出家して細川幽斎を名乗る)。光秀が密かに挟み撃ちを期待していた毛利家も動きません。結局秀吉軍26000人に対し、16000人の手勢で戦う羽目となります。光秀は坂本城籠城は不利と考え、山崎(後のいわゆる西国街道への入り口)を合戦の地に選びます。しかし13日午後、敗北が決定的となり、勝龍寺城に逃げ込みます。同日深夜、坂本城への帰り道、小栗栖おぐるすの竹藪で農民に襲撃され、重傷を負います。落命を覚悟した光秀は、重臣溝尾庄兵衛に介錯させて、自刃します。山崎の合戦に従軍した斎藤内蔵助は堅田で捕らえられ、17日に六条河原で処刑されます。享年49歳。 光秀主従の首級は本能寺跡に晒されます。更に内蔵助の首のない胴体は、粟田口で磔柱はりつけばしらに括り付けられます。(つづく)

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

墨龍賦 (PHP文芸文庫)