魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

多島斗志之『黒百合』

f:id:eureka0313:20190818092134j:plain

文庫版のカバー。六甲山上のヒョウタン池をイメージしたもの。amazon.co.jpより。

表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

多島斗志之について

多島斗志之『黒百合』(東京創元社)を読了して。
1989年『密約幻書』、1991年『不思議島』で2度の直木賞候補に輝きました。筆者の好みは、明石元二郎台湾総督・陸軍大将の鞄の中身に端を発する国際謀略小説の『密約幻書』です。
多島斗志之氏は2009年、京都市内のホテルをチェックアウトした後失踪し、現在に至ります。失踪の原因は両眼が失明し、執筆活動が出来なくなるのを苦にしたとか。健在であれば今70歳代後半に差し掛かる頃でしょうか?

『黒百合』の登場人物

f:id:eureka0313:20190818085433j:plain

若き日の小林一三ウィキメディア・コモンズより。

では『黒百合』に参りましょう。
『黒百合』は寺本進、相田真知子、浅木謙太郎の3人の視点から描かれています。
他にも多士済々の人物が登場します。阪急電鉄東宝宝塚歌劇団等を創立した実業家小林一三翁と思しき人物小芝一造。とても客商売とは思えない客あしらいをする喫茶店オ-ナの通称「六甲の女王」。1950年頃の時代の常態とはいえ男として情けない、人でも品物でも、手に入れるまでは夢中になっても、飽きたらそれっきりの倉沢貴久男。もっと情けなくお金にだらしない倉沢貴代司。ちなみにこの二人は倉沢日登美の長兄と次兄ですが、富裕層のボンボンはこんなもんですね。そして地味ではあるが、手先が器用で、働きもので、実は倉沢日登美と並ぶくらい美しい浅木のおばさんは何と小芝一造とも直につながりがあります。

六甲の別荘に逗留

f:id:eureka0313:20190818084052j:plain

「池の向こうはゴルフ場や。日本でいちばん古いゴルフ場や」。神戸ゴルフ俱楽部のクラブハウス。公式ホームページより。

寺本進(14歳)は、父の友人の浅木さんの“街より気温が8℃低い(標高737メートル)からきっと過ごし易いよ”の言葉に惹かれて浅木家の別荘にひと夏逗留する。はしっこい浅木一彦とヒョウタン池で遊んでいるとき、偶然に倉沢香(14歳)と出会い仲良くなります。そんな小さなきっかけから3人は、進の観光案内(?)も兼ねて展望台へ行ったり、ハイキングをしたり、池で泳いだり、避暑地の夏休みを満喫します。但し天狗山のハイキングの時、付き添いの浅木謙太郎は、足をくじいた香を背負おうとはしません。息子達にさせます。何かあるのでしょうか?

倉沢香の境遇

f:id:eureka0313:20190818070425j:plain

神戸女学院中高学部。その一部が国の重要文化財に指定されている美しい建築群。公式ホームページより。

地元では有名な神戸女学院の中学部の生徒です。六甲では誰もが知っている大きな家に住み、お抱え運転手もいて、超高級外車のビュイックオースチンに乗るというと如何にも恵まれた環境のお嬢さんに見えますが、実母を亡くし、父の正妻の継母に引き取られて、しかもその後父は1945年に死亡しています。実母死亡時、香は身寄りが無い小学生ですから、嫌でも昔でいう本宅で暮らすしかないのです。継母と異母兄は、当然香に辛くあたるか、無関心です。唯一の味方は叔母の倉沢日登美です。まあ何処の家にも事情はあるでしょう。私立のお嬢さん学校に通う家庭には、往々にしてよくある話です。
案の定、進と一彦は倉沢家に出入り禁止になってしまいますが、そこは柔軟闊達な少年たちのこと、香とうまく連絡を取ります。ところで、出入り禁止になる何があったのでしょうか?

倉沢貴代司の死

そうこうしているうちに、デカダンス派、ギャンブル依存症境界性人格障害の倉沢貴代司が射殺死体で発見されます。凶器はワルサーP38、ルパン三世の愛用の拳銃ですね。周囲は俄然騒がしくなり、当然警察も捜査をします。進や香も話を聞かれます。しかし結局殺人犯は見つかりませんでした。案外と近くにいるような気配がしないわけでもないのですが。

夏休みの終わり

f:id:eureka0313:20190818074215j:plain

六甲ケーブルの山上駅はコンクリート造りだが、どこか古めかしい雰囲気がある。アール・デコ風なのだ、と一彦は言う」。六甲ケーブル山上駅。竣工当時の駅舎が現在も使われ、経産省の「近代化産業遺産」に認定されているとのこと。mushimap.com/rokkoより。

六甲ケーブルでのお別れの場面は何とも切ないですね。
見送りに来てくれた浅木のおばさんが転倒し、義足だったことに進はやっと気が付きます。
大人たちの話によく出てくる「美青年にも間違えられそうな容貌のベルリンの彼女」とは誰の事を指すのでしょうか?

時間は確実に過ぎていき、老境となった進が思い出した事柄とは何でしょうか?
六甲の避暑地での出会いは、淡い恋で終わることなく、香と一彦は結婚していて、今でも行き来があります。

スリードを誘う多くの伏線が張り巡らされた作品です。そして最後にアッという仕掛けが施されています。倉沢貴代司や日登美のボードレ-ルの詩の暗唱も読み応えがありますよ。

東海地方出身の筆者には京阪神地区の会話(『細雪』のような)は、なかなかピンとは来ませんが。
避暑地気分を味わいたい方、叙述ミステリーに興味のある方、多島斗志之作品に興味のある方、1940~1960年頃の日本人の日常生活や六甲山周辺に興味のある方にお薦めします。
天一笑 

黒百合 (創元推理文庫)

黒百合 (創元推理文庫)

 

ルネ・ヴィヴィアン『一人の女が私の前に現われた』へのイントロダクション――ゲイル・ルービン(3)

f:id:eureka0313:20190816143622j:plain

パリはマレ地区のタンプル通りとオードリエット通りの交差点にある「ルネ・ヴィヴィアン広場(La place Renée-Vivien)」。2007年命名ウィキメディア・コモンズより。

「…頭上に冠をいただいた
 他の九柱のミューズたちが、アポロの周りにたたずんで、
 苦悩にさいなまれながら、恐れおののいていた時、
 十番目のミューズが、彼女たちの知らない素晴らしいことどもを歌った。
 十番目とは、レスボスのミューズであった」(スウィンバーン)

サフィズムが彼女の知性を育んだのか?それとも知性が彼女をレズビアンとしたのだろうか?」(ジャン・ロワイエールがナタリー・バーネイについて言った言葉)


ルネ・ヴィヴィアン(Renée Vivien, 1877 - 1909)*1は1877年にポーリーン・メアリー・ターンとしてイギリスに生まれた。母親はアメリカ人で父親はイギリス人だった。ターン家はロンドンの穀物市場での取引で財を成したもののごとくである。ルネは教育を受けるためパリへ送られ、そこで家族とともに暮らしていたアメリカ人少女、ヴァイオレット・シリトー(Violet Shillito, 1877 - 1901)と出会った。
ヴァイオレットはルネの生涯における最重要人物のうちの一人となった。二人の少女は最初のうちは親友であり、人生の意味について意見を戦わせ、ともにイギリス国教会の教義を拒絶した。思春期の訪れとともに、ルネはヴァイオレットに対してある激しい、それでいて決して遂げられることのない想いを胸に抱くようになった。
恐らくはその感情の意味するところのものを悟らないうちに、ルネは両親によってイギリスに連れ戻され、社交界デビューに備えることとなった。今や彼女は自分が不幸であると感じ、ヴァイオレットのもとへ戻ることばかりを考え、どこにでもいる良家のお嬢さんとして、体裁上、花嫁修業に励まなければならないことに始終激怒しているという状態に陥った。ルネは1897年、二十歳の頃、遂にヴィクトリア女王の客室付き侍女となって家を出たが、翌年にはパリへ渡り、そこで1899年、ヴァイオレット・シリトーを介して知り合ったナタリー・バーネイと初めて性的関係を結んだ。

f:id:eureka0313:20190816154111j:plain

ナタリー・クリフォード・バーネイ。kaykeys.netより。

ナタリー・バーネイ(Natalie Clifford Barney, 1876 - 1972)はオハイオ州デートンにおいて1876年のハロウィーンの日に生まれた。バーネイ一家は当時シンシナティで暮らし、そこで鉄道事業によって巨万の富を築いていた。バーネイ一家は次にワシントンへ移り住んだ。ナタリーはその少女時代の多くをフランスで過ごし、そこでドロシー・ストレイチー(Dorothy Strachey, 1865 – 1960)の小説『オリヴィア』*2によって不滅のものとなった女子校、レ・リュッシュ女学院に通っていた。彼女はまた母親のアリス・パイク・バーネイ(Alice Pike Barney, 1857–1931)が絵を習いに行くのに従って、短期間パリに滞在したこともあった。
彼女の回顧録は著者の驚くべき早熟ぶりを伝えている。彼女はある時ヨーロッパへ家族旅行に行って、そこで男の人が手ぶらで歩いているかたわらで犬を連れた女の人がカートを引きずっている姿を見て自分はフェミニストになったのだと言っている(ナタリー・バーネイ『ぶしつけな回想』1960年)。そのころ彼女はまだ十歳の子供だった。同じ年、彼女の母はカロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837 – 1917)にナタリーの肖像を描いてもらうよう取り計らった。ナタリーはその生涯を通じて衰えることのなかったセンスのいい懐古趣味を発揮して、ヴェネツィアの小姓としてポーズをとり、それは緑色のビロードのダブレットによって完璧なものとなった。*3

f:id:eureka0313:20190816122416j:plain

カロリュス・デュラン作「10歳のナタリー・バーネイ」。ウィキメディア・コモンズより。

ナタリーは自分がレズビアンであることを幼いころから知っていて、後年、自分の受けた教育が何も実を結ばなかったとしたら、それは「私の唯一の読書は女たちを眺めることだった('My only books were women's looks.')」からだと言っている。エヴァ・パーマー(Evalina Palmer,1874 - 1952)という名の赤毛の美少女と初めての情交を体験した時、彼女は十六歳だった。二人が出会ったのはメイン州のバーハーバーで、双方の家族が夏期休暇でそこへ来ていたのだった。

f:id:eureka0313:20190817125837j:plain

肖像画家だったナタリーの母アリス・パイク・バーネイが描いたエヴァ・パーマー。のちにギリシャ人の男性と結婚してエヴァ・パーマー=シケリアノスと名乗った。ウィキメディア・コモンズより。

1899年、ナタリーはパリに居を構えた。彼女はただちに当時のパリにおけるもっとも有名なクルチザンヌの一人、リアーヌ・ド・プージイ(Liane de Pougy, 1869 - 1950)を誘惑した。プージイはこの交渉に関する実話小説『サッフォーの牧歌』を執筆した。その中に描かれた若きナタリーは、男性の作った法の不正を糾弾し、レズビアニズムとは「肉体の宗教であり、接吻とは祈祷である」としている(リアーヌ・ド・プージイ『サッフォーの牧歌』1901年)。彼女はレズビアニズムが「倒錯」と呼ばれることが許せない。その代わり、彼女はこれを「改宗」と呼び(同書)、事実彼女はリアーヌを「改宗」させたのだった。

f:id:eureka0313:20190817133740j:plain

リアーヌ・ド・プージー。レオポルド・ロイトリンガー撮影。ウィキメディア・コモンズより。

ルネと出会った時、ナタリーはリアーヌとまだ続いていた。ナタリーとルネとの愛人関係は、1899年の冬の夜、白百合に満たされた一室で始まった。それは1901年の破局まで続き、1904年に少しだけ再開された。もしこの頃二人が分かち合った夢によって、すなわち女性が解放され、同性愛が讃えられる未来社会のヴィジョンによって、二人の胸に点火された情熱を想わないならば、かくも短期の婚外交渉が当事者双方に及ぼしたインパクトの強さを理解するのは困難であろう。

*1:原注:混乱を避けるため、私はこのエッセイでは一貫して「ルネ・ヴィヴィアン」という名を用いているが、本人がこの名を名乗り始めたのは1900年ごろからである。

*2:訳者注:上の「ドロシー・ストレイチーの小説『オリヴィア』」ですが、私が調べた限りでは、どうも日本で紹介されたことはまだ一度も無いようです。以下にAmazon.comの「作品紹介」を訳してみます。
「20世紀におけるもっとも繊細かつ美しく書かれたレズビアン小説の一つであると言われるこの作品が、クレイス・プレス・エディションの一冊として再刊された。
「ドロシー・ストレイチーの古典的名作『オリヴィア』は、パリ郊外のとある小さな女子校に送り込まれたイギリス人少女の恋の芽生えを捉えている。純真で鋭い観察眼の持ち主オリヴィアは、女教師のジュリー先生に熱を上げるが、その恋心を背景に、ジュリー先生ともう一人の女教師カーラ先生との間の緊迫した恋愛関係が遂に終局を迎えるまでの数ヶ月間の出来事をつぶさに目撃する。
「厳密には自伝ではないとは言え、『オリヴィア』はカリスマ的な女教師マリー・スーヴェストル嬢によって経営されていたある女子校における著者自身の体験に基づいていて、マリー・スーヴェストルの影響はナタリー・バーネイやエリナー・ルーズベルトと言った同校の後輩たちの精神のうちにも生き続けた。『オリヴィア』は著者の友人ヴァージニア・ウルフの思い出に捧げられ、1949年に出版されるや絶賛を博した。1951年の映画化に当たっては、コレットが脚本を執筆した。1999年、『オリヴィア』は『パブリシング・トライアングル』誌の20世紀における最も広く読まれたゲイ&レズビアン小説100選のうちの一冊に選出された」
なお著者のドロシー・ストレイチーはリットン・ストレイチー(こちらは日本でも有名な伝記作家)の姉だそうで、一般にはアンドレ・ジイドの英訳者として知られ、『オリヴィア』は唯一の小説作品だと言うことです。

*3:原注:ナタリー・バーネイのコスプレマニアぶり、特にこの小姓のコスプレを好んだことは、『一人の女が私の前に現れた』の中でも言及されている。

ルネ・ヴィヴィアン『一人の女が私の前に現われた』へのイントロダクション――ゲイル・ルービン(2)

f:id:eureka0313:20190816073956p:plain

1907年1月、ムーランルージュで「エジプトの夢」と題した無言劇を演じるコレット(左)と、当時コレットと愛人関係にあり、この舞台での共演者であり、この芝居の作者でもある「男装の麗人」ベルブーフ侯爵夫人マチルド「ミッシー」ド・モルニー。ちなみに私がこの画像を拝借した下のブログ記事のオーサーは、最近公開された伝記映画『コレット』の中で、この「ミッシー」が「男」に書き換えられていると厳しく告発しています。

thevelvetchronicle.com


19世紀の記されざる歴史のうちの一つに、セクシュアリティにおける深甚なる変化がある。19世紀はヨーロッパが近代へと変化するにつれて始まった流れが最高潮に達した時代である。歴史家たちは長い間、巨大な社会的変貌――工業化とか、都市化とか――について想像力を駆使することに忙殺されてきた。彼らは近年になって、家族構成や性生活における変化にも関心を寄せるようになってきたが、これらの変化が同性愛における一革命をも含んでいることに気づいた者は少なかった。同性愛が今日見られるような姿を取ったのは19世紀のことなのである。
中世において、同性愛とは一行動パターンに過ぎず、罪深き行ないと言うに過ぎなかった。人間の一タイプとしての同性愛者という考え方は19世紀の産物である。性科学者たちが同性愛者という個人のカテゴリーを認識したのも、さような個人を描写するための学術用語を発展させたのも19世紀においてのことであった。19世紀の作家たちもまた、都市風俗(urban sub-cultures)の描写の中に、同性愛と呼ぶ他はないものを証拠として記録している。19世紀のもろもろの都市は同性愛者専用のコミュニティを包含しており、それは酒場や、食堂や、非公式のネットワークや、会員制クラブの周辺に集中していた。
1910年以前のパリの多様なレズビアンソサエティが、コレット(Sidonie-Gabrielle Colette, 1873 - 1954)によって魅力的に描写されている。1906年から1911年までの間、コレットは最初の夫と別れてミュージック・ホールでのパフォーマンスで生計を立て、ミッシーことベルブーフ侯爵夫人を情人とした。ミュージック・ホールを通して、コレットは大衆的な同性愛文化に親しんだ。彼女は「パルミラ」という名の安居酒屋に入りびたった。客は貧しく、食事は安く、経営者は男っぽくて乱暴なお母さんで、無一文の人たちには無料で食わせてやっていた。

「私はセミラミスのお店に行くの。セミラミスとは言い得て妙よ。それは軍服姿の女王様で、青銅のヘルメットをかぶって、肉切り包丁で武装しているの。そして配下の髪の長い男の子たちや髪の短い女の子たちに、色彩豊かな言葉で話しかけるのよ…
「…そこではほとんどの男の子が女に無関心なの。彼らはディナータイムにそこへ来て、快適にくつろいで、休息を楽しむの。夜に備えて体力を回復させているのね。彼らはこのひとときだけはお尻を振ったり、ヒイヒイ声で歌ったり、エーテルで濡らしたハンカチをひらひらさせたり、手に手をとって踊ったりする必要がない…彼らは優しくて、疲れていて、彩られたそのまぶたは眠気でとろんとしているの。
「…セミラミスのお店で食事を摂りながら、私は女の子たちがペアを組んで踊っているのを見て楽しむの。彼女たちはとても踊りが上手なのよ…それはお金のために踊っているのではなくて、キャベツのスープとビーフシチューの間で、ただ楽しみのために踊っているの。彼女たちは若いモデルで、隣近所からの嫌われ者で、ミュージック・ホールで端役をもらったりするけれど、今は失業中の女の子たちなの…私はただ結ばれた美しい二つの肉体だけを見る。それはワルツの風に吹かれて、薄い衣裳の下で光り輝いている…彼女たちは安っぽいダンス・ホールの常連客よろしく、猥褻に、肉感的に、さながらヨットの丈高い帆柱のごとく、優しく身を傾けながら踊るの…たまらないわ。私はあれが本当にどんなバレエよりきれいだと思う…」(ロバート・フェルプス『地上の楽園――彼女自身の言葉によるコレット伝』1966年)

恋人のミッシーを通じて、コレットは不機嫌な女貴族たちと知り合った。三十年後、彼女たちを思い出して、コレットはこう書いた。

「この男子禁制のサークルの支持者たちは、その集会について口外することを許さなかった。そこへ彼女らはタキシードに長ズボンという出で立ちで現われ、この上なく慇懃に、礼儀正しく振舞った…
「今となってはどこに見つけることが出来よう、あのような食事仲間たちを…大英帝国の女男爵たち、ロシア皇帝の女いとこたち、大公閣下の妾腹の娘たち、パリのお洒落な女富豪たち、そうしてまたあの鋼のように冷たい目と手を持った、オーストリア貴族の年老いた女騎手たちを…」(コレット『純と不純』1967年)

ルネ・ヴィヴィアンとナタリー・バーネイが1900年の少し前、まだ二十代も初めの頃にやってきたのは、このように同性愛文化の花咲き乱れる都パリであった。この二人の若い女レズビアンルネッサンスを唱えたのはまさにこの地においてだった。彼女たちは当時のパリのレズビアンソサエティの成員たちに比べて「ゲイ・コンシャスネス」('gay consciousness' =「同性愛者としての自覚」)とわれわれが今日呼ぶところのものにおいて、ずば抜けていた。虚飾に満ちた「ベル・エポック」期の有閑婦人という外見の下に、人は現代におけるレズビアンフェミニズム運動の二人の先駆者を見るであろう。

ルネ・ヴィヴィアン『一人の女が私の前に現われた』へのイントロダクション ――ゲイル・ルービン(1)

f:id:eureka0313:20190815074135j:plain

2012年6月、サンフランシスコのGLBT歴史博物館で講演するゲイル・ルービン。ウィキメディア・コモンズより。

こちらの記事にも少し書きましたが、ルネ・ヴィヴィアンの『一人の女が私の前に現れた』の英訳本('A Woman Appeared to me' 1976)の冒頭に、文化人類学者のゲイル・ルービン(Gayle S. Rubin, 1949-)が長文の「イントロダクション」を付しており、私は以前これの「謝辞(Acknowledgment)」の部分を除く全訳を「Yahoo!ブログ」で公開しておりましたが、この度こちらのブログで短期間だけ再公開することにしました。ゲイル・ルービンには無断で訳しておりますので、クレームがついた場合は直ちに削除いたしますのでご了承下さい。拙訳『一人の女が私の前に現れた』を読む上で参考にしていただければ幸いです。それではどうぞ。


「歴史とは征服者たちの合意に基づくでっち上げである」(無名氏)
「人類最古の小説、アダムとイヴの物語は、版を重ねすぎた」(ナタリー・バーネイ)
「彼女たちこそ、父たちによって引き離された私たちの真の母たちである。汝の女を知れ。汝自身を知れ…」(バーサ・ハリス)

過去の記憶を維持することは大変難しい。とりわけ社会的少数者の集団と言うものは、歴史家たちの議論の中心からは遠く追いやられるものである。レズビアンたちは、女性であると同時に同性愛者であると言う二重の不適格性により、その歴史を繰り返し剥奪されてきた。1960年代後半の女性運動から生まれ出た世代のレズビアンたちは、その直近の先覚者たちを1950年代に求めなければならなかったが、その1950年代のレズビアンたちもまた、乏しい文献から、さらに前の世代の同類たちを救出するという任務を背負わされていたのであった。レズビアン史の試みをかくも困難なものとしているこの同じ沈黙と空白とが、彼女たちの過去の闡明に成功した者たちの著作をもまた葬ってしまう。
かような認識の上に立てば、この『一人の女が私の前に現われた』の英訳の出版は、近年の快挙であると言ってよい。翻訳者はジャネット・フォスターで、彼女の『文学における女たちの多様な性』('Sex Variant Women in Literature' 1956)は、レズビアン史を語る上での主要な参考文献である。しかしながらこの作品は、今年になってさる女性団体が運営する出版社から再版が出るまで、二十年ものあいだ絶版になったままであった。わたくし思うに、フォスター自身はこの労作に対する世上の無関心にさして驚きもしなかったことであろう。彼女はこの本の中で、レズビアンたちの生涯と作品とが、日常的にどれほど闇から闇へと葬り去られているかを骨を折って立証している。
『一人の女が私の前に現われた』の著者はルネ・ヴィヴィアンで、この女詩人の作品のたどった運命こそ、私が上に述べた歴史的健忘症の生きた実例である。ヴィヴィアンの詩は、今世紀の初め、批評家たちによって盛んにもてはやされたが、その後、忘れられた。
ルネ・ヴィヴィアンの韻文と散文による二十余巻の著作は、現存するレズビアンの著作中、もっとも注目に値するもののうちの一つとなっている。女性同士の恋愛に対する彼女の熱烈な讃美は、文学史家たちが彼女を切り捨てる一因となる一方で、逆に同性愛詩人として、少数の大人しい読者たちに熱狂的な人気を博する所以となった。彼女の詩集(仏語原版)は最近になってアルノ出版の同性愛叢書から再刊され、数篇の英訳がアメリカの『ラダー』誌に掲載された。ルネ・ヴィヴィアンの散文詩、短編小説、および唯一の本格小説(『一人の女が私の前に現われた』)は、彼女の詩よりもなお知られるところが少ない。ヴィヴィアンの存命中、彼女の詩は広く読まれ、ある種のスキャンダラスなセンセーションを巻き起こしたにもかかわらず、彼女の生前においてさえ、その散文作品は版を重ねたことがなかった。彼女の散文作品の多くは美しくかつ魅力に富み、詩よりもとっつきやすいのではないかと思われる。願わくば、この『一人の女が私の前に現われた』の英訳が、ルネ・ヴィヴィアンの全著作に対する関心の復活に寄与せんことを。
たとえ『一人の女が私の前に現われた』が無名の一レズビアン作家による失われた作品に過ぎぬとしても、その出版は喜ばしいことではある。しかしながらこの小説は一つの歴史的ドキュメントでもあり、レズビアン史におけるもっとも重要な時代のうちの一つの文書的遺留品でもあるのだ。『一人の女が私の前に現われた』は、ルネ・ヴィヴィアンが、その恋人でありミューズでもあったナタリー・クリフォード・バーネイとの痛切な交渉に関して綴った熱烈な、夢みるがごとき記述なのである。

「サッフォーとガートルード・スタインとの間にあって、…彼女たちは、近代の西欧世界におけるレズビアン文化の唯一の有効な表現を、身をもって具体化した」(バーサ・ハリス『彼女たちのレズビアニズムのより深い国民性――1920年代のパリにおけるレズビアンソサエティ』1973年)

この小説は恋愛事件とともにそれが起こった環境をも示唆するものであるから、その歴史的および伝記的背景について、いくばくかの予備知識があった方がよりよく理解できるだろう。私はこの小説における二人の主要な登場人物が生きた複雑な世界について、そのいくつかの様相をまず以下に描写したい。

岩井三四二『政宗の遺言』其の弐

f:id:eureka0313:20190217095830j:plain

表題の時代小説につきまして、一天一笑さんからあらためて紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


岩井三四二政宗の遺言』(エイチアンドアイ)を読了して。
歴史小説の名手岩井三四二が、眉目秀麗の江戸育ちの新参小姓、瀬尾鉄五郎の視点から、人生の最後まで戦国時代末期のトリックスターであろうとした独眼竜政宗の姿を描きます。

政宗、辞世の句を詠む

1636年1月、伊達政宗は総勢5000人の供を従え、桃生郡に鹿狩りを行う。この時の政宗の服装は頭には政宗笠、膝切りにした鷹野小袖、道服袴と藁の雪靴です。仙台青葉城址公園の騎馬像とは又イメ-ジが違いますね。

f:id:eureka0313:20190814171412j:plain

仙台青葉城址の伊達政宗騎馬像。www.travel.co.jpより。

もうじき70歳になる政宗は衰えを隠せず、家臣たちの間でXデー(政宗の命日)は何時かとあちこちで囁かれるような状況下、“くもりなき心の月をさきだてて浮世のやみをはれてこそゆけ”の辞世の句を詠みます。かたや鉄五郎は実父から代々の黒脛巾組(間諜・情報工作)の務めを任されます。

政宗、江戸へ暇乞いに赴く

亡母お東の方(最上義光実妹)13回忌法要と、菩提寺保春院落成式と参詣を済ませた政宗は自分の墓所も指定し、領国に思い残すことなしとばかりに、籠で江戸に出立します。
日光街道を南下します。起点は仙台で福島・白河・宇都宮・千住を通過し、終点は江戸です。
長旅です。一日10里程進むのですから、病身の政宗にとっては、なかなかの強行軍ですね。
政宗は周囲の家臣たちが止めるのも聞かずに将軍家光に最後の暇乞いをすることに執念を燃やします。何でも家光は幼少期に、政宗を『仙台のじい』と呼んでいた間柄とか。何故病身に鞭打ってまで、江戸へ行くのでしょうか?しかも幕府側の対応は苛烈であることが予想されるのに。
小姓瀬尾瀬尾鉄五郎は、伊達家の生き字引とも言える伊左衛門と懇意になり、仕事の合間に伊達家14代当主伊達稙宗の頃からの、お家騒動や東北地方の複雑な婚姻関係の昔話を聞きます(年寄が人を捕まえて昔話をするのは何処も同じですね)。政宗の人となりや今までの戦、人質となった父輝宗を鉄砲で打つ下知をしたこと、1585年小手森城の「撫で切り」(城中の生き物全て、非戦闘員も軍馬も皆殺し)、人取り橋の合戦、1590年小田原での秀吉の奥州仕置きの時の対応(髪形も水引で整えた白小袖の死に装束で秀吉と対面します)。
この時政宗は秀吉と共に、利休の点前を喫します。結果、会津以外の所領安堵。
又大崎の一揆を企てたとして、謀反の疑いを秀吉に掛けられた時には、米沢からの道中、金箔の磔柱を先頭に押し立てて30余騎の行列をもって上洛します。死に装束は2度目ですから、より印象を強くしなければなりません。伊達男の演出も大変です(書状は偽物で嫌疑は晴れます)。秀吉との政宗の芝居説もあり、所領確定のためには何でもします状態の政宗です。如何なる犠牲を払っても、最悪の結果の伊達家改易、当主切腹だけは避けなければなりません。
伊左衛門の話が佳境に入る頃、政宗主従は、日光東照宮に参詣します。祖父家康を尊敬する(?)家光は、改修工事が終わった日光東照宮を、隅から隅まで案内するように、伊丹播磨守に命令します。伊丹播磨守は職務に忠実なのか、何か含むところがあるのか、政宗をいたぶるように、楽しむように案内をします。

政宗、江戸に到着

ようやく、政宗主従は江戸屋敷に到着します。作法に則り、先触れを走らせておいたのですが、まあこれからが大変。もはや死病と闘っているのが誰の目にも解る腹水の溜まっている状態の政宗に、挨拶だの見舞いの使者など沢山の人が出入りします。黒脛巾組の仕事として、出入りする人のチェックがあるのですが、その数が膨大広範囲であるため、とても鉄五郎の手には負えません。しかも将軍家光は、自分自身の医者や薬師やなんと加持祈禱の者まで、伊達家江戸屋敷に差し向けます。子供の頃、『仙台のじい』と呼んだ政宗に出来るだけ手立てを尽くしたい気持ちかもしれませんが。力関係上、有難迷惑とは言えず、迎える伊達家にとっては大きな負担になりますが、生まれついての天下人には理解する必要もないようです。同時に、江戸屋敷に曲者が繰り返し忍び込みます。何かを探しいているようですが、狙いは何でしょうか?政宗に揺さぶりをかけている?

家光、自ら見舞いに来る

病状悪化した政宗は、小姓に2種類の文箱を持ってこさせます。普段は鍵がかけられています。几帳面な政宗は文書管理もできています。廃棄しなければいけない(発見されると面倒な)文書と嫡子忠信に引き継ぐべき文書をより分けるのです。この時侍女のなかが暗躍します(黒脛巾組?)。なかの言い分は、殿様は自分の親兄弟ばかり優遇して、それ以外の者はどうでもよいとの情の無い人だ。この頃には、家臣たちとも作法に則り別れの宴を開催します。家臣有志による「殉死願い」が鉄五郎のところにも届きました。政宗正室(田村氏、曾祖父が同じ伊達稙宗)からも見舞いに来たい旨が数回きますが、全部断ります。ただ将軍家光は直に見舞いに来て、人払いをして一時間ほど話し込んで帰ってゆきます。余り愉快な話ではなさそうですが、何の話をしているのでしょうか?やたらに書状という言葉が聞こえてきます。では、何の書状でしょうか?支倉常長を団長とする慶長遺欧使節ローマ法王に派遣した政宗ですから、書状の量は膨大でしょう。ついでに言うと、『家康の遠き道』に出ていたスペイン使節ビスカイノの書状もありました(祖国に帰還できるよう政宗が援助をした)。当時スペインはフェリペ2世をいただくカトリック大国です。時勢の変わった現在、公にされては拙い書状でもあるのでしょうか。家光は母親が弟を溺愛し、そのことが原因で弟を殺さなければならなかった者同士、親近感でもあるのでしょうか(家光生母は浅井三姉妹の三女お江、実弟駿河大納言忠長を切腹させる)。ともかく、家光自身は伊達家を改易したくないようです。幕閣連中は政宗がいる間は手が出せなかったが、いなくなれば、チャンス到来で、目障りな伊達家を改易したいようです。

政宗死す

その改易のカギを握っているのが、侍女のなかから、文書を父親に渡すように頼まれた鉄五郎です。スタイリスト伊達政宗。20年早く生まれたら、家康秀吉に伍して、天下に覇を唱えられた荒ぶる大名の仮面が剥がれ落ちた。今わの際の言葉は何か?たった一人その言葉を聞いた鉄五郎のとる道は2択です。伊達家存続を取るか、父に同意して内通者となるか?
伊左衛門の回想シーンと前後して物語は進みます。お楽しみください。

長い文章をお読みいただきありがとうございました。
仙台伊達家60万石に興味のある方、秀吉の奥州仕置き、派手好みの政宗のバサラぶりに興味のある方、家光と政宗の不思議で複雑な関係など、ちょっとした歴史ミステリー
を読んでみたい方等にお薦めします。
天一

政宗の遺言

政宗の遺言