魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

岩井三四二『政宗の遺言』

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表題の時代小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


岩井三四二政宗の遺言』(エイチアンドアイ)を読了して。
真摯な執筆活動を止める事の無い時代小説の名手・岩井三四二が、戦国時代の梟雄・伊達政宗(仙台62万石の藩主)のイメージを一新する新作です。政宗に仕えて2年弱の新参小姓・瀬尾鉄五郎の視点からの人間伊達政宗を描いた長編歴史小説です。又伊達家の語り部をもって任じる佐伯伊左衛門の講釈を交えて進行してゆきます。伊達家の石高62万石は、加賀・前田家、薩摩・島津家につぐ石高ですね。当時の武家石高ベスト3に位置します。

病身の政宗、最後の鹿狩り&辞世の句を詠む

1636年伊達政宗主従(総勢5000人)は桃生郡で鹿狩りに興じます。この頃既に政宗の体調は日々優れず、伊達家家中はピリピリするやら、しんみりするやら、一喜一憂です。
つまり、政宗没後の家督相続(誰が跡目相続するか)、徳川幕府が難癖を付けて伊達家改易を強行しないだろうか等です。当然ですが、伊達家が無くなれば家臣たちは失業してしまいます。浪人の身の上です。そう遠くはない来るべき時にどう備えるか?ですね。
この様な状況下、眉目秀麗の瀬尾鉄五郎は、主君伊達政宗が江戸から仙台に帰着するのに供をして初めて仙台に赴きます。そして小姓であると同時に黒脛巾組(くろはばきぐみ=忍者・間諜)の働きをする任務を父から与えられます。秘密の仕事です。勿論政宗は知っています。
気晴らしの遊びばかりではなく、戦の鍛錬の場でもあった狩りの中休みに、政宗は鉄五郎に下問します。そして父輝宗の最期に関わる戦と自分の初陣の話を滔々と話します。
「そなたたち、もし父親が敵に捕らえられ、目前で連れ去られようとしたら、いかがする」
これは昔、父伊達輝宗が和睦の挨拶に来た二本松城主・畠山義継(周旋したのは伊達実元)に人質にとられて、家臣たちが誰も手が出せない時に、政宗は父親ごと義継も鉄砲で殺します。
父親を鉄砲で打つ下知を出します(父輝宗が、義継に脇差で滅多刺しにされた後のこと)。
この件は後に、小手森城の撫で切りと共に、荒ぶる戦国武将・伊達政宗のイメージを強固にする役割を果たします。
そして、能筆の政宗は自ら辞世の句を詠みます(文化人の一面も持ち合わせていますね)。
政宗が辞世の句を詠んだ瞬間から、忍者集団の活躍が始まります。
即ち伊達家から謀反者を出さない事。後継者は正室愛姫所生の忠宗。だが、相続権を持っているのは、側室腹の秀宗・宗泰・宗実の3人の男子。家中が割れる原因があります。幕府は、何らかの粗探しをして伊達家改易を狙っている可能性がある。正に内憂外患の状態です。

暇乞いに江戸へ出立、籠は奥羽街道を南下

亡母保春院の菩提寺の落成と13回忌をすませ、自分の墓所を指定した後、家臣の止めるのも効かず、慌ただしく前倒しで将軍家光に最後の暇乞いをする為、威容を整え出立します。
そうまでして、政宗はなぜ最後の暇乞いに拘るのでしょうか?
ともあれ、参勤の行列は進みます。不思議な事に、福島や二本松の辺りでは政宗の病状はひどくなります。なんでも政宗を怨む怨霊がいるらしい。
この旅呈の中で、鉄五郎は、伊達家の語り部をもって任じている佐伯伊左衛門の知遇を得て、人取り橋の合戦の話を聞きます(影に黒脛組の活躍があった)。政宗が病身を押して律儀に日光東照宮へ参拝する理由も。しかも家光は、何も考えていないのか改築した東照宮の境内(かなり広くて、しかも石段のある)を伊丹播磨の守に案内させます。
これによって、政宗はかなりの気力・体力を削り取られます。

江戸に到着

伊逹家の行列は千住に到着します。作法に則り、到着の伝令を飛ばします。幕府からは、将軍家光が政宗の体調を気遣いしているとの問い合わせがあるが、黒脛組としては額面どおりに受け取る訳にはいきません。
政宗上屋敷に入る前に、誰か忍び込んだ者はいないか(政宗の遺書があるかさぐられていないか)等間諜としてすることは、沢山あります。連絡や旅の荷解きや掃除など、伊達家臣たちがバタバタしている所に、早速将軍家光の代理の御上使・松平伊豆守が家光の口上を携えて来ます。
しかも政宗の体調を気遣う口上です。江戸城登城を楽しみにしているともとれる口上です。

家光にお目見え

家光と政宗の対面は和やかに滞りなく終わり、翌日には将軍家お抱え医師の半井盧庵を診察や調剤に寄越す厚遇ぶりです。家光の厚意なのかもしれませんが、迎える伊達家はてんやわんやで、どの様な人が出入りするのかチエックするのは不可能です。その上あろうことか、元老中筆頭・土井大炊守が、江戸屋敷に暫く詰めて上使として政宗に1日2回面会するとやって来ます。総て家光の命令なのですが、政宗の健康状態が心配なのでしょうが、自分の要求のみ満たして、迎える伊達家への逆忖度はありません。生まれながらのお世継ぎはこんなもんですね。とうとう伊達家江戸屋敷に幕府の拠点が創られてしまいます。何より政宗自身が、気を張っていなければならず、心身の療養をする状態ではなくなってしまいます。

伊左衛門の講釈

黒脛組の任務はお手上げ状態で、小姓たちは伊左衛門の話を聞きに行きます。話の内容は、摺上原合戦の後、小田原合戦遅参の件。伊達男の語源になった(?)政宗は、終生服装・身だしなみに気を配り、自分を演出する工夫をしていました。遅参を咎められるであろう秀吉との面会には髷を結わず、白小袖のみ着用します。奥州探題として死装束で秀吉と面会する。これで、改易のピンチを免れます(今井宗薫前田利家も関わっている)。
そして、2度目の死装束の話です。これは、大崎の一揆をわざと起こさせた謀反の証拠があるとの疑いを晴らす為なのですが、今回は金箔を貼らせた磔柱(十字架?)を背負っての聚楽第での会談です。秀吉もそう甘い顔は出来ないのですが、証拠の書状が偽物であるとの結論を出します(花押が偽造されている)。

あわただしい伊達屋敷

伊左衛門の長い講釈の間にも、鉄五郎の身辺は時々刻々と変わります。将軍家からの医師団が押し寄せたりします。結局は曲直瀬道三です。又同僚の利八郎が、女中に頼まれた買い物に出たのち、不審な殺され方をします(この女中も黒脛組とつながっています)。
ほぼ同時期に、上様のお成りがあります。将軍のお忍びの伊達家訪問です。
最後には人払いをして、政宗と二人で長い時間の話をしたようです。瀕死の病人に何の話?
そうこうしている間にも、政宗の病状はじりじりと進行し、誰の目にもわかるように腹水が溜まって来ます。又、屋敷が幕府の回し者に襲われたりします。一体何が目的でしょうか?
幕府は政宗に秘伝書箱を開けさせるべく、幾度となく屋敷を襲わせます。
大いなる謎ですが、死期を悟った大名がする身辺整理とは?という観点からすると、見当がつきます。派手好みで、自分に恃むところが多く、謀略好きとなれば、書状は欠かせません。
政宗のみが開ける事ができる秘蔵箱・秘伝書箱の中身を吟味して、謀反の証拠になる書状は焼却処分をする。保管をしても大丈夫な書状を選り別けなければなりません。
伊左衛門の話は、『家康の遠き道』とも重複します。要は支倉常長をスペインに送ったことから、フェリペ2世との遠交近攻を疑われたわけですね。南蛮王の書状が謀反の証拠となるわけです。
伊達家の秘伝書箱を巡って鉄五郎には信じられない事が起こります。鉄五郎は中より、証拠の書状を手渡されます。優しい父は幕府と伊達家を両天秤にかけている。伊左衛門は、情報提供を求めてきます。

政宗死す

正室のたっての見舞いをことわり、知死期を悟った政宗は、身だしなみを整え、その時を待ちます。政宗の今際のことばを聞き取ったのは、鉄五郎でした。最後の言葉は「ははうえ」でした。

鉄五郎の中で、伊左衛門からきかされた政宗像が崩れていきます。
殿様は芝居が上手だった。虚像と実像が駆け巡ります。
人生の決断の時です。父をとるか、伊逹家をとるか、2択です。
決断をします。何方をとるかは読んでのお楽しみです。

従来の伊達政宗像のトレ-スを行い、新参者が些細な疑問を積み上げていき、あっと驚く結末の傑作です。
仙台・伊達家初代に興味のある方、戦国時代・関ヶ原合戦に興味のある方にお薦めします。

天一

政宗の遺言

政宗の遺言

 

佃一可『エル・グレコの首飾り』

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表題の作品について、一天一笑さんから紹介記事をいただいておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

佃一可(つくだ・いっか)作『エル・グレコの首飾り―青柳図書館の秘宝』(樹村房)を読了して。
作者佃一可の横浜市瀬田図書館長、調査資料課長、神奈川県図書館協会企画委員長を歴任したキャリアを生かして執筆されたロマンティックな歴史ミステリー小説であると同時に日本の図書館・公民館の始まり等が分かる教養小説でもあります。ライブラリアンのヒロイン山口摩耶がスペイン旅行中、エル・エスコリアル修道院図書館で起こった出来事を発端にして、連続殺人に巻き込まれ、謎解きをしてゆきます。ある意味、ハッピーエンドに向かって行きます。
歴史的な話をするならば、エル・グレコとは、言わずと知れたギリシャクレタ島出身の16世紀のスペインを代表する画家である。当時の絶対君主のフェリペ2世とは作成した絵画が原因で剣呑な仲になり(宗教改革の関係やエル・グレコ自身の処遇への不満があるらしいのですが)、フェリペ3世にも憎まれてしまいます。そのエル・グレコが慶長遺欧使節(1613年~1620年)団長支倉常長が帰国の際、ある神父を通じて、ダイヤモンドの原石と首飾りとを託す。エル・グレコは1614年に死亡したようですから、お互いに面識があったかどうかは解りません。
本当に首飾りはあるのか?何処にあるのか?少なくとも仙台の博物館の所蔵品の中には記録されていない(表紙絵のネックレスのイメージですかね。18世紀フランス王妃マリー・アントワネットの首飾りよりは地味ですね)。このエル・グレコの首飾りは、ラストでヒロインにとって重大な意味を持つことになります。

父の事故死

摩耶の父山口仲道は、仙台出身で支倉常長の子孫(?)で、魔法の石やら、首飾りに心当たりがあるような気配です。しかも慌ただしく出かけた旅行先の仙台で、父はひき逃げに遭います(事故か事件かはっきりしません)。父はどうしてあの場所で死んだのだろうか、疑問がわきます。結果否応なしに摩耶は支倉常長の宝物を巡る謎に巻き込まれていきます。
父の葬式の際に、大迫刑事が来ているので、警察は殺人の可能性を含んでいるとの見立てです。
その上、上司の田村館長は、父の最後の言葉の「アオ」は、仙台藩に関係する青柳文庫ではないだろうかと当たりを付けます(青柳文庫は、青柳文蔵が多額の私財を投じて1831年に創立した日本最初の公共図書館です。戊辰戦争で蔵書が散逸しましたが、その一部は仙台市の図書館の蔵書となっているそうです)。
摩耶は休暇をとり、仙台に赴き亡き父の行動を辿ってゆきます。亡父の幼馴染の大槻元医師も協力してくれます。そして手掛かりとなる伊藤友厚の存在を掴みます。しかしその手掛かりの人物も交通事故死してしまいます。
それで手掛かりが絶えたように見えますが、父の生前の仕事の人間関係や、事件の担当だった六本木ヒルズに住む大迫刑事が職務を超えて謎解きに協力してくれます。

摩耶の推理パズル

摩耶と大迫刑事は、伊達藩藩主伊達政宗没後(1636年)の支倉一族の歴史と父と伊藤友厚、大槻医師たち3人の少年期の家庭環境を組み合わせて些か強引な推理を導き出します。
その推理とは、支倉常長の次男支倉常道は父支倉常長から教えられた医学知識を基に、医師として活躍する。逃亡の際、宝物(魔法の石)を薬剤の削り石として持ち出している?
その常道の子供由水は、建部清庵と名乗り、田村藩のお抱え医師となり、活躍する。魔法の石(ダイヤモンド)は、青柳文庫の備品となる。明治時代に青柳文庫がなくなって以後は、巡り巡って、満鉄調査部に奉職していた伊藤父と出会う。伊藤父はダイヤモンドの価値を知っていたのか?(ダイヤの原石をダイヤモンドとして商品化すれば、どれだけの値段が付くのか?天文学的な数字ではないのでしょうか?)
問題は石の行方です。父や伊藤父の死と関係があるのかもしれません。ダイヤの研磨職人の黒田の行方がわかれば、ヒントがつかめるかもしれません。
九州、宗像大社の近くの記念館に寄贈されているダイヤの勾玉の製作者が黒田だったのです。
数日後、仕事に戻った摩耶に思わぬ来客がありました。なんと黒田本人です。
ダイヤモンドの研磨職人としての良心を持つ黒田は、包み隠さず摩耶に青柳文庫にあったダイヤの行方について話します。意外なことにそれは、大迫刑事の両親が殺された事件と根本で繋がっていました。

結び

ヒロインの摩耶は、突然父を失いますが、その事件をきっかけにして結婚相手に恵まれます。
親戚たちも概ね好意的で、自宅の不動産売買にも協力的です。実際は不動産の名義は、開けてみて、つまり遺産相続が始まって初めてわかることもあります。摩耶は一人っ子の設定なので、合意を得て遺産分割協議書を作成する事はなさそうですが。相続税の納税でも物納や一括ではない方法もあるそうですから、なんとかなるでしょう。若く、美しく、きちんとした職歴の持ち主で、歪んでいない人格のヒロインには、邪悪な人は近寄れないのかもしれません。それどころか、ダイヤモンドの研磨職人の黒田からは、大きなプレゼントがありました。

人生は一冊の本を読むようなものです。本人にとって幸運ばかり来ないし、不運は起こるべくして起きているのかもしれない。“禍福は糾える縄の如し”の言葉もあります。
日本の図書館史に興味のある方、ダイヤモンドの歴史に興味のある方、慶長遺欧使節団や伊達政宗の海外政策に興味のある方、エル・グレコに興味のある方、表紙絵に興味を持たれた方等にお薦めします。
天一

エル・グレコの首飾り:青柳図書館の秘宝

エル・グレコの首飾り:青柳図書館の秘宝

 

吉川永青『龍の右目』

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表題の歴史小説について、一天一笑さんから紹介記事をいただいておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


プロローグ

吉川永青著『龍の右目“伊達成実伝”』(角川春樹事務所)を読了して。
これは、戦国時代にやや遅れて現れた武将伊達藤次郎政宗を、支え続けた亘理伊達家初代伊達藤五郎成実の人生譚です。伊達政宗より一歳年下、一門衆の出で、幼馴染でありながら、政宗を主家の殿様と仰ぐ主従の関係です。政宗とは曾祖父伊達稙宗を同じくし、烏帽子親は伊達輝宗政宗の父)。生まれながらにして政宗の補佐役の運命を担っています。幼い頃から、実父伊達実元から「政宗の力になれ」と繰り返し言い聞かされています。
西暦1567年~1646年の東日本がこの歴史小説の舞台です。戦国時代を平定したかのように見えた織田信長が斃れた本能寺の変は、1582年(天正10年)に起こりましたから、政宗・成実は14~15歳です。徳川家康豊臣秀頼織田信勝柴田勝家等の名立たる武将たちと覇権争いをするには幼すぎますね。乱世の尻尾に生まれ、戦の無い、安寧な世の中を堂々と生きてゆくには、何が必要なのでしょうか?

片倉景綱政宗の右目を抉り出す

疱瘡に罹り、辛くも回復した政宗は、自ら己の右目を抉りだそうとするが、痛さに負けて、中途半端になっている所を家臣片倉小十郎景綱が小刀で抉り出す。
生母の義姫(最上義光の妹)は、何故か政宗を嫌い次男の小次郎正道を溺愛します。
理由は不明ですが、政宗の激しい気性がいやだったとか?その伝で言えば、織田信長の生母(織田信秀正室・土田御前)も弟勘十郎信行の方を溺愛したとか。そして正道も信行も実兄に殺されています。家中の分裂を防ぐためと思いますが、いやはや、一筋縄ではいかない母子関係ですね。でも生母義姫は伊達家の中でも一定の力(根回しをして戦を停戦させる力)を持っています。のち実家へ出奔します。
それはともかく、成実は右目を失った政宗に“俺がお前の右目になってやる”と誓います。
その心意気は見上げたものですが、大名同士・家中同士、幾世代にも渡る婚姻関係を築いてきた複雑で固定的な人間関係の中では、生半可にはできませんね。当時の東北地方は、群雄割拠の状態です。互いに背かない保証の為に、婚姻したり、人質を差し出したりしています。
しかし、伊達政宗最上義光は伯父・甥の間柄ではありましたが、疎遠で、反目しあう間柄でした。

政宗、拉致られた実父を撃たせる

政宗は隠居した実父伊達輝宗が、二本松義継に拉致された折には、実父の願いどおりに、発砲の下知を出す。儂に構わず、奥州平定を成し遂げよとの言葉に応えるように、実父ごと二本松義継を狙撃させます(この下知は政宗以外誰にも出せません)。親子の情よりも、家の繁栄が大事です。成実もこれには震撼しますが、兵士の前では泣けなくても、俺の前では泣いていいぞと声を掛けます。
これを皮切りに、政宗と成実と伊達家家臣団・足軽たちは転戦していきます。1585年、人取橋の戦では窮地の政宗を助けます。その戦のあと城から火事を出してしまい、その時成実の右手は火傷により変形してしまいます。右目を失った者、右手が思うように動かない者同士、闘志を燃やします。1588年郡山の戦、1589年摺上原の合戦で、伊達家に成実あり、後ろに引かない毛虫(成実の兜の前立てを指す)ありと戦場で恐れられるまでになります。

秀吉に引っ掻き回される伊達家

合戦の甲斐があり、謀略・調略の甲斐があって、奥州平定はほぼ実現するが、子供の頃からの天下取りの野望は、秀吉の台頭で絶望的になります。それどころか、文禄の役(1592年)に伊達政宗と成実に朝鮮出陣の命令がくだります。朝鮮では武将たちはかなり苦労をします。しかも不味い事に、成実一人で秀吉に拝謁した時に、気に入られたのか伏見に屋敷を授けられます。政宗以上に秀吉に気に入られては、逆心があるように思われて不味いのです。しかも秀吉に改名させられた有力家臣茂庭綱元は、秀吉の愛妾を下げ渡す騒動に巻き込まれて、嫌気がさしたのか伊達家から出奔してしまいます。これ以後、伊達家としては、秀吉と秀次の間を、ほぼ等距離感覚で付き合わないと、疑心暗鬼に陥った秀吉にどんな仕打ちを受けるかわかりません。伊達家分断工作でも図られているのでしょうか?

成実の出奔

もうひとつ、伊達家臣団も大所帯になり、以前ほど意志疎通もできません。家臣たちの中に、政宗に成実が謀反を企んでいると讒言する者さえ出てきます(屋代勘解由)。武力で戦うのは得意でも、肚を探り合う権謀術数は不得手の成実は、謀反を企んでいるのを疑われた自分が、政宗の側にいても役には立たないと悩み、夜も自然に眠れなくなり、家臣たちと高野山へ出奔します(ちょっとした心身症ですかね、正室が病没した脱力感からか)。
1595年は秀次が切腹した年です。この秀次切腹の際、最上義光の娘駒姫が秀次の愛妾になるために上洛しますが、巻き込まれて刑死してしまいます。駒姫は僅か14歳位です。自分で人生を選べないまま刑死します。何とか助けられなかったものでしょうか?
その2年後、ほぼ世捨て人に近い生活を送っていた成実の下に、徳川家康の使者が来ます。
抜け目のない家康は、井伊直親の家臣を使者として、自分に士官する気はないか問います。
序にとばかりに、最近の世の中の状況を聞かせていきます。
しかしこの士官の話は、伊達政宗からの奉公構が出ているから無理だとの返事が来ます。
主君の不興を買って出奔した者を、他の武家は雇ってはいけないとの申し合わせ事項です。
家康は成実主従を高野山から逗子へ移して面倒を見ます。これを目立たないように実行させる家康は流石です。政宗の奉公構があっても、成実を悪いようには扱わないと説得する。諜報網を操り心を砕きます。
その後、出奔する際に領地の角田の城の後始末を任せた傅役羽田右馬之介が、屋代勘解由と白根沢重綱に何の備えのないまま謀殺された件を、羽田実景(成実が烏帽子親)から直接知らされる。
右馬之介の訃報のあと、夢うつつに暮らしていた成実の下に、片倉小十郎が訪ねてくる。
奉公構は成実を何処の家中にも渡したくない一心からだと言う。
その上、関ヶ原の戦いが近い。就いては内府(家康)から、もし政宗が出陣したら、百万石の切り取り勝手の沙汰が出ていると説得する。最近奇行の目立つ政宗を救ってやってくれと言う(「伊達者」と言われる姿でのし歩く等)。
更に、政宗の右目は、私ではなく、あなただとさえ言っている。確かに右目は成実だが、方法が間違っていたとの思いに至る。政宗のような偏屈で頑固な人には、叱咤激励ではなく、そこにいることが自然であるかのように寄り添うのだ。平時と有事のときに備えて。

成実の帰参

成実は黒糸縅の仏胴具足、毛虫の前立て、右手に縛った馬上槍、黒鹿毛の乗馬姿で、伊達家陣営に帰参する。そし政宗に5年ぶりに面会する(小十郎は政宗が臍を曲げないように手回しをしている。案内役は政宗実弟石川昭光が務める)。
「ずいぶん長くかかったな、どこまで買いにでておった。亡くなられた奥方のために、線香を買い求めにいったと聞いているが、手に入ったか」
「亡き輝宗公の分をお分けいだだければ、幸いです」
この会話で、出奔はなかったことになる(お互いの頑固さが受け入れられたか)。
これは、亡き右馬之助が、政宗からの出仕を促す伝令に、成実は亡き正室(伊達家重臣亘理重宗の娘)に供える線香を買いに行くと返事をしていることに由来します。
成実は白石城攻略で、手柄を立てます。羽田実景・石川昭光も“毛虫殿が帰参したぞ”と
触れ回り、成実を盛り立てます。白石城は程なく落城します。

エピローグ

これ以後、伊達家も内府に付け込まれないよう、苦難の道をあゆみますが、何故か復帰以後の方が、心安き仲になり、時には政宗自ら、格別の用は無いが、暫く顔をみていないとて、成実を訪ねて行くことが度々あったようです。
これは1636年、伊達政宗が病没するまで続きます。政宗病没後は伊達家の重鎮としての責任を果たします。伊達家一門衆の使命を成し遂げます。

血族の縁で結ばれた関係を、大人になり、自分達の意志で、肝胆相照らす仲へと成長させていった2人の戦国武将の物語です。
伊達政宗のバサラに興味のある方、戦国時代終盤に興味のある方、仙台伊達家に興味のある方等にお薦めします。
天一

龍の右目―伊達成実伝

龍の右目―伊達成実伝

 

伊東潤『修羅の都』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

プロローグ

伊東潤『修羅の都』(文藝春秋社刊)を読了して。
これは12世紀、中世日本に武士の府を創成した源頼朝北条政子夫婦が、栄光の階段を駆け上る時期、そしてその代償を支払う時期を描いた歴史小説です。
生まれながらにして貴種流浪の宿命を負った源頼朝源義朝藤原氏の血脈を伝える由良御前との間に生まれた)と、根っからの関東武士(田舎豪族)北条時政の長女・政子とが出会い、流人から征夷大将軍武家の棟梁)への旅が始まります。
また馬術の名人だった頼朝が、どうして衆人環視の儀式の帰途、落馬したのか?死因との関係はこれまで明らかにされてきませんでした。

頼朝の回想‐平家滅亡まで

頼朝の運命は1180年、以仁王の令旨をきっかけに走り出す。頼朝は三十代後半にさしかかる頃か?
京都の人心は、専横を極め、公家化しつつある平氏から離れている。源氏復活の時宜がきたのか。石橋山の戦いでは、北条政子の実兄北条宗時が討死するが、これは北条家が覇権を握るための最初の犠牲である。それより、江間家に分家していた政子の実弟義時が北条家の後継者となる。これが重要です。義時は頼朝の家人ではあるが、頼朝・政子夫婦にとって必要欠不可欠な人物になっていく。のちに鎌倉幕府の重鎮となります。
清盛が病没して後、幾つかの合戦を経て1185年、壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼす。だが、ここから頼朝の誤算が始まる。
周知のように、異母弟九郎義経が勝ちすぎたのだ。おまけに功名心を丸出しにする。義経は、ただ異母兄に褒めてもらいたいだけかも知れませんが、もう少し上手くやれよ!政治力学を知らんのか?って感じですね(頼朝は安徳天皇二位尼まで命を絶つつもりはなく、朝廷を重んじる忠臣のポジションを想定していた?)。いずれにしても、既に頼朝と義経の兄弟関係の綻びは始まっています。その理由は、異母兄弟で母親の家格が違う点、一緒に育ったことの無い点を加味しても、鎌倉幕府を運営していく上で、異母弟九郎義経は自分と同格のポジションであってはいけないのだ。ましてや、自分に対する不満分子のリーダーとなってはいけないとの考えからです(義経の秀でた戦闘能力を恐れています)。
頼朝は、捕虜になった平宗盛以下の男子を総て斬首にします。彼らの嘆願など聞くのも時間の無駄だと図りに、出家なども許可しません。かつて自分達の命乞いをしてくれた池禅尼平清盛の継母)の血縁者以外の平氏一門衆の男子を斬首して、世の中に政権が変わった事を、平家は敗者なのだと、アナウンスします。

九郎義経・十郎行家の追討

さて、平氏という共通の敵が居なくなった武士集団は、どう変容していくのでしょうか?
頼朝を追い落とすには、後白河院に頼朝追放の院宣を得て、頼朝を謀反人とすることです。皮肉にも、異母兄弟考える方法は同じですね。
一方頼朝は、北条時政(政子の実父)を朝廷への使者とし、「日本国総追補使・日本国総地頭」の官職をもぎ取ります。更に頼朝支配人下の御家人を地頭として随意任命できる宣旨も得ます。反頼朝派の公卿たちも解任させます。こうして徐々に義経包囲網が出来上がります。目的は奥州藤原氏義経を逃亡させて、鎌倉幕府の対抗勢力と見られる奥州を丸ごと平定することです。
流人生活の長がった頼朝は、辛抱強く義経が罠に落ちるのを待ちます。その間にも近畿・和泉国に隠れていた十郎行家・光家親子を討ちます。追捕使のポストを設けた甲斐がありました。そして局面が動きます。1187年、出羽入道・藤原秀衡が病没しました。1188年一条能保を通じて、義経追討の宣旨を受け取ります。また、藤原泰衡には義経を生け捕りにして、京都まで護送すれば本領安堵の文も出します(妥協案)。
1189年正月頃、遠乗りに出た頼朝は、長女大姫や長男頼家が自分と同じ様に不安定な気質を持っていること、そして十五歳頃から、いつ清盛から死の使者が来るのか?と憂慮して過ごし、頭痛や気分の浮き沈みと対峙せざるを得なかった日々を回顧する。又御家人の畠山次郎重忠は、頼朝に奥州向けの“無用の出師”を興さぬよう、つまり大義のない奥州進軍は中止されたらどうかと進言するが、今更奥州への進軍を止める事は出来ない(急進派の御家人達を説得できるわけがありません)。
畠山の言い分は、真に道理が通っている。しかし、その正しさを保つなら鎌倉幕府は守れない。頼朝は人間の心を失くしながら、前に進むしかないのだ。
やがて、都に義経の首が届く。内部分裂した藤原氏鎌倉幕府の敵ではない。
頼朝は、厨川柵にて、長さ八寸の鉄釘で泰衡の首を大木に打ち付ける(3世代前の故事に習った)。
かくて奥州平定は、頼朝の心身をむしばみ、御家人達の不和を表面化させてゆく。

後白河法皇との駆け引き

1190年頼朝は上洛する。日本一の大天狗こと後白河法皇と、複数回の会談を持ちます。
会談の内容は、大姫の入内(後鳥羽帝)やら、頼朝の官位右近大将と権大納言の官位の授与やら、表面は穏やかに進みます。しかしながらその官位を務めるには京都に定住する必要があります。朝廷に鎌倉幕府が組み込まれる恐れがあるので、頼朝は返上します。そして、熟柿思考に切り替えます。熟した柿の実が落ちるのを待つ。法皇のご万歳を待つのです。この頃から頼朝の時間軸の感覚が衰えていきます。母政子から、入内の話を聞かされた大姫は「父上も母上も武士の府を守る一念に動かされているだけです」と言う。
蒲柳の質ではあるが、事象の本質を看破できる大姫の進言は、その後頼家や頼朝の生死に深くかかわってきます。1192年後白河法皇が66歳でご万歳します。すかさず頼朝は、関白九条兼実を遣って征夷大将軍位に就く。そのうえ比叡山天台座主九条兼実実弟慈円を、そうして鎌倉に住みながら、朝廷と比叡山に睨みを効かせます。ほぼ反頼朝勢力を抑え込みます。しかし46歳になった頼朝は、心身の衰えをますます感じるようになります。と同時に自分に万が一のことがあれば、心血を注いで作り上げたこの鎌倉幕府はどうなるのだろうか?それよりも、我が子達が、北条家や、自分に臣下の礼を取って出家している異母弟阿野全成御家人達に、手のひら返しをされ、殺されはしないだろうかと、誰にも言えないまま不安が増大してゆきます。
しかも朝廷では、後白河法皇の寵妃だった丹後局が権勢を揮っています。

頼朝迷走、見当識を失う

1196年頼朝は、人知れず懊悩していた。大姫の入内を望むのは帝の外祖父になるのを望むも同じ。私は清盛入道と同じ道を行こうとしているのか?私は鎌倉幕府の運営より、自分の血筋(源家嫡流)を保全することに、執着しているのではないか。
その上、物忘れが激しくなっている。意図せず癇癪を起す。人の顔を忘れる。
この状況をチャンスと見た北条家と仲の悪い比企能員(頼家の乳父)が、頼朝に北条一族を討てとの御教書を出せと迫るが、政子の機転で仮病を使って逃れる。だが頼家は自分が早く将軍位に就きたいので(母政子とは他人行儀な関係で、母が怪物に見えるらしい)日を置かず、頼朝に、御教書に花押を書けとまで迫ってくる。もはや花押の書き方も、牛車の乗り方も忘れてしまった頼朝だが、なんとか日延べをする。

独り冥府魔道を行く

頼朝の老耄の症状は、もはや隠しようがなく不可逆的に進行していく。
この頃になると、譫妄の症状がでて、日中でも目の前に清盛や義経がいると怯える。
頼朝がこのような状況では、鎌倉幕府の屋台骨が揺らぐ。しかも隠居するつもりはない。
自分が将軍であることは、辛うじて覚えている。馬にも乗れる。政子は義時とともに、ある図り事を計画する。それは大姫の遺言書にもしたためられていた。政子は逡巡するが「では鎌倉幕府が平家と同じ末路をたどってもよろしいのか」との言葉で肚をきめる。
決行は、稲毛重成の橋供養の日の昼食に、鴆毒を入れる(稲毛重成は政子の妹の夫。妻の死を悲しむ余り出家して、私財を投じて橋を架けた)。その式典に頼朝は参列する。
この日の頼朝は、調子がよく気分爽快だった。政子の顔や食事の仕方(箸の使い方)は忘れていたが。式典終了後、屯食(おにぎりのようなもの。将軍位に就く前は、政子お手製の屯食を好んで食べた)を見て、若かったころを思い出す。今の状況を理解する。頼朝は、自ら築いた“武士の府”を残すために、自ら毒入りの屯食を喰らう。その帰途、落馬する(鎌倉幕府のため人柱となった?)。
頼朝没後、父・頼朝の花押の入った書付を盾に、2代将軍となった頼家はやりたい放題、心のおもむくままに振舞う。政子は一番新しい遺言書を盾に頼家を名目のみの将軍とする。
もはや、母子関係は壊滅状態です。有能な吏僚、大江広元を使った政子に分がありました。
何時の時代も、遺言書の形式や日付がものを言うのは同じですね。

エピローグ

1221年、後鳥羽院は義時追討の院宣を出す。義時個人に対する院宣です。
65歳となった政子は、出陣する御家人達(農場主でもある)を前に、白米を小道具とした、肺腑に響く見事な演説をする。勝鬨の声を上げて、最後の隊列が出で行くのをみとどけた政子は、足立景盛(高野入道)と一緒に勝利を確信する。
政子は、四人の子供の命(特に頼家と実朝)と引き換えに鎌倉幕府と北条家を守った。充足感とともに、形容しがたい後悔に囚われるのでした。

長くなりましたが、歴史の中のスクラップ&ビルドの物語としても、武家社会の創成期の物語としても、頼朝や政子の伝記物語としてもお楽しみいただけます。お薦めします。

天一

修羅の都

修羅の都

 

吉川永青『第六天の魔王なり』

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皆様あけましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願いいたします。
さて、新年早々待ち受けていたものは魔王でした。表題作につきまして、一天一笑さんからレビューをいただいておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


吉川永青『第六天の魔王なり』中央公論新社を読了して。
『修羅の海道』『治部の礎』で武人でありながら、一人の人間として自分自身の内面の懊悩に翻弄されまいとする今川義元石田三成らを描いた吉川永青の最新作です。1560年~1582年の日本を舞台に、織田信長の視点から描かれた長編歴史小説です。

プロローグ

京都本能寺に押し寄せる水色桔梗紋を確認した織田信長の胸中に去来するものは何か?
有名な「女子は苦しからず」「是非に及ばず」などの言葉はどの様な心境の下に生まれたのかが明らかされてゆきます。

信長、魔王への扉を開く

信長は桶狭間の戦いを制し、今川義元の首級を挙げた。改めて自分自身の堪え性の無さ、寛容性の無さを、どうリカバリーできるか思案します。
学問の師匠、臨済宗沢彦宗恩の知恵を借り、平定した美濃・井ノ口を岐阜と改めます。
出典は古代中国の“文王岐山に立ちて周朝八百年の泰平を築く”に拠る。平穏を得て武王(文王の子)は徳政を布いた。先ず戦の無い世の中をつくり、それから民に篤い徳政を布くの意味です。
これを漢字四文字で表すと“天下布武”となる。信長は果たして、どの様な方法を用いて天下布武を成し遂げるのでしょうか?いずれにせよ、まず上洛しなくてはなりません。
ほぼ同時期に、浅井賢政改め浅井長政と、同母妹の市との婚約を決めます(六角氏と離れ、実父浅井久政を押し込めにした胆力を買って?)。
琵琶湖・湖北を治める浅井家と盟約を結ぶ事により、京への上洛の道が開けました。

浅井長政の裏切り

1568年、高貴な遺伝子を持つ足利義昭は、明智光秀を使者に将軍宣下を狙い、信長に供奉を要求する。信長は義昭と明智光秀のひととなりに注目します。
浅井長政と会見する。信長は、長政が戦巧者ではあり、天下布武で語り合うが、守旧派の一地方大名で家の存続を図ろうとする(朝倉家との交誼を捨てられない)長政に懸念を抱く。それでも、自分が見込んで妹と娶わせた長政を信頼する。情を信じる事とする。
しかし信長は間違っていました。浅井長政裏切りの知らせに呆けた顔をし、判断力を失ったかのよう。悔しさに奥歯が折れる程噛み締めます。金ヶ崎城での撤退戦を強いられ、甲賀忍びに狙撃されるが奇跡的に生き延びます。
浅井・朝倉・顕如の連合軍の前にホウホウの体でひたすら逃げる。比叡山延暦寺織田家に従いません。信長は、天下人たらんとするならば、人間の情を捨て、武力でねじ伏せねばならぬと決意を新たにする。「情を以て人を制すること能わず」と。
恥を捨て、右筆武井夕庵を召し連れ、足利義昭と面会します。義昭は腐っても将軍。その力を借りて、浅井・朝倉・延暦寺との和議を成立させる。
天下人になるためなら、つまらない誇りなど要らない。
魔王への階段が見えてくる。

魔王への道

信長は、劣勢を跳ね返し、天下布武を達成するため、人の心の箍(たが)を外して、第六天の魔王になる決心を固める。光秀はそれをしたら、もはや後戻りできないと説くが、聞き容れず、光秀に比叡山延暦寺の焼き討ちを命じる。比叡山は阿鼻叫喚の巷と化します。
足利義昭も河内若江城に追放する。
信長は、南蛮具足を身に着け、ビロードのマントを着用し、第六天魔王への階段を登り始めました。
織田方でない者は総て焼き払え。織田家に臣従するならば助けてやる。これに恐れをなした朝倉景鏡は調略に応じ、朝倉義景の首級を手土産に降参しました。
そして金ヶ崎で自分を狙撃した杉谷善住坊を探し出して、体を地中に埋め顔だけ出して、有名な竹の鋸ひきの刑にしたのです。竹を鋸の代わりに使うのですから、これは残酷ですね。しかもひくのは一人一回のみ。鋸をひかねば善住坊の仲間とみなす。ひけば賞金をあたえる。信長は魔王に相応しく振舞うようになります。
自分の叔母(父織田信秀の同母妹)に当たる岩村城主夫人おつやの方を、岩村城落城後、河原にひきだして、素裸で逆磔にして、死体をそのまま烏の餌にします(前夫の一周忌も過ぎないのに、武田家の武将秋山虎繁に再嫁した裏切者として)。
朝倉家を屠った勢いそのままに、倍増した織田軍は、長政がかつて採用した戦法を用いて、小谷城を落とします。
長政夫人お市の方浅井三姉妹は、無事逃げ延びる。お市の方は夫長政の助命を請うが、無論信長は聞き容れません。生首になった長政を見て、何を思う。その信長の脳裏に、明智光秀の“上様は御心が強すぎて、民はそれが怖いのです”という言葉が響く。
その迷いを振り切るように、小谷城が落城した翌年の正月、新年の挨拶の杯に趣向を凝らし、浅井久政・長政父子および朝倉義景の頭蓋骨に薄濃(はくだみ)をほどこした杯を用意させたのです。
第六天魔王の面目躍如ですね。その信長を労しそうに眺める光秀の視線。

エピローグ:魔王、天に召される

1581年の京都の馬揃えで、少しは気が晴れたかのような信長は、かねてより懸案であった武田殲滅戦を開始する。武田家の重臣木曽義昌を調略にかけ、一門衆の穴山梅雪にも裏切らせる。徳川家康の活躍もあり、案外手間取ることなく、天目山で武田家は滅びます。
武田家滅亡がきっかけであったのか、第六天魔王の仮面を被っていた信長の心の箍(たが)が緩み、光秀の“我らの労苦が報われましたな”の一言で、制御できなくなり、光秀を打ち据える。今のことばでいうと、気を失うまで、光秀をボコボコにする(大勢の家臣の面前で)。
そして、ボコられた光秀は決心する。第六天魔王を人間に還すべく、つまりこの世の苦しみから救うために、叛旗を翻す。名門土岐氏の血を組む水色桔梗紋の旗を掲げ、本能寺を取り囲む。“上様、天下人の重荷を降ろして差し上げます。天下布武は斯様に重うございます”
光秀の心情を悟った信長は、白絹の寝装束のまま赤子のような笑みを浮かべて旅立った。
光秀は恨みではなく、深き慈しみの心を以て、信長弑逆の汚名を着たのでした。

天下布武の由来が気になる方、戦国時代に興味のある方、年始め、何か読んでみようかなと思われる方にお薦めします。

天一

第六天の魔王なり (単行本)

第六天の魔王なり (単行本)