魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

加藤廣『空白の桶狭間』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


加藤廣『空白の桶狭間』(新潮社)を読了して。
信長の棺』『秀吉の枷』で設定された秀吉の出自<山の民>に焦点を当て、『武功夜話前野家文書』『信長公記』など多数の参考文献を用いた力作です。
又従来の桶狭間の戦いのイメージ(嵐の中、僅かな供回りと駆けた織田信長が、乾坤一擲の勝負に出て、今川義元を敗死させた戦のイメージ)を変えさせる歴史小説です。

<山の民>とは

平安時代中期の摂政関白藤原道隆を始祖とする。30年に渡ってこの世の栄耀栄華を謳歌した藤原道長は弟です。道長の栄華の影で、道隆の庶子道宗は(生母の素性は判らない)京都を追われ、丹波山中に移り住みます(貴種流浪譚?)。彼らは牛馬を放牧、また灌漑や土木工事を生業とするようになります。豊臣秀吉は山を下りて、平地に溶け込んだその3代目なので、武術(目つぶし、投石の仕方、火を起こし保存する方法、馬の扱い方等)を集団訓練で習得しています。前野将衛門や蜂須賀小六正勝は、4代目なので灌漑や土木工事に詳しいです。彼らは忍者顔負けの戦闘を繰り広げ活躍します。人々の目に触れないように用心しながら。情報収集もお手の物です。諜報合戦も。又秀吉は、城・砦の構造や数字等を、目をつぶれば自然に映像化したように再現できる“直観像素質者”であったとも加藤廣は主張している(放浪の画家山下清も直観像素質者であったから素晴らしい絵を描けた)。
桶狭間の戦い”は、強運に恵まれた織田信長悪天候をものともせず、乾坤一擲を狙って仕掛けた戦ではなく、綿密に練られた謀略戦であり、歴史の表には決して出ない戦です。
桶狭間の勇士毛利新介、服部小平太、そして梁田政綱らは、歴史に名を残すことになります。
<山の民>豊臣秀吉の歴戦の活躍は、もう少し後になります。
美濃の斎藤道三も、豊臣秀吉と同じく一代で成功した<山の民>との仮説もあります。

今川義元の新たなる評価

今川義元は父今川氏親と母正室寿桂尼(公家中御門宣胤の娘)の5男として生まれる。
幼くして、太源雪斎の導きで出家をし、栴岳承芳と名乗るが、兄たち氏輝・彦五郎の急死によって、還俗せざるを得なくなる。この坊主あがりの身が、後の義元の一生の運不運を決めることになります。なぜならば義元は乗馬が嫌いです。坊主の修行に乗馬は必要ありません。必要なのは座禅です。いきおい義元は輿に乗って戦場を移動・行軍することになります。おまけに太り肉で、機敏に動けません。武人としては、致命的な欠点となります。
だが、矛盾しているようですが、〝海道一の弓取り“と呼ばれたのも本当です。そして、父親氏親の代よりも領土を拡張し、福島氏所生の異母兄玄広恵探花倉の乱で自刃させています。また駿府を小京都と呼ばれるくらいに整備しました。また婚姻により甲斐武田、相模北条、そして今川・駿河三国同盟を締結します。お互いに後顧の憂いをなくしたいのが目的かと思われます。また”兵は詭道なり“を地でいくような面もありました。単なる京かぶれの愚者ではありません(東海地方出身の筆者の身贔屓かもしれませんが)。

創られた“桶狭間の戦い

秀吉は信長を“桶狭間の戦い”の勝者にするために、あらゆる地下工作をします。
同じく<山の民>蜂須賀小六に命じて、多数の<山の民>を、道化師組、農夫組、旅人が休憩する茶屋の主人と住み込みの下僕組にわけて身につくように訓練させます。費用は秀吉持ちです。道化師は諜報に役立ち、農夫は放牧をしていても不思議がられません。茶屋はいわば山の民の前進基地?あっても怪しまれない、あるいは必要な場所です。
肝心の秀吉は、命懸けで主君信長に、今川義元に降服状を書くように進言します。ここが勝負処です。
知恵の廻る秀吉は、降伏の屈辱と引き換えに義元を戦に向かない田楽狭間まで呼び出して、大事なところは<山の民>が闘い、手柄は織田家家臣がとるとの筋書きを信長に披露して、即断速決の信長を動かします。
実際に義元の首を取った毛利新介と一番槍をつけた服部小平太は桶狭間の勇士として名を残し、梁田政綱は破格の石高の城主になります。
果たして日本三大奇襲の一つは成功するのでしょうか?
日本史の表にでない、秀吉率いる実働部隊<山の民>&軍用犬?の活躍をお楽しみ下さい。
秀吉の犬笛を合図に義元の喉笛に食らいつく手筈の軍用犬。華麗な陣羽織に軍用犬よけの異臭の液体を塗って憮然としている馬上の織田信長。何か妙だなと思いつも信長降伏の地へ進む輿にのる義元。鮮やかに引き上げていく山の民。読みどころ満載です。
また数字に強い加藤廣ならではの今川家・織田家の戦力分析もお楽しみください。

時間のある方、戦記物・諜報戦の作り方、加藤廣ならではの秀吉像に興味のある方、戦国時代全般に興味のある方等にお薦めします。
天一

空白の桶狭間 (新潮文庫)

空白の桶狭間 (新潮文庫)

 

ケイト・ブッシュがアメリカで売れない5つの理由

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2001年、'Q' 誌の年間音楽賞受賞のため、ロンドンはメイフェア地区のパークレーンホテルに到着したケイト・ブッシュ。farmweek.comより。

ケイト・ブッシュについていろいろと調べているうちに、ちょっと面白い英文記事を見つけたのでご紹介します。二つありまして、一つはリー・ジマーマン(LEE ZIMMERMAN)という人が2011年7月、ケイト・ブッシュの53歳の誕生日に合わせて発表した「ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由(Five Reasons Why She Isn't Bigger In America)」という記事、もう一つは約半月後、マーク・ヒルシュ(MARC HIRSH)という人がこれに対する反論として別のサイトに投稿した「別のアメリカ人から見た『ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由(Another American Looks At Why Americans Don't Care For Kate Bush)』」という記事です。この二つを合わせてお読みいただければ、ケイト・ブッシュが今日のミュージック・シーンにおいて如何にユニークな存在かということがお分かりいただけると思います。
例によって元の記事を書いた人たちには無断で訳しますので、あくまで短期間の公開にとどめたいと思います。また文中に出てくるケイト・ブッシュの年齢やCDの売り上げ枚数などのデータはすべて2011年7月~8月現在(『雪のための50の言葉』が出る直前)のものであることにご注意ください。それではリー・ジマーマンさんの記事からどうぞ。




ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由(リー・ジマーマン)

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メジャーデビュー前、ロンドンのパブで歌うケイト・ブッシュ(中央)。http://www.thektbushband.comより。

Happy Birthday Kate Bush: Five Reasons Why She Isn't Bigger In America
LEE ZIMMERMAN | JULY 30, 2011 | 4:19PM

この30年間に現れたイギリス人アーティストたちの中で、もっとも独創的かつ革新的な者の一人として母国では称えられながらも、悲しいかな、ケイト・ブッシュアメリカでは影の薄い存在にとどまっている。本日53歳の誕生日を迎える彼女を慕う者は、この国では少数の崇拝者たちに限定されており、これは彼女が単に無視されているか、秘密裏にシャッフルされて目立たなくなっていることを示している。しかしながら彼女の傑作の数々、その中には名盤『魔物語』『ドリーミング』『愛のかたち』、はたまた印象的なシングル「嵐が丘」「少年の瞳を持った男」「神秘の丘」そして「ドント・ギヴ・アップ」(ピーター・ガブリエルとの共演)が含まれるが、これらを聴いたことがある者は誰しも、彼女がポップ・ミュージックの限界をひん曲げ、極めて想像性に富み、かつまた抗し難く魅力的な新しいサウンドを創出する能力を持っていることを等しく認めるであろう。

ピーター・ガブリエル「ドント・ギヴ・アップ」featuring ポーラ・コール。1994年。

Peter Gabriel with Paula Cole HD Don t Give Up from Secr

その創造力、その官能的なメロディ、その独特でしかも安定したソプラノ・ヴォイスをかんがみれば、ケイト・ブッシュアメリカの聴衆となぜ共鳴できないかを問う理由は十分にある。彼女が16歳のころから活動を続けていて、デヴィッド・ギルモアのような大物の後押しを受けている事実は何かの説明になるはずである。率直に言って、われわれはいささか困惑しているので、ここでは彼女の成功を阻害している要因について、幾つかの当てずっぽうを並べてみるに過ぎない。

ケイト・ブッシュはイギリス人である

なるほど。われわれアメリカ人にはイギリスの人気者に対するある憧れがある。ザ・ビートルズデヴィッド・ボウイウィンストン・チャーチルピーター・セラーズは皆イギリス人であり、われわれは彼らを熱愛したが、彼らが皆イギリス人特有の変人性を持ち合わせていたことも事実であった。われわれはウィリアム王子夫妻には完全に夢中であるが、チャールズ皇太子に対してはそれほど夢中ではなく、彼がダイアナ妃を離縁してからは全然夢中ではなくなった。その一方で、われわれは「ブラック・アイド・ピーズ」のファーギーアメリカ人)のことは大好きだが、「王室のファーギー」すなわちアンドリュー王子の前の奥さん(イギリス人)のことはそれほど好きではなく、彼女の唯一にして真の才能は減量プログラムの調整にあると思われる。イギリス由来のもので、われわれアメリカ人が決して理解する気になれないものがある。たとえばお茶うけとしてのクランペット。同様のものに、山高帽がある。ファッションのトレンドなどは大したことではない。たとえばオアシスはイギリスでは偉大なバンドだが、アメリカでは・・・要するに、この英米間の兄弟げんかは犬も食わない低レベルのもので、たとえばエルボー(イギリスのロックバンド)に恋わずらいを抱えているアメリカ人に、挙手投票を求めても無駄であろう(腕が上がらないだろうから)。ミズ・ブッシュについて言えば、彼女は英国訛りの発音で英語の歌を歌い、人里離れた田舎の一軒屋で暮らし、一度ロンドンへと舞い戻ってきたのは「英国音楽に対する顕著な貢献により」アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞したので、その授賞式に出席するためであった・・・アイヴァー・ノヴェロ賞とはそもそも何ぞや?彼女がこのカルチャー・クラッシュの犠牲となるにはもっともな理由があるのだ。

ケイト・ブッシュは少し変である

いかにも。レディ・ガガもデビュー当初から奇行で知られ、それでも大ヒットを飛ばしているが、ケイト・ブッシュは常にほとんどのアメリカ人がついていけない程度にまで奇天烈であった。彼女独特の歌唱スタイル、それはしばしば奇声と、嬌声と、奇妙に変幻自在な歌唱法との混合物であるが、それは彼女のプロモーション・ビデオ類において見られるところの現代的な舞踊技術とパントマイム的な身振り手振りとの合体による一つの珍妙な表現形式とよくマッチしている。そしてこのようなアーティストぶったアプローチは、大多数のアメリカ人にとって、独創的というよりは胸がむかつくものなのである。

レディ・ガガ「バッド・ロマンス」「スピーチレス」のライブ映像。2009年アメリカン・ミュージック・アワードでの非常に有名なパフォーマンス。

Lady Gaga - [HD 1080p] Bad Romance, Speechless (Live on the American Music Awards 2009)

ケイト・ブッシュは文学的で知的である

これは致命的につまらない点で、なぜならわれわれは阿呆なことをやらかす人間に好意を寄せる傾向があるからである。われわれはブリトニー・スピアーズパリス・ヒルトンのようなタイプ、すなわちその人生は一連の大惨事であり、あらゆる愚行や大失敗について書き立てることができるゴシップ紙に飼料を供給するために生存しているところの脳味噌の分量の極めて乏しいタイプの人たちに魅せられている。ケイト・ブッシュはこれとは反対に奥ゆかしい英国人の一典型であり、彼女の私生活はタブロイド紙から厳重に保護され、秘匿されている。ケイト・ブッシュの初期のヒット曲「嵐が丘」はある古典文学作品に触発されて書かれた・・・マジかよ?君はアメリカ人がそのような賢い人に魅力を感じると思うか?知性に興味のある人間がどこにいよう?とんでもない話である。われわれはいつだってブロンテを措いてバットマンを採る人種なのだ。

ブリトニー・スピアーズの2003年のヒット曲「ミー・アゲインスト・ザ・ミュージック featuring マドンナ」。

Britney Spears - Me Against The Music ft. Madonna

トーリ・エイモスケイト・ブッシュの倍売れている

確たる証拠はないが、アメリカで人気のトーリ・エイモスは、そのスタイルの多くをケイト・ブッシュから盗んでいるようなふしがある。両者ともに飾り気のない、ピアノ主導のメロディーを紡ぎ、それは繊細微妙なテーマをはらみながらも高音域で歌われ、その間ずっと、彼女たちは不安と緊張の間でかろうじてバランスを取っているという風に見える。先行したのはケイト・ブッシュだったが、その初期の段階でさえ、両者を聴き分けることは困難であった。やがて後発のエイモスが背後から忍び寄り、かのセンシティブなシンガー・ソングライターのお株を奪うに到ったのである。もし彼女たちが本当に違う母親から産まれた双子であるとするならば、われわれの「ソフィーの選択」により、「アメリカの恋人」となったのはトーリ・エイモスの方だったのだ。

ソロデビュー前のトーリ・エイモスによるレッド・ツェッペリン「サンキュー」のカバー。1991年。

Tori Amos - Thank You/ Led Zeppelin Cover

ケイト・ブッシュは人前に出たがらない

この30年間を通じて、ケイト・ブッシュがツアーを行なったのはたったの一度だけ、それもごく初期のうちだけである。また彼女は寡作でもある。彼女のアウトプットのペースは90年代に入って大幅にスローダウンし、1993年の『レッド・シューズ』以降、次の2枚組アルバム『エアリアル』が2005年に出るまでに更に12年の時を待たなければならなかった。今年出た『ディレクターズ・カット』は『レッド・シューズ』と力作『センシュアル・ワールド』のセルフカバーで、今のところ市場に出回っている彼女の作品はこれがすべてである。今年の後半にニューアルバムが出るという噂も多く聞かれるが、彼女の生産性の低さは知れ渡っており、固唾を呑んで待ち受けているファンなど一人もいない。そしてここに直視しなければならない鉄則がある。すなわちこのエンタテイメントの世界では、出しゃばらない者は、忘れ去られてしまうのである。

にもかかわらず、ケイト、曲を書き続けてくれ。今までのところ、君はこちらではまだ無名に近い。

www.browardpalmbeach.com



別のアメリカ人から見た「ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由」(マーク・ヒルシュ)

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2014年、35年ぶりにステージに立ったケイト・ブッシュウィキメディア・コモンズより。

Another American Looks At Why Americans Don't Care For Kate Bush
August 16, 2011 9:56 AM Eastern Time MARC HIRSH

ケイト・ブッシュは先日53歳の誕生日を迎えた。もしあなたがごく普通のアメリカ人なら、この情報はあなたにとって何の意味もない。
少なくとも、これが "The Broward/Palm Beach New Times" に掲載されたリー・ジマーマンの主張である。ケイト・ブッシュの誕生日当日に公開されたブログ記事の中で、彼はこのイギリスのシンガー・ソングライターアメリカで経験したトラクションの欠如について嘆いている。
ケイト・ブッシュのファンにとって、時をいたずらに過ごすことは、決して愉快なことではないとしても、いつものことではある。彼女は母国イギリスにおいては一点非の打ちどころのない商業的勢力である。彼女の全アルバムは(旧作に少し手を加えただけの『ディレクターズ・カット』も含めて)ブラチナか、ゴールドか、さもなくば(おおイギリス人どもよ!)シルバー・ディスクに輝いている。シングルを出せば当然のようにヒットし、1978年の「嵐が丘」以来、そのうちの10枚以上が全英20位以内を記録した。ここアメリカではゴールド・ディスクが1枚(『センシュアル・ワールド』)、シングル40位以内が1枚(「神秘の丘」)、ビルボード・トップ100に入ったのがわずか2枚(ピーター・ガブリエルの作品で、傑作だったにもかかわらず、チャートの順位はイマイチで、ケイト・ブッシュの天使のような歌声が聴ける「ドント・ギヴ・アップ」を勘定に入れれば3枚)にとどまっている。
以上の実績と狂信的なファン集団とがあれば、それで十分だという人もいるだろう。ところがこの英米間の人気の格差にいら立ったジマーマンは、「ケイト・ブッシュアメリカで売れない5つの理由」なるものを持ち出してきた。血のつながった者のごとき同好の士の心意気、すなわちそれは同じものを心から愛し、その愛するものについて、部外者が「いいかげんにしろ」などと怒鳴り込んで来ない限り、夜が明けるまで延々と激論を戦わせることができる(戦わせるであろう)、そのような二人にしか共有できない心意気をもって、私は彼の説を論破し、彼の記事をシュレッダー送りにしてやろうと思う。

ケイト・ブッシュはイギリス人すぎる」

事実、ケイト・ブッシュは、ベックスリーヒースなどといういかにもイギリスらしい名称を負った土地に生まれながら、彼女自身を全世界にアピールするにあたって、自分のイギリス人らしさをトーンダウンさせたことは一度もない。彼女の音楽は(明確な時も不明確な時もあるが、常に)英国のミュージックホールを意識しており、彼女の歌詞の中にはヴィクトリア朝風のシャープでロマンティックな縞模様が流れていて、また彼女は時としてその歌声を、イギリス固有のアクセントと土着語の勢ぞろいで飾り立てる(たとえば「10ポンド紙幣が1枚」に出てくるギャングの親分のコックニー訛りの語り口を聴きたまえ)。しかし、もしイギリス人らしさを前面に出すだけで、アメリカで失敗するのに十分だというのなら、以下のリストはすべてのブリティッシュ・ミュージック・ファン、しかも最も意見の一致したファンたちにとって、無意味な呪文に過ぎなくなるだろう。そのリストとはすなわちザ・スミスザ・キュアー、ブラー、オアシス、パルプ、ザ・クラッシュ、セックスピストルズ、ザ・キンクスである。この中にはアメリカでの実績を積み上げて成功を維持したバンドもあるが、一発屋に終わったバンドもある。しかしいずれのバンドも何らかの点で超イギリス的であり、ケイト・ブッシュよりも偉大な文化的可視性のレベルに到達していたのである。

ロシアのポップデュオ "t.A.T.u." によるザ・スミス「ハウ・スーン・イズ・ナウ 」のカバー。2002年。

t.A.T.u. How Soon Is Now

ケイト・ブッシュは変人すぎる」

ケイト・ブッシュがその代表作を世に問うていたころ、われわれは変人シンディ・ローパーを時代の女神に祭り上げ、一介のへんちくりんなアート・ロッカーに過ぎなかったピーター・ガブリエルを、ある一枚のアルバムをもってスーパースターへと変貌させたが、そのアルバムでフィーチャーされていたのは脳性変人ローリー・アンダーソンセネガルの歌手ユッスー・ンドゥール、そしてケイト・ブッシュその人であった。利用可能な「変人枠」の数には一定の制限があるのかも知れないが、とにかくわれわれは変人たちに対して本能的に門前払いを喰らわすものでないことだけは確かである。

ケイト・ブッシュは文学的すぎる」

たぶんね。彼女はとにもかくにも、エミリー・ブロンテからヒットソングをひねくり出しただけではなくて、ジェームズ・ジョイスが「イエス("yes")」の一語に込めたエロティシズムを、「センシュアル・ワールド」の中に見事に取り込んでみせたのだ。しかし彼女の作品をアメリカ人にわかりにくくしているものの本質は、おそらくその文学性ではなく、演劇性なのである。彼女の想像の世界は舞台(「ワォ」)、シネマ(「ハンマー・ホラー」の中で、表面上は安っぽく取り扱われているが、しかし重要)、そしてバレエ(「 レッド・シューズ」)を含み、しかもそれは歌詞の中だけではない。彼女の一度きりのツアーはダンサー、映像、衣装替え、それに奇術を駆使した一大マルチメディア・スペクタクルであった(1979年当時、それは「パフォーマンス・アート」であったが、今日では「ケイティ・ペリー」と呼ばれている)。彼女の動画もこれに倣い、やがてシネマの分野に近づくようになった。その証拠がドナルド・サザーランドを彼女の父親役としてフィーチャーした「クラウドバスティング」のクリップである。彼女はもともとみずからの想いを歌に託すというよりも、歌の登場人物になりきり、その人自身の声で歌うというところがある(もう一度「10ポンド紙幣が1枚」を聴いてほしい)。われわれは、物語作家としての彼女の「読者」にはなれたが、少なくとも1980年代には、映像作家としての彼女を理解するまでには到らなかったのである。

ケイティ・ペリー「キス・ア・ガール」のライブ映像。2014年、グラスゴー

Katy Perry - I Kissed A Girl (Live @ BBC Radio 1's Big Weekend)

「われわれには既にトーリ・エイモスがいる。だからケイト・ブッシュはいらない」

ジマーマンは触れていないが、トーリ・エイモスの他にもう一人、サラ・マクラクランを加えるべきだろう。問題は、彼がケイト・ブッシュトーリ・エイモス先行者としながらも、エイモスが現れた1992年には、ケイト・ブッシュはもはや遠吠えしている負け犬でしかなかったという事実を忘れていることである。「神秘の丘」のヒットはアルバム『愛のかたち』のヒットに直結せず、ベスト盤(イギリスでは「グレーテスト・ヒッツ」だったが、アメリカではそうではなかった)(訳者注:1986年リリースの『ケイト・ブッシュ・ストーリー』を指す)もまた人々が長年失っていた記憶を取り戻すほどのインパクトを持ち合わせてはいなかった。またケイト・ブッシュアメリカでの販売元をEMIからコロムビア・レコードへとスイッチし、コロムビア・レコードは『センシュアル・ワールド』を懸命に売り込んだが、何の成果も上がらなかったように見えた。エイモスが『リトル・アースクエイクス』でゴールド・ディスクを獲得した後、ケイト・ブッシュはもう1枚だけアルバムをリリースしてから12年間の冬眠に入った。エイモスは何も盗まなかった。盗みたくても盗めるものがなかったからである。
とはいえ、エイモスの成功は、ケイト・ブッシュアメリカにおいて彼女なりのやり方で成功を収めた証拠と見ることもできる。私が初めてエイモスを知ったのはケイト・ブッシュに関するネットニュースグループ "rec.music.gaffa " での議論を通じてだった。この "gaffa" という言葉はケイト・ブッシュの楽曲「ガッファにて」へのぼかした言及で、わかる人にだけわかる暗号のような役割を担っていたが、そこではエイモスは大変な熱狂をもって喧伝されていた。ピアノが弾ける女たちには、ジョニ・ミッチェルローラ・ニーロのような偉大な先達たちに触発されたどんな天才よりも、はるかにアーティストっぽい才能を開花させる余地があることを、エイモスとマクラクランは身をもって示したのである。ケイト・ブッシュは、彼女自身は何ら報われることはなかったけれども、アメリカの次世代の女たちのために、パフォーマンス上の基礎を築いたのだと確かに言っていい。

サラ・マクラクラン「エンジェル」 featuring ピンク。2008年、アメリカン・ミュージック・アワード。

Sarah McLachlan with Pink - Angel [Live]

ケイト・ブッシュは浮世離れしすぎている」

もちろんである。先に触れた1979年のツアー以後、1987年の「シークレット・ポリスマンズ・ボール」への出演のような単発の機会を除いて、彼女は一切のライブ・パフォーマンスから身を引いた。それとともに彼女はアルバムを出す間隔を次第に長く取るようになり、遂に彼女が『エアリアル』(現時点での彼女の本当の意味での最新アルバム)を出すまでにかかった時間は、彼女がこの世に生まれてからデビューするまでに要した全時間よりもわずかに7年短いだけとなった(「嵐が丘」が出たころ、彼女は19歳だった)。しかしこれらは確かに人気低迷の要因とはなりうるものの、これまた『エアリアル』が全英3位に、またそこからの唯一のシングルカット曲「キング・オブ・ザ・マウンテン」が全英4位に達したことを説明できるものではない。世捨て人のように暮らしながら、彼女はイギリス国内ではなおも絶大なる人気を誇っていたのである。

結論

さて、ジマーマンの主張をことごとく親切丁寧に退けた今、ケイト・ブッシュアメリカでの相対的な不人気について、私はどう説明すべきなのだろうか?確かに彼女は1980年代にポップ・ミュージックの世界で活躍していた女性のどのタイプにも適合していなかった。マドンナ(意味があるかどうかは別として、ケイト・ブッシュよりも17日年下)だけは、ケイト・ブッシュと同様、多彩な指向性を併せ持つタイプだったが、しかし彼女はケイト・ブッシュよりも露骨にセクシー指向であると同時に、あの誰もが踊り狂っていた十年間にあって、狡猾にも、よりクラブ指向であった。またピーター・ガブリエルの例にもかかわらず、アート・ロックが成功への切符というわけでもなかった。
しかしながら、ケイト・ブッシュアメリカで一度もブレイクすることがなかったのは、ただ単に彼女自身がアメリカに興味がなかったからだけなのかも知れない。コロムビア・レコードは彼女のアメリカ進出について確かに興味を抱いており、『センシュアル・ワールド』で彼らの新しい投資先が決して単なる一発屋ではないことを証明したがっていた。しかし今あらためて彼女のキャリアを振り返ってみると、もし彼女が本当にアメリカでの成功を望んでいたのなら、しかるべくツアーの手配をし、プレスリリースを行ない、ラジオやMTVにも出演して、時間の無駄でしかないインタビューなどにもそれなりに対応していたのではないか。私にはそのように思われてならないのである。しかし彼女はそれをしなかった。その結果(と言っていいのかどうか知らないが)、彼女はアメリカでは熱烈な崇拝者の一小集団を擁するにとどまった。

本当に不思議なのは、彼女がなぜアメリカで売れないかではなく、彼女がどうやってあれほどイギリス国民に愛されるようになったかである。

www.npr.org

岩井三四二『天命』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

表紙絵について

岩井三四二『天命』(光文社)を読了して。
先ずは表紙絵をご覧下さい。戦国時代の戦場です。夥しい数の斃れている軍馬、兵士、そして大地に突き刺さったまま翻っている旗指物(?)。無事なのは変わらないのは、立派な鎧具足を身に着けた大将一人、遠くに見える山並みのみです。何という荒涼たる風景ではありませんか!
この荒涼たる風景が日常さほど珍しくなかったであろう戦国時代、“西の覇王”と謳われた毛利元就(1479年・文明11年~1571年・元亀2年)。父毛利弘元は安芸北部の弱小国人でありました(享年39歳)。そこの次男坊として生まれたため、元服して分家の立場だった元就ですが、兄興元の急死(享年24歳)のため、21歳にして、緊急の予定外の当主登板となりました。当主着任スタ-トの時点でかなり大変な状況です。
いわばマイナスからのスタ-トです。実際に重臣たちに侮られ、煮え湯を飲まされることもたびたびありました。次男坊故か、興善寺で3年間修業を積み、本人も兵法書はかなり読み込んだが、実戦経験はなし、但し筆まめとの人物がどの様に変容していったのか?本人の生来の資質とはかけ離れた使命(毛利宗家を束ね、油断ならない外敵と知略を用いて戦う)をどう果たしたかを読み解く長編歴史小説です。

初陣

先ずは、元就が安芸の国猿掛城の城主として、毛利宗家1000人を率いて3倍の武田元繁の軍と戦います。所謂中井手合戦です。元就が直接日頃把握している人員はたかだか50人程度です。また沢山の武将が出できて、年若い元就に向かってそれぞれ言いたいことを言います。凡そ兵法書には、3倍の敵とどのようにして戦えと書かれていましたか?とまあ嫌味とも何とも判別のつかない問い掛けですね。家臣たちの進言する籠城戦を退けた以上、元就は、中井出合戦に勝たねば明日はありません。往生して溝に落ちた猫のように青い顔をしている元就に、亡父の側室(元就の養母でもある)の通称お方様が「そなたの今の様は、父上にそっくりだ。父上は雪隠へ行って『我は大江広元の子孫なり、我は義経なり』と繰り返し唱えて雪隠から出てくると何事もなかったように勇猛に出陣して行かれましたよ」。
その言葉とお方さまの包み込むような微笑みにリラックスした元就は、まず矢を使った緒戦に勝ちます。すると周囲の重臣たちも現金なもので(この若殿は使えると見たのか)志道上野介広良が、父広元の代から使っている琵琶法師勝一(間諜)を元就に紹介する。勝一は敵武田元繁の容貌・人となり・これまでの戦い方などを元就に語ります。価値のある情報が手に入ります。元就は勝一に謝礼(銀)をはずみます。また「これからも仕えてくれよ」の一言も添えます。
かくて兵数3倍の武田勢を打ち破った大将となった元就は、婚礼を挙げます。この縁組には渡辺太郎左衛門・福原左近・坂長門守など重臣たちも賛成しています。
こうして、初陣に勝利した元就は、妻を娶り、領主・毛利宗家の後見人としての道を歩み始めたのでした。

元就、月山富田城の戦いで天命を知る

45歳になった元就は、従来の力関係から大内氏に加担、尼子氏の難攻不落の名城月山富田城を攻めることになります。元就の居城郡山城からは、30里(120キロメートル)ぐらいでしょうか?
自然の要害月山に守られた月山富田城です。進軍後攻め落とすのにはどれ程の時間が必要なのでしょうか?物を知らない筆者も思わずため息が出ます。しかも戦に必要な経費は毛利家持ちです。どうしても厭戦ムードに囚われてしまいます。
更には、大内氏の猛将陶隆房は、京羅木山へ本陣を張ります。攻めあぐんだ武将たちは、酒盛りや連歌に時間を費やします。そうこうするうちに琵琶法師の角都がやってきます。富田城の背後に間道があり、人がかなり出入りしている。これは背後の伯耆に内通を誘っているのではないのか?これは大内氏との軍議で退けられた元就の「伯州口を押さえることが肝心」との主張とほぼ一致します。はたして岩見の国人衆の裏切りに遭い、元就は退き陣を強いられます。しかも殿軍です。追撃する敵軍を撃ちながら退却せよとの陶隆房からの下知です。
最悪なことに大雨に重い甲冑と負傷者多数の敗走、絶望的な状況です。
さすがの元就も息子隆元も、辞世の句を詠む間もなく、雑兵に打ち取られる前に切腹を覚悟します。近習に介錯を促します。その窮地の元就父子を救ったのは「それがしが殿の身代わりとなります。その隙にお逃げください」と元就が脱ぎ捨てた兜と胴丸を身に着けた渡辺太郎左衛門でした。次の瞬間には郎党6人と共に走り去りました。実は渡辺太郎左衛門の実父は昔異父弟相生三郎の謀反に連座した科で、元就に成敗されています。いわば実父の仇です。そのような相手を、自分の身命を賭けて救うのでしょうか?
富田城の戦の3年後、正室ひさ、養母の大方さまを亡くした元就は、退き陣の窮地を救ってくれたのは、渡辺太郎左衛門の姿をした「天」なのだと、自分が今ここに生きていることこそ「天命」なのだと確信する。「天命」を知って、やりたいことをすることが、渡辺太郎左衛門に応えることになると決心をします(勿論渡辺太郎左衛門の子供をとりたてて、仕えさせ、金銭的にも報いている)。

天命とは何か

50歳で天命を知った元就は75歳で没するまで隠居せず、やりたいことする為に邁進してゆきます。やりたいこととは何でしょうか?
3人側室を持ち、各々に子供を産ませていますから、家族を得ることもやりたいことの一つだったのでしょう。

元就が“西の覇王”にまでなりあがったのはなぜか。長男隆元の苦しい胸の内、次男吉川元春、三男小早川隆景の人間味あふれる描写もお楽しみ下さい。
長くなりましたが、毛利家の人たちの人知れずの苦悩や、戦国時代の小領主の武家の習慣や戦での駆け引きや、毛利元就?日本史にちょっと習ったけど誰?の方、戦記物好きの方にお薦めします。表紙絵を見ての方もぜひお薦めします。
天一

天命

天命

 

加藤廣『家康に訊け』


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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

加藤廣について

加藤廣『家康に訊け』(新潮社)を読了して。
75歳で作家デビューを果たし、『信長の棺』『秀吉の枷』『明智左馬之助の恋』の所謂“本能寺三部作”その他『空白の桶狭間』等で活躍した加藤廣の歴史エッセイと、「宇都宮城血風録」を収録した遺作集です。なお、2018年4月7日に急逝されました。
特に『信長の棺』は、2005年当時小泉純一郎氏の絶賛を浴びベストセラーになりました。
また、加藤廣の職歴(経営コンサルタント等)を活かした、数字を活用した仮説を楽しむこともできます。
表題作の「家康に訊け」は戦国時代の三傑、織田信長豊臣秀吉徳川家康を天下人の持つ三要素、天の時・地の利・人の和を基礎データとして比較して、誰に現代日本の舵取りを任せたらよいかとの解をアプローチしています。徳川家康についた”運“という抽象的な概念にも触れています。

地政学な意味での三河松平氏領国)の位置と「地の利」

東海地方出身の筆者は、幼少時から徳川家康に親近感をいだいていたのですが、恥ずかしながら従来どおりに、三河は東を今川氏、西を織田氏に囲まれて更には東北に武田氏がいる状況では松平氏は独立独歩などできるはずもなく、今川か織田の庇護が必要な家康は苦難の人質生活を耐え忍んだという程度の認識でした。
この三河の位置を日本に置き換えて、加藤廣の地球儀規模の視点、グローバルな視点から見ると、東はアメリカ、西は中国、北はロシアの超大国に囲まれている。更に鉱物資源は常に欠乏している。これはピタリと今の日本に当てはまります。家康は天下人になるべくしてなったのです。第一部「家康を解剖する」、第二部「天下取りへの階段」と構成されています。
また余談ですが、筆者の明治生まれの父方の祖父が徳川家康を神様のように尊敬していた影響か、小学生の頃は1573年三方ヶ原の戦い(現在の浜松市北区三方ヶ原町での武田軍と織田・徳川連合軍の戦)で敗走して命からがら浜松城に帰着した家康は、空城の計を用いて武田軍に対抗したとの伝説を信じていました。即ち浜松城の門を全部開けさせ、「ここが切所だぞ!油を惜しまず篝火をたけ、誰か湯漬けをもて」と下知をし、腹一杯になった家康はぐっすり眠り、その豪胆さに武田軍が逃げていったとの伝説です。今考えれば、眉唾ものですね。祖父も家康の愛飲していた養命酒を飲んでいました。史実は、武田軍は浜松城を素通りして西(京都?)に進軍したのです。

天下取りレ-スに乗り遅れた家康が何故天下人になれたのか?

先ずは天運と健康に恵まれたこと。実母の水野氏・伝通院も長命でした。
10年以上に及ぶ人質時代に、今川義元の軍師太源雪斎など、師匠や烏帽子親に恵まれた事。家康は今川嫡子氏真の学友扱いなので、雪斎から四書五経論語・中庸・大学・他)を読み込む素養等を身に着けられたこと。氏真は飛鳥井家から蹴鞠を学びましたが、家康は兵法書漢籍を学びました。又実母の水野氏は久松俊勝に再稼して他家の人です。なので、自己愛や支配欲が強く、子供に手取り足取りで接して、子供の通る道を掃き清めるような母親のような存在はいません。勿論も傅役はいますが(石川数正等)自分で生き残る方法・戦術を学びとり実践していかなければなりません。まさに常在戦場の人生です。後年の家康=狸爺さん説と生まれ持った強運説が家康を天下人に押し上げたのでしょうか?その強運と引き換えのように、祖父松平清康・父松平広忠も年若く無念の死を遂げています(臣下に斬殺されています)。生前家康と係ることのなかった彼らは、あの世で家康の反面教師の役割を果たした訳です。

大まかに紹介しましたが、戦国時代の武器の中で、鉄砲より硝石の価値が高く入手困難な事情は、筆者の大学時代の恩師の講義と同じ内容で、些か懐かしくなりました。

宇都宮城血風録

1619年秀忠の治世(関ケ原合戦約20年後)、江戸追放の身になった賤ケ岳一番槍福島正則およびこれに仕える忍者集団と、徳川方の忍者集団の死闘を描いた傑作です。
家康の用いた権謀術数の副産物ともいえる歴史小説です。『神君家康の密書』の続編です。
忍者には忍者の生き方がある。勿論伊達家の黒脛巾組も出てきます。鉄砲撃ちの雑賀衆も活躍します。徳川方では服部半蔵が出てきます。正則側は謀反に見えない秀忠暗殺を企画します。そうです、宇都宮釣り天井事件です。この試みは果たして成功するか?
柳生十兵衛は、誰にやられて片目を失ったのか?等読みどころ満載です。
正史には登場しない暗闘をお楽しみくださいね!

長い文を読んで下さりありがとうございました。
徳川家康に興味のある方、晩年の豊臣秀吉に興味のある方、織田信長の姪・淀殿、甲斐武田家に興味のある方などにお薦めします。
天一

家康に訊け

家康に訊け

 

ケイト・ブッシュ(Kate Bush)『魔物語』(Never for Ever)の歌詞和訳

バブーシュカ(Babooshka)

彼女は夫を試してみたかった
やり方はわかっているつもりだった
偽名を使って 別の女になりすますのだ
それは最悪の選択だった
香り付きの手紙を受け取った夫は
不思議な胸のときめきを感じた
昔の妻にそっくりだと彼は思った
涙を流す前の彼女に
時が流れる前の彼女に
まだ美しかったころの彼女にそっくりだと彼は思ったのだ
手紙の末尾には「あなたのバブーシュカより」と記されていた

夫をもっと試したくなった彼女は
密会の場をセッティングした
彼は私に隠れて
私の分身を抱くだろうか
そして彼女をひと目見た時
彼は強い既視感に襲われた
彼女は結婚前の彼の妻に
不気味なほど重なって見えた
彼の欲望をすべて受け入れてくれたころの彼女に
まだ優しかったころの彼女に
まだ美しかったころの彼女にそっくりだと彼は思ったのだ
バブーシュカ 僕はあなたのものです」と彼は叫んだ

イギリスのシンガー・ソングライター(の卵)で、人呼んで「ティーズサイドのウクレレのプリンセス」アメリア・コバーン(Amelia Coburn)さんによるカバー。"Uncanny how she"のあと、一瞬だけ歌詞が出てこなかったようですね。でもいい声です。2015年10月公開。

Amelia Coburn - Babooshka (Cover)

死者たち(Blow Away)

バンドのうちの一人が
ゆうべ私に言った
音楽は彼の人生のすべてだと
もし彼が死んだら
彼の魂は音楽と別れて
彼ならではのフレーズやR&Bも 風とともにすべて消えてなくなるのかしら

死んだビルは
違う考えだった
九死に一生を得た人たちから聞いた話だとして
私たちの魂は
何を恐れることもなく肉体を離れて
訪問客でいっぱいの部屋へ入っていくのだと

(コーラス1)
ハロー!
ミニー・リパートン
キース・ムーン
シド・ヴィシャス
バディ・ホリー
サンディ・デニー

(コーラス2)
押さないで
突き飛ばさないで
私を中に入れてちょうだい
押さないで
突き飛ばさないで
私も仲間に入れてちょうだい

だから灯りを消して
命を絶つの
夜空のヴァイヴはあなたへの招待状よ
塵は塵に
風は風に還る
今夜のショーの一番手はムーニーとマーク・ボラン

(コーラス1 くりかえし)
(コーラス2 くりかえし)

わずかな真実(All We Ever Look For)

あなたの父親をごらんなさい
あなたは何と彼に似ていることか
私もまた 私の兄弟と同様
私の母親の遺伝子を受け継いでいる

彼らがあなたにして欲しかったこと それは彼らができなかったこと
彼らが欲しかったもの それはほんの少しの手がかり
彼らが欲しかったもの それは真理
彼らが欲しかったもの それはあなたのほんの一部分
それは決して手に入らないもの

私たちが気まぐれに泣いて欲しがったもの
それは親たちを屈服させたもの
乳離れをして 巣立ちをして
しかも私たちは巣を離れたことを後で悔やむ

私たちのあこがれ それは開かれた別のドア
私たちのあこがれ それは別の子宮
私たちのあこがれ それは自分自身の墓
私たちのあこがれ それは月の光
私たちのあこがれ それは誰かの一部分
それは決して手に入らないもの

私たちのあこがれ それは一人の「神」
私たちのあこがれ それはドラッグ
私たちのあこがれ それは大きなハグ
私たちのあこがれ それは誰かの一部分
私たちのあこがれ それは誰かのほんの一部分だけ
それは決して手に入らないもの

エジプト(Egypt )

さかのぼるナイル
川の深さは底が知れない
ピラミッドは今宵寂しげに響きわたる
真っ赤な砂が流れる
ここはファラオたちの国
彼らのシンメトリーはまっすぐに私をつらぬく
彼らの霊を慰めるべく 立ち止まっている暇はない
私の守護霊を探すのに忙しいから
私はエジプトの恋人

彼女は私のプッシークイーン
私の体の秘密を知り尽くしている
私はもう二度とうぶな娘のように 恋に落ちたりはしない
私は砂丘とともにただよい
「死にましょう」などとささやき
エジプト風の快楽におぼれる
彼女は猫のふりをして私を手に入れた
彼女はそのまぶたの下の砂漠に私を閉じ込めた
私はエジプトの恋人

ウェディング・リスト(The Wedding List)

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「ウェディング・リスト」の元ネタであるとケイト・ブッシュ自身が認めているところのフランス映画『黒衣の花嫁』の撮影風景。www.lexpress.frより。

決してあきらめないし
失敗もしない
覚悟はできているから
おそらく運命も私に味方する
あの日 私たちと同じ部屋にいた
貴様を追い詰めてやる

私から逃げおおせると思っているのかしら
あたたかい血溜まりの中に 彼は倒れていた
貴様の銃口には煙
私は泣き叫ぶことしかできなかった
私たちのハネムーンをお通夜に変えた
貴様を追い詰めてやる

(コーラス)
どの新聞の見出しにも「痴情のもつれ」
「新郎 式の最中に射殺さる」
「犯人は謎の男」「寡婦となった新婦
新郎のなきがらにすがりつき みずからも血まみれに」
・・・そして彼女は言った
ウェディング・リストの中にいる
ウェディング・リストの中から探し当てる
決して逃がさない

貴様を探しながらも
私の目にはルーディしか見えない
彼の死に様が頭から離れない
仇を討たなければ治らない
貴様の頭に銃弾を詰め込んでやる
貴様を追い詰めてやる

すべてが終わって 貴様が地面に転がったら
銃の台尻を 貴様のどてっ腹に突き立てて
ルーディの無念を晴らす
私の靴のかかとで やられたことをやりかえす
湿気た葉巻みたいに踏みつぶしてやる
貴様を追い詰めてやる

(コーラス くりかえし)

「犯人を射殺したあと 彼女は首を吊った」
ルーディ 今行きます
「検死の結果 彼女は妊娠していたことがわかった」
あなた 今行くわ
「新郎の子と見て間違いない」
遂にやったわ!
「気にするな 彼女は本懐を遂げたんだ」
あいつを撃ち殺したのよ ルーディ!
「目には目を」
「灰は灰に還る」
ルーディ!

ライブ・パフォーマンス。1979年。歌詞の内容に忠実なコントなので、ご参考までに紹介します。

Kate Bush - The Wedding List (1979 Xmas Special)

バイオリン(Violin)

ブリッジにかかった四本の弦
出発準備完了
八分音符を飛び越え 小節の区切りに酔い痴れ
オーケストラ国を脱走して
オーケストラ国を脱走して
私の全身をわななかせ
私の全身をわななきとおののきとで満たしながら
私の全身をわななかせながら

(コーラス)
弓を動かして
弓の絶叫が聴きたいから
バイオリン!

煙突の上のパガニーニさん
「ダンスの王」*1と皇帝ネロと魔王サタンよ
その悪霊を私のフィドルスティックに打ち込んでちょうだい
泣き女バンシーたちを私のバックヴォーカルに付けておくれ
泣き女バンシーたちを私のバックヴォーカルに付けておくれ
フィドルを弾いてジグを踊れば 恋のダンス
フィドルを弾いてジグを踊れば 狂喜乱舞
フィドルを弾いてジグを踊れば 欣喜雀躍

(コーラス くりかえし)

少年の口づけ(The Infant Kiss)

おやすみなさいと言って
私は彼をしっかりとふとんにくるんだ
けれど何かがおかしい
これは何かしら
私の体にうずきを起こさせる この幼い口づけは
こんな小さな子に
心を奪われたことなど一度もなかったのに
自制がきかない
ただの幼児
ただの学童
これでは淫乱女呼ばわりされてしまう
小さな手が私の心に触れる
私の急所に触れる
この子の体には
が宿っているのかしら
私の体を知っている

(コーラス)
私はもはや無防備
隠し切れない
始めましょう 始めましょう

取り返しのつかないことが起こるかも知れない
このままではいけない
私はこの子が怖い
この子の目の中には大人の男性が隠れている
この子の顔をのぞき込むと 私には彼が見える
何という恐ろしい男だろう
この二人のささやきは
軽薄な優男の誘惑
彼らが口にする甘い言葉は
私を本気で口説いている
チュッとキスがしたい
でも私は踏みとどまる
そっと指を触れたい
でも私は動かない
大事に至る前に ここを立ち去らなければ

(コーラス くりかえし)

夢みる兵士(Army Dreamers)

息子が帰国したのは
軍の郵便局を通してだった
私は「ママのヒーロー」を飾るために
紫色の花束をたずさえていた

飛行場での追悼式
天候は暖かいのに あの子は冷たい
軍服を着た四人の男たちが
私の可愛い兵隊さんを運んできた

(コーラス)
「ロック・スターになればよかったのに」
ギターを買うお金がなかった
「政治家になればよかったのに」
ろくな教育を受けていなかった
「結婚して家庭を築けばよかったのに」
まだ二十歳にもなっていなかった
ああ 夢多き兵士たちの命は
何と空しく失われることでしょう

ブリキ缶に涙を注ぐ
ああ神様 この子はキツネにだまされたヒヨコのように
エゴで戦争に勝つことはできないことを
知る由もなかったのです

この子にたくさん星が付いた肩章と
あらゆる袖章と綬章とを与えて下さい
穴の中でじっとしているこの子に
いいえ ボタンとリボンで結構です

(コーラス くりかえし)

イギリスのシンガーソングライター、メイ・カルサウサー(Mae Karthauser)さんによるカバー。ベルギーはブリュッセルでのライブで、フランス語で話をしています。2014年。

Mae Karthauser - Army Dreamers (Kate Bush cover)

フランスのハープ奏者アリシア・デュ・クステル(Alicia Du Coustel)さんによるカバー。2016年12月公開。

Army dreamers - (Kate Bush)

ギリシャのグラフィック・デザイナーであり、イラストレーターであり、ミュージシャンでもあるところのイリニ・トリアンタフィリディ(Irini Triantafyllidi)さんによるカバー。2019年1月公開。

Kate Bush - "Army Dreamers" cover by Irini Triantafyllidi

呼吸(Breathing)

外界が内部に浸透する
お母さんの肌を通して
私もかつては外にいたけれど
今はお母さんの中にいるからとても安心

ゆうべ 夜空が明るくなった
私のレーダーは危険信号を送り続けている
けれど私の本能が私に命じるのは

(コーラス)
呼吸すること
お母さんを吸い込むこと
愛するひとを吸い込むこと
お母さんが吸っている煙草のニコチンを吸い込むこと
人類の没落を吸い込むこと

吸って 吐いて
吸って 吐いて
吸って 吐いて

私たちは最後のチャンスを逃した
私たちは爆風の後に取り残された最初で最後の人類
プルトニウムのチップが
すべての人の肺の中で キラキラと光っている

私は世界中のお母さんたちを愛している
ただ愚かな人たちが何もかも台無しにしただけ
なぜなら私たちは知っていた 命とは

(コーラス くりかえし)

吸って 吐いて
吸って 吐いて
吸って 吐いて
吐いて 吐いて 吐いて…

「実のところ、小さな核爆発と大きな核爆発との『差異』を非常に簡単な方法で見分けることは可能である。核爆弾の特徴は目もくらむような閃光で、それは地上のどのような光よりもはるかにまぶしく、太陽光をも凌ぐ明るさを持ち、この閃光の持続時間によって、われわれはその核兵器の規模を特定することができる。閃光の後には一つの火の玉の発生を見ることができ、それはその爆発が起こった地域周辺の瓦礫や、塵や、生命体を吸い上げ、そして上昇すると、それはまもなくおなじみの『キノコ雲』として認識されるようになる。閃光の持続時間試験の実地演習として、われわれはまず非常に小さな爆弾を、次にもっと充実した中規模の爆弾を、そして最後にわれわれが保持している極めて強力かつ『高効率』な爆弾のうちの一つを爆発させて、そこから発せられる閃光が何秒間持続するかを計測しよう」

(何が失われようとしているのですか)
お願いです
(何が失われようとしているのですか)
息をさせて下さい
(何が失われようとしているのですか)
お願いです
(何が失われようとしているのですか)
呼吸をさせて下さい
(何が失われようとしているのですか)
呼吸できる何かを下さい
(何が失われようとしているのですか)
お願いだから 呼吸できる何かを残しておいて下さい
(それをしなくては生きていけないものとは)
なぜなら 命とは…


ライブ映像。ピアノの弾き語り。1986年4月。

Kate Bush - Breathing (Live At Comic Relief)

魔物語

魔物語

 

*1:「ダンスの王(Lord of the Dance)」とはシドニー・カーター(Sydney Bertram Carter , 1915 – 2004) というイギリスのフォークシンガーが1963年に書いた讃美歌のタイトルで、その歌詞の中での「ダンスの王」とはイエス・キリストその人を指し、イエス様が信徒たちに向かって「私と一緒にダンスしながら天国に入ろう」と呼びかける内容となっております。英語版ウィキペディアより。