魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

抒情詩「屏風絵」他一篇

木村武山「羽衣」ウィキメディア・コモンズより。

屏風絵

しろうとの絵師がえがいたこの屏風 売れない屏風
 浮世絵をけない絵師がいてみた 浮世の一部
 全身を見せびらかしている女子の 魅せられる恥部
才能も実力もない絵師だから 奇想で勝負
流行はやらない旅館を飾るこの屏風 天女の屏風
「天女とて 幼いころはまだつぼみ これ第一部
 花びらを見せびらかして幕びらき それが第二部
その先は いつもいい子のあなたなら 見て大丈夫」

そう言って 駄目な男女をだます絵師 実はペテン師
 屏風から立ち現れた天女さま とても淫乱
正銘の天女以上の美少女の 何たる痴態
地獄絵の絵師がえがいたこの天使 実は堕天使
 悪い子は 寝ても覚めても夢に見て 遂に錯乱
薔薇よりもみにくい心 百合よりも白い肉体

光と闇

清純を売りにしているこのわたし 胸は豊満
 友だちのふりをしながらかすめ取る 甘い口づけ
 恋人のふりをしながら叩き込む よい子のしつけ
白百合を飾った愛の教室は 蜜が充満
清純を売りにしているこのわたし 実は淫乱
 元カレを埋めた帰りに もう次の彼氏を見つけ
 手懐てなずけて 服を脱がせて鞭打って 性器で餌付えづ
益虫のエキスを吸って 害虫をうらで産卵

優しさを見せびらかしているわたし 実は残忍
 堕落した 駄目な男女をもてあそぶ われこそ魔性
紳士には見せぬ正体 痴漢には隠さぬ痴態
友の死を嘆き悲しむこのわたし 実は犯人
 級友の生き血を吸っていい気持ち それが本性 
明と暗 光と闇は同じもの 表裏一体

 

 

抒情詩「魅せるお店の店先で」他一篇

葛飾応為「吉原格子先図」ウィキメディア・コモンズより。

魅せるお店の店先で

魅せるお店の店先で
熟れたからだが売れている
そしてわたしの白い手は
真っ赤な花に飢えている

群れたむすめは要らないわ
濡れたむすめをちょうだいな
そしてわたしの白い手は
渇きを癒やす 指濡らす

 売り出し中のお嬢さん
 売れてしまえばお嫁さん
 はらめば 晴れてお母さん
 産めば産むほど子だくさん

魅せるお店の店先で
叩き売られているむすめ
打ちのめされてを上げる
打てば打つほどが上がる

売れてうれしいこのむすめ
だからうるおうこのお店
飢えたわたしを舐めている
真っ赤な舌は肥えている

三度の飯のうた

朝はあっぱれ朝ごはん
 朝ごはんです お嬢さま
どの子を召し上がりますか
朝は出勤 このむすめ
 朝は解禁 このむすめ
 朝は真っ赤に頬を染め
失禁しちゃうこのむすめ
どの子を召し上がりますか
「私は何も欲しくない
 お前がいればそれでいい」

それにつけても昼ごはん
 昼ごはんです お嬢さま
どの子を召し上がりますか
昼は本番 このむすめ
 昼は評判 このむすめ
 昼は真っ赤な服を着て
看板となるこのむすめ
どの子を召し上がりますか
「私は何も欲しくない
 お前がいればそれでいい」

さあていよいよ晩ごはん
 晩ごはんです お嬢さま
どの子を召し上がりますか
夜も営業 このむすめ
 夜が本業 このむすめ
 夜は真っ赤な血の海で
人形となるこのむすめ
どの子を召し上がりますか
「私は何も欲しくない
 お前がいればそれでいい」

 

 

日夏耿之介の「晶光詩篇」

魔女の机に散らばる古書とクリスタルと乾燥ハーブの写真素材。www.pakutaso.comより。

台湾人による『転身の頌』の紹介

近代日本の詩人、日夏ひなつ耿之介こうのすけ(1890 - 1971)の「晶光詩篇しょうこうしへん」とは、日夏の第一詩集『転身てんしんしょう』(1917年)に収められている四行詩の連作につけられたタイトルで、全部で十二篇あります。そのうちの一篇について、前々からずっと頭の片隅に引っかかっていることを、少し書き留めておこうと思うのですが。
まずこの「晶光詩篇」から何篇かご紹介して、どのような詩風のものなのか、ご覧に入れるのが筋かと思い、検索をかけてみたところ、驚きました。何と台湾の方が、この『転身の頌』の全文を、ご自分のブログで公開されています。

note.com

この複雑なテキストデータを作成するのは大変な作業だったはずで、頭の下がる思いがします。台湾の著作権保護期間は50年だそうで、台湾人が今これを公開するのは違法ではないそうです。日本では、当ブログで何度も書いている通り、保護期間が今は70年とされているため、これの真似をすることはできませんが、もしこの記事を読んで日夏の詩に興味を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひ上のブログ記事を参照されて、『転身の頌』全文に触れてみていただきたいと思います。
なおこの記事での引用は、上のブログ記事によらず、下の版によっております。

この現代詩文庫版については、以前、悪口めいたことを書きましたけれども、この『転身の頌』に関しては、全文が最終的なヴァージョンに基づいて掲載されており、お薦めできます。こちらの記事でお薦めした作者自選の新潮文庫版『日夏耿之介詩集』には、残念ながら「晶光詩篇」は採られておりません。

「天才」の極印

さて「晶光詩篇」ですが、その前に、今ちょっと思い出したのですが、日夏耿之介は確かどこかで与謝野晶子について、「もし彼女が『みだれ髪』一巻だけで夭折していたら、『絶世の天才歌人』の名をほしいままにしていたことだろう」というような、晶子本人に対しても、晶子ファンに対しても、まことに失敬きわまりないことを言っておりました。そーゆーことを言い出せば日夏自身もまた同じなのであって、彼がもし『転身の頌』一巻のみを遺して夭折していたら、それこそ「近代日本最大の詩人」の名を不動のものとしていたことでしょう。『転身の頌』の中の数篇の詩には、紛れもない「天才」の極印が認められるのであります。これは何もそれ以後の作品の質が劣るという意味ではありませんで、たとえば上に触れた作者自選の詩集の中に、この『転身の頌』からの作品がごくわずかしか採られていないところから見ても、日夏自身がこの第一詩集の出来映えに必ずしも満足していなかったことは明らかなのです。だからと言って、『転身の頌』の存在価値はいささかも揺らぐものではありません。たとえば萩原朔太郎が『月に吠える』も『青猫』も発表することなく、ただ『氷島』一巻のみを遺して死んでいたとしたら、彼の名は今ではすっかり忘れ去られていたことでしょう。

「学匠詩人」と「遊び人」

「晶光詩篇」にもどります。この十二篇の四行詩のうち、冒頭のものはすでにこちらの記事で紹介済みですが、より原詩に近い形で、あえて再掲します。

そらは悲しび
遊星のきはらし
さめざめと
銀のなんだす 卯月の夜!(「晶光詩篇」第一番)

上に見られるとおり、「晶光詩篇」に限らず、『転身の頌』全体を通じた詩的スタイルと申すものは、日夏耿之介が彼のいわゆる「ゴシック・ローマン詩体」を確立する以前の、きわめてロマンチックで感傷的な詠嘆を基礎としたものです。とりわけこの四行詩十二篇は、若い感性がきらきらときらめきを放つようで、「晶光詩篇」とは名付けて妙だと思います。

やはらかきふたつの手 半霄そらをすべり来て
ふるへたる心をとらへぬ
なんだの浴泉をたちいでて
かく美装びさうせるわれなりけり!(「晶光詩篇」第十番)

大変美しい。ファンタスティックなイメージが、冴えた霊感によって連結されています。

青くかなしめる
世のすべての女性にょせいをかきいだかば
女人らはたえざる楽奏にうれしみ
かつは おどろおどろしき朝暾あさひ嗤笑わらはむ!(「晶光詩篇」第十二番)

こちらの記事にも少し書きましたが、『転身の頌』にはこのように、若い詩人が酒色に耽溺する姿もうかがえる。わたくし思うに、現在流通している日夏耿之介のイメージは、気難しい「学匠詩人」の面が少し強調されすぎているような気がするので、次の機会に日夏を取り上げる際には、こうした「遊び人としての日夏耿之介」にスポットを当ててみるのも面白いかも知れない、などと考えております。

「清乱」の意味

ところで今回、私が特に書きたいと思っていたのは、次の四行詩についてです。

かぎりもなき悲哀ひあいを汲み
かぎりもなき沈黙ちんもくの壺にふうじぬ!
いくの春をねむりさり
なほわれは仲夏白日なつのまひる清乱せいらんを恋ひしたふ(「晶光詩篇」第八番)

この詩に初めて出会ったのは今から50年以上前ですが、それから今に到るまで、私はずっと考え続けているわけです――この仲夏白日なつのまひる清乱せいらんとは、何を意味しているのか、と。特にこの「清乱」という言葉は、どこから見つけてきたのか、それとも作者の造語なのか、わかりませんが、とにかく文脈上、きわめて適切であると同時に、きわめて奥が深く、想像力を刺激する言葉です。
私は当初、直感的に、これは「十代の性体験」を指しているのだと思いました。「乱」という字に、ここでは「性交渉」か、何かそれに近い意が読み取れるのは確かです。問題はその上に乗っかっている「清」の字の解釈です。「清らかな性交渉」とは何か?と考えた時に、私の頭にまず浮かんだのが、大人の性交渉とは性質がまるで違う、少年少女による性交渉だったわけです。大人の男女によるテクニカルな性交渉が、反道徳的で不潔なものと感じられるとすれば、少年少女による、ただ思いをぶつけ合うだけの、ぎこちない、不器用な性交渉は、純粋なものと言えるかも知れません。
しかし今の私は、この仲夏白日なつのまひる清乱せいらんについて、これを当時の日夏が妄想していた美しい女子同性愛の世界を暗示しているのではないか、と解する方に傾いています。根拠はこちらの記事でご紹介した若い日夏によるサッフォーの訳詩(厳密に言うとブリス・カーマン著『サッフォー:100のリリック』からの抄訳)です。あの訳詩のスタイルは、おそらくこの『転身の頌』のころのもので、訳者はかなりの感情移入をしながら訳しています。美しい女性同士の恋愛は、見方によっては、異性愛者の恋愛よりも清らかなものと感じられるかも知れません。いっとき流行はやった「百合萌え」みたいな境地ですね。


日夏耿之介によるブリス・カーマン著『サッフォー:100のリリック』からの抄訳は、彼の『海表集』という訳詩集に収められているのですが、これは昔から古書の世界を非常な高価格で流通しているものですので、興味のある方にはそれよりも、下記の書籍を検索してみられることをお勧めします。『海表集』のみならず、森鴎外の『於母影おもかげ』以後に発表された素晴らしい訳詩集が、完全な形で数多く収録されています。

 

抒情詩「聖なるとびら」他一篇

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(スペイン)における、ローマ教皇庁認定の「聖なる扉」。ウィキメディア・コモンズより。

聖なるとびら

奥深き知識によって守られた 聖なるとびら
 神殿にずらりとならぶ聖母らの すばらしい足
 愛情に飢えた少女の口に合う おいしいお菓子
神の子をはらむ野望で満開の 肉の花びら
厳重に鍵がかかっているはずの 秘密のとびら
 禁断の書をひもといて 堕天使の教えを探し
 遂にこの暗い夜道を抜け出した かしこいわたし
感慨にひたる間もなく 窓辺より朝はしらじら

聖域にずらりとならぶこの素足 母性まる出し
 奥深き知識をもって解き明かす 陰部の内部
運命のとびらを越えて ひらけゆくひと筋の道
夢に見た酒池肉林に涙する いけないわたし
 まっしろな石の柱がしたたらす 真っ赤な生き血
敬虔な心を込めて捧げたい 優しい愛撫

明るいニュース

昼下がり 教えの庭を駆けめぐる 明るいニュース
 注目の新入生の美少女が 遂に解禁
 あこがれの 同じクラブの先輩が 急に接近
二人して 校舎のうらで飲んでいた 缶入りジュース
そう言えば 誰が勝手に持ち出した 毒入りジュース
 毒を盛り 人を消したい人間は 払う料金
 毒を飲み 不死になりたい人間は 寮に監禁
火あぶりとすべき少女がまた一人 悲しいニュース

今日もまた 校舎のうらの草むらで 花が満開
 かたくなに 愛を拒んでいたひとも 遂に落城
心ある あたたかい目を待っていた みだらな唾液
毒を飲み 死の接吻をわしたら 次の段階
 美少女の けがれを知らぬ肉体も 遂に炎上
火だるまの魔女の急所に捧げたい 聖なる打撃

 

 

抒情詩「草むらのかげの欲望」他一篇

デューラー「芝草」ウィキメディア・コモンズより。

まっぴるまから お姉さま

まっぴるまから お姉さま
 あまりむらむらさせないで
 校舎のうらの草むらで
ほとんど裸同然で
くわっと白目をむいたまま
 口はあんぐりあいたまま
 死んでいるのはわかるけど
胸がむかつくその態度
ってもいいの お姉さま
 何度ったら気が済むの
 人をむらむらさせといて
何をすやすや寝ているの
年下だから下に見て
 馬鹿なむすめと馬鹿にして
 忍の一字ももう限度
死んでちょうだい もう一度

草むらのかげの欲望

飢えているさびしいわたし 何となくわかったかしら
 この鼻は嗅ぎつけている 草むらのかげの欲望
 草むらのかげに隠れた曲者くせものは どんな泥棒
お嬢さん あなたは騎士を待っている姫君かしら
飢えているさびしいわたし 抱きしめるお城の柱
 抱きしめる石のからだの冷たさを いつも辛抱
 抱きしめてみたい石より白いもの 明るい希望
草むらのかげに隠れている女子よ 聴こえるかしら

血に飢えたさびしいわたし 嗅ぎまわる草むらのかげ
 欲しいのは白い肉体 石よりも冷たい死体
この墓地の地下に隠れて待っている さびしいむすめ
あらわなるその祭壇に 血に飢えた凶器を捧げ
 禁断の愛のヴェールを ズタズタに切り刻みたい
必ずやかなえてあげる 性的な昇天の夢