魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルソン(William Wilson)」(後編)

オムニバス映画『世にも怪奇な物語』(1968年、仏伊合作)第二話「影を殺した男」より、ブリジット・バルドー(中央)。www.imdb.comより。

暴かれた正体

僕がその時どのように振る舞うべきだったのか、それはわからない。僕の対戦相手の悲惨な境遇はその場を暗い空気で満たした。気まずい沈黙がしばし続いて、その間、僕はグループ内のそれほど馬鹿ではない連中からの批判的な、チクリと刺すような視線を、頬のあたりに感じないではいられなかった。だからこの時起こったある曲者くせもの闖入ちんにゅうで、僕は耐え難い心理的重圧から一時的に解放されたのだとさえ言っていい。突如として、その部屋の重厚な折り畳み式のドアがいっぱいに開け放たれ、それがあまりにも性急かつ強引だったために、あたかも魔法のごとく、室内のすべてのキャンドルが消えてしまった。光が失われる直前、われわれにわかったのは、僕と同じほどの背丈の、外套クロークをぴったりと身にまとった一人の人物が入ってきたことだけだった。とはいえ今は真っ暗闇で何も見えず、われわれは彼がわれわれの中央にたたずんでいるのを感じることしかできなかった。度肝を抜かれているわれわれを前に、彼は言った。
「諸君」彼はその低く、はっきりした、忘れがたいささやき声で、僕を骨の髄まで凍りつかせた。「諸君、私はこの無礼について何ら申し開きをしない。なぜならこのような無礼を働くことで、私はただ単に義務を果たしているに過ぎないからだ。諸君は今宵『エカルテ』で、グレンディニング卿からまんまと大金をせしめた男の正体をご存じない。そこで私はこの必要欠くべからざる情報を入手する迅速かつ決定的なブランを、諸君に提案したい。お手すきの方、この男の左の袖口スリーヴ裏張りライニング、およびその派手な上着ラッパーのやや深めのポケットの中の幾つかの小箱を吟味されたい」
彼が話している間、室内は水を打ったように静まり返っていた。話し終わると、彼は現れた時と同様、忽然といなくなった。その時の僕の心境をどう言えばいいだろうか。地獄に突き落とされた気分だったとでも言えばいいのか。考えている暇はなかった。多くの手が僕の手もとをつかみ、灯りがただちに持ってこられた。探索が行われた。僕の袖口スリーヴ裏張りライニングからは「エカルテ」において重要不可欠エッセンシャルな絵札の数々が、そうして僕の上着ラッパーポケットからはゲームで使われていたカードとそっくりのカード一式が見つかった。ただしこの二組のセットには一つだけ違う点があって、僕が隠し持っていたカードは専門的には「アロンデ」と呼ばれる種類のもので、強いカードは縦向きに、弱いカードは横向きに、少し丸く膨らんだ形をしている。この細工のせいで、カモは通常通り縦向きにシャッフルすることで、敵にどうしても強い札を渡してしまう。これに対して詐欺師は横向きにシャッフルすることで、敵に決して得点を与えないで済むのである。
この探索結果は無言の侮蔑と皮肉な冷やかさとをもって受け止められ、それはどんな囂々ごうごうたる非難よりもその時の僕にはこたえるものだった。
「ウィルソン君」プレストン氏は身をかがめて、稀少レアな毛皮を用いた贅沢きわまる外套クロークを足もとから拾い上げながら言った。「ウイルソン君、これは君の所有物プロパティだ」(寒かったので、僕は自室を出る際、上着ラッパーの上に外套クロークを引っかけていて、ゲームの開始とともに脱ぎ捨てていた)「君の技術スキルのさらなる証拠エビデンスをこの辺に(外套ガーメントひだへと、苦笑とともに目をやりながら)追求するのは大きなお世話スーパーエロゲーションというものだろう。もう結構。君はオックスフォードを去る必要があることはわかると思うが、とりあえず、今すぐ僕の前から消えてくれ」
侮辱され、プライドを踏みにじられて、僕はこのいまいましい言い草のお返しに、もう少しで間髪を容れず、身体的暴力に訴えているところだった。だがその時、僕の全注意力はきわめて驚くべき一事実によって捕捉されていた。僕が着てきた外套クローク稀少レアな種類の毛皮製品だった。いかに稀少レアで、いかに高価なものか、それは敢えて言うまい。そのデザインも、僕自身の奇抜な発案に基づいてあつらえたものだった。なぜなら僕は洒落た身なりをすることに、馬鹿々々しいほどのこだわりを持っていたからである。それでプレストン氏がドア近くの床の上から拾い上げたその外套クロークを僕に差し出した時、僕はほとんど恐怖に近い驚愕に襲われた。なぜなら僕は自分の外套クロークを(無意識のうちに)すでに自分の腕にかけていて、プレストンから差し出された外套クロークはそれと寸分違わない、あらゆる点で、あり得べきいかなる些細な特徴に至るまで、それとまったく同じものにしか見えないほどの見事な複製品カウンターパートに他ならなかったからである。僕の不正を告発した闖入者ちんにゅうしゃは、確かに外套クロークを身にまとっていた。彼以外の人間で、外套クロークを着てやってきたのは僕だけだった。いささか精神の安定プレゼンスを取り戻すと、僕はプレストンから受け取った外套クロークを、気づかれないように自分の外套クロークの上に重ね、相手を睨みつけながらも無言でその場を去った。そうして夜も明け切らぬうちに、耐え難い屈辱と恐怖に耐えて、オックスフォードから大陸へと逃げ出した。

華々しいラストへ

いくら逃げても無駄だった。わが凶運は、あたかも嬉しくて仕方ないかのごとく、僕につきまとい、その謎めいた支配力の行使はまだ始まったばかりだと告げるのだった。パリへと足を踏み入れるや否や、僕はあのウィルソンが僕の様子をうかがっている新しい証拠エビデンスを見つけた。時は流れたが、ひと時も心休まることはなかった。ローマでは、何と折悪おりあしく、何と化け物じみたお節介で、僕の野望の前に立ちはだかったことか。ウィーンでも、ベルリンでも、モスクワでもそうだった。どこでもひどい目に会った。僕はあたかも感染症から逃れるごとく、パニックに襲われながら、この料簡がわからない暴君の手を逃れ続けた。だがこの世の果てまで逃げても無駄だった。
僕は内心、何度も何度も自問したものだった。「彼は何者だ?どこから来た?何の目的で?」だが答えは見つからなかった。また僕は彼の無礼きわまる管理監督の形式や、方法や、主たる性質について、微に入り細を穿って吟味してみた。だが推論の根拠となるようなものはほとんど見つからなかった。ただ僕が気づいたのは、近年、彼が姿を現した無数の例のすべてにおいて、もしそれが完遂されていたならば、僕はあるいは破滅していたかも知れない、そんな野望や行動を頓挫させるためにのみ、彼は出現したという点だ。それは実に横暴に強奪された一つの権威に対するまことに貧弱な正当化、一人の人間が持って生まれた自己主体性セルフ・エージェンシーの権利への、実に悪質な否定に対する、まことに乏しい代償だった。またもう一つ、僕が気づいたのは、彼は長い間(僕と同じ服を着るという酔狂を几帳面に、驚くべき器用さをもって続けながら)、僕の意志にさまざまなやり方で干渉する上で、いつ何どきでも、僕に決して素顔をさらすことがなかったという点だった。彼が何者だとしても、少なくともこのまやかしには何の意味もなかった。彼はイートンでは僕に警告を発し、オックスフォードでは僕の面目をつぶした。ローマでは僕の野心を挫き、パリでは僕の復讐を妨げ、ナポリでは僕のひたむきな恋を失恋に終わらせ、エジプトでは僕の商取引を、暴利をむさぼるものだとしてぶち壊した。この宿敵にして疫病神やくびょうがみの正体を、僕は絶対に見破っていた。彼は必ずやあのブランズビー先生の学校におけるわが同姓同名の友にしてライバル、あの憎むべき、恐るべきウィリアム・ウィルソンに違いなかった。僕にそれがわからないなどと、彼は一瞬でも考えてみただろうか。そんなはずはない!――だが今はこのドラマの華々しいラストへと急ごう。
ここまで、僕は彼の専制的な支配に対してだらしなく屈してきた。彼の崇高な性格、彼の偉大な英知、彼の見かけ上の偏在性と全能性とに対して僕が常日頃から抱いていた底知れぬ畏怖の念は、彼の他の特性や推察から喚起された恐怖感と相俟あいまって、僕に自分がまったく無力であるという観念を植えつけ、彼の専断に、嫌々ながらも盲従するよう作用してきた。だが近年、僕はすっかり酒浸りとなってしまった。そうしてわが遺伝的気質に対するアルコールの影響は、僕をいよいよこらえ性のない人間にした。僕はつぶやき、ためらい、あらがい始めた。そうして僕の態度が強硬になればなるほど、彼の態度が軟化するように感じられたのは、単に僕の気のせいだったろうか。ともあれ、僕は今や燃ゆるがごとき希望の霊感を感じ始め、心の奥底に「もうこれ以上、奴隷の身分に甘んじてはいないぞ」という捨て鉢な、ゆるがぬ決心をはぐくむに到った。

一八――年、ローマで

映画『オペラ座の怪人』(2004年、アメリカ)のワンシーン。www.imdb.comより。

一八――年、カーニバルの時季のローマで、僕はナポリ公爵ディ・ブロリオの宮殿パラッツォにおける仮面舞踏会マスカレードに参加した。その夜はワイン・テーブルでの暴飲に常日頃にもましてのめり込んでいた。そうして今や混雑した会場内の窒息しそうな雰囲気に、僕は我慢がならないほど苛立っていた。また人混みの迷路メイズをかき分けてゆく面倒さも、僕の虫の居所の悪さに少なからず拍車をかけていた。というのも、僕は老ディ・ブロリオの若くて、美しい、浮気な奥さんを(どんなけしからん目的でかは言うに及ばず)探し出すのに忙しかったからである。彼女は人妻らしからぬ大胆さで、その夜のコスチュームを、僕に手紙でこっそりと教えてくれていた。それで彼女の姿パーソンをちらりと見かけた僕は、彼女の御前プレゼンスへと参上すべく、先を急いだ。その折も折、僕の肩の上に軽く手が触れ、僕の耳もとにあの忘れもしない、くそいまいましいささやき声が響いた。
カッとなった僕は、この邪魔立てをした男の方へとただちに向き直ると、荒々しく相手の襟首をつかんだ。彼は、僕が思った通り、僕自身と全く同じコスチュームを身に着けていた。すなわち青いビロードのスペイン風マントをまとい、腰に巻きつけた真紅のベルトから、一本の細剣レイピアを下げていたのである。黒いシルクの仮面が彼の顔を完全に覆い隠していた。
「貴様」しわがれた声でそう言いながら、僕は自分の吐き出す一語一語によって、ますます怒りがかき立てられるのを覚えた。「貴様、俺に死ぬまでつきまとう気だな。そうはさせるか。ついて来い。さもないと、この場でぶっ殺すぞ」――抵抗できない力で彼を引きずりながら、僕は舞踏会場をよぎり、とある小さな控えの間へと突き進んだ。
室内なかへ入ると、僕は彼を激しく突き飛ばした。彼は壁に当たってよろめき、僕は呪いの言葉を吐きながらドアを閉めて「抜け」と言った。彼はしばらくの間、ためらっていたが、やがてかすかな溜息とともに、無言で剣を抜き、受けディフェンスの姿勢を取った。
勝負はあっけなかった。すっかり頭に血がのぼった僕は、剣を取った片手のうちに、何人分ものパワー勢いエナジーとを感じていた。猛攻に次ぐ猛攻で、瞬く間に相手を壁際まで追い詰め、圧倒的な形勢に持ち込んだ僕は、情容赦なく、敵の胸に剣を突き立て、狂ったようにメッタ刺しにした。
と、誰かがドアの掛け金ラッチを試した。僕はあわててドアを閉め直してから、彼の方へと向き直った。だがそこに現れた光景を目の当たりにしたこの僕が見舞われたあの驚愕、あの恐怖を、人間の言葉で充分に表現することなど到底不可能だ。目をそらした一瞬の隙に、見たところ、部屋の奥の物の配置が変わっていた。それまで何もなかったところに、巨大な鏡――と僕には最初、そう思われたのだが――が立っており、僕が近づくと、向こうから真っ青な顔をした、血まみれの僕自身の姿が、おぼつかない足取りで近づいてきた。
そんな気がしただけだった。それはウィルソンで、瀕死の重傷にあえぎながら、僕と向かい合っているのだった。彼の仮面とマントとは床の上に、彼が先ほど投げ捨てた場所に、落ちていた。その衣装を織りなすすべての繊維スレッドの一本一本――その特異な目鼻立ちをかたどるすべてのラインのひと筋ひと筋が、完全無欠な同一人物性アイデンティティを証するまでに、僕自身のものと一致していた。
それはウィルソンだった。だが彼の声はもはやささやき声ではなかった。それで僕の耳には、彼がこのように言う声が、あたかも僕自身の声であるかのように聞こえるほどだった――
「俺は負けた。お前の勝ちだ。だがこれで、お前は世界に対しても、天国に対しても、希望に対しても終わったのだ。お前は俺の内部に生きていた――俺の最期に当たって、自分自身の姿を見ることで、自分にはもはや助かる見込みがないのだと知るがいい」

ふたたびBAND-MAIDの「HATE?」の歌詞

これも2023年5月のデトロイト公演から。ウィキメディア・コモンズより。

世にリアクション動画ほどくだらないものはないと、常々思っております。他人様ひとさまが作ったミュージックビデオを流して、横で「アア!!」とか「オオ!!」とか言って、ハイ出来上がり。こんな安直なもん、俺にでも作れるわ!!!(よう作りませんが)それでYouTubeの「おすすめ動画」で表示されても、リアクション動画は滅多に見ないのですが、BAND-MAIDのリアクション動画だけは好んで見ます。BAND-MAIDの動画を流しながら、横でリアクターたちが「アア!!」とか「オオ!!」とか言っているのを見るのが愉快でたまらないのです。先日、ようやく(というか、「満を持して」というべきか)BAND-MAID「HATE?」という曲の公式ライブビデオが公開されたので、私は冬眠から叩き起こされた形で、またぞろリアクション動画をあさっておりました。
BAND-MAIDを知らない方のために、少し紹介しておきましょう。BAND-MAIDは日本の5人組ガールズバンドで、5人のうちの2~3人(?)がメイド服(メイド喫茶の店員が着ているような)を着て「お給仕」(=ライブ演奏)をするところから「BAND-MAID」の名があるわけですが、ために日本では何か特殊な性的嗜好(?)を持った人たちに支持されているバンドだという偏見があるようで、さような偏見にとらわれない海外の人々にむしろ熱心なファンが多い。音を聞けばわかりますが、このBAND-MAIDは非常に高度な演奏技術を誇る、本格的なロックバンドで、古き良き時代のハードロックの伝統を受け継いでいる。それもただ単に形式的に受け継いでいるだけでなく、これに新しい価値を賦与しております。
下がその「HATE?」の動画ですが。


www.youtube.com

だいたい公式ライブビデオなどと申すものは(BAND-MAIDのに限らず)視点が切り替わるのが早すぎて、めまいがする感じで、ファンカムの方がむしろ臨場感があるように思うものですが、このビデオは曲のテンポに合っているせいか、見ていてそれほど苦痛を感じません。曲中、ベースのソロに合わせてリードギターの女の子の踊る姿がとても可愛い。
この「HATE?」という曲の歌詞については前にも書いたことがあります(こちらの記事)。これはわれわれ男性にとっては大変「耳が痛い」内容のものです。これについて、リアクション動画につけられた英語のコメントの中に「この歌詞は彩姫(メインヴォーカルの女の子)の親しい女友だちが彼氏に浮気されて、それに憤慨した彩姫が書いた」というのがあって、その情報はどこから来たものかと少し調べてみたところ、どうも日本語のインタビュー記事*1の英訳があいまいで、誤読されたもののようでした。このメインヴォーカルの女の子は「近頃有名人の不倫報道が(日本では)多いが、そのたびに女を裏切る男は許せないと思う」と言ったわけです。もっともこの歌詞の内容は、世の男性一般に対する怒りというよりは、やはり何か個人的体験に基づくもののような気がしますが。

私を使って満たす自己顕示欲…

このフレーズの字幕での英訳、

Just using me to make you feel you have meaning. 

これはなかなかの名訳ですね。薄っぺらで、中身のない彼氏の胸に、グサリと突き刺さる言葉のナイフです。その次の、

10分そこらのショボい運動…

というのも、ギョッとさせられるセリフですが、さらにその次の、

たーいしたこともないのに!!!
たーいそうに!!!

まー、このクッソ憎たらしいイントネーションはどうでしょうか?しかもセカンドヴォーカルのコーラス付きです。海外のリスナーには、この辛辣さはなかなか想像がつかないだろうと思います。それだけ血の通った日本語でもあるわけです。

あーあーバカみたいだ!!!

繰り返しになりますが、BAND-MAIDの音楽は、ハードロックの王道を行くのみならず、これに新しい息吹きを吹き込むものです。チャラチャラしたステージ衣装とはうらはらに、そこには何かしら技術以上の「ピュアなソウルのごときものが、演奏にも感じられるし、歌詞にも感じられる。これまた私の大好きな「Warning!」という曲の歌詞に、

エラそうに もったいぶって
「愛」とか歌わないで!!!

とある通り、この「HATE?」はそこらのラブソングよりも、もっとまっすぐに「愛」を伝えてくれます。

松任谷由実の「春よ、来い」


www.youtube.com

今の時代、「うっせー、うっせー、うっせーわー!!」みたいな歌詞が書ける自称「天才」は、おそらく日本中に掃いて捨てるほどいるのでしょうが、上の「春よ、来い」のように格調高い歌詞が書ける人は、もうほとんどいないのでしょうね。口語体の中に文語体をないまぜにした、およそ奇妙な形式ですが、それでいてきわめて正確に、ほとんど外すことなく、われわれ日本人の心の急所を突いてきます。特にこの二番の歌詞、

君に預けしわが心は
今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても
ずっと ずっと 待っています…

何という美しい日本語でしょう。少し分析的に言うと、この「月日」という単語は、他の単語に置き換えることが絶対にできない。その次の行の「ずっと、ずっと」という、何か急に言葉に詰まったかのような繰り返しも、聴く者の胸にじかに響き、涙を誘います。
ただ私が考えてしまうのは、こーゆー純日本的としか言いようのない歌の魅力は、外国人には理解してもらえないだろうな、ということですね。たくさん言葉を積み重ねて「説明」することはできるかも知れないが、耳に入るなり激しくわれわれを動揺させ、涙腺を崩壊させる、この感じはネイティヴの日本語話者にしかわからないでしょう。たとえばこの歌の中に、

まなざしが肩を抱く…

というフレーズがありますが、われわれはこれを耳にしただけで、肩のあたりに何かぬくもりを感じる気がするものですが、これを翻訳するのは難しい。今ちょっとGoogle翻訳で自動英訳してみますと、

Your gaze embraces my shoulders.

となるようですが、これでは何のことやらわかりませんね。
下は英語によるカバー。ヘイリー・ウェステンラさんのカバーも聴きましたが、ヘイリーさんのは「春よ、来い」というより「春が来た」で、春を迎えるよろこびに満ちた歌で、原曲の、絶望のどん底で一縷の夢にすがっているかのような雰囲気とはまるで違います。下のレベッカさんのカバーの方が原曲に近い。


www.youtube.com

ちなみに松任谷由実の楽曲で個人的に一番好きなのは、荒井由実時代の「ベルベット・イースター」という曲です。少女の感性というものをこれほど鮮烈に印象づけた楽曲を、他に知りません。


www.youtube.com

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルソン(William Wilson)」(中編)

オムニバス映画『世にも怪奇な物語』(1968年、仏伊合作)第二話「影を殺した男」より、アラン・ドロン(中央)。www.imdb.comより。

イートンでの再会

数ヶ月間、家でごろごろして過ごしたのち、僕はイートンへ進学した。束の間の休暇インターバルは、僕がブランズビー先生の学校で体験した出来事の印象を薄めるか、少なくとも僕がそれらを回想する際に持つ感情の性質に、実質的な変化をもたらすのに充分だった。悲劇は――衝撃の事実は――もう無かった。今は五感の証言エビデンスを疑うだけの余裕ができていた。そうしてたまに思い出すとしても、人間の騙されやすさに驚き、あるいは自分が遺伝的に受け継いだ思い込みの強さに微笑むばかりだった。それに僕がイートンで送った学生生活の性質は、この種の懐疑論にさらに拍車をかけた。僕が直ちに、見境なしに飛び込んだ乱痴気騒ぎの渦は、過去のあらゆる傷あとを洗い流し、あらゆる深刻な、重い思い出を、たちまちにして飲み込んでしまったので、あとには前世における軽いしくじり程度の記憶しか残らなかった。
とはいえ僕は学校の目を盗み、校則に背いて強行した僕の悪事の数々を、ここに追跡トレースしようとは思わない。愚行のうちに過ごした三年間は、僕の心に悪徳を根づかせ、僕の背丈をやや法外に伸ばした以外に、何らためになることがなかった。ある日、破廉恥三昧にまる一週間を費やしたのち、僕は数名の堕落学生どもを、わが下宿における秘密の宴会へと招待した。僕らは夜遅くに集まった――なぜなら夜通し騒ごうと決めていたからだ。酒は飲み放題。酒以外にも、もっと危険な誘惑にも事欠かなかった。東の空がしらじらと明けめるころ、うたげはたけなわで、酒とカードに狂った僕は、いつも以上に背徳的な乾杯を主張している最中だった。僕の注意は突如としてらされた。それは乱暴に、とはいえ部分的に、部屋の扉が開かれたからだった。外から召使いが焦った声で「急用らしい客が、玄関で話があると言っている」と告げた。
泥酔していた僕は、この邪魔をかえって面白いと思った。千鳥足で数歩歩くと、僕は玄関に出た。低い天井の狭い空間に、光源は皆無だった。ただ極めてかすかな朝の光が、半円形の窓から差し込んでいた。見れば僕とちょうど同じくらいの背格好の青年が、その時僕が着ていたものとそっくりの、奇抜な型に裁断された白いカシミヤの上着を羽織って立っていた。かすかな光で、それだけは見て取れた。だが顔はわからなかった。僕が来ると、彼はつかつかと歩み寄り、れた様子で僕の腕をつかんで「ウィリアム・ウィルソン!」と耳打ちをした。
僕の酔いは一瞬にして醒めてしまった。
この人物の態度と、彼がわが眼前の光の中で、一本の指を激しく振って見せた動作に、僕は愕然とした。だが僕を本当に打ちのめしたのはそれではなかった。それはこの低い、奇妙な、母音を噛み殺した発音のうちにこめられた強い戒めの響きであり、とりわけその短く、シンプルで、懐かしいささやき声の、性格キャラクターが、調子トーンが、音程キーが、数限りない思い出を呼びさまし、僕にガルバニ電池のショックを与えた。気がつくと、彼はもういなかった。

イートンからオックスフォードへ

この出来事は鮮烈な印象を残したが、鮮烈であるのと同程度に、一時的エヴァネセントだった。確かに何週間かは、僕は必死に自問自答を続け、病的な妄想の中にいた。このように僕のプライベートに倦まずたゆまず干渉し、こっそり助言することで僕に嫌がらせをする、あの奇妙な人物の正体アイデンティティを、僕は知らないふりをすることができなかった。しかしあのもう一人のウィルソン、彼は何者だ?どこから来た?何の目的で?何一つわからなかった。ただ僕自身がブランズビー先生の学校を抜け出したのと同じ日の午後、彼もまた、何か家族の突発的な事情で、学校を去ったのだということだけはわかった。
だが僕はしばらくするとこれを忘れ、次の進学計画のことで頭がいっぱいになった。僕はまもなくオックスフォードへと進学した。そうして僕の両親の邪気のない虚栄心は、僕に美服の一式と、年単位の学費と小遣いとを与えることで、僕をますます遊興にふけらせ、大英帝国におけるもっとも裕福な貴族階級の、もっとも尊大なドラ息子どもと、金遣いの荒さで張り合うことを可能にした。
こうして道を踏み外す用意が万端となったことで、僕の持って生まれた人格的欠陥にはますます磨きがかかり、わが悪習はもはや常識の一般的拘束をも一蹴するに至った。とはいえ、ここでわが乱行の詳細を述べるのに時を費やすなら、愚を犯すことになろう。今はただ僕が浪費家学生仲間でも外道中の外道だったこと、また僕が新たな愚行を次から次へと考え出して、当時のヨーロッパでもっとも堕落した大学において、すでに慣行となっていた悪事の長いカタログに、少なからぬ補遺アペンディクスを付け加えたことだけを述べておく。
だがこれだけではなかった。我ながら慚愧に耐えないところではあるが、このころ僕はすでに真人間としての一線を越えて、プロのギャンブラーが使う技芸アートに親しみ、このような卑劣な学術サイエンス達人アデプトとなるや、常習的にこれを実行して、同じ大学の学生の中でも低能な連中を食い物にして、自分の親からの潤沢な仕送りの上に、さらに私腹を肥やすよすがとしていた。これは紛れもない事実である。そうしてこのように大それた犯罪がまかり通ったのは、疑いもなく、これがあまりにも大それた犯罪だったからだ。事実、節穴の目を有するわが学友たちは、この僕がイカサマ師に見えるくらいなら、誰しも自分の正気を疑っていたことだろう。なぜならこの僕とはすなわち誰の目から見ても掛け値なしに、陽気で、裏表がなく、心の広いウィリアム・ウィルソンなのであって、間違いなく、当時のオックスフォードにおけるもっとも品性高貴にして無欲リベラルな一般学生だったからである。僕の奇行は若さと夢想癖の為せる業に過ぎず、僕の非行は僕ならではの気まぐれに過ぎず、僕のもっともけしからん破廉恥行為も、無邪気な、颯爽たる暴走に過ぎないと、僕の取り巻きパラサイトたちは口をそろえて言っていたのだ。

カモが来た

ヘロデス・アッティコスが建てたとされる、アテネに今なお残る野外音楽堂。ウィキメディア・コモンズより。

このようにして二年が何事もなく過ぎたころ、オックスフォードにグレンディングという名の成り上がりの貴族がやってきた。聞いた話では、こいつはヘロデス・アッティコスのごとき大金持ちで、しかもその富は棚ボタ式に得たものだということだった。この男をひと目で馬鹿だと見破った僕は、いいカモが来たと思った。僕は彼をたびたびゲームに誘い、ギャンブラー常用の手口に従って、彼に相当な金額を負けてやることで、彼をわなから逃げられなくした。機は熟したと見るや、僕は同じ大学の学生で、僕らの共通の友人、プレストン氏の下宿で(これを最後の決定的な面会とする気満々で)グレンディングと面会した。ちなみにプレストン氏の名誉のために言っておくと、彼は僕の意図をつゆほども疑ってはいなかった。計画を露見しにくくするために、僕はついでに何も知らない八名ないし十名の生徒を呼び集め、カードゲームがあたかも偶然のごとく持ち出されるよう、しかも僕がおとしいれようとしている人物自身がその言い出しっぺとなるよう、細心の注意を払って偽装した。早い話が、例によって例のごとく、あらゆる卑劣な仕掛けが張り巡らされていたのであって、今なおこれに引っかかる連中がいるのは不思議としか言いようがない。
会合は深夜まで続き、僕は遂にグレンディングとの一対一での勝負に持ち込んだ。ゲームは僕の得意の「エカルテ」だった。他の連中は、自分たちの遊びを止め、僕らの周りに立って、勝負を眺めていた。僕はくだんの成金に宵の口から、心して酒をあおらせていた。だがこの時、彼がカードを切り、配り、勝負をする際の、何か異常に緊張した様子には、どうも酒以外の何かがあるような気がしていた。彼の僕に対する借金は瞬く間にふくらんだ。すると彼はポートワインを長々と飲み干したあと、僕の読み通りの行動に出た。すなわち賭け金を倍にしようと言い出したのである。まずは気の進まない顔をして見せ、何度か拒否することで彼に暴言を吐かせると、それに対してムッとしたふりをしてから、僕はようやくこれに応じた。ここまで来れば敵は袋のネズミである。一時間もしないうちに、彼の借金は四倍になった。少し前から、彼はあたかも酔いが醒めたかのように、顔の色が赤みを失っていた。ところがこの時、僕は彼が真っ青な顔をしているのを見て驚いた。事実、僕は驚いたのだ。グレンディングは前々から僕の熱心な問いかけに対して、金はいくらでもあるとうそぶいていた。彼がった金は、それ自体としては莫大な金額だったが、それでも彼にとってははした金に過ぎないはずだった。彼はどうも悪酔いしたようだというのが真っ先に僕の頭に浮かんだ考えで、僕は紳士たる体面を保つため、あるいは同様の不純な動機から、ゲーム終了を宣言しようとした矢先だった。僕の周囲にいた学生たちが色めき立つと同時に、僕の対戦相手が身も世もあらず慟哭した。僕はグレンディングを破産させてしまったのだった。彼は皆の同情の的となり、悪魔といえども手出しできなくなった。

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルソン(William Wilson)」(前編)

オムニバス映画『世にも怪奇な物語』(1968年、仏伊合作)第二話「影を殺した男」より、マルコ・ステファネッリ(中央)。www.imdb.cあomより。

もう一人の自分」との不穏な関係。エドガー・アラン・ポーの名作を三回に分けて訳出します。原文はこちら


「何であろう、わが生における恐ろしき幻、
自意識コンシャスとは」――チェンバレン『ファロニダ』

宿命性のオアシス

わが名はウィリアム・ウィルソン、とでもしておこう。実名を記すことで、僕の目の前にあるこの白紙を汚す必要もあるまい。僕は家名に泥を塗り、辱しめ、貶めた。わが悪名は、憤怒の風に乗って、この世の果てまで轟いている。僕はもう死んだも同然だ。もう名を上げることも、恋の花を咲かせることも、財を成すことも叶わない。それどころか、死後も救われる見込みがない。
残念に思われるかも知れないが、僕は今日この場では、わが近年における悪行の数々や、死をもって償う他はない罪の詳細について、一切語らない。僕の行状がエスカレートしたのはごく最近のことで、今書きたいのはここまで落ちぶれるに到ったきっかけのみだ。通常、人は段階を踏んで堕落する。だが僕にあっては、たががはずれたように、あらゆる歯止めが急に効かなくなった。比較的ケチなチンピラから、一足飛びに暴君エラ・ガバルス並みの鬼畜にまで飛躍したわけだ。どんなわけで、どんなめぐり合わせで、こんなことになったのか、これから書くことを我慢して読んで欲しい。僕の最期の日は近い。この暗い予感のおかげで、僕の心境はかえって落ち着いている。この絶望のどん底において、僕は人々の共感(今「憐憫」と書きかけた)を切に求める。僕としては、自分がある程度までは、自制心ヒューマン・コントロールによって何とかできる範囲を超えた苦境にあって、何もかも仕方なかったのだと思ってもらえれば、それでいい。今まさに書き記さんとする詳細ディテールのうちに、わが迷妄の砂漠における宿命性のオアシスを見出して欲しい。僕が人々に認めて欲しいのは、人々が認めざるを得ないであろう点、すなわち同様の誘惑はこれまでにもあったとしても、少なくともこのように誘惑された人間はかつてなく、このように破滅した人間は決してなかっただろうという点だ。このような苦悩を経験した人間は、僕だけなのか。僕は生涯を通じて夢を見ていたのか。僕はあらゆる浮世の夢ブルーナリー・ヴィジョンのうちの、もっとも狂気じみたものの犠牲者として死んでゆくのか。

運命の最初の警告

僕は思い込みが激しく、激情に駆られやすいことで知られた、とある家系の末裔として生まれた。そうして幼少の頃から、そのような特質を存分に受け継いでいる証拠エビデンスを示した。長じるにつれて、この傾向は増大した。それは周囲の人たちとの軋轢あつれきの原因ともなり、また僕自身が深刻ポジティヴに傷つく原因ともなった。僕は思いやりのない、気まぐれでわがままな子どもとなり、もっとも制御しがたい喜怒哀楽の餌食となった。低能で、僕同様、遺伝的精神疾患に悩まされていた両親は、僕の性根の悪さに対してほとんど為すすべがなかった。手ぬるい、誤った方針によるしつけの結果は、両親の側の完敗、すなわち僕の側の完勝に終わった。以後、家庭内で僕に逆らう者はなくなった。そうして他の子どもたちがまだ一人歩きもままならない年ごろから、僕は人の言いなりにならず、僕自身、どうしても好きになれない自分の本名を名乗ること以外、ほしいままなる行動が許されるようになった。
わが学生時代の最初期の記憶は、イングランド狭霧さぎりの村の、とあるエリザベス朝時代の宏壮で乱脈な全寮制校舎へとつながっている。それは数限りない節くれ立った大樹と、すべて年古りた家々との村であった。事実、その古色ゆかしい村は心癒される場所だった。今、僕は朝の巷のすがすがしい空気を感じ、生い茂る潅木の香りを吸い込み、教会の鐘のひびきにふたたび胸を震わせる。鍾声は時が到れば、にわかに陰気な轟きをもって明け方の空に現れ、その空の下にはゴシック風の菱文様ひしもんように飾られた尖塔が眠っていた。
こうした学生時代の追憶にふけることは、今の僕に、せめてものよろこびを与えてくれる。あまりにもリアルなこの絶望の淵にある僕なればこそ、二、三の脈絡のない思い出を書き散らすことで、いかにささやかな、束の間のものだとしても、心の安らぎを求めることは許されよう。それにこれらはそれ自体としては極めて些細で、馬鹿々々しくさえあっても、僕の考えでは、その後長年にわたって僕を苦しめることになる運命の最初のあいまいな警告を、僕が初めて認識した時間と場所に関係しているのだ。しばらく回想を続ける。

ブランズビー先生の学校

トーク・ニューイントンの旧セント・メアリー教会。ブランズビー校長はここの牧師だった。ウィキメディア・コモンズより。

先に触れた校舎は古くて不規則だった。校庭は広く、そうして全周を取り巻く高くて頑丈な煉瓦塀は、てっぺんにモルタルが塗られ、ガラスの破片が植えつけられていた。この監獄の壁みたいなものが僕らにとってのこの世の果てで、その向こうの世界が見られるのは週に三回だけだった。毎週土曜に一回、僕らは二人の先生に付き添われ、近所の野原へ短時間の散歩をした。それから毎週日曜、朝夕二回、村の教会でお祈りを上げるため、制服を着てパレードを行なった。その教会の牧師は僕らの学校の校長が務めていた。彼がゆっくりと、厳粛な足取りで、説教壇プルピットへの階段を上がる姿を、遠く離れた信者席のベンチから、僕は何たる驚きと戸惑いの目で眺めていたことだろう。かくも温顔の、かくも聖職者然と着飾った、かくも大きく、かくも堅苦しく、かくも髪白粉パウダーだらけのかつらをつけたこのご立派な牧師様が、ついさっきまで、煙草くさい服を着て、怖い顔をして、鞭を片手に、厳格な校則を執行していた教官と同じ人物だとは。それはまったく解きがたいパラドックスであった。
厳重な塀の一角に、さらに厳重な門があった。それはおびただしい鉄のボルトで固定され、上に鉄製の忍び返しがついていた。それは何とも恐ろしい印象を与えるものであった。それはすでに述べた週に三度の集団行動の時以外、決して開くことがなかった。その頑丈な蝶番ちょうつがいがきしむたびに、僕らは無限の神秘を見出した。それは厳粛な物言いと、さらに厳粛な物思いのための世界だ。
校内の広い敷地は不規則な形をしていて、ところどころに奥へ突き出した空き地があった。そんな空き地のうちの広いものを幾つか繋ぎ合わせたものが運動場になっていた。そこは平らにならされ、砂利が敷き詰められていた。植木やベンチの類は一切なかった。運動場はもちろん、校舎の裏にあって、校舎の前にはツゲなどの灌木が植わった花壇があった。だがこの聖域を僕らが通るのは極めて稀な機会に限られていた。それはたとえば学校に入る時、学校を去る時、それとおそらく夏休みやクリスマスに保護者が訪ねてきてくれて、僕らが大喜びで家路に就く時であった。
それにしてもこの校舎。それは何と奇妙な建物だったことだろう。それは僕にとってはまさに迷宮だった。その紆余曲折と不可解な細分化サブディビジョンには際限がなかった。人はいかなる時でも、その二階建ての建物のうち、どちらの階に自分がいるのか、確言するのが困難だった。一つの部屋から他の部屋へと向かうのに、垂直方向に移動するステップが必ず三つか四つはあった。水平方向の分岐は無数にして支離滅裂で、しかもめぐりめぐって元の場所へと戻ってくるので、その建物全体について僕らが持っていた正確な観念は、僕らが無限の宇宙について持っていた観念とそれほどかけ離れてはいなかった。この施設に滞在していた五年の間、僕自身と他の十八名ないし二十名の生徒に割り当てられた狭い寝室が、この建物のいったいどの辺にあるのか、僕は決して確信を持つことができなかった。
教室は建物の中で一番大きな部屋で、当時の僕は、これを世界一大きな部屋と考えざるを得なかった。それは縦に長くて幅が狭く、ゴシック風の窓は菱形、オーク材の天井は低くて気詰まりだった。この部屋の遠い一角に、縦横三メートルほどの四角い囲いがあって、それは尊師ブランズビー校長の「おこもり」のための聖域だった。それは堅牢な一室で、大きなドアがついていて、そこを「先生ドミニエ」の不在時に開けたりしようものなら、僕らはいっそ石責めの刑ペーヌ・フォルト・エ・デュールでぺしゃんこにされた方がましだと思うほどのひどい目に会わされた。他の二つの隅にも似たような小部屋ボックスがあって、校長のほどおそれ多くはなかったが、恐怖の対象には違いなかった。その一つは「古典」の、もう一つは「国語と数学」の教師の講壇プルピットだった。無限の不規則性を有する方角に、無数のベンチと机とがばらまかれ、その机は古く、黒く、すり減っていて、手垢だらけの本が滅茶苦茶に積み上げられていたのみならず、イニシャルや、フルネームや、グロテスクな絵や、その他無数のナイフ傷が刻み込まれ、その表面の原型の片鱗すらうの昔に失われていた。部屋の一端いったんには水の入った大きなバケツ、他端たたんには馬鹿げたサイズの柱時計があった。

セイラム魔女裁判(1692年-1693年)で「ペーヌ・フォルト・エ・デュール」の拷問を受けるジャイルズ・コーリー容疑者。西洋の「石責め」は日本の「石抱き」と少し違って、仰向けに寝かせた容疑者の上に板を敷き、その上に石を積んで圧迫するのだそうです。ジャイルズはこの拷問を三日間受けたのち、死亡しました。ウィキメディア・コモンズより。

この古い学校の厚い塀の中で、僕は十代前半の五年間を、それでも結構楽しく過ごした。感性豊かな少年の心とは、これを楽しませ、夢中にするのに、何ら異変だらけの外界を必要としない。そうして一見悲惨なほど単調な学校生活は、僕が青年期に遊興から得た興奮や、壮年期に犯罪から得た興奮よりも、もっと刺激的な興奮に満ちていた。だが僕の知能の発達には、最初から何か普通でないもの――何か異常ウトレと言っていいものがあったに違いない。少年期の出来事など、大人になると、覚えていないのが普通である。すべては暗い影であり、はかなく、不規則な記憶であり、微弱な快感とお化け屋敷的ファンタスマゴリックな苦痛との朦朧たる再集合に過ぎないものだ。僕にあっては違う。少年時代、僕は成人の知力をもってこれを感受したに違いなく、だからこそ、その記憶はカルタゴの貨幣の銘のように、細部にわたって鮮明で、深刻で、耐摩耗性を持っているのだ。
だが書こうとすると、書けるほどの思い出は実に少ない。起床、そして就寝。復唱、そして暗唱。定期的な半休と定期的な散策。運動場での遊びや喧嘩や陰謀。これらは少年時代の心理的魔術によって、感性の原野を、冒険の世界を、もっとも心躍らせる興奮と多様な感動との宇宙をはらんだものとなった。「おお鉄の時代よ、それは何とよい時代であろう」*1

同姓同名のライバル

事実、他人ひとの下で大人しくしていられない僕の気質は、同級生たちの間で、たちまち僕を目立った存在とした。そうして徐々に、とはいえ自然の成り行きに従って、それほど年の離れていない上級生たちも、ことごとく僕に一目置くようになった。ただ一つだけ例外があった。この例外とは一人の生徒の存在で、いかなる血縁関係もないにもかかわらず、僕と同姓同名を名乗っていた。これ自体は別に特記するほどのことではない。なぜなら高貴の血筋であるにもかかわらず、僕の氏名は、慣習的権利によって、遠い昔から庶民と共有されているあのありふれた氏名のうちの一つだからだ。この手記で、僕はウィリアム・ウィルソンなる仮名を使っているが、僕の実名も似たり寄ったりのものなのである。生徒たちが「僕らみんな」と呼ぶ集団の中で、この同名異人だけが、学業においても、自由時間の遊びや喧嘩においても、僕と敢えて張り合い――僕の言うことを盲目的に信じたり、僕の意のままに動いたりすることを拒み――いつでもどこでも、僕の一方的な指図に敢えて干渉するのだった。もしこの世に絶対的かつ完全無欠な専制があるとすれば、それは一人の気の強い子どもが他の気の弱い子どもたちに対して専制である。
ウィルソンの反抗は、僕には最大の癪の種だった。それも人前では、僕は必ず彼と彼のかっこつけに対して、空威張りをもって対応していたにもかかわらず、心の底では彼を恐れており、彼が僕に対してかくもやすやすと主張し得る対等性を、実は彼の優越性を証するものだと考えざるを得なかったので、彼に負けないためには常に頑張っていなければならず、だからこそよけいに癪に障った。とはいえこの優越性もしくは対等性を認めているのは、実は僕自身だけだった。学友たちの目は、あたかも節穴のごとく、僕の優位を信じて疑わないらしかった。事実、彼の対立や反抗、とりわけ彼の厚かましく小うるさい干渉は、決して内々のもの以上ではなかった。彼はどうやら、僕を焚きつけて、僕に抜きん出るすべを与えようとする野心にも元気にも欠けているらしかった。僕と張り合う上で、彼はただ単に僕を邪魔したい、驚かせたい、悔しがらせたいという気まぐれな欲求にのみ突き動かされているように見えた。もっとも時として、僕は彼の無礼や、侮辱や、反駁の中に、極めて不適切な、そうして間違いなく極めて有難迷惑な優しさを、驚きと、恥辱と、腹立ちとをもって認めざるを得ないこともあった。僕にはこの奇妙な振舞いが、何か途方もない思い上がりから来る、人を馬鹿にした保護者気取りとしか思えなかった。
おそらくこのウィルソンの奇妙な優しさと、氏名の同一性アイデンティティ、および僕らが同じ日に入学したという単なる偶然が、上級生たちの間に、僕らが兄弟だという見方を流布させたのだろう。もちろん、これには何の根拠もなかった。前にも言ったが、あるいは言ったはずだが、ウィルソンはわが一族とは縁もゆかりもなかった。だがもし僕らが兄弟だったならば、僕らは双子だったに違いない。というのはこの学校を去ったのち、僕はたまたまウィルソンが一八一三年の一月十九日生まれであることを知った。そうしてこれはいささか注目に値する偶然の一致コインシデンスだった。なぜならそれは僕の誕生日でもあったから。
奇妙に思われるかも知れないが、ウィルソンの反目が僕にかけた不断の心配にもかかわらず、また彼のやり切れない対決姿勢にもかかわらず、僕は彼をまったく嫌いにはなれなかった。僕らは確かにほとんど毎日口論をしていて、彼は表向きは勝利を譲ると見せかけながら、何らかの手段で、本当に勝ったのは彼の方だと僕に感じさせるように仕向けていた。ただ僕のプライドと、彼の掛け値なしの品位とが、僕らを常に「言葉を交わす」程度の間柄には保っていた。それとは別に、僕らには相性のいい点がたくさんあって、おそらく立場が違えば、僕らは友情を育んでいただろうという気持ちを、僕に起こさせた。実際、僕が彼に対して抱いていた本音の気持ちは、定義することも、描写することさえ困難だ。それは雑多で、異質な感情の混合物であった。すなわち幾らかの、まだ憎悪にまでは到らない程度の敵意。幾らかの敬意。多くの重視。もっと多くの恐怖。そうして大量の落ち着かない好奇心。心理学者モラリストには、僕らが切っても切れない仲であったことは自明であろう。
僕の彼に対する(陰日向かげひなたを問わない数多くの)攻撃のすべてを、より喧嘩腰のものとせず、お笑いや有効なジョークの流れ(単なる戯れを装いながらも苦痛を与える)とさせたものは、上に述べたような僕らの異常な関係だったに違いない。ただこうした僕の攻撃は、いかに頭を使ってひねり出したものであっても、決してすんなりとうまく行くことはなかった。なぜならウィルソンは、性格上、控えめで静かな威厳を多く身に帯びていて、ジョーク自体の毒は楽しみながらも、決して急所をさらさず、物笑いの種となることをきっぱりと拒んだからだ。ただ僕は彼の弱点を一つだけ見つけた。それはおそらく遺伝的な病気から来る、ある個人的特性に属するもので、僕ほど万策尽きた者でなければ、どんな敵でも見逃していたものであった。ウィルソンは口峡こうきょうもしくは咽頭いんとうぶに障害があり、いつも極めて低いささやき声しか出すことができなかった。この弱点を突こうとして、僕は事あるごとに大声を張り上げた。
ウィルソンの反撃も頻繁だった。そのような彼の有効な機知のうち、僕をとことん苦しめたものが一つあった。彼がどのような洞察力をもって僕のこのささいな弱点を見破ったのか、僕にはどうしてもわからなかったが、ただこれに一度目をつけると、彼は日常的にこの嫌がらせを行なうようになった。僕はいつも自分の非貴族的な名字と、平民専用とまでは言わなくとも、この実に平々凡々たる名前が大嫌いだった。そのひびきは僕の耳には猛毒だった。そうして僕の入学の日に、ウィリアム・ウィルソンがもう一人入学したと聞いて、僕はそいつに対して腹が立ち、また赤の他人が名乗っているというだけで、この名前がよけいに嫌になった。なぜならそいつのせいでその名は二度呼ばれるであろうし、そいつはいつも僕の面前プレゼンスにいるであろうし、学業の日課におけるそいつの興味は、このいまいましい偶然の一致コインシデンスのせいで、僕の興味としばしば混同されるだろうからだ。
こうして芽生えた嫌悪感は、僕らの心身両面での類似を示すあらゆる機会に、より強いものとなった。その頃はまだ自分たちが同い年であるという驚くべき事実に気づいていなかった。ただ同じ背丈であることはわかっていたし、おおまかな体つきや、顔の輪郭が、奇妙に似ていることにも気がついていた。僕はまた、級が上がるにつれて風聞カレントとなった僕らの血縁に関する噂にも悩まされた。要するに、僕らの心身や境遇の類似について言及されることほど、僕に深刻な苦痛(そのような苦痛を、僕は周到に隠蔽していたのだが)を与えるものはなかった。ところが実際には(僕らの血縁の件や、ウィルソン自身は別として)僕らの類似は学友たちの間で話題になるどころか、気づかれもしないのだった。彼自身はあらゆる点で、僕と同じほどひしひしと、これを痛感していることは明らかだった。ただ彼がこうした条件下に、僕を苦しめる多くの手段を見出すことができた理由は、前にも言ったように、彼の非凡な洞察力に帰す他はない。
彼は発言と行動の両面にわたって、僕の真似をしているというキューを示した。彼の演技は実に見事だった。僕と同じ服を着るのは造作なかった。僕の歩きぶりや日頃の態度を真似るのも簡単だった。その遺伝的障害にもかかわらず、僕の声すら彼は巧みに模倣してみせた。僕の大声は、もちろん、彼には出せなかったが、音程キーは一致させたのである。それで彼の奇妙なささやき声は、僕の声のまさに反響エコーと化した。
この生き写しの似せ絵ポートレーチャー戯画カリカチュアと呼ぶのは当たらない)がどんなに僕を苦しめたか、それは筆舌に尽くしがたい。僕にとっての唯一の慰めは、見たところ、このイミテーションに気がついているのは僕だけで、僕としては、ウィルソンの心得顔と奇妙な冷笑だけをこらえていればいいという事実だった。彼は僕の心中に意図した効果を生み出しただけで満足して、人をこっそり傷つけておいてクスクス笑っているらしく、頭をひねったご褒美として、いともやすやすと手に入ったであろう学友たちの拍手喝采などまるで眼中にないのは、いかにも彼らしいと言えた。学友たちが彼の企みに気づかず、彼の成功を認識せず、彼の嘲笑に加わらなかったことは、長く不安な日々にわたって、僕の不可解な謎だった。おそらく彼の猿真似の漸進が、これをすぐには気づきにくいものとしたのだろう。でなければ、もっとありそうなこととしては、僕自身の身の安全セキュリティは彼の贋作の達人としての心意気に守られていたので、彼は(絵画においては馬鹿でもわかる)署名を真似ることなど意に介さず、僕一人を内面的に苦しめるために、ひたすら原画オリジナルの本質の再現のみを目指したのであった。
僕はすでにウィルソンの人を馬鹿にした保護者気取りや、僕の意志に対する頻繁でお節介な干渉について、一再ならず語った。この干渉はしばしば冷淡なアドバイスの性質を帯びた。それも露骨なものではなくて、暗示的な、さりげないアドバイスだった。僕はこれを反感をもって受け取り、この反感は年とともに募った。ただ今となっては、彼の助言が、彼の未熟な年齢や外見上の未経験にありがちな過誤や愚劣に染まったことが一度もなかったこと、彼の学才や世間知はともかくとして、少なくとも彼の道徳観念モラル・センスは、僕のよりもよほどしっかりしたものだったことは認めざるを得ない。当時あれほど嫌悪し、あれほどないがしろにした彼のささやき声のうちに秘められていた真心を、ほんの少しでも受け容れていれば、今の僕はもっと善良で、もっと幸福だったかも知れない。
とはいえそうするうちに、僕はいよいよ彼の不愉快な監視下にいることがたまらなくなり、彼の我慢ならない思い上がりであると僕が考えていたものに対して、日に日に怒りをあらわにするようになった。前にも書いたとおり、僕らの学友としての関係が始まったころには、僕らは友だちになれるかも知れない気がしていた。だが僕がこの学校にいた最後のころになると、彼の日常的な闖入ちんにゅうは、疑いもなく、ある程度は収まったいたにもかかわらず、僕の胸中には、ほとんど同じ比率で、積極的ポジティヴな憎悪が募ってゆくのだった。ある日、彼はこれに気がついて、それ以降は僕を避けるか、避けるふりをした。
僕の記憶に間違いがなければ、同じころ、僕と喧嘩になった彼は、いつもより無防備になり、彼らしからぬ、オープンな言動を取った。その時、僕は彼の口調、彼の態度、彼のおおよその外見のうちに、最初は僕を驚かせ、次いで僕の関心を強く惹きつけた何かを見たか、見たような気がした。それに伴ってわが幼少期のかすかな記憶――記憶力自体がまだ無いころの、狂おしく乱れた、数限りない記憶――が蘇ってきた。その時の僕の気持ちは、強いて言えば、遠い昔から――無限に遠い過去の時点から、僕は彼を知っている気がした、とでも言う他はない。とはいえこの気の迷いはすみやかに来て、すみやかに去った。そうして僕はただ、これがウィルソンと言葉を交わした最後の日だったとだけ言いたいがために、これに触れた。

学校を去る

その大きな古い校舎は、無数の細分化サブディビジョンを伴うとともに、互いにつながった幾つかの大部屋があって、そこにより多くの学生が眠っていた。とはいえそこには(拙劣に設計された建築にはよくあるように)小さな凹所ヌック空隙リセス、すなわち構造的に半端な箇所がたくさんあった。そうしてブランズビー先生の経済的創意によって、そのような場所にも宿泊設備が備わっていた。とはいえそれはほんの押入れクローゼット程度の空間に過ぎず、一個人を収容できる広さしかなかった。こうした狭い一区画がウィルソンの個室だった。
それは僕がこの学校に来て五年目の末のある夜、上に述べた喧嘩のすぐあとだった。皆が寝静まると、僕はベッドから起き上がり、ランプを手にして、足音を忍ばせながら、僕自身の寝室からウィルソンが眠っている一角へと続く狭く寂しい道をたどった。僕はそれまではうまく行かなかった、あの有効な機知の底意地の悪い一撃で、彼に犠牲を払わせることを、長い間思い描いてきた。これを実行に移すことがその時の僕の心づもりで、僕がどんなに悪意に染まっているかを思い知らせてやろうと、僕ははらを決めたのだった。彼の個室クローゼットに着くと、僕はランプにシェードをかぶせて外に置き、一歩踏み込んで、彼の静かな寝息に聞き耳を立てた。そうして彼が眠っていることを確かめると、あかりをたずさえ、ふたたびベッドに近づいた。閉ざされたカーテンがこれを取り巻いていた。僕は計画に基づいて、これを静かにゆっくりと引き開いた。明るい光線がウィルソンに落ち、同時に僕の目が彼の顔に落ちた。僕は見た。すると僕の心境が一変した。胸は高鳴り、ひざは震え、僕の心は対象のない、それでいて耐え難い恐怖の念に取り憑かれた。息を呑みながら、僕はその顔にランプをもっと近づけてみた。これが――これがウィリアム・ウィルソンの顔なのか。確かに、僕はそれが彼の顔だと知っていた。だが違う気がして、あたかもおこりの発作にでも見舞われたかのように、がたがた震えた。何が僕をこのように混乱させたのだろう。見ていると、様々な矛盾した考えが浮かんで、僕の頭はふらついた。彼が目覚めて活動している時には、確かにこんな風には見えなかった。同じ名を名乗り、同じ体格を持ち、同じ日に学校に入った。そうして彼は僕の歩き方を、僕の声を、僕の習慣を、僕の物腰を、執拗に意味もなく模倣したのだった。僕が今見ているものは、そのような冷笑的模倣を日常的に実践した結果に過ぎないのか。それは本当に人間業にんげんわざとして可能なのか。恐怖に打たれ、忍び寄る戦慄に苦しみながら、僕はを消し、音もなく室外へ出て、ただちにその古い校舎を離れ、二度と戻ることはなかった。

*1:訳注:ヴォルテール『俗人(ル・モンダン)』(1736年)より。