魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

吉川永青『毒牙・義昭と光秀』(其の六)

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三方原古戦場」の碑(静岡県浜松市北区根洗町、三方原墓園駐車場敷地内)。1984(昭和59)年建立。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる吉川永青ながはる歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第六回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。

義昭、反信長の旗幟を鮮明に

表向きはともかく、裏では打倒信長の姿勢を崩さない義昭は、諜報活動に勤しみます。朝倉義景の透破も天井から出入りします。今回は気配を隠さず、義昭と喋ります。取り敢えずの目標は「武田をして、本願寺と織田の和解の仲立ちをさせる。暫く待て」。
義昭は右筆を使わず、自ら墨痕も鮮やかに二通の書状をしたためます。そして「面白き顛末が見られるかな?」の言葉とともに手渡します。透破は受け取ると直ぐに姿を消します。
密書の宛先はそれぞれ武田家と朝倉家です。策謀を用いて、徳川軍を含む織田軍を挟撃する罠を作ります。そして、細川藤孝を召し出して、武田家が動くと囁きます。
元亀3年11月、武田信玄駿河から軍勢を率いて出発します。同年12月13日、織田軍は小谷城の包囲を解きます。武田信玄の進軍の勢いは止まらず、12月23日、若き家康唯一の負け戦“三方ヶ原の戦い”が起こります。武田軍は疾風怒濤の如く駆け抜け、家康は浜松城に籠もります。義昭は一刻も早く徳川を助けよとの使者を織田家に遣わします。当然遠江とおとうみに出現する織田家を挟撃する肚です。義昭はこれから起きる事を仮想してワクワクします(信長の泣きっ面が見られる?)。
しかし12月末、御所にいる義昭は、上野清信のけたたましい声に嫌な予感がします。
信長が単身前触れもなく御所に上がり、目通りを願っている由。義昭は自分自身を励ましながら、直垂・冠を付け「面を上げよ」と鷹揚に声を掛けますが、狂気を宿す信長の眼光に震え上がります。信長は懐から“十七箇条の意見書”を取り出し、義昭に見せます。
「諸国に内書を発せられているようですが、それがしは一度たりとも副状を命じられてはおりません」(義昭が密書を送付していることを既に知っている)
「近江に出陣する忙しい其方を煩わせてはいけないと思うたまでだ」
「されど領民は、上様が何処かへお移りなさる準備をしていると噂しておりますぞ。曰く京都も比叡山のように火の海になるとか、牢人が増えているのは何故ですか?私は諫言などしたくはないのです。上様もどうぞ御身をお慎みあそばせ」
信長は、普段に似合わず低い声で、すごむだけすごむとさっさと出ていってしまいました。義昭は決意する。万全ではないが、打倒信長に肚をくくるしかあるまいと。
1573年2月、義昭は忙しかった。松永久秀三好三人衆に内書をしたため、反信長の志を持ち、征夷大将軍足利義昭の旗印の下に集合する兵力の算段をする必要に迫られたからです。上野清信によると、自前で揃えられるのは3,000人余り。浅井、朝倉、松永、そして一向宗門徒を加えれば50,000~60,000人。数の上では、徳川軍が壊滅状態の織田軍は、尾張を守るのが精一杯の筈です。義昭は会心の笑みを浮かべる。これで余の望む世の中の形が作れるぞと。何だか絵に描いた餅のようですが。
そこへ光秀が、人質となる織田家の末の姫を帯同して和議の使者として御所に来ました。
義昭は優しく言葉を掛けます。
「光秀。針の筵の役目、真にご苦労である」
光秀は神妙な面持ちで言います。
「某は上様と織田家の橋渡し役にございます」
「余と弾正はそもそも主従である。此度の行き違いを水に流すなら、起請文と人質のみでよい。それが世の習いだ。それに従うのみ」
そこへ上野清信が、大津にある三井寺の挙兵の報せを告げました。織田弾正忠を討つべし、と。思わず立ち上がった義昭は光秀を凝視して言います。
「人質と起請文は余が預かる故、坂本に戻り、売僧まいすを叩くがよい」
「しかし私は和議を整えねばなりません。主より命じられぬ事をするのは些か出過ぎたことかと」
臨機応変に動かなければ、比叡山焼き討ちを断ったと其方から聞いた、佐久間右衛門と同列に見られるぞ」
佐久間右衛門の名前を聞かされた光秀は、喉に何か引っかかったような感覚に陥ります。
すかざす、同席していた細川藤孝が、
「光秀殿。上様の仰せの通り、織田様と共に謀反を鎮められますように。人質の姫君と起請文は、某が大切にお預かり致します」
義昭は大きく頷き、力を込めて「任せる」と言いました。
これで話は決まりです。実は既に本願寺へは義昭の決起に合力するよう、使者を走らせてあります。光秀が参上したこのタイミングで挙兵するのです。
ドヤ顔の細川藤孝と、戸惑い顔で落ち着かぬ様子の光秀は、足早に辞去しました。
見送る義昭は、光秀は細川藤孝がこの間の悪さを取り持つ意味を解し、言葉とは裏腹に、義昭に挙兵の意志があることを信長に伝えるだろう。信長をいざ追い詰めんと、遠祖源氏の血が自分にも流れるのを感じ取ります。織田家の遠祖は平氏です。お互い仲が悪いのも無理はありません。同年3月6日、満を持して挙兵しました。
本願寺へは決起に加わるよう、とっくに使者を走らせてあります。
義昭の読みは、将軍挙兵の報せが届けば、朝倉や本願寺も打倒信長に立ち上がるだろう。戦わねばならなくなる。未だ三河野田城にいる信長は、家康に援軍を送らなければならないから、どの道を選んでも軽々しくは動けないだろう。武田軍とも対峙しなければばらならない。(続く)

毒牙 義昭と光秀

毒牙 義昭と光秀

  • 作者:吉川永青
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/11/29
  • メディア: 単行本
 

吉川永青『毒牙・義昭と光秀』(其の五)

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現在の勝竜寺公園の模擬櫓と虎口跡。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる吉川永青ながはる歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第五回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。

光秀、織田家専属となる。

京都奉行の輔弼ほひつの役目と高槻城主を兼ねる光秀は、義昭に召し出されます。比叡山焼き討ちから約一か月後です。光秀は未だに焼き討ちの地獄絵図が頭から離れません。
義昭は、ねんごろろに光秀を慰労します。
此度こたびはそなたにも何と言ってよいのやら。災難だったな」
御所に出仕する以上そんな素振りはみせませんが、心身共に疲弊し、絶えず胸が苦しい光秀には、義昭が聞き役になってくれる姿勢が身に沁みます。
「織田様は、比叡山で後始末をされておいですが、私のような悩みはお持ちでないようです。武士であるならば、織田様が正しいのか、悩む私がおかしいのでしょうか?」
義昭は、呍々うんうんと頷きながら話を聞き、時折悲し気な顔をして「すまぬ」と詫びます。
弾正忠だんじょうのちゅうはそなたを買っているから、必要だと思うから、焼き討ちを任せたのだ」
「しかし、織田家に従わなかった仕返しととられたら、上様の体面にも関わります」
この会話の時にも、光秀の心はチクリと痛みます。義昭は言います。
「余も織田家中も、叡山焼き討ちは、必要があってしたと理解するが、世人はそうは思わぬ。仕返しや自分の利益確保のために、弑逆するのも辞さずと思われては、諸国の大名を一層頑なにする。弾正忠に諫言せねば。其方に心やすく働いてもらうためでもある」
光秀はのけ反って言った。
「それは我が分を超えております。しかも弑逆をも辞さずとは」
「物の喩えだ。その方の切れる頭を巧く使え。」
「物の喩え云々ではなく、このような大事はやはり上様からではなくては」
声を震わせながら懇願する光秀を放りだして、義昭は不機嫌そうに退出してしまいました。

光秀はため息をつきながら、京都奉行、村井貞勝の屋敷へ向かいました。そこには、袴もつけない粗衣の姿の信長がいました。光秀は内心「どいつもこいつも一体何なのだ、勝手だ」と呟きます。
「殿は息抜きを終えられて、叡山にお戻りになられますか?」
「ああ、お前に会いにきた。足利に暇をもらい、織田家の臣になれ」
「は?今のままでは不都合でも?」
「些か面倒だ。幕臣のままでは、織田家からの恩賞は出せぬ。織田の家臣になるなら、坂本城はそのまま任せる。京都奉行にも任じる」
信長直々の悪くないスカウトですね。いつもは短気な信長がさらに続けます。
「上様の臣を引き抜くのは気が引けるが、その上様から、織田家所領から幕臣の宛てがいを頼むとは言ってこない。お前が織田家に仕えれば一国の国主となれる。そこから上様に御料所を献じればよい」めずらしく悩んだ声で言います。
「ならば、織田家として御料所を献じればよろしいのでは?」
「ならぬ。織田家の力を削ぐことはできぬ。上様は幕臣の宛てがいを頼めば、兵を出さねばならぬことを知っているからだ。真に世を憂えているなら、そこは諒解すべきなのだが」
「わたくしから御料所を差し上げるのは、何故構わないのですか?」
「何故でもない。献上は勝手だ。戦の折には石高に見合った兵を出すべし。献じた分を差し引いて俺に仕えるのは許さん。それだけだ。考えておけ」
何だかよくわからない論法ですが、合理主義者信長にとって論理破綻はしていないのです。
カンの良い光秀が、悩みながら頭を上げると、信長はとっくに退出していました。

暫くして光秀は、義昭に足利を離れる申し入れを行います。口上は熟考してあります。
「決して今までの御恩を忘れたわけではありません。只信長さまは、織田領から幕臣への宛てがいを求めないことは『違乱』と疑っている。このままでは上様自身にも何か要求してくるかもしれませぬ」
義昭も、寛大に優しい声音で答えます。
「余と幕府を思っての話ならば、許そう。只一つ承知していると思うが、今まで以上に織田弾正忠を信じて仕えねばならん」
「無論でございます」光秀は、少し躊躇いながら答えます。
「余も織田弾正忠を信じる。それ以上に其方、明智光秀という男を信じ続ける。そして織田と足利は一心同体であえる。名残惜しいが、京都奉行着任ならば、また其方と相まみえよう。ゆくがよい」
立ち去る光秀の、心なしか寂しげな背中を見送りながら、義昭は、光秀への言葉の毒の廻り具合に満足気な微笑を浮かべるのでした。

1572年1月、教養があり、信長に心酔する、些か思慮の浅い細川藤孝が、光秀の織田家専属を認めた事を発端に、幕臣の上野清信と激論する。激昂した上野清信は、御所中に聞こえる大声で喚くのでした。
「織田弾正忠は世を壊す。討ち果たさねば必ず後々に禍根を残そう」
「上様、痴れ者の妄言に惑わされてはなりません」
義昭は、呆れつつも、雷を落として二人を追い払いました。また義昭の胸に、この程度の人間ども(細川藤孝や上野清信)なら使い捨てにしても胸が痛まないという考えが浮かび、自分自身の機嫌を直すのでした。この諍い後、細川藤孝は、居城の勝竜寺城に勝手に謹慎してしまいます。(続く)

 

毒牙 義昭と光秀

毒牙 義昭と光秀

  • 作者:吉川永青
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/11/29
  • メディア: 単行本
 

吉川永青『毒牙・義昭と光秀』(其の四)

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「宇佐山城主・森可成公之墓(蘭丸の父)」。滋賀県大津市比叡辻、聖衆来迎寺内。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる吉川永青ながはる歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第四回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


和議の綸旨

摂津中島城で、義昭は苛立つ信長と対面していました(勿論義昭が上座)。
浅井朝倉連合軍(15,000人)が、琵琶湖西岸を京都に向かって進軍します。森可成よしなり(宇佐山城主、森蘭丸の実父)が奮戦しますが、敵は本願寺の軍勢が加わって、総勢30,000です。
弟信治を援軍に出すも、結局宇佐山城は捨て石になって、織田軍が野田・福島で三好三人衆本願寺顕如に睨みを効かせている間に、信長(織田本隊)を摂津から撤退させ、近江に駆け付ける時間を稼ぐ他はありませんでした(織田信治森可成、共に戦死)。
元亀元年(1570年)9月23日、中島城大手門で、義昭は、摂津衆の伝令を前に「良いか。弾正が近江を片付けるまで、睨み合いを旨とすべし、敵を進軍させてはならぬ」と檄を飛ばします。
信長は馬に乗って出発します。義昭は輿に乗って出発します。二人とも、中島城から淀川沿いに高槻城(城主和田惟政)、勝竜寺城(城主細川藤孝)を宿泊所として京都に到着します。
信長は城主森可成の戦死後も降伏をしなかった宇佐山城に入り、義昭は御所に戻りました。
義昭は書状をしたため、朝倉の透破(密偵)に託します。この書状の存在は、歴史の表面には出てきません。透破は時代劇のように天井の羽目板から出入りします。同じ頃、落剝した六角賢堅よしかた承禎じょうてい)が、義昭にそそのかされて信長の命綱である南近江の流通路を寸断します。
これにより、織田本隊8,000人の兵糧運びが不可能となります。苛立つ信長は、何と、比叡山に脅しをかけます。信長の常人と違うところですね。
信長の言い分は、天下の静謐を保ちたいならば、織田に味方すべし。僧門だから味方になれないというならば、中立を保ち、浅井・朝倉に味方してはならない、です。
比叡山延暦寺は、信長の言い分を冷笑し、取り合いませんでした。それどころか11月、伊勢長島の門徒衆に一向一揆を起こさせます。これによって、尾張の西端(津島湊)が脅かされます。この絶体絶命の状況を理解した信長は、御所へ参内し、義昭に“和議の綸旨”を願い出るのでした。この時の信長は、恥も体裁もかなぐり捨て、ひたすら平身低頭、畳に額を擦り付ける有様でした。
「申し上げます。どうか和議の綸旨を主上天皇)に奏上くだされませ。上様からお借りした光秀が、宇佐山城に詰めています。このままでは、持ちこたえてあと十日かと。時間が無いのです」
「あいわかった、早速禁裏に使いを立てよう、だがこうなった以上、余は三好三人衆や浅井・朝倉等、敵を全て許す。その方も、全て水に流すのだ。良いな?」
「何事も上様の仰せの通りにいたします」
信長の全面的な敗北ですね。海抜の低い清州城が居城の信長が、水に流せるわけがないのは容易に予想がつきますが。
演技派の義昭は、信長のやつれた様子と無念の涙を見ながら、二つの心の動きを抑えて、鷹揚に振る舞うのでした。一つは執念深い信長の和議はその場限りのものと用心する心、もう一つは自分が六角義堅を唆して南近江の流通路を寸断させたことが明るみ出ていないことで安堵する心です(落剝して甲賀衆の世話になっていた六角義堅が勝手に南近江を攻撃したことにする)。
不服を申し立てる比叡山延暦寺との和議はなかなか進展しませんが、12月13日に和議が整いました。信長が朝倉義景に差し出した起請文の文面に、“天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし”の一文が加えられました。水に流して義昭の顔を立てた形です。
和議成立後、宇佐山城は廃城となり、光秀は新たに琵琶湖近くの坂本城の普請を任されました。完成後は城主になることは確定です。そのことを漏れ聞いた義昭は思います。それ程重用されているなら、祝いの書状も念入りにしたためよう(更に毒を加えよう)、と。

和田惟政の最期

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江戸時代の錦絵で、足利義昭を刺客の手から救出する和田惟政。惟政は義昭が将軍位に就く以前からの忠実な幕臣でした。ウィキメディア・コモンズより。

義昭は更に、自身が六角義堅を唆して、南近江を封鎖したことを知ってしまった和田惟政を始末しようと奸計をめぐらします。ちょっとしたことから、義昭のこの世にあってはならない書状を見てしまったのです。
義昭は和田惟政の実直な人柄を知っているのですが、信長を取り除く肚は誰にも知られてはならないので、苦渋の決断を下します。どのような方法を用いたかというと、松永弾正に和田惟政を攻撃させます。和田惟政は、高槻城と茨木城を預かっているので、兵力は分断されてしまいます。そのうえ朝倉の透破に和田側の作戦を知らせるので、和田軍はひとたまりもありません。和田惟政は義昭を疑うことなく、立派に戦死しました。
その最期は壮烈でした。鉄砲を撃ちかけられ、たまらず落馬したところへ、槍と刀を受け、意識朦朧となりながらも、組み合った端武者はむしゃ脾腹ひばらに小刀を突きたてたが、息が続かず討たれた。
これにより、高槻城城主は、援軍に駆け付けた(これも義昭と打ち合わせ済み)三淵籐英(細川藤孝の実兄)が就任しました。
義昭は自分が人間ではないバケモノになってしまった気がするのですが、そもそも織田信長に兵を動かす大権を与えた事自体が間違いなのだから、糺さなければならない。それには人(和田惟政)を使い捨てにするのもやむを得ない。仏門に居た時と同じように、掌を合わせるのでした。しかしもう後戻りはできないと強い意志を持ちます。天下を糺す為には自らを汚す事も厭わぬ、と。

比叡山焼き討ち

光秀はわが耳を疑いました。主君信長のことばが理解出来ない自分がおかしいのかとも思った。
「今何と仰せられました?」
「聞こえなかったのか。比叡山を焼けと言った」
「何故ですか?」
「僧門でありながら、奴らは朝倉に合力した。権勢に奢っている」
「されど、主上も院も、この千年、誰も手出しはしませんでした」
「それがいかんのだ。この国に主をも見下すものがあっては、秩序が守られぬ。われらは、上様の兵にて、日夜天下平穏の為に戦っているのに、奴らは自分たちが僧門であることも忘れ、我欲に溺れている」
光秀は目を大きく見開きながら言います。
「仕返しととられますぞ!」
「それで天下が鎮まるなら安いものだ」
どうやっても信長の決意は揺らがないようです。
光秀は合掌して、信長に尋ねます。
何故なにゆえそれがしにお命じさないますか?」
「右衛門(佐久間盛重)が嫌だと断った。あまつさえ、自分に命じるなら織田を離れるとまで言った。お前は俺の家臣ではないが、上様に俺の下知に従えと言われているはずだ」
「ならば、降伏を勧めればよろしいでしょう。戦で焼け出された民百姓もかくまっています」
信長の舌打ちが聞こえます。相当苛立っている様子です。
「俺の下知に従えぬということは、上様のご下命にも背くぞ。良いのか?」
逡巡した光秀は、義昭の『何を命じられようと、自らの心に負けてはならぬ』との言葉を思い出し、自分自身を押し殺して、比叡山焼き討ちも止む無し、と決心します。
「上様にも、殿にも背きません」
「ならばやれ。人・犬・猫に限らず、比叡山の動く物は、全て焼き尽くせ。天下に盾突く者がどうなるのかを示さねばならぬ」
「殿、その前にわたくしに比叡山の降伏を説得させてください」
「よし、できるものならやってみろ!」

殿は比叡山の何を知っておられるのだろう、と訝しく思いながらも、光秀は1,000人の軍勢を率いて、比叡山延暦寺の山門をくぐるのでした。
「織田弾正忠さまより、叡山に降伏を勧めに参上した」
叡山側は、これに冷笑や哄笑をもって応えるのみ。そして光秀が目にした光景とは、僧門にあるにも係わらず、白昼から酒池肉林、博奕ばくえきに興じる売僧まいす達の姿でした。
「何だ、これは」
呆然と立ち尽くす光秀の耳朶じだに信長の声が蘇ります。
「好き勝手にやっていられる者がどうなるか」
更に信長が目付として加えた赤母衣あかほろ衆の加藤弥三郎が、背後から進み出で、静かな面持ちのまま言います。
明智殿、兵たちにお指図を」
光秀は小さく頷きました。次の瞬間、
「よし、明智殿のお指図である。火矢を放て」
後は阿鼻叫喚の光景です。火を逃れても、切り殺されます。許しを乞うても槍の的にされます。
光秀は、ひたすら涙を流しながら、何がこうまで人を変えるのだろうと不思議に思うのみでした。(続く)

 

毒牙 義昭と光秀

毒牙 義昭と光秀

  • 作者:吉川永青
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/11/29
  • メディア: 単行本
 

吉川永青『毒牙・義昭と光秀』(其の参)

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琵琶湖へと注ぐ姉川の河口。2006年撮影。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる吉川永青ながはる歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第三回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


金ヶ崎の退き陣

元亀元年(1570年)4月28日、信長は30,000の軍勢を以って、金ヶ崎城と手筒山城とを落城させます。しかしその後「まさかの坂」が出現します。義弟浅井長政が織田軍の背後を襲います。愚図愚図していると前方朝倉軍と後方浅井軍の挟み撃ちに遭います。浅井家との婚姻同盟は破れたのです。信長は、全軍に指令を出します。「ひたすら京へ駆けよ」「荷駄は捨てよ、具足は置いて行け。命あっての物種だ」敦賀から京都へと敗走します。強気の信長が肝を冷やした金ヶ崎の退き陣です。秀吉が殿軍を志願してやり遂げたことが有名ですが、同じくらい光秀も活躍しました。近辺の領主朽木元網の助力もあり、結果、無事京都へと帰還します。
義昭は、朝倉の言っていたのはこのことかと内心合点がゆくのですが、“狡兎死して走狗煮らる”の間柄なのだから致し方がないと思いつつも、切羽詰まった様子の細川藤孝の前では信長の安否を心配する芝居をします。
明智光秀や秀吉たちの殿軍が京都に帰還すると、既に人心地着いた信長は、敗走した割には小奇麗な身なりをして参上しますが、妙に冴えた眼差しには怒りが籠っていました。信長は、暇乞いの挨拶をして御所を辞去しますが、義昭は信長の目に闇を感じ取りました。

1570年6月、信長は、金ヶ崎の退き陣で損耗した兵の修復をしないまま、浅井攻めを敢行します。義昭は、一色藤長・三淵藤英(幕臣)や真木嶋昭光・上野清信たちと評定を開きます。徳川家の他に援軍のあてはなく、苦戦は必至であろうとの結論です(何故無理に出陣するのか?)。そこで、京都奉行の柴田勝家明智光秀を召し出します。織田家の宿老柴田勝家は「兵を損耗した織田軍が出陣するのは、三好三人衆が京都を狙っている以上、信長が随時駆け付けられるよう、京都迄の道を確保するためでござる」と申し開きします。光秀は出陣を知らなかったのですが、しかし律儀に言います「浅井を滅ぼす存念は無いものかと思われます」。義昭は「余は弾正忠殿が浅井への恨みを持ち、焦っての出陣かと案じていたが、取り越し苦労をしたな」「足利と織田のかすがいを務めるそなたが言うなら余は信じる」と言い切ります。暗に光秀に、信長の常人とは違った恨みを忘れぬ執念深さと、言いがかりをつけて相手の領地へ攻め込む癖とをほのめかします。
光秀は些か気後れして、いつになく一呼吸おくれながらも「浅井の裏切りは無念ではあるが、それで道を誤ることはありません」と申し述べます。心なしか、光秀の声に力がありません。義昭はダメ押しのように、柴田勝家に「今回の出陣は、越前攻めの恨みとは別である」と言わせます。又「天下の為に道を得るなら、余も応援するから思いっ切り戦うがよい」と勝家に伝言させます。勝家は「お言葉確かに、有難き幸せ」と意気揚々と辞去します。
光秀は穏やかながらも、曇った表情で辞去しました。
一人になった義昭は、朝倉義景からの密書を取り出して、自分たちの思惑通りに信長が出陣したことと、明智光秀の信長への思いが僅かに変化している兆しを看て取ったことで、満足気に含み笑いをするのでした。

姉川の戦い

1570年6月28日、姉川を挟んで、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の激闘が起こります。この戦いには決定的な勝者はいません。しいて言うなら、浅井家の猛将磯野員昌によって壊滅寸前にまで追い詰められた織田軍が、援軍の徳川軍に助けられて勝ちを拾った辛勝の形になりました。浅井家の居城の近くの横山城を落としたので戦の目的は果たせましたが、多数の兵の損耗は痛手でした。信長に参陣を約束しながら実行しなかった義昭は、その知らせを受けると一人で声を出さずに笑います。しかもその上義昭は、7月20日、大坂の摂津に攻め込み、野田福島に陣を張った三好三人衆を討つべく、信長に出陣を求めます。義昭は勿論、織田家の戦力が疲弊していること、自分が出陣するのが本筋であることを心得ています。
これらの戦はすべて、謀略にたけた朝倉義景と義昭の打ち合わせ済みです。織田家の戦力を徐々に削いでいく目的です。まず朝倉攻めで織田軍を疲弊させ、更に姉川の戦いの戦いで兵を多量に損耗させ、回復しない間に三好三人衆の征伐を信長に強いる作戦です(三好三人衆の襲撃は予定通り挙行されました)。
義昭は真木嶋昭光、細川藤孝和田惟政たちと軍議を開きながらも、“早う来や弾正”が本音なので動こうとしません。信長を畿内におびき寄せ、浅井・朝倉と包囲網を作り、締め上げて、やがて信長を仕留める算段をしているのです。
義昭は朝倉と通じ、その朝倉は三好三人衆と手を組んでいるので、戦わないといけない差し迫った理由はないのですが、信長に撒き餌をするため、畠山勢と戦い、睨み合いの状況を作り出します(三好三人衆も心得て力攻めはしません)。8月25日、信長は、8,000人の軍勢を率いて枚方に着陣します。ちなみに東海地方出身の筆者は「ひらかた」が読めませんでした。
8月30日、義昭は、4,000の軍勢に号令を下し、自らも具足姿で輿に乗ります。目指すは、摂津にある中島城です。還俗した義昭は乗馬できません。駿遠すんえん三河守護大名今川義元も、海道一の弓取りと称えられながら、同じ理由で乗馬はできませんでした。
義昭が中島城に入ると、既に信長が到着していて「此度はご出陣させてしまい、面目次第もない」と、静かだが焦燥感に捕らわれた様子で挨拶をします。義昭も「余の身を案じてそなたは出陣してくれた。余は出陣を労苦とは思わぬ」「有難きお言葉」穏やかに挨拶が終わります(義昭は、信長が長く京都を留守にできないことを知っている)。
義昭と信長は今の状況を長引かせない為にはどうしたらいいのか、知恵を絞ります。義昭は信長が快く同意しないのを知っていながら、自分はかつて本願寺と朝倉家の和議を仲介したことがあるから、本願寺法主顕如を味方につけると言います。信長は結局、背には腹は代えられず、同意します。しかしその本願寺一向宗門徒は、三好三人衆に味方し、織田軍が宿営するあたりの堤防を切る水攻めをします。海抜の低い地形を利用しての作戦です。それにより、織田軍は兵糧や武具が台無しになり、水に押し流されて泥まみれになった兵も多数あり、壊滅状態になりました。
織田軍壊滅との報告を受けた義昭は、怒りに震えながら、金切り声を上げて、上野清信に「顕如とは絶縁すると申し遅れ」と物凄い剣幕をぶつけます。上野清信が転がるように辞去するのを見届けて、義昭は、肩を小刻みに揺らしながら笑い、本願寺よ、よくぞやってくれたと喜びを表すのでした。(続く)

 

毒牙 義昭と光秀

毒牙 義昭と光秀

  • 作者:吉川永青
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/11/29
  • メディア: 単行本
 

吉川永青『毒牙・義昭と光秀』(其の弐)

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現在平安女学院大学敷地内にある旧二条城(二条新御所)跡。こだわりの旅の達人が集うサイト「ツアーマスター」より。

天一笑さんによる吉川永青ながはる歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第二回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


二条新御所が完成

織田信長明智光秀の戦上手ぶりに舌を巻きます。足利義昭も上機嫌です。
1569年、二条の御所が完成します。御所の完成は3年程掛かると思われていたのが、僅か数ヶ月で完成しました。土木工事や城の縄張りに秀でている織田家の総力を結集した突貫工事の成果ですね。流石に織田家です。
気をよくした?義昭は、四国の盟主・毛利輝元に、阿波を本拠地とする三好三人衆を征伐するよう内書(将軍の花押と直筆署名の入った命令書)を出します。目的は三好征伐そのものよりも、毛利元就に内書を受け取らせ、将軍の言葉の重み(将軍の権威)を世に示すことと、三好三人衆が再び京都まで攻め込まぬよう、彼らを釘付けにしておくことです。
完成した御所の、新しい畳と木の香りに包まれて、義昭は信長を引見します。お互いに些か芝居がかった立ち居振る舞いをするのですが、この時点では義昭は、充分な武力と忠誠心と実行力をもつ信長こそ自分を供奉ぐぶするに相応しい武将として信頼をします。なので、天下の静謐を乱す者があれば、自分の裁可を求めずとも征伐してよろしいとの権利?を与え、美濃に帰る信長を御所の門前まで出て、その姿が見えなくなるまで見送ります(丁寧な扱いをしている)。果たして信長の心情は如何いかがでしょうか?
同じく1569年10月、義昭と信長の間に、目に見える亀裂が入ります。信長が伊勢の北畠氏を攻めて降伏させ、条件として実子の茶筅ちゃせんまるを養嗣子として縁組させます。幕府側の立場の義昭としては、北畠家織田家では、いくら織田家が名目上管領になっても根本的に家格が違うので、織田家北畠家との養子縁組は、容認しがたい。又松永久秀は実兄義輝の仇なので、取り立てることは心穏やかではいられません。
憤懣やるかたない義昭は、久世くぜ周辺で鷹狩りに興じた際、明智光秀にこれらのことを思わずこぼします。「弾正忠だんじょうのじょう殿の推し進める天下静謐と、余の望む天下静謐とは違うかも」と言います。
義昭の懸念に対し、光秀は答えます。「信長さまは、上様の為に尽くしてきました。恐れながら、上様のご懸念は穿ち過ぎではありませんか」と穏やかな表情と優しい声で言いました。
その姿を見て、義昭は、所詮信長の武力あっての自分の将軍位だと思い直すのでした(ちなみにこの御所は、のちに本能寺の変の際、信長の長男信忠が逃げ込み、八条宮が安国寺恵瓊に付き添われて脱出後、焼け落ちた御所です)。

ことばの毒

光秀に心情を打ち明けて、無理にも心を鎮めた後の1570年1月23日、怒りの余り、声が裏返った義昭は、光秀に「この五箇条は、どういう訳か!」と詰め寄ります。
一年前の殿中掟に新たに五箇条が追加されました。以前は草案のお伺いがあったのですが、今回は上意下達の形です。これで、義昭は信長の許可がなければ、内書が発行できなくなりました。いわば必殺技を封じられてしまいました。今までの下知げちも全て取り消しです。
これでは、義昭の目指す天下の静謐(三代将軍義満の頃の世の中)は実現しようがありません。何もすることがなくなってしまいました。
光秀のひたすら恐懼きょうくする姿を見て、義昭は思います。信長に天下成敗の決定権を与えたのは大きな間違いだった。しかし自前の武力を持たない自分には上洛にあたり、他の方法は無かったのだ。上洛が叶った今、役目が終わったのは、自分か、信長か?
ここは、肚を据えてかからなければ、自分は信長に飲み込まれてしまう。義昭は、光秀に「この五箇条を読み解くのに十日間の猶予が欲しい」と言います。
光秀の返事は「承知」。
義昭は此処で肚を決めます。武将としては有職故実ゆうそくこじつに通じ、鉄砲や戦術に詳しいが、如何いかんせん、線が細く、心根が優し過ぎる光秀を、日常使うことばを駆使し、信長に疑念を持たせ、牙をむく人間に作り替える決心をします。その光秀を共に仲介とする信長と義昭との関係はどうなるのでしょうか?

光秀、朝倉攻めを憂慮

約束の日、義昭は、光秀を召し出し「朕は天下の静謐を望むし、勿論信長を信じている。何よりそなたを困らせるのは自分の本意ではないから、五箇条を認める」と言います(弱弱しい声・俯き加減)。光秀に五箇条を認める黒印を打った条書を渡します。光秀は義昭の心配りに感激しつつも「これは一時の堪忍です」と苦い面持ちで辞去しました。
実はこの時、上洛の下知を断った朝倉義景から、返書が届いていました(互いに密書を取り交わしていた)。
信長の上洛の目的は、三好三人衆を討つため、との見立てに同意し、上様の為なら信長を蹴散らしてみせますが?との内容です。
やがて、朝倉義景が、上洛の下知を断り、国境の守りを固めるのは、“叛意はんいあり”と見なされます。光秀は、朝倉征伐の支度に大わらわとなります。
その折、武田信玄から義昭へ、信長は僭越せんえつな行動をするから、上様もご用心の程をとの書状が届きます。受け取った義昭は、自分が打倒信長の行動を起こした時、援軍を寄越すだろうと強気になります。
義昭は、朝倉征伐に参陣するための支度に忙しい光秀を召し出します。光秀は内心迷惑しながらも、参上します。用件は、信長の朝倉征伐を、浅井長政如何いかに思うかです。織田家と浅井家の婚姻同盟の条件には、朝倉家を攻撃しないことが加えられていました。その朝倉家を攻撃するのです。
先に裏切ったのは織田信長です。ましてや光秀はかつて朝倉家に仕えていました。長政とも面識があります。義昭は光秀に心配りをする芝居?をします。とどのつまり、そなたの旧主を討つ朝倉攻めは受け入れがたいかもしれぬが、天下の静謐の為には必要なのだ。信長も長政を裏切るのは忍び難いのだ。信長を疑ってはならぬと語り掛けます。光秀は少し気が楽になったと礼を言い、迷いをふりはらって、二条御所を辞去するのでした。(続く)

 

毒牙 義昭と光秀

毒牙 義昭と光秀

  • 作者:吉川永青
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/11/29
  • メディア: 単行本