魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

葉室麟『墨龍賦』其の壱

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


葉室麟『墨龍賦』(PHP文芸文庫)を読了して。
2017年12月23日に急逝した葉室麟が、この世は不条理に満ちて苦しいからこそ、美しく生きねばならないのだとの信念を、絵師海北友松の生涯と作品(=建仁寺黒龍図)を著述することによって示しています。自分の徳行を語らない海北友松、主・明智光秀に従った斎藤蔵之介、尼子家再興に挑んだ尼子勝久山中鹿之助等の魂の美しさを追求した長編歴史小説です(彼らは望みが叶わない事を予感していた)。
時代は1533年頃~1615年頃、長谷川等伯狩野永徳に引けを取らない才能に恵まれ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生き抜いた(享年83歳)遅咲きの絵師海北友松の生涯を辿ってみましょう。澤田瞳子の的確で暖かい解説もついていますよ。

 

小谷忠左衛門(海北友雪)、京都所司代に呼び出される

1632年、2代将軍徳川秀忠崩御直後、小谷忠左衛門(祖父は浅井家家臣海北善右衛門綱親、父は絵師海北友松)は、突然京都所司代に呼び出されます。恐る恐る用件を尋ねると、江戸へ赴き、江戸城にて春日局に面会せよとの命令でした。京都では、春日局の評判は悪いです。それは、春日局こと斎藤福は、徳川幕府の只の侍女(家光の乳母)なのに、武家伝奏三条西実条の猶妹となり、春日局の称号と参内を許されたからです。公家達にとっては我慢のならないことであったでしょう。
何故春日局が自分を召し出すのか?てんで分かりませんが、忠左衛門は役人帯同で一ヶ月をかけて江戸に到着します。

忠左衛門、春日局に面会する

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麟祥院に所蔵されている春日局肖像画狩野探幽守信筆。ウィキメディア・コモンズより。

平服する(時代劇でよく見られる「ははーっ」と頭を下げる所作をする)忠左衛門に、春日局は下問する。
「そなたが海北友松様の息子殿か」権勢を誇る春日局が一介の絵師に丁寧な口の利き方をします。更に言います。「友松様には、昔世話になった。そなたには、江戸に住み、絵師として生きて行けるよう取り計らう」幕府御用達の狩野派には、春日局自身が話をつけてあるのです。
忠左衛門にとっては望外の喜びですが、「世話になった」の意味が分かりません。寡黙な父からは何も聞いていないのです。一介の絵師海北友松と、春日局の父斎藤蔵之介利三(明智光秀の刑死した重臣)との何処に接点があり、友となったのだろうか?それを見てとった春日局は語り始めます。

春日局は語る①斎藤蔵之介との出会い

忠左衛門の父海北友松は、1533年、近江の浅井家家臣、海北善右衛門綱親(浅井亮政に従って戦死)の3男として生まれる。13歳で東福寺の喝食となる(絵と武術の稽古は続けます)。僧侶の身なりをしても、心では武士と思っているので周囲とは馴染めませんが、東福寺境内で恵瓊と出会います。後に毛利家の外交僧として活躍する恵瓊ですが、やはり父は武田信重(銀山城主)でした。その交流は、恵瓊が関ヶ原合戦後、六条河原で斬首されるまで続きます。もっとも友松は、恵瓊を常にさかしらで情が無く、上から目線の奴と思っています。そんなある日、京都では幕臣石谷兵部の娘桔梗が四国の長曾我部元親に嫁ぐ事が評判となり、物見高い京都人は、美しいと評判の花嫁の顔をひと目拝まんと、花嫁の乗る輿を担ぐ前方の2名の小者をわざと転ばせますが、武士の心を持つ友松は、飛び出して石礫を浴びながら、輿を担ぎます。この時石礫を投げる者は謀反人とみなすと大音声を上げ、その場を治めたのが、斎藤蔵之介でした。桔梗の兄にあたります。それが斎藤蔵之介との出会いでした。
桔梗と蔵之介は、友松に対して折り目正しく礼を言い、お互い相通じるものを感じます。ある日、東福寺退耗庵に、只一人きりの供を連れた明智光秀が訪ねてきます。恵瓊の師匠竺雲恵心に用があるようです。道案内をした友松は、名も知らぬ明智光秀に、何か只者ではない、蛟龍のごときイメージを感じます。後日蔵之介の屋敷に行くと、そこには長曾我部元親(桔梗の結婚相手)と明智光秀がいて、酒宴を開き、人物評や各々の軍備の程について、情報交換をするのでした。ここで明智光秀織田信長について、虎狼の心を持ち、この世の仕組みを壊そうとする男だと評しました。

春日局は語る②恵瓊に触発されて旅立つ

狩野永徳東福寺にやってきます。祖父の狩野元信と同じように、友松の絵を酷評して帰ってゆくのでした。狩野派の絵師になるのは無理だと言われます(御用絵師の描く絵ではない)。1565年、友松は恵瓊に同行して、山陽道を旅します。この頃の京都は、三好三人衆が暗躍して室町幕府将軍足利義輝を惨殺する等、物騒なので、蔵之介は美濃へ戻り、光秀は越前朝倉家のもとにいます。恵瓊に出雲周辺を旅しないかと誘われます。恵瓊は毛利家に用があり、友松は毛利家所有の雪舟の「山水長巻」の巻物を見たいからです。雪舟を堪能した後の帰り道、冨田川の中州で、品川大膳と山中鹿之助との一騎打ちに遭遇します。友松は荘厳さを感じます。一旦東福寺へ戻り、僧の天雲が還俗して尼子勝久と名乗り、山中鹿之助を従え、出雲に旅立つのを見届けます。路銀は出すから、尼子勢の様子を探ってくれとの恵瓊の依頼を受け、私は言いたくない事は言わない、ただ武士が戦う姿を見たいだけだとの条件のもと、友松は旅立ち、出雲の尼子家の末次城に落ち着きます。1570年2月24日、末次城は毛利家によって開城され、友松は京都に戻ります。
この頃から、友松は、戦に巻き込まれて死んでいく民の悲惨な絵を描くようになります。(つづく)

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

 

岩井三四二『とまどい本能寺の変』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


岩井三四二『とまどい本能寺の変』(PHP研究所)を読了して。
先ずは表紙をご覧ください。覇王信長が一番大きく描かれています。その他は、恵瓊らしい書き物をする僧侶姿の男、戦装束で槍を構える武士、裸足で逃げ、助けを求めているような女。彼らは全て織田信長に翻弄された人々でしょうか
本書は、8編の短編からできています。“南の山に雲が起これば”“最後の忠臣”“久々よ、怒れる武神、勝家を鎮めよ”“関東か小なすびか”“本能寺の変に黒幕はいたか”“カタリナおかつの受難”“北方城の悲惨な戦い”“信長を送る”の8編から構成されています。何れも信長に近しい関係、或いは敵対関係にあったりしましたが、本能寺の変(信長死す)を契機に人生が暗転したり、人生を見つめ直す等変革期を迎えた人々の物語です。
そして“本能寺の変に黒幕はいたか”はタイトル通り、著者岩井三四二が、第一次資料を丁寧に読み込んで、何故明智光秀本能寺の変を起こしたのか?について、新しく意外な真相に辿り着きます。
これらの中から3編を選んでご紹介していきましょう。

 

“最後の忠臣”

本能寺の変後(信長・信忠父子自刃)、天下人の子息から、約一年の間に領地や仕える家臣を失い、それどころか自分の命までをも失う(異母兄信雄に切腹を命じられる)羽目に陥った三七信孝の物語です。
余談ながら、信長亡き後の信孝と信雄の関係や織田家家督相続については、映画『清州会議』(三谷幸喜監督)をご覧いただけたら解り易いと思います(勿論筆者も見ました)。
死に装束を身に着け、目の前の三方には短刀が置かれている。最早、切腹の刻限を待つばかりの身の上の信孝。彼は納得がいかない。かつて1万5千の軍勢を率い、次期天下人に収まる筈だった自分が、何故切腹で人生を終えるのか。信孝は、本能寺の変の報せ到着後の右往左往を回想します。肥大した自尊心を持ち、血統しか誇るものがない自分を顧みず、周囲の家臣達を責めます。秀吉を恨んだ辞世の句を詠みます。結局住吉に張った陣を散らさず、家臣達が何と言おうと、一挙に迷わず京都へと馳せ参じればよかったのだ。切腹直前に、最後まで自分と行動を共にした近習上田六太夫に初めて、尽くしてもらうのが当たり前で、家臣の身の上の心配などしたことがなかったと詫びます。信孝の目頭は熱くなり、六太夫も泣いていますが、実は介錯人でした。信孝の首を信雄に届けて出世の手掛かりとするのでした。信雄の背後には秀吉がいます。信孝は、土壇場で何を思ったのでしょうか?
大坂城に城代として詰めていただけで、明智光秀の娘婿というだけで、討たれた従兄弟の織田信澄の無念さが理解できたでしょうか?人生の運不運は紙一重と思い至ったでしょうか?
かくして、織田信長嫡流の血脈は、歴史の波間に消えてゆくのでした。

“久々よ、怒れる武神、勝家を鎮めよ”

これは、信長の小姓として仕えた堀久太郎秀政が、秀吉・秀長や前田利家と共に、清州会議の後、賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家を、北ノ庄城にまで追い詰め、屠るまでの心情を描いています。
時は、1583年6月14日です。上様御生害から一年も経過していないのに、光秀はこの世に居ず、信長麾下で横並びの筈だった羽柴秀吉が事実上の信長の後継者となっている状況です。かつて秀吉の羽柴の苗字由来は、丹羽長秀(信孝を見限った惟住五郎左)と柴田勝家から一文字ずつとって、あやかろうとしたのです。その秀吉が勝家と主筋のお市の方(信長実妹)を討つのです。久太郎は勝家の助命を願い、秀長にも談判しますが、進展しません。織田家を主筋と仰ぐならば、勝家の言動の方に道理がありますが(五箇条の文が示している)、秀吉は、自分を相手にしなかったお市の方への歪んだ想いなのか、清州会議で、三法師(織田信忠嫡子)を織田家家督相続人と決め、天下を狙う秀吉の勢いは止まりません。何故岐阜城ではなく清州城で会議を開いたのかも含め、清須会議は秀吉の謀略戦勝利ですね。そんな折、北ノ庄城から浅井3姉妹が、書状をもった家臣と共に出てきます。そこにお市の方はいません。落城目前です。別れの宴の音曲が聞こえます。久太郎は天守閣最上階に向かって叫びます。
修理亮しゅりのすけどの、死んではならぬ、生きてこそ、武門の道も歩める」
しかし、返答は「勝家ただいまより切腹いたす」でした。勝家から見れば、2歳の三法師(後の織田信秀?)の守り役となった久太郎は、いの一番に秀吉に尻尾を振った人物です。勝家の返答後、天守閣は跡かたもなく焼け落ちます。久太郎は武辺者として人生を全うした勝家を羨ましく思い、秀吉は、勝家が許さないのは知っていましたが、お市の方が夫勝家の命乞いをし、勝家自身が秀吉にみっともなく命乞いをして、結果高野山に逼塞した方が自分は気が楽だったと溜息をつくのでした。勝家は信孝の後見人でしたから、信孝の運命を見れば、勝家の運命も言うに及ばず。

本能寺の変に黒幕はいたか”

著者岩井三四二が『とまどい本能寺』を上梓するに当たって、題名に本能寺とあれば、読者は何故起きたかの真相・謎解きを期待して購入するであろう。その期待に応えた短編です。
その前に、この「日本史最大の謎」に関するこれまでの研究を紹介します。
『惟任謀叛記』によると、光秀には“年来の逆意”があったとしるされている。更にルイス・フロイスの本国ポルトガル宛の報告書には「光秀は野心旺盛な男で、日本の主になることをのぞんだ」となっています。ただ筆者は、光秀がキリスト教を警戒していたことを考えれば、フロイスの光秀評は幾分か割り引いた方が良いかと考えます。これらが野望説ですね。即ち光秀自身が天下人になる野望を持って信長を討った。
次は、怨恨説ですね。信長が余りにも苛烈な主君で、心身共に長年虐待され、耐え切れずに挙兵したとの説です。約400年間はこの2説でした。
そして、1990年代になり、“黒幕説”または“陰謀説”が起こります。黒幕と目された人物は、沢山います。イエスズ会士、前将軍足利義昭、名前ばかりの同盟者徳川家康、それに近衛前久をはじめとする朝廷側等です。
岩井三四二は近衞前久に注目しています。山崎の合戦の直後、京都を出奔します。信孝に疑いを掛けられたからです。公家社会の頂点、近衞家第十七代目当主です。この人は武士となり、関東を従えたかったのか、何をしたかったのか本当はよくわからないのですが、只の関白では終わりたくなかったのでしょう。まず24歳で上杉謙信の与力となり、関東の覇者を望むのですが、後には信長と親交を結び、京都御馬揃えにも騎馬で参加します。本能寺の変後、秀吉に疑われ、徳川家康を頼って遠州・浜松まで逃げます。秀吉に許されて京都に戻ります。公家の人たちに讒言されたようです。
結局、秀吉は前久の猶子(藤原秀吉)となることで、関白の地位を得ます。秀吉に利用されてしまいましたね。
岩井三四二は、近衛前久は家柄と自尊心からくる理想論?を振りかざして、あちこち首を突っ込むが、絶望的に問題解決能力がなく、行動力はあるが黒幕になりうる筈がないと言っています。
そして残ったのが、光秀認知症説です。光秀の年齢については、『当代記』に論拠して67歳説をとっています。その他の第一次資料、『川角太閤記』によれば、魚が腐った悪臭に気が付かなかった。又本能寺の変の前夜、午後6時頃、亀山城で馬を乗り回し、1万3千の兵を三段に分け、重臣5人に対し、信長を討つことに同意しなければ、自分一人で本能寺へ突入し、腹を切ると迫った。
『林鍾談』には愛宕山百韻後、寺僧が出した粽を笹の葉を剥かずに口にした。
『信長公記』(巻十五)によると、愛宕山参詣のとき、御神籤を2、3回引いた。これらを基に、岩井三四二は仮説を建てます。それが光秀認知症説です。年齢と共に感覚が鈍くなる、嗅覚が鈍くなる、異物食いをする。悪臭に気が付かない。直近の記憶を覚えていられなくなったから、御神籤を3回ひいた。しかし昔覚えた和歌は詠めた。
見当識障害が出てくるので、夕方になると不安になり、じっと出来なくなる。亀山城で馬を乗り回す。小栗栖の竹藪での最期は、勝龍寺を抜け出したが、坂本城へ帰る道がわからず、農民に助けをもとめたのではないか。徘徊していたのではないか。
1万5千前後の軍勢を持った、認知症の初期症状の出始めていた明智光秀が、数十人の供回りのみを連れた信長が本能寺に宿泊する情報を得て、被害妄想(信長を殺さないと自分が殺される)が膨らみ、感情の抑制が外れた状態で、本能寺の変を起こしたとしています。

本能寺の変や戦国武将高山右近、丹羽秀長、堀久太郎、安国寺恵瓊柴田勝家等や、信長亡き後の秀吉とその周囲の態度の変わり様等に興味のある方にお薦めします。
本書は2014年の出版ですので、本能寺の変については、より新しい宮崎正弘『明智光秀五百年の孤独』等もお読みいただければ幸甚に存じます。
天一

三谷幸喜監督『清州会議』の予告編。2013年10月公開。
『清須会議』映画オリジナル予告編

とまどい本能寺の変

とまどい本能寺の変

 

赤江瀑『オイディプスの刃』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


赤江瀑オイディプスの刃』(河出文庫)を読了して。
この作品は、2006年6月に出版されたハルキ文庫板を底本として、2019年9月に新たに河出文庫から出版された赤江瀑の長編代表作です。著者の赤江瀑山口県下関市出身で、『海峡 この水の無明の真秀ろば』『八雲が殺した』の2編で第十二回泉鏡花文学賞を受賞しています。歌舞伎・能・バレエ等に題材を求め、独特なリズムを持った流麗な文体が特色です。
この『オイデイプスの刃』は、著者の出身地、山口県下関市の旧家を舞台に、醜聞を伴う殺人事件を機に大迫家が離散し、約十三年後、自分自身を苛むような生き方をして、ゲイバーのマスターとなった次男の俊介が、兄の明彦から、行方不明になった3男の剛生と会ったとの手紙を受け取り、どうして殺人事件が起きたのかの謎解きに挑むうちに、避けられないカタストロフに巻き込まれて行くという物語です。妖刀と香水を小道具として絡めた、各々宿命に立ち向かった大迫家の三兄弟の物語です(大迫明彦と剛生は共に調香師の仕事をしています)。
目次をめくると下記の四章から構成されています。

第一章 赤きハンモックに死体は棲みて

主人公の大迫俊介が16歳の年の大暑の頃に、殺人事件が起こります。この時点での大迫家の家族構成は少し複雑です。大迫家の当主耿平と後妻の香子は再婚同士です。だから3兄弟のうち長男の明彦は前妻の子、次男俊介は香子の連れ子、3男剛生は耿平と香子の間の子供です。大迫耿平と血縁関係の無いのは俊介だけです(この耿平は旧家の当主に相応しい人物です)。そして耿平の妹の雪代(離婚して大迫家に戻っている非常に困った人物)、以上が家族です。他には事件関係者として刀研ぎ師の秋浜泰邦が出入りしています。彼は名刀、備中青江派作「次吉」の手入れのために、年に1度大迫家に逗留します。
殺人事件は突然起こります。3男剛生が、赤いハンモックでうたた寝をしている秋浜泰邦の腹部に「次吉」を刺してしまいます。泰邦の死体を見た母香子は、ためらわずに妖刀「次吉」で胸を突き、自刃します。自室から飛び出してきて、二人がこと切れたのを確かめた耿平は、子供たちに自室に入るよう命じ、母親はしなければならない事をしたのだと諭した後で、ある事をし、その後見事な割腹自殺を遂げます。子供たちを守るため、自分が殺人者の汚名を着るための偽装です(警察発表では、妻香子と泰邦が心中を試みて、それに怒った耿平が泰邦を殺害した)。こうして、夏休みの数時間の内に天涯孤独となった3兄弟は、葬式後、明彦と剛生は山口市の父の実家に、俊介は宇治市の香子の実母にそれぞれ引き取られます。大迫家で状況が変わらないのは、ふてぶてしい叔母の雪代だけです。

第二章 少年の鎧の響き

高校卒業後、俊介は、伯父が学資を出すというのに大学進学もせず、4年間の日雇い仕事を経て、父の遺産を元手に、京都でバーのマスターとなります。従業員は、家族の無いツトムとヒロシです(ヒロシの身元はビックリです)。気の合わない兄明彦からの南仏からのエアメ-ルには、剛生に遭ったと書いてありました。調香師の明彦が伝手を頼って調べると、剛生に似た人物は香水の世界の大物ピエール・デュロンの秘蔵っ子で、通称オオサカと呼ばれている調香師で、フランスの永住権をも取得している事がわかりました。俊介は自分で探偵を雇い、さらに調べてみると、本名安村憲男ともわかりました。剛生に対して罪悪感を持つ俊介はほっとします。兄とも会いますが、昔を思い返してイヤな雰囲気になります。そんなある日、俊介は、自分が投稿している詩の月刊誌に無名氏作“ ディステンパーの犬(フランスにて)”という詩が掲載されているのに目を留めます。そこに歌われている情景には、十三年前の大迫家の悲劇の現場に居た人にしかわからない事実が詠み込まれていました。俊介には「兄さん、僕はここにいるよ」と呼びかけられているように思えます。久しく忘れていた秋浜泰邦や下関の大迫家の事を思い出します。

第三章 ラベンダーの刃

一方、明彦は一級調香師の資格を持ち、継母香子に似た雰囲気をもつ高子と結婚し、S香料から化粧品メーカーの東美堂へと転職します。転職の手土産は明彦の処方箋です。明彦の開発した“刀”の香水が発売される予定です。順風満帆です。しかし、僅かの差で、フランスの「マルセル」から速く「カタナ」の香水が発売されてしまいます。しかも、慌ててフランスから取り寄せた「カタナ」の成分分析をしてみると、ほぼほぼ香子の好きだったラベンダーを基調に配合した香水でした。これでは明彦の"刀”は発売出来なくなります。7年間が無駄になったと明彦は荒れます。やはり安村憲男は剛生でした。俊介に高子から連絡が入るのですが、高子には会っても明彦には会いません。そんなある日ヒロシが、東京の刀研ぎ師、慶山に弟子入りしているのを伝えききます。東京に行き、本人に直接尋ねると、何とヒロシは泰邦の実弟だというのではありませんか。泰邦は「次吉」を偽物にする手入れをするために大迫家を訪れていたこともわかりました。ヒロシは泰邦の家を定期的に訪れる俊介を偶然見て、俊介の側にいたくて俊介の店の従業員になったのだとも言いました。俊介は久しぶりに「次吉」の存在を思い出しました。恐らく殺人事件の証拠品として押収され、保管庫に眠っていると想像しました。同時にどうあがいても、十三年前の事件から逃れられない自分を感じていました。

第四章 花鎧の緒は切れて

ヒロシから、明彦が刀剣愛好家の刀を見せ合う会に「次吉」を出品するとの連絡が入ります。会場は京都の高級旅館「墨野」です。俊介は明彦から奪い取るようにして「次吉」を手に入れます(刀剣所持許可証は持っていません)。どうも「次吉」に魅入られてしまったようです。そのような折、店に出ている俊介に瀕死の剛生から電話が入ります。用件は本物の安村憲男に戸籍を返す約束が果たせそうもないから、代わりに会って書類を渡してほしいとのことです。俊介が慌てて剛生の宿泊先へ行くと、剛生は「カタナ」の六角形の香水瓶の尖を腹部に刺されてこと切れていました。出血多量死でした、手当が速ければ助かったかもしれませんが、それより十三年前の記憶を俊介に呼び起こさせる方を選んだのでした。剛生の腹部に壜がささっているのは、泰邦の腹部に「次吉」が刺さっていたのを思い出させます。そうです、最初に泰邦の腹部を刺したのは俊介でした。誰にも止めようのない運命が廻ります。俊介は明彦を「墨野」の黒塀に呼び出し、剛生を殺した事を認めさせますが、叔母の雪代がタクシーで行き合わせ、タクシーで明彦を拾ってゆきます。どうやら、行先は大原野の善峯寺らしいです。そこの百草湯に湯治に行くそうです。俊介は、ツトムに後を託し、ゴルフバックに「次吉」を入れて、初めて自分のしなければいけない事を果たしに出かけます。妖刀「次吉」に翻弄された大迫家の悲劇は、冬の京都を舞台に起こります。雪が彼らの血を清めるように吸い取ってゆきます。兄弟げんかはよさないかと常に言っていたあの世の父耿平は、彼らの悲劇(元凶の雪代も含む)を何と思うのでしょうか?
赤江瀑ならではの耽美・幽玄の世界をお楽しみください。
天一

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月刊誌『詩世紀』第100号(昭和35年8月号)の目次には、赤江瀑が本名の長谷川敬名義で発表した詩作品「ディステンパーの犬」のタイトルが見えます。貴重な文学史的資料だと思います。元画像はこちら

 

オイディプスの刃 (河出文庫)

オイディプスの刃 (河出文庫)

 

宮崎正弘『明智光秀五百年の孤独』其の参

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観光施設「安土城天主信長の館」において復元された安土城天主第六層(最上階)の内部。ウィキメディア・コモンズより。

表題の作品につきまして、一天一笑さんから引き続き紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


第四章 光秀の「文化防衛」は切支丹伴天連との戦い

宮崎正弘は、この章では、光秀はキリスト教徒の布教活動をどう見ていたのか、又信長のキリスト教受け入れをどう見ていたのか、何故ルイス・フロイスの光秀人物評は最悪なのかを軸に、光秀が朝廷に何を望んでいたのかを述べています。
西洋史をひもとくと、1494年、ポルトガルとスペインはトルデシャリス条約を結び、両国による世界分割を加速させていました(余談ですがフィリピンの国名はスペイン国王フェリペ2世に因んでいる)。
偶然種子島ポルトガル人が漂着して火縄銃が伝わった場合と異なり、イエズス会の宣教師たちは布教活動の名を借りた侵略という明確な目的、すなわち日本をキリスト教の価値観に染め上げ(一神教の価値観を強要)、文化的に支配する目的を持って来日しています。天皇親政を願う光秀は、キリスト教宣教師たちに、嫌悪感と危機感を抱きます。この嫌悪感が伝わったのか、ルイス・フロイスの『日本史』の光秀評は酷いです。「光秀は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目なく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み計略と策謀の達人であった」と著述されています。この密会とは茶会や句会の事を指しています。確かに茶室を密室と考えたら、茶会は密会ですね。
光秀の危惧通り、信長の庇護を受けたキリスト教徒はその影響力を拡大させます。
1581年、信長は京都馬揃えを挙行します。一説には躁鬱病を患っていた信長は、超絶躁の時期にド派手に馬揃え(軍事パレード)を行いました。信長の派手好みはいつもの事ですが、この馬揃えの注目すべき点は、列席者です。
列席者は、嫡子信忠、信勝、実弟信包や部下の明智光秀丹羽長秀等です。そしてまさかの公家、近衛前久。そして信長とは確執が噂されている正親町天皇です。あともう一人、賓客(珍客?)宣教師ヴァリニャーノ(イエスズ会インド管区巡察使)が正親町天皇と同席していました。これは何を示唆しているのでしょうか?
以前、伴天連追放令の綸旨を出した正親町天皇と、追放令を受けた異教の宣教師ヴァリニャーノが共に列席しているのです。これは即ち天皇の権威の失墜を公に表しています。
光秀には、キリスト教布教を推奨する信長その人が、日本の植民地化を許し、日本国の独立を危うくさせる存在に見えたのかもしれません(本能寺の変の動機の一つ?)。
又改宗ユダヤ人のルイス・ソテロ(フランチエスコ派の宣教師)は、伊達政宗を使嗾して、幕府転覆を狙っていた。ソテロは、支倉常長を団長とする「天正遺欧使節」の親書の中に、ある親書を紛れ込ませた。それは伊達政宗が日本国国王と署名した親書を偽造したもので、通商(造船技術・金銀)や宣教師の派遣要請等が記されていました。勿論ソテロひとりのスタンド・プレイです。キリスト教布教の縄張り争いなら他所の国でしてくださいよ、と筆者は思います。岩井三四二の『政宗の遺言』に出てきた、政宗が望んでフェリペ2世と組んで、幕府転覆を計ったとする従来の説とは逆になりますね。

第五章 敵は本能寺にあり

こうした状況下で“平安楽土”から命名した安土城の内覧に臨んだ光秀は、安土城を文化的整合性をもたない異形の城と感じます。八角形の第五層には朱塗りの柱が立ち並び、“釈迦説法図”や“阿鼻地獄図”などの仏教画によって飾られ、正方形の第六層は狩野永徳が描いた中国の三皇五帝孔門十哲の絵によって飾られています。一体ここは何処の国ですか?状態ですね。信長は家臣たちの岐阜からの強制移住も計画していたようです。余談ですが、安土城に興味のある方は、JR琵琶湖線安土城駅」下車約25分の所に「安土城天主信長の館」、また他にも安土城跡や考古学博物館がありますので、お立ち寄りください。光秀は、神になろうとしている覇王信長を打倒する意志を固めます。ただ莫逆の友、細川藤孝には打ち明けていません。公家の観修寺晴豊や近衛前久とも交流がありますが、頼りになるかどうかは未知数です。

第六章 日本を震撼させた十二日

愛宕神社に参詣した光秀は、何者かに憑依されたような状態になります。
何かに憑依された状態(一つの事しか考えられない状態)の光秀は、一万五千の軍勢をもって、一路本能寺に向かい、信長・信忠父子を討ちとります。
丹後・宮津城にいた細川藤孝は、なぜ明智光秀に味方をしなかったのでしょうか?それどころか、高松城攻めをしている秀吉に、本能寺の変勃発の速報を送っています。
細川藤孝自身に天下の大事に関わる気持ちがなかった、光秀が無名の頃は自分の家臣格だったのに、いつの間にか立場が逆転していた状況に嫌気がさした等が挙げられています。細川藤孝は、光秀からの合力を要請する使者に、自分の髷を持たせます。刎頸の友のあかしでしょうか。以後は出家して細川幽斎と名乗り、茶道、書道、歌道等に励みます。元首相で陶芸家の細川護熙氏は、細川幽斎(忠興)の子孫にあたります。そして『私の先祖・明智光秀』の著者細川珠生は、読者の皆様ご存知のように、明智光秀の女系の子孫となります。本能寺の変以降、袂を分かった細川家・明智家の血脈は、連綿と現在まで続いていますね。要するに本能寺の変は、天皇親政を願う明智光秀にとっては義挙であっても、貴種の血を誇る細川幽斎にとっては愚挙だったのかも知れません。
かくして光秀は『明智軍記』に伝えられている辞世の句、“順逆二門無し、大道心源に徹す、五十五年の夢、覚め来たりて一元に帰す”を遺して歴史の彼方に消えます。

後記

以前に書き足らなかった部分を補足しました。
戦国時代や戦国武将、人間明智光秀や秀吉の軍師黒田官兵衛キリスト教布教の様子、天皇に即位することなく病死した誠仁親王等に興味のある方にお薦めします。
天一

ゲームソフトMinecraftを用いて再現された安土城。2012年4月公開。
Minecraft 安土城再現普請絵巻 - Azuchi Castle, Japan

宮崎正弘『明智光秀五百年の孤独』其の弐

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ラバウルゼロ戦の墓場で(2019年07月)」宮崎正弘氏の公式ホームページより。

表題の作品につきまして、一天一笑さんから更に紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


第1章 歴史伝統と正統の守護

明智光秀は何故本能寺の変を起こしたのか?宮崎正弘は従来の“怨念説”“黒幕説”“陰謀説”等を否定して、“蹶起説”を唱えます。
その根拠を1582年5月28日の愛宕百韻の会の雰囲気と光秀の発句に求めます。ここで光秀の発句の「とき」を土岐氏と解釈する“謀反説”を否定し、蹶起の動機を光秀の教養をもって愛宕百韻に織り込んだと仮定して探し求めます(決別の歌を詠んだ)。
光秀は長男十五郎を伴い、百韻を詠む会の前日に愛宕神社に参詣し、顔面蒼白、思い詰めた表情で三度御神籤を引きます。そして潔斎をして宿坊に泊まります。
愛宕百韻の会の参加者は、明智光秀、里村紹巴・昌叱親子、威徳院行祐等6人です。会の雰囲気はこれ以上はないと言う位陰鬱だったそうです(既に叛旗を翻す志があったのか?)。
連歌百韻の発句の「とき」は土岐氏ではなく、天をさし示していると説いています。
当時の朝廷は、信長の専制に誰も逆らえない状態でした(信長は正親町天皇に退位を迫り、誠仁親王を自ら建設した二条御所に招き、実質的に人質としている)。
それ以前にも、正倉院御物の蘭奢待を切り取る(征夷大将軍以外は許可されない)等突出した、自分の武力を背景にやりたい放題の信長でした(公家の権威の否定)。しかしながら、毛利家外交僧の安国寺恵瓊の1573年12月児玉三右衛門宛の書状には「信長は、公家に昇進して後、高転びに転ぶだろう」と記されています(もっともこの予言的中がかえって恵瓊に災いして、関ヶ原合戦後、敗者として刑死の運命を辿ります)。
宮崎正弘は、1571年9月30日の比叡山延暦寺焼き討ちは、政教分離を徹底するために行なったとも解釈している。つまり、僧兵等は寺の自衛組織ではなく、宗教を口実に積極的にテロ活動を行う武装勢力と考えて、非戦闘員であっても殲滅すべしと実行しました。

第2章 戦上手の武将として

光秀の前半生は、出自と共に謎に包まれています。織田信長に仕えるまでは不確定要素ばかりです。光秀の出生地については特定されておらず、四つの候補地が挙げられています。①岐阜県恵那市明知町②岐阜県可児市瀬田③岐阜県山形市美山地区④岐阜県大垣市関ヶ原合戦の重要拠点)です。記録に残る最初の光秀は長期間流浪の後、朝倉義景に仕え、そこで“古今伝授”の担い手、細川藤孝と知り合い、教養の釣り合う相手として肝胆相照らす仲となります。そして、1569年の本圀寺の変で、約15倍の三好三人衆の軍勢を、南蛮渡りの砲術を駆使して打ち破って足利義昭を守り、織田信長に見いだされます。これがきっかけとなり、光秀は出世の階段を駆け上がります。いち早く城持ち、城主になります。暫くの間光秀は、義昭と信長の二人の主人に仕えますが、信長が義昭と袂を分かつに当たっては、信長に仕える事を選び、筆まめな陰謀家の義昭に引導を渡したと言われています。そして、何故か1570年の金ヶ崎の退き陣での光秀の活躍は、『信長公記』では羽柴秀吉の手柄とされています。その後は、琵琶湖湖畔に坂本城を築き、軍事目的ではありながら(水上交通の要所)、離れに茶室を設け、大広間には狩野派の屏風絵を配し、書院には名物茶器を置き、茶会・連歌会等が開催できる造りを施しました。誰が来ても充分な「おもてなし」ができます。文化人光秀の面目躍如ですね。もっともこの坂本城は、山崎の合戦後、明智秀満(=三宅弥平次、長女“とも”の結婚相手)によって打ち棄てられ、1586年に廃城の憂き目に遭います。縄張りの名人光秀は他にも福知山城を修築し、敷地内に50メ―トルの深さを持つ井戸を掘らせます。1581年には明智家の「家中軍法」を定めます。光秀の几帳面さがよく表れた軍法です。又信玄堤ならぬ明智藪を造り、治水に務めます(後年山崎の合戦で光秀が討たれたことになっている小栗栖の竹藪ではありません)。
第一次丹波平定の失敗後、1577年、第二次丹波平定の準備として亀岡城の本格工事を始めます。狙いは有岡城荒木村重。ここは長女“とも”の最初の嫁ぎ先(荒木村次室だった)なので、辛抱強く自ら交渉に行くのですが、結局武力鎮圧します。この時点で黒井城は既に落ち、八上城(いずれも峻厳な山城)も日干し作戦によって落としています。光秀は八上城主の助命を願い出るのですが、魔王信長は聞き入れず磔にしてしまいます。そうして後味の悪い(筆者の推測ですが)第二次丹波平定作戦は勝利して終わりました。
現地調査を行なった宮崎正弘は、400年経過した現在でも、丹波では光秀が裏切り者や侵略者として嫌われているのを実感します。
ここで、宮崎正弘は、光秀の享年に触れています。光秀の正確な享年はわかりません。67歳説もしくは75歳説があります(岩井三四二の『光秀窯変』では75歳説?)。宮崎正弘は『明智軍紀』に則り、享年55歳説を採用しています。いやはや、歴史ファンにとって光秀はミステリーの宝庫ですね。

第3章 文武両道の達人

この章では、宮崎正弘は“黒幕説”と延暦寺焼き討ちに注目します。
沢山ある本能寺の変の“黒幕説”の中で、『等伯』を書いた歴史作家、安部龍太郎の“朝廷と切支丹大名との共謀説”に注目しています。
世界史の観点から見れば、大航海時代の強国ポルトガルとスペインとは、世界分割支配を実行中だった。日本ではポルトガル人が種子島へと漂着し、先鞭をつけた形となった。信長は、鉄砲と火薬を入手する見返りに、イエスズ会に布教活動を許可する。あわよくば石山本願寺顕如延暦寺への対抗勢力として使えるかもしれないと、この取引に満足していたのかも知れません。
しかしながら、この説は、ザビエルらの本国への報告書が、大変大袈裟に書かれていた(フェイク文書)。それによって、キリスト教布教の実績が過大評価されてしまった。また朝廷側の近衛前久が陰謀家であるのは確かだが、当時丹波平定を成し遂げた織田家の無双の武将明智光秀を過小評価しすぎてはいないかと、宮崎正弘は問いかけています。
1571年、延暦寺焼き討ちは本当にあったのか?当時光秀は坂本で“降伏しなければ焼き尽くす”と最後通牒を送っている。この延暦寺焼き討ちの手柄によって、光秀は坂本城城主となりました。宮崎正弘は1968年の滋賀県教育委員会が行なった発掘調査の結果を引いて、“焼土層・焼け跡が全く見つからず、つまり紅蓮の炎はなく、山火事程度だったのではないか”と述べています。またここで、山科言継の『言継卿記』や『お湯殿の上の日記』『日吉社兵乱記』等の資料を読み込み、直接の目撃情報はないとして、二次情報の恐ろしさ、伝播しやすさを述べている(山科卿は当時奈良にいた)。
現地調査に拘る宮崎正弘は、光秀は丹波篠山では嫌われていても、亀岡や福知山では居住年数は短いが、人気があるという。それは1581年の十八条からなる「明智家中軍法」により、統制のとれた武装集団を作り上げたことに起因するのかもしれません。
一年後、衝動的に本能寺の変を起こすとはイメージしにくい程、細かく徹底した軍法です。
光秀は400年の間、延暦寺焼き討ちの先鋒を担ったと誤解されてしまった訳です。

以上、前回端折ってしまった第一章から第三章までをご紹介しました。
光秀の知られざる一面の発見や、歴史ミステリーとしてもお楽しみいいただれれば幸いです。
天一