魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

テレビドラマ版『惡の華』第八話と映画『小さな悪の華』

お父さんたちに取り押さえられる仲村サン(お父さん、よくやった!!)。kenjiさんの「ドラマ『惡の華』 第8話 感想|仲村さんは春日くんを生かした」という記事から拝借しました。お許しを。

この記事は、kenjiさんとおっしゃる方の、下のnote記事に触発されたものであることを、最初にお断りしておきます。

note.com

『小さな悪の華』における「演説」と「炎上」

「学芸会」で詩を暗唱するアンヌ(右)とロール。www.imdb.comより。

多くの方が指摘している通り、日本のテレビドラマ版『惡の華』第八話の冒頭、春日クンと仲村サンが夏祭りのやぐらの上を占拠して「心中」を図るシーン、これは1971年のフランス映画『小さな悪の華(原題「われらを悪より救うなかれ」)』のラストシーンに酷似している。この映画、私はこれまでダイジェストでしか知らなかったのですが、今回FODのレンタルサービスで、全編視聴することを得ました(440円)ので、少しご紹介します。ちなみにフランス語版ウィキペディアでは、この『小さな悪の華』が押見修造氏の『惡の華』に与えた影響について、次のように触れられている。

押見修造のマンガ『惡の華』は、漫画家自身の言うところによれば、この映画から間接的にインスパイアされている。彼は日本の評論家、町山智浩が、この映画について論じたポッドキャストから影響を受けたと語っている。『小さな悪の華』を一度も観たことのないまま、彼はマンガ『惡の華』第一巻においてこれとパラレルな世界を描き出し、映画を観てからは、これを「必見の映画だ」と考えている。
(フランス語版ウィキペディアの『小さな悪の華』のページより)

『小さな悪の華』のあらすじはこんな感じ。ヒロインはアンヌとロールという二人の仲よし女子中学生(フランスの「八年生」=日本の「中学二年生」だそうです)で、カトリック系の女子校(寄宿舎付き)の生徒である。二人とも裕福な家庭の一人娘で、何不自由なく暮らしているように見えるが、雰囲気がかなり旧態依然とした地方に定住しているせいか、実際にはヒマと情熱を持てあましている。彼女たちは意気投合し、庭師を巻き込んでひそかに「黒ミサ」を執りおこない(「黒ミサ」についてはこちらの記事参照)、サタンに忠誠を誓って、さまざまな悪事を重ねていく。
その悪事の動機がすべて稀薄で、「愉快犯」というのか、ただ単に面白いから、としか見えないところが恐ろしい。また上の「黒ミサ」でもわかる通り、彼女たちには文学趣味があって、ベッドの中で、一緒にロートレアモンの『マルドロールの歌』やボードレールの『悪の華』を読みますが、文学的な美しさに感動しているというよりは、ただ単に内容の過激さに興奮しているだけといった感じです。
この映画の最後の「学芸会」のシーン、これがテレビドラマ版『惡の華』第八話の冒頭のシーンと鮮やかに照応しているのですが、ここで夏祭りのやぐらの上を占拠した春日クンと仲村サンは、「演説」というか、何かオリジナルのポエム(?)のようなものを一緒に唱えますね。これに対して『小さな悪の華』では、舞台に現れたアンヌとロールは、おそらくは客席の父兄にもお馴染みかと思われる詩を三つ、暗唱します。以下、ネタバレも含めて、少し詳しく書きます。
一つ目の詩は、私にはちょっとわかりませんが、何か童謡のようなリズミカルな詩です。朗読が終わると、客席から拍手喝采が起こります。
二つ目の詩は、ボードレールの「恋人たちの死」というソネットです(拙訳はこちら)。たいへん美しい詩で、父兄は大喜びですが、シスターたちは「リハーサルと違う」と言って騒ぎ始める。
そして最後に歌われるのがボードレールの「旅」という詩の、非常に有名な最終二詩節です。こちらの記事で、鈴木信太郎博士による格調高い名訳を紹介しておりますが、ここでは拙訳から引用します。

「死」よ 年老いた船長よ 時間だ 船を出してくれ
この地にはもううんざりだ 「死」よ 他界へと出帆だ
夜空も海も真っ黒に塗りつぶされていようとも
僕らの胸は 知る通り まばゆい光に満ちている

元気をくれる猛毒の波を僕らにぶっかけろ
その火によって脳髄を炎上させた僕たちは
「天国」だろうが「地獄」だろうが 底の底まで堕ちに堕ち
「未知」の奥地に 新しい何かを探し求めたい
(ボードレール「旅」eureka0313訳)

朗読が終わると、父兄の目の前で、少女たちはガソリンをまいて、火をつける。ちなみに日本のテレビドラマ版『惡の華』第八話でも、春日クンと仲村サンは、何か可燃性の液体を頭からかぶって火をつけようとするのですが、あれは本人たちは、おそらくガソリンをかぶったつもりで、周囲の人たちもてっきりそう思い込んで、爆発に巻き込まれまいと逃げ惑ったにもかかわらず、実際には何らかの偶然もしくは運命のいたずらによって、中身が灯油にすり替わっていた、という解釈でよろしいのでしょうか。

「死」を美化しない仲村サン

さて、ドラマ『惡の華』では、「演説」が終わると、仲村サンは春日クンをやぐらの上から突き落とし、このように言う。

春日クン、バイバイ。私は一人で行く。

何と美しいセリフでしょう。シェイクスピア顔負けです。そしてここで大いに納得させられるのが、上にリンクを貼ったkenjiさんとおっしゃる方の記事の中の、非常に鋭い指摘です。

この一連の場面で、僕が何より惹きつけられたのは表情でした。原作では、櫓の上の仲村さんと春日くんは、二人ともよく似た陶酔の表情で描かれています。ところがドラマでは、そこに明確な差がつけられていました。春日くんが「抽象的な死」を想い、陶酔するような顔をしている一方、仲村さん(あのちゃん)は、眼前の死を見据え、覚悟を決めたような表情をしているのです。
この差は決して偶然ではないと思います。このあと仲村さんが春日くんを置いて一人で死のうとする、その選択への補助線として見事に効いてくるからです。言葉でいっさい説明しなくてもその選択に説得力が宿るのは、ここであのちゃんが「陶酔した顔」ではなく「覚悟を決めた顔」をしているからだと思います。
(「ドラマ『惡の華』 第8話 感想|仲村さんは春日くんを生かした|kenji 」より)

これは実に面白い。ここはおそらく原作通り、二人とも「陶酔の表情」をしている方が、このドラマの制作者の意図にはかなっているでしょう。この第八話のメディアの煽り文にも、

夏祭り当日、櫓の上で、1本の包丁を2人で持ち、群衆に向けて突き出し叫び始める。その場に警察が駆けつけるものの、恍惚な表情で群衆を見下ろし、全身に灯油をかぶり、溜め込んだ思いを絶叫し続ける。(www.crank-in.netより)

などとありますからね(ちなみに「恍惚な表情」などという日本語はない)。それがもし実際のドラマの中では、美化された「死」の幻想に酔っているのは春日クンだけで、仲村サンの方は、あくまでも冷め切った目で、間近に迫った本物の、醜悪な「死」を見つめているのだとしたら、それはおそらくこの仲村サン役の俳優さんの独自解釈で、監督はそれを容認したということだろうと思います。この仲村サン役のあのさんとおっしゃる方は、あるいは実生活でも、このような修羅場を何度か経験されているのかも知れませんね。

 

 

 

 

(日本語訳)ランボー「祈り(Dévotion)」

アルマン・ゴーチェ「三人の尼僧」。コルネットをかぶっている。ちなみにコルネットは白いのが当たり前で、ブルーのコルネットなんか実在しないと思います。ウィキメディア・コモンズより。

わが修道女シスター、ルイーズ・ヴァナン・ド・ヴォランゲムへ。――「北海」を向いたブルーの尼僧帽コルネット。――漂流する遭難者たちのために、祈りを。
わが修道女シスター、レオニー・オーボア・ダッシュビーへ。願わくは――うるさい夏草、くさい草――母子ぼし解熱げねつのために、祈りを。
ルルへ。――悪魔め。――君は「女友だち」時代、学業怠慢少女時代から、礼拝堂オラトワール通いは欠かさなかった。――男たちのために祈れ。××夫人へ。
在りし日の若き私へ。この年老いた聖者へ、現役であろうと世捨て人の身であろうと。
最下層の人々のエスプリへ。最高位の聖職者へ。
同様に、記念すべき礼拝所における、すべての礼拝へ。および一瞬の気の迷い、もしくはわれわれが根っからの悪人である所以ゆえんのものにしたがって、人が参加しなければならない行事における、あらゆる礼拝へ。
今宵、シルセートへ――すなわち鮮魚のごとく肥満せる、真っ赤な夜の十ヶ月間のごとく燦然たる、大氷塊のシルセートへ。――(その心臓は琥珀の色の導火線)――願わくはこの闇夜の国のごとく無言なる祈りのために――そしてまた、この北極のカオスよりもなお狼藉を極めた蛮行のさきがけとなるであろう、そんなわが唯一無二の祈りのために、祈ってくれ。
どんな代償を支払おうとも、どんな姿になろうとも、たとえ形而上学メタフィジークの海に漂おうとも――だがそれが最後だ。


*ラコスト版『イリュミナシオン』40。原文はこちら

テレビドラマ版『惡の華』第七話の感想

「帰れない二人」。テレビ東京の公式ホームページより。

テレビドラマ版『惡の華』の第七話を観ました。良かったです。まあ、「衝撃的」なシーンはもちろん、たくさんありましたが、個人的には、春日クンの家に警察が来たり、春日クンがご両親ともども学校に呼び出されたりするシーンが(ずっと忘れていた)私自身の十代のころと重なって、胸に来ましたね。今は親の気持ちも子どもの気持ちも、どちらも理解できるからです。
この『惡の華』というストーリーを把握する上で、重要な要素の一つに「時代」というものがあると思います。これが「昭和」の話なのか、「平成」の話なのか、ほんというと、私にはよくわからないのですが、とにかく「令和」の話でないことだけは確かでしょうね。今この二人(春日クンと仲村サン)のような騒ぎを起こせば、即「人生終了」となる可能性がありますから。あるいはこの『惡の華』全体が、「古き良き時代」の物語ということになるのかも知れません。
これは今、まさにこの令和の時代を、じたばたしながら必死に生きている若い人たちには解りようもないことですが、われわれくらいの年齢になると、時代の空気の変化というものが、肌でわかるのです。この辺をいちいちエビデンスを示しながら書くと長くなるのですが、おおざっぱに、わかりやすく言えば、人と人とのつながりが希薄になって、人情味が薄れてきているわけですね。そしてこの「人情」とはすなわち「ヒューマニズム」でありまして、かつては民衆間の暗黙の了解のうちに脈々と息づいていたこの「ヒューマニズム」が、「人権」だとか、「平等」だとか、いま流行りの「サステナビリティ」だとかいった言葉によって、制度化され、スローガン化され、建前化されることによって、生命力を失い、形骸化し、衰弱していく。特に注目に値するのが、インターネットの発達、とりわけSNSの普及によって、上に触れた「人と人とのつながり」というものが、ますます稀薄になっていくという逆説的現象です。確かに、今ほど「生きづらい」時代はない。そもそもこの「生きづらい」という表現自体が、私の若いころにはありませんでした。この言い回しは今の時代の雰囲気をよく表していると思います。結論として、自己を隠蔽し、この超管理社会に過剰適応しながら生きている、仲村サンのいわゆる「クソムシ」どもの天下はまだまだ続くでしょうし、「向こう側」にあこがれる純粋な魂たちにとって、時代環境はますます苛酷なものとなっていくでしょう。少子化で滅びる前に、日本は早晩「オワコン」化してしまうかも知れませんね。

 

 

 

(日本語訳)ボードレール「もはや!(Déjà !)」

ロバート・チャールズ・ダドリー「グレート・イースタン号の甲板風景」(1868年)。グレート・イースタン号は19世紀最大級の客船と言われる蒸気船。ウィキメディア・コモンズより。

その端っこもわからないほど広々とした、この海という水槽。そこから太陽は、すでに百回も、時には華々しく、時にはしょんぼりと、姿を現した。すでに百回も、時には燦然と、時には暗然と、夕波の巨大な湯船に身を沈めた。すでに何日も前から、僕らの目には、空の果てを超えた世界の空の色が映っていたし、地球の裏側で見る星空に、僕らはアルファベットを読むこともできた。全乗客が呻吟していた。あたかも陸地が近づけば近づくほど、彼らの苛立ちは募るかのようであった。「いったい何時いつになったら」と彼らは言うのだった。「波にゆさぶられない眠りや、われわれよりも大鼾おおいびきをかく海風に邪魔されない睡眠が取れるのか。いったい何時いつになったら、ぐらつかない肘掛け椅子で、食後の一服を楽しめるのか」
一家団欒が忘れられない者もいた。他の男を愛している冷たい妻のことや、金切り声で泣き叫ぶ子や孫のことを懐かしむ者もいた。彼らは皆、家畜よりもよろこんで、草を食べそうだった。それほど地の幻像イマージュに飢えていた。
ついに、陸が見えたという知らせが来た。そうして近づくにつれ、それが素晴らしい、絢爛たる大地であることがわかってきた。生命いのちの音楽が、そこから漠たるささやきとなって解き放たれ、あらゆる種類の緑色に覆われたその浜辺からは、花と果実の甘美なかおりが、何リューにもわたって漂っているかに見えた。
たちまち、船はよろこびに包まれた。全員が機嫌を直した。あらゆるいさかいは忘れられ、あらゆる互いの非はゆるされた。決闘の約束は記憶から消去された。怨恨は雲散霧消した。
ただ僕だけが悲しかった、言語に絶するほど悲しかった。あたかも信仰の対象を奪われた僧侶のごとく、僕は断腸の思いなくして、海と別れることができなかった。化け物じみた魅力を誇る海。その恐るべき単純のうちに、無限の多様性を秘めた海。ありとあらゆる生きとし生けるものの喜怒哀楽をその内面に有するがごとき海。あらゆる心の動きをその戯れや、振舞いや、怒りや微笑ほほえみによって見せびらかすがごとき海。
この比類なき美女に別れを告げることは、僕には死ぬほどつらかった。だから他の人々が口をそろえて「やっと!」と言った時、僕だけは「もはや!」と叫ぶことしかできなかったのだ。
だがそれは大地だった。すなわち喧騒と、情熱と、慰安と、祝祭が住む大地だった。それは約束に満ちみちた、豊饒にして壮麗なる大地で、薔薇と麝香の妖しいかおりを発しながら、そこに流れる生命いのちの音楽は、愛のささやきとなって僕らの耳に届いた。


*小散文詩集『パリの憂鬱』34。原文はこちら

(日本語訳)ボードレール「贋金(La Fausse Monnaie)」

ルイ15世時代のスー銅貨。ウィキメディア・コモンズより。

タバコ屋を出ると、僕の友だちは、硬貨を注意深くり分け始めた。まず、チョッキジレの左ポケットに小さな金貨を、右ポケットに小さな銀貨を入れた。それから半ズボンキュロットの左ポケットに大きなスー銅貨をたくさん、そして最後に、とりわけよく吟味した2フラン銀貨を一枚、半ズボンキュロットの右ポケットに滑り込ませた。
「分け方が奇異で、細かい」と僕はひそかに思った。
僕らは、ふるえる手で帽子キャスケットを差し出している、一人の乞食に出くわした。――僕はこの、物乞いをする者の目の無言の雄弁ほど、人を動揺させるものを知らない。実に多くの卑下ひげと、実に多くの批難とを、読むすべを知る者は、そこに読む。そこには鞭打たれた犬の涙ぐんだ目の中にある、あの割り切れない感情の深さに似た何かがある。
友の施しは僕の施しよりもはるかに高額だった。僕は言った。「君は正しいね。人を驚かすよろこびは、人に驚かされるよろこびに次ぐ、最大のよろこびだ」「贋金だよ」彼はあたかも浪費を弁解するかのごとく、静かに答えた。
しかしながら、十四時において十二時を探し求むるがごとき徒労に追われるわが脳髄――自然は僕に、何としんどい才能を与えてくれたことだろう――そんなわが脳髄に、こんな考えが浮かんだ。すなわち、わが友が犯したこの不正行為は、彼の身になって思えば、これがもっぱらあの乞食の人生に何か事件を起こしてやりたい――そうして一人の貧乏人が贋金を手にした場合、吉凶を問わず、そこに起こり得る様々な結果について、これをつぶさに見極めたい――そのような欲望から発したものであるとすれば、その限りにおいてのみ、情状酌量の余地がある、と。贋金は、本物のお金となって増殖しないだろうか。さもなくば、あの乞食をブタ箱にぶち込まないだろうか。たとえばどこかの居酒屋キャバレーの店主、あるいはどこかのパン職人が、彼を贋金作りとして、または贋金を流布させたかどで、警察に突き出すかも知れぬ。はたまたその偽造通貨は、一介の弱小投資家にとって、数日にして財を成すきっかけとなるかも知れぬ。このように僕は、わが友に代わって想像力を働かせ、あらゆる可能な仮説から、あらゆる可能な帰結を導き出しつつ、夢を膨らませた。
ところが、友は藪から棒に、僕のセリフの真似をすることで、僕の夢想を中断した。「いや、君は正しいね。人に期待以上のものを与えることで、人を驚かす、これにまさるよろこびはない」
僕は彼の目をまじまじと見た。そうしてその目がまったく無邪気に光り輝いているのを見てゾッとした。その時、僕にははっきりとわかった。彼は慈善行為とうまい商取引とを同時にやりたかったのだ。40スーをもうけて、「神」の歓心をも得たかったのだ。天国をお得にゲットしたかったのだ。果ては慈善家の肩書きをも、タダでせしめたかったのだ。実は彼が胸に抱いているのではないかと、僕が夢想していたあの罪深い快楽に対する欲望について言えば、僕はもう少しで彼を許してしまうところだった。彼がその陰謀に、貧乏人たちを巻き込んで楽しむのを、僕は奇抜だとも素敵だとも思うところだった。だが彼の打算の馬鹿馬鹿しさは断じて許せない。もちろん、悪事に言い訳など通用しない。だが自分が悪人だと自覚することには多少の美点メリットがある。本当に付ける薬のない悪人とは、浅はかな思いつきから悪事を働く者である。


*小散文詩集『パリの憂鬱』28。原文はこちら