魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

「Netflix版『アッシャー家の崩壊』はポーを讃えることに失敗した」

ナポレオン・アッシャー(ラフル・コーリ、手前)と恋人のジュリアス(ダニエル・ジュン)。www.imdb.comより。

以下は去る2023年10月27日、Ahmed Honeiniとおっしゃるイギリスのアメリカ文学研究者の方が「The Conversation」というサイト上に発表した「Netflix版『アッシャー家の崩壊』:ポーを讃えることに失敗した脈絡のない言及のごちゃまぜ(Netflix’s The Fall of the House of Usher: an incoherent mess of references that fails to honour Edgar Allan Poe)」という英文記事の全訳です。例によって元記事を書いた人には無断で訳しますので、前触れなく削除する場合があります。ポーを読む方の参考になれば幸いです。

theconversation.com

 

 

Netflix版『アッシャー家の崩壊』は原作の質を損なっている

以下の記事はネタバレを含みます。

エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」(1839年)はアメリカ文学史上もっとも有名な短編小説の一つである。疾病しっぺい精神疾患および早まった埋葬を主題とするアッシャー兄妹、すなわちロデリックとマデラインの破滅の物語は、多くの世代にわたる読者を震え上がらせてきた。
ポーの小説はこのたび、同名の新しいNetflixシリーズに着想を与えた。『アッシャー家の崩壊』は8話から成るアンソロジー・シリーズで、監督のマイク・フラナガンは同じくNetflixで配信された『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』(2018年)や『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』(2020年)も手掛けている。
フラナガンはこのホラーというジャンルについて明らかに造詣が深く、今日この産業におけるトップクラスの創造的人物マインドの一人という実証された評判を得ている。この新シリーズは、ポーの作品を現代の視聴者たちに紹介するための理想的な販路アウトレットとなるはずであった。
『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』や『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』に見られる通り、原作を翻案する上でこれに大幅に手を加えることは、それ自体は何も悪いことではない。だが『アッシャー家の崩壊』はポーからの引用を編み直し、貼り合わせ、混ぜ合わせているために、効果が混乱している。
このように新味のない引用はあまりに頻繁なので、結果としてショーは支離滅裂で、今なお読者にショックと、恐怖と、魅惑をもたらすポーの作品の質をはなはだしく損なっている。

的外れの言及に終始

このシリーズは、アッシャー家が富と名声をかけたファウスト的な契約を、謎の女性ヴェルナ(「Verna」は「Raven」の陳腐なアナグラム)と結んだのち、急速に崩壊する様子を描いたものである。ポーへの言及は、初めのうちは当て物として楽しめるが、すぐに退屈で耐えられないものとなる。
たとえばアッシャー家の子供たちの名前、フレデリックやタマレーンやヴィクトリーヌやカミーユやナポレオンやプロスペロは、ポーの「メッツェンガーシュタイン」や「早まった埋葬」や「タマレーン」や「モルグ街」や「眼鏡」や「赤い死の仮面」といった詩や短編から採られている。ただ採られているというだけで、これらの言及にはほとんど何の関連性もない。
こうした薄っぺらさはこのショーにおけるロデリック・アッシャーの描写に輪をかけて認められる。彼は詩人になりたいという若いころの夢を繰り返し思い出す。無数の場面において、彼は自分が書いたことになっているポーの「アナベル・リー」や「大鴉」等、その他数限りないポーの詩からの引用を、長々と暗唱する。
私に推測できるのは、このショーの作者はこうした引用によって、ロデリックをその冷酷で助平な本性にかかわらず、なおかつわれわれの同情に値する、繊細で、心乱れた、悲しい男に見せかけたいのではないかということだけだ。私はこのシリーズに出てくる人間に何のシンパシーも感じない。
特に第一話「物寂しい真夜中に」、第六話「ゴールドバグ」、第八話「大鴉」は大失敗だ。これらは資本主義的搾取に対する鋭い批判というショーのテーマに合わせるために、「ウィリアム・ウィルソン」や表題作「アッシャー家の崩壊」のようなポーの短編を歪め、ねじ曲げている。
これらのエピソードは、アッシャー家をロックフェラーやトランプやサックラー等の悪名高き大富豪一族と比較することに懸命で、これに夢中になるあまり、ポーの原作のエッセンスが最良の場合でも破壊され、最悪の場合には完全に失われても止むなしとしている。

二つのエピソードが救い

ポーの作品を成功裡に利用していると思われるのは第四話「黒猫」と第五話「告げ口心臓」だけだ。この二つのエピソードは、ナポレオンとヴィクトリーヌという二人のアッシャーたちについて、その精神的崩壊と変死を軸として展開する点で共通している。ポーの原作同様、ナポレオンもヴィクトリーヌも、みずからの過ちに心を病む。ナポレオンはあやまって殺してしまった猫の代わりに手に入れたそっくりの猫に責め立てられる。この化け猫によって狂気へと駆り立てられた彼は、破壊的な乱行に及んだ挙句、自死を遂げる。ヴィクトリーヌは通常の医療研究の手順プロシージャからの逸脱バイパスを試みたのち、不断の心音に取り憑かれ、やはり自殺に追い込まれる。
いずれのエピソードもポーの原作に対して、罪と、憎悪と、暴力という中心的なテーマを維持している点で忠実だ。これらは人々が人間にも動物にも感じるかも知れない恐怖心に訴えかける。

ヴィクトリーヌ・ラフルカード(タニア・ミラー、右)と恋人のアレッサンドラ・ルイーズ医師(パオラ・ヌニェス)。www.imdb.comより。

ナポレオン役のラフル・コーリ、およびヴィクトリーヌ役のタニア・ミラーの卓越した演技は、原作のうちに大書たいしょされているホラーと、パラノイアと、フレンジーの感覚を巧みに捉えている。とりわけ注目すべきは、この二つのエピソードが、ポーの作品からの引用を採掘することにさほど執着せず、何よりも魅惑的な映像を創り出すことに専念している点である。
もしこの『アッシャー家の崩壊』が何か有益な目的に資するとすれば、それはポーの作品を新しい世代の読者に発見させることだ。Netflixは、有難いことに、視聴者に対してカンニングペーパーを配布することで、無数の引用がポーのどの作品に依拠するものなのかを教示してくれている。

www.netflix.com

とはいえ、私はこれらの若い読者が、もっぱらポーの美点にアプローチすることを切に望む。ポーの中にこのシリーズに見られるような歪曲や冒涜を見出そうとしてほしくない。このシリーズは、その可能性を裏切って、権力や強欲に関する表面的で凡庸なストーリーを語るために、ポーの驚異と恐怖とを犠牲にしている。


上のレビューには2023年11月11日現在、2件の批判的なコメントが寄せられていて、下はそのうちの一つ。

この記事は評者がポーについても、フラナガンについても、創造的プロセスについても全く無知であることを示している(ポーは同時代の社会や強欲や不正や資本主義を批判していた)。このシリーズは傑作であり、脚本は絶妙を極めている。そうしていつものように、単なるホラーではなく、この評者にはさっぱりわからないらしい意味というものがこめられている。最後に、言い忘れるところだったが、私は歴史に無知な文学専門家にはもううんざりだ。

「Netflix版『アッシャー家の崩壊』にはポーの魂がない」

Netflix版『アッシャー家の崩壊』から、ヴィクトリーヌ役のタニア・ミラー。www.imdb.comより。

以下はAja Romanoというライター集団が、去る2023年10月13日、www.vox.comというサイト上に発表した「Netflix版『アッシャー家の崩壊』はポーの情熱的怪奇を欠く――これらの登場人物のうち、死体に対して不適切な振舞いに及んだことのある者が一人でもいるだろうかNetflix’s The Fall of the House of Usher lacks the passionate weirdness of Poe - I’m not convinced any of these people have ever behaved inappropriately with a corpse! )」という英文記事の抄訳です(マイク・フラナガン監督のキャリアに関するパラグラフを一部割愛しております)。例によって元記事を書いた人には無断で訳しますので、前触れなしに削除する場合があります。ポーを読む方の参考になれば幸いです。

www.vox.com


ポーを今風に脚色することに何の意味があるのか。マイク・フラナガンによるNetflix最新シリーズ『アッシャー家の崩壊』はエドガー・アラン・ポーの同名小説の大まかな翻案だが、これには確かに馴染みの深い名詞が数多く現れる。それぞれのエピソードが一つの、もしくは二つ以上の懐かしいポーの作品に依拠しており、われわれの心をジュニア・ハイスクール時代へとトリップさせてくれる。問題はトーンが無いことだ。
まず、ほとんどの者が原作「アッシャー家の崩壊」について何か知っているとすれば、それはこのタイトルの「崩壊」が近親相姦の意だということだ。だがNetflix版はその代わり、これがオピオイド危機の話ならどうだい?と提案する。
この物語は、ある製薬大手の冷たくてよそよそしい継承者が、その帝国の衰退期に、子どもたち一人一人が悲惨な死を遂げるのを見届けるというものだ。 ショーの 8 つのエピソードを通じて、フラナガンはポーの最もよく知られた短編のいくつかからアイデアを借用し、強欲と一族の破滅を描いたほぼオリジナルのストーリーを作り上げ、ある種のポー的な映像世界を創出する。 とはいえ壮大エピックな家族ドラマの間にあって、ポーとの関連へのこだわりはしばしば不純であり、不快ですらある。 登場人物の一人にアナベル・リーを名乗らせ、主人公にポーの有名な詩をランダムに朗読させることは、彼の変わらぬ愛をわれわれに確信させてくれるだろうか。 たぶんノーだ。
しかしながら、これがショーが依存しているアプローチであって、その結果、テーマとムードがミスマッチを起こしている。 『アッシャー家』には、手の込んだ仕掛けはあるが、ポーの全作品の中核を成すエレメントが決定的に欠落しているように思われる。 それは情熱だ。登場人物たちの死に様はゴシックホラーかも知れないが、生き様はそうではない。

Netflix版『アッシャー家の崩壊』から、フレデリック・アッシャー(ヘンリー・トーマス)と重傷を負った妻モレラ(クリスタル・バリント)。www.imdb.comより。

注意: 以下のレビューは『アッシャー家の崩壊』のネタバレを含みます。

ライターとして、ポーもフラナガンも陰気で、少なからず恥知らずで、死や悲しみや喪失ロスについての心理学的ならびに哲学的問題に取り憑かれている。 「アッシャー家の崩壊」なるポーの悪名高い短編小説は、フラナガンの家族に対する執着を共有しているので、フラナガンと更に相性がいい。 フラナガンの作品に時間を費やしたことのある者なら誰でも知っているように、彼がベタなびっくり箱ジャンプ・スケアや内省的独白よりも好む唯一のものは、家族について考えること――すなわち何が家族を結びつけ、何が引き裂き、何が家族を再び結びつけるのかを考える機会であって、 それはマイク・フラナガンの世界観には、たとえ最も皮肉な瞬間であっても、家族の再会や救済への希望が常に存在するからだ。
アメリカン・ホラー・ストーリー』で同じキャストが繰り返し起用されたのと同じように、フラナガンは中心となる役者たちのローテーションを組んで仕事をする傾向がある。 このシリーズでは彼らは皆、自分たちがポーの暗い世界に生きているという自負に全身全霊を捧げており、守秘義務やスピン報道に関する皮肉や警句とともに、ポーの詩や小説からの狂った台詞をすらすらと口にする。 各エピソードは、それぞれ別の有名なポーの短編小説に漠然たるテーマを負っており、『ファイナル・デスティネーション』のごとき災難のごちゃ混ぜホッジポッジの中で死の様相が展開する。 アッシャー家(サックラー家の明らかな類似品アナローグ)の凄惨な死は、アメリカのオピオイド危機に対する超自然的な報復だが、その危機とはまさしくアッシャーが先導アッシャーしたものだったのだ。連続死の凄まじさが呼び寄せたかに見えるのは超自然的な死の女神、すなわち「フラナギャング」のOGメンバーの一人カーラ・グギノで、アッシャーたちを死へと追いやるために、一連の仮面ペルソナを着けて現れる。
ショーはこの設定により、ポーのよく知られたテーマへの継続的参照と、特定の原作に焦点を当てたエピソードとの間を行ったり来たりすることができる。 たとえば有名な詩「大鴉」、古典的な復讐劇「アモンティラードの樽」、そして「アッシャー家の崩壊」への言及は随所に登場する。 他の作品では主として登場人物の名前で(たとえばカール・ランブリーが見事な沈着で演じた元刑事の検事オーギュスト・デュパンは『モルグ街の殺人事件』や『盗まれた手紙』などのポーの小説に出てくる探偵と同じ名前)、または何気ない余談や、会話中に挿入される直接の引用によっても言及される。 この一連のほのめかしは、露骨なものからひそかなもの、明敏なものからうるさいものまで多岐にわたる。 ある時、ロデリックの無表情な弁護士ピム(素晴らしいマーク・ハミル)がディナーにゲストを呼ぶ話をするが、これはもう一人のピムが当該ゲストの人肉を食うというポーの原作小説へのほのめかしである。 登場人物の一人には、ポーの実人生での敵、ルーファス ・グリスウォルドの名が付けられている。
参考文献にはもれなくチェックが入っている。「モルグ(死体保管所)の殺人」では霊長類による死が取り上げられる。 「赤死病」は今風の狂宴バカナルとなり、きわめて邪悪な方向に向かう。「ゴールドバグ」のエピソードには黄金虫が出てくる。 また『アッシャー家の崩壊』とのタイトルが示す通り、誰かが生き埋めの憂き目に会う。とはいえこうした隠し味は、楽しいおまけ要素イースター・エッグとして機能することを除けば、メインストーリーに寄与するところがほとんどない。そしてメインストーリーは参照している原作と、実際のショーとの乖離かいりに悩まされる。
フラナガンは今回、自身の最大の参考文献に対して、一種の「使いまわしミックス・アンド・マッチ」のアプローチを採用しており、オリジナルとの一致がほとんど偶然に過ぎなくなっていることが多い。 たとえばポーの短編「黒猫」は、もとは暴力的な衝動に抵抗できない殺傷中毒者の物語だ。 しかし『アッシャー家』の「黒猫」では、視聴者が中心人物と過ごす時間がほとんどないうちに、彼と化け猫との戦いが始まってしまうので、彼のそうした内的側面が見えてこない。 その代わり、その心理学は「落とし穴と振り子」のテーマとして引き渡されるので、結果的に「落とし穴と振り子」には原作との共通点がほとんどなく、一方で「黒猫」には原作を忘れ難いものとしているあの凶暴な激しさや深みがまったく無い、等々。
さらに、これらの死の裏に横たわる理由――アッシャーとその家族とがグギノ演じる死神に付きまとわれるのに8つのエピソードが費される理由は、本質的にファウスト的であり、すべてが呪いによるもので、勧善懲悪的であることが判明する。 ポーの未だに残る謎、彼の小説とその主題の上を覆う内的モチベーションと夢幻的ロジックに関する未解決の巨大な問題は、そこには見当たらない。
確かに素晴らしくクリエイティヴな瞬間はいくつかある。たとえばフラナガンは、アッシャー家全員を紹介するオープニングで、気の利いたクロスカットや対話のオーバーラップによるモンタージュを愉快に編集している。それから殺人また殺人だ。デカダンス、メロドラマ、血潮、美味なるホラー。あなたがこの作品を鑑賞する目的が、キャラクター一人ひとりのド派手な死までの運命のカウントダウンの8サイクルであるなら、あなたは大満足だろう。
だがこのショーには、ポーを時代を超えた人気者たらしめている詩的な繊細さや感情の深さ、意味の重みといったものがほとんどない。 ポーの小説は影に満ち、熱を帯びて膨張した想像に満ちている。 それらは悪夢と、幻覚と、狂気との入り乱れた混沌を呼び覚ますのだ。 フラナガンの『真夜中のミサ』の荒涼たる沈鬱と、『ヒル・ハウス』の背後からヌッと現れる幽霊とを組み合わせれば、このテーマにぴったりだったことであろうに、この企画が代わりに採用したのは重役会議的感情麻痺だった。設定も、登場人物同様、淡白で冷たい。ポーのゴシック要素の挿入は、内輪もめしている大金持ち一家を皮肉る夜間照明ハロゲンコア的雰囲気の中では、不自然に殺菌されてしまったかに見える。登場人物が幻覚に打ち負かされ、ハエのように地べたに叩きつけられる時でさえ、物語のトーンは他人行儀なままだ。われわれはあたかもロデリック・アッシャー(ブルース・グリーンウッド)のごとく、無情な会社のビルの上から人間の苦悩を見下ろしている一羽の鳥の視界に閉じ込められているかのようで、ポーがわれわれを取り込んだような悪夢の中を真っ逆さまに落ちてゆく気がすることは決してない。
もう一つ、この翻案には、ポーの性心理的葛藤(psychosexual turbulence)がまるで感じられない。 確かに変態行為はしょっちゅう出てくるが、ショー全体のトーンに合わせて、常に性欲処理的で、情熱がなく、快感すら乏しい。 ある登場人物は乱交パーティーを主催するが、ビジネス戦略としてに過ぎない。 別の女性は、個人秘書たちをコントロールして、純粋に取引上のセックスをさせる。 もう一人は夫との肉体関係をすべてセックスワーカーに外部委託している。 そうして繰り返すが、アッシャー兄妹の間には、昇華された近親相姦的欲望のヒントすらない。これこそが皆が原書を手に取る理由の半分であるというのに。
あなたはこれらの登場人物のうちの誰一人として、倒れた敵の前で狂ったように笑ったり、墓穴から執念深く這い出してきたり、死体と不適切な交渉を持ったり、その他ゴシック小説をたまらなく面白いものにするあの物凄すぎる個性の発揮といったものを一切しないことに気がつくだろう。なるほど、ロデリック・アッシャーとその妹マデライン(メアリー・マクドネル。月並みな出来)は、彼らの母親の「早すぎた埋葬」について、さだめしトラウマを抱えていることだろう。事実、第一のエピソードで、彼らの母親は墓穴から這い出して来るのである。ところがこのプロットは何らインパクトを残さずに片づけられ、兄妹は平気でふたたび人を生き埋めにする。アモンティラードのクライマックスたるあの凶行ですら、単なる覇気のない商取引に堕してしまう。狂喜はどこだ?激怒はどこだ?ヒステリアはどこだ?最終的に考えられないような狂った行為へと爆発する、あの長期にわたって抑圧されてきた感情の解放はどこだ?ポーはどこだ?
フラナガンはこの点について、二つの人格変容キャラクター・アークでわれわれを満足させてくれる。この二つはいずれもが痛めつけられた狂暴な心理の混沌たる矛盾をよく捉えており、ストーリーが時間をかけてキャラクターを確立した上で、人格が次第に崩壊してゆく有様を描き出しているので、いずれも成功している。第一の勝利はタニア・ミラーのもので、彼女はヴィクトリーヌ・ラフルカードという心臓病学者を演じ、奇跡的な医療技術を追い求めるあまり、精神錯乱に陥ってしまう。その結果は驚くほど血まみれで、一点非の打ちどころのない恐怖の表現となる。第二の勝利はヘンリー・トーマスのもので、彼はフレデリック・アッシャーという意地悪な長子を演じ、弟や妹が次から次へと死に始めると、家族に対する疑心暗鬼と怨恨から、凶悪な家庭内暴力へと突っ走るが、それはクラシックで皮肉な一撃によってピークに達する。
この二人のアッシャーの変貌はよく考えられ、巧みに表現されるが、皮肉なことに、これが他の犠牲者たちのケースの不手際を際立たせる結果となっている。フラナガンはあたかもポーの阿片オピウムに対する伝説的な耽溺から、現代のオピオイド危機との関連を思いつき、ポーの作品の情動的エッセンスについてはそれ以上掘り下げることなしに、思考実験を行なかったかに見える(ポーはおそらく阿片中毒ではなかった)。これはおそらくフラナガンが心のどこかで独自のストーリーを書きたいと思っていたからだろう。Netflix版『アッシャー家の崩壊』は、純粋で生々しく、スタイリッシュで素晴らしい恐怖の瞬間を数多く含んでいる。とはいえこの映像作品は、その元となる素材を均一に把握できずに失敗しているので、むしろその元となる素材にまったく依拠していなければ、かえって成功していたことだろう。理想的なフラナガン作品への鍵は、いいとこ取りの翻案などではなく、完全にフラナガン自身の発案によるストーリーの展開にあると思われる。


下は謎の女性ヴェルナについて語るカーラ・グギノ。「彼女はスーパーナチュラルな存在。悪魔ではなく、悪しきものですらない。人々は死に臨んで、彼女を前に本当のことを話す機会を与えられる…マイク・フラナガンは私に言った、『アッシャー家の人々は個々の楽器で、ヴェルナはこれを一つにするシンフォニーのようなものだ』と。」


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「アッシャー家の崩壊」の、主として原作をめぐって

Roderick Usherwww.deviantart.com「ロデリック・アッシャー」。Abigail Larsonさんがdeviantart.comに投稿した画像。元画像はこちら

Netflix版「アッシャー家の崩壊」に関するアメリカ人の評価

マイク・フラナガン監督の「アッシャー家の崩壊」は、日本ではほとんど反響がないようですが、欧米ではヒットしているようで、Netflixの「世界の視聴ランキング」の上位に躍り出ている。ただ前の記事でも触れたとおり、とりわけポーの愛読者からは反発も出ているようです。私が個人的に面白いと思ったのは、Aja Romanoというライター集団がvox.comというサイト上に発表した「Netflix版『アッシャー家の崩壊』はポーの情熱的怪奇を欠く(Netflix’s The Fall of the House of Usher lacks the passionate weirdness of Poe)」と題されたレビューで、長文なので今回はご紹介できませんが、機会があればせめて抄訳でもお目にかけたいと思っています。ポーのファンの不満をまとめて代弁したような、手厳しい内容です。
とはいえポーの愛読者が全員怒っているわけではない。下はインターネット・ムービー・データベース(www.imdb.com)のユーザーレビューに投稿されたものの一つで、「紛れもなくポー(Quintessentially Edgar)」と題された、好意的なレビューです。

私見では、魅力的な作品は常に毀誉きよ相半ばするもので、一般的に、私が好きな作品を嫌う人々がいても、それで気を悪くすることはない。かと言って傍観者的メタなレビューを書くのも好きではないが、この『アッシャー家の崩壊』については、いささか言わせてもらいたい。
演技、演出、制作の価値など、このショーの技術的な側面についての個人的な好みを問うつもりはない。 私自身は、いくつかの見事な劇的瞬間マネーショット(乱交パーティーが急に終わる場面*1など)によって装飾された素晴らしいテレビシリーズだと思うが、それは単なる私の見解だ。
私がここで争いたいのは、フラナガンがポーの作品を正しく評価しているかという点についてであって、これを否定する者に対しては、残念ながら容赦できない。
ポーは単にゴシック小説を書いたのではない。彼はこれにきわめて個性的なタッチを加え、これをジャンルを超えたものとし、それは最終的に彼の作品の最も代表的な側面となった。Chat GPTにポー風のものを書いてくれと頼むと、実際にそんなものが出てくる。(中略)
ポーを単なる良いライターではなく天才たらしめているのは、彼の作品の深い心理学的含蓄なのである。この男はもろもろの精神疾患や神経障害を、まだ病名も定まらない時代に活写した。彼は普遍的な恐怖や不安を掘り下げ、それらは単に時代を超越しているばかりでなく、現代においてなお重要性を増している。すなわち死への病的な接近、ぬくもりのない疎外された環境での生存、不確実性の絶え間ない圧迫感などだ。
ポーの作品の核心は暗くて現代的であり、フラナガンは『アッシャー家の崩壊』でこれを完璧に捉えた。彼は必須の象徴的文脈の上に、今風のコスチュームを被せるだけでは満足せず、その下に隠れているものへと脚本を集中させた。私としては、彼をいくら褒め上げても足りないほどだ。
私がこのテレビシリーズについて唯一の減点対象としたのはタイトルの選択*2で、確かに観る人のうちにはこれを同名の短編小説の翻案だと思い込む人もいるかも知れないが、実はポーの「グレーテスト・ヒッツ」に対する広範囲にわたるオマージュだったわけだ。
それを除けば、ポーの作品の長年のファンとして、私はこの『アッシャー家の崩壊』が最高のストーリーテリングであり、現存する最もポーらしいポー風コンテンツの 一つであると断言してはばからない。

こういうのを見ると、さすがにアメリカ人はポーをよく読んでいるなあ、と感心しますね。もっともポーが真剣に読まれるようになったのは、アメリカでも比較的最近のことで、私の感じでは、少なくとも20世紀の前半までは、英米におけるポーの評価は非常に低かった。
ポーがまずフランスで認められたことはよく知られている。これはもっぱらボードレールの名訳によるものですが、ポーの「名訳」などというと日本にも掃いて捨てるほどありそうな気がしますが、ボードレールのはそういうのとはわけがちがうので、ポーの生まれ変わりか?と思われるほど見事なフランス語に訳したので、マラルメヴァレリーもみんなボードレールの訳でポーを読んで、今のわれわれよりもはるかに深くポーを理解しておりました。残念ながらポーは日本においてはそのような名訳者と未だめぐり会っておりません。

「アッシャー家の崩壊」は近親相姦の物語か?

上のレビュー中の「心理学的含蓄(psychological implications)」という言葉について、少し私見を付け加えます。今は日本でも「ゴシック」という言葉が定着して、「ポーはアメリカのゴシック小説家です」みたいな言い方が平気で用いられますが、ポーがそれまでのゴシック・ロマンスとは一線を画するものを書いたのだという点は押さえておく必要がある。大雑把に言うと、ポーはこのゴシック・ロマンスという陳腐で荒唐無稽な文学形式に、近代的な合理主義あるいは実証主義の精神を持ち込み、これを渾然一体化させた作家だ、と一応は言えるのですが、彼の作品にはもう少し予言的な面がある。「われ冥界を動かさん」とのエピグラフを巻頭に掲げたフロイトの『夢判断』が出版されたのは1900年、ポーの死後半世紀が過ぎてからです。ポーの時代には「潜在意識」とか「深層心理」とかいった言葉はなく、概念もなかった。にもかかわらず、ポーはいちはやくこれらの存在に気づき、フロイトとはまったく違う独自の手法によって、これらに関する研究を行ない、知見を積み重ねていたのではないか。彼のゴシック・ロマンス、特にこの「アッシャー家の崩壊」(原作の方)を読むと、読者はそのような印象を強く持つものです。
これに関連して、この「アッシャー家の崩壊」(原作の方)は近親相姦の物語ではないか、ロデリックとマデラインはこのタブーを犯したために破滅したのではないか、という解釈が、これもかなり昔からあります。これは作者の側からすると心外なところでしょうが、何せ含みの多い文体なので、こういう深読みの仕方も確かにできるわけです。こうした「裏の文脈」も読み取り得る、という点も、この作品の魅力の一つには違いないので、ここは草葉の陰の作者にはぐっとこらえて頂きたいところです。

ロデリック・アッシャーの魅力

もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「アッシャー家の崩壊」(原作の方)に描かれた主人公ロデリック・アッシャーの魅力ですね。いつの世にも存在するこの繊細で高貴な「詩人」タイプのキャラクターについては、このブログのこちらの記事でも触れていますが、「モルグ街の殺人事件」に出てくるオーギュスト・デュパンもそうですが、こういう行動力に乏しいタイプのキャラクターを活写するにはいかに特異な才能が必要か、少し考えてみればおわかりになるでしょう。確か澁澤龍彦氏に「アッシャーの好んだ本」という短文があったと記憶しますが、あれはニキータ・コシュキンの「アッシャー・ワルツ」同様、この魅力的な「詩人」の肖像に捧げられた美しい花束だという気がします。
下はニキータ・コシュキンの「アッシャー・ワルツ」。演奏者は作曲者の奥さんだそうです。


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*1:Netflix版「アッシャー家の崩壊」エピソード2。

*2:この評家はこの映像作品に10点満点中9点を与えている。なおこの「アッシャー家の崩壊」というタイトルについてはポーの愛読者から「釣りに過ぎない」「裏切られた」等の批判が殺到しております。

マイク・フラナガン監督の『アッシャー家の崩壊』をめぐって(レビューではない)

『アッシャー家の崩壊』から、謎の女性ヴェルナ役のカーラ・グギノ。www.imdb.comより。

マイク・フラナガン監督の『アッシャー家の崩壊』というホラー映画が10月12日からNetflixで配信されており、その1ヶ月前からYouTube上で公開されていたのが下の公式予告編(英語版)です。


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マイク・フラナガンという映画監督は、スチーブン・キングの小説を映画化した『ジェラルドのゲーム(Gerald's Game, 2017)』という作品で日本でも有名ですね。その他にも、確か『真夜中のミサ(Midnight Mass, 2021)』という作品がアメリカでちょっとしたセンセーションを巻き起こしたように記憶しますが、日本ではあまり話題に上らなかった。日米間のホラーに関する嗜好の相違の他に、宗教がらみのテーマだったせいで、日本人にはピンとこない面があったのかも知れません。
私はエドガー・アラン・ポーが好きなんですが、マイク・フラナガンのファンではないので、この『アッシャー家の崩壊』の噂を聞いても、わざわざこれを観るためにNetflixに加入しようとは思わなかった。ただポーについて、今のアメリカ人はどういうイメージを持っているのだろう、という点については大いに関心があるので、上の予告編のコメント欄などは興味津々で眺めておりました。
今は作品も公開されて、上の予告編のコメント欄も実際に作品を視聴された方の感想が主になっています。まあ、ROTTEN TOMATOESやIMDbのレビュー欄同様、毀誉きよ褒貶ほうへんこもごも至る、といったところのようですが、特に目立つ批判としては「キャスティングが多様性ダイバーシティに配慮しすぎていて、ために作品全体が滅茶苦茶になっている」というのが多く見受けられます。この「多様性ダイバーシティ」をめぐっては、アメリカのエンタメ界のみならず、文化シーン全体が大きな地殻変動のごときものに巻き込まれているようですね。そうしてこれに混じって目につくのが「ポーに対するリスペクトが足りない」というものです。
この映像作品は、作品全体のタイトルはもちろんのこと、8つのエピソードのそれぞれにポーの作品からの引用を冠している。のみならず、ポーからの引用はドラマのセリフ中にも出てくるようです。
下の動画にはポーの「夢の中の夢」という詩からの引用が出てきます。


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下は「海中の都市」という詩からの引用。


www.youtube.com

このように、この映像作品にはポーへのオマージュがちりばめられているかに見えるのですが、実際に観た人に言わせると「これのどこがポーなんだ?タイトルはただの釣り餌に過ぎない」といった代物らしい。
実はこの「ポーが草葉の陰で泣いている」といった批判は、公式予告編が公開された当初から、「楽しみだ!!」「(配信が)待ち切れない!!」といった大多数の歓迎の声に混じって、結構投稿されておりました。私の目に止まったのは、たとえば予告編が公開されて二、三日目に投稿された、こんなコメントです。

何か新しいものを作ろうとは思わないのか?
Netflixはその代わりに、ポーのあらゆる作品を引っ張ってきて、甲高い効果音ヴァイオリン・スクリーチや、びっくり箱ジャンプ・スケアや、ポーが決して創ることのなかったモンスターなどとごちゃまぜにするのだろう。そうして万人がこの駄作を絶賛する。なぜならNetflixはポーの作品のいいとこ取りをして、何かユニークなものが創造されたかのように披露するだろうからだ。
これが原作の忠実な映像化だったらよかったのに。
知ってるかい?ポーは四十やそこらで金に困って死んだんだぜ。「大鴉」の稿料はたった1ドル25セントで、彼がそこから手に入れたのは近所の子供たちとの遊びだけだった。子供たちはポーの後をこっそりとついて歩いて、ポーがくるっと振りむいて「ネバーモア!」と叫ぶとみんな笑って逃げたんだ。
もし君がこの映画を観るのなら、せめて原作も読んで欲しい。君が読書が苦手なら、丸一日かかるかも知れないが、それで君はホラーの何たるかがわかるはずだ。

確かに、今をときめくフラナガン監督と、今から二百年ほど前にボルティモア野垂れ死にした貧乏詩人とのイメージ上のギャップを思いますと、何か暗澹たる気分になりますね。
なお上のアドバイスに「君が読書が苦手なら(『アッシャー家の崩壊』の原作を読むのに)丸一日かかる」とあるのは、「君が古文を読むのが苦手なら」という意味です。何せ今から二百年前に書かれた小説ですので、その文体は今のアメリカでは立派な古文体であるわけです。確か他の人のコメントで「原作は学校で読まされたが、さっぱりわからなかった」というのもありました。またこの「アッシャー家の崩壊」の原作のAmazon.comのコメント欄に「オリジナルはスタイルが古すぎて何が書いてあるかわからないので、今の英語に書き直したものを読んで、それなりに感動した」とあるのを見た記憶もあります。
このブログにはポーの小説を今の日本語に訳したものを幾つか載せております。これを見に来るお客さんは学生の方が多いようですが、日本の学校では今でもポーの作品を英語教材として用いているのでしょうか?もちろん古典に触れること自体は貴重な体験ですが、ポーの作品を英語教材に使うことは、『雨月物語』を日本語教材として使用するようなもので、とても適切だとは思えません。
上記の通り、ポーの作品について、これが発表された当時の衝撃をじかに感じることは、今のアメリカ人にとってももはや困難なこととなっている。これに対して日本の読者は、ポーの作品を今の日本語に直したものが読めるのですから、別に丸一日家に閉じこもらなくても、たとえばボードレールが初めてポーの作品に接した際の衝撃をリアルに追体験できるわけです。このチャンスをお見逃しなく。

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(日本語訳)ボードレール「殉教の女(Une Martyre)」

アントワーヌ・オーギュスト・ティヴェ(Antoine-Auguste Thivet, 1856-1927)「殉教の女」。ウィキメディア・コモンズより。

(さる無名画伯のデッサン)

ボトルやらラメ入りの服やら
絢爛たる家具調度やら
香水の薫りの染みたプリーツワンピース
絵やら彫刻やらのひしめく室内

温室のごとくただよう
ただならぬ気配にムッとした室内
ガラスの棺桶に飾られた瀕死の花々が
最期の吐息をもらす そんな室内

首無し死体が ずぶ濡れの枕の上に
河川のごとく血潮を流す
ベッドのシーツが牧草地のごとく
貪欲にこれを飲み干す

暗がりから生まれて目を釘付けにする
蒼ざめた幽霊ヴィジョンのごとく
結い上げられた黒髪と貴石きせきのイヤリングとに
飾られた女の頭部が

かたわらのテーブルの上に 一輪の金鳳花きんぽうげのごとく
転がっている 物思うことなく
白目をむいた眼球からは 黄昏たそがれのごとく
漠たる視線が逃げ去る

ベッドの上では あらわな胴体が
慎みも恥じらいも忘れて
持って生まれた秘宝を 命取りの美を
はばからず見せびらかしている

金色のスパンコールをちりばめたピンクのソックスは
片足に記憶のごとく
ガーターは燃える秘密の目*1のごとく
ダイヤモンドのひらめきを放つ

さびしさを背景として
モデルの目とポーズとが
挑発的な人物画 この異様な光景が
暴露するものは異常な情事

過激なキスだらけの
罪深い快楽と魔性のうたげ
それはひだをなすカーテンのかげに隠れて泳ぐ
邪悪な天使の群れをよろこばせた

とはいえ この角張かどば) った肩が魅せる

エレガントな痩身体形
少し突き出たヒップと いかれる蛇のごとく
引き締まった腰のくびれを見るに

この子はまだ少女なのだ――そのはやる心と
退屈でたまらない体は
暴走する欲望の飢えた群れに向かって
開かれてしまったのだろうか

生前 あなたがあれほど愛を捧げても
満足しなかった 強欲ごうよくな彼氏
動かなくなった 言いなりのあなたの肉の上で
ようやく満足したのでしょうか

答えなさい 不潔な死体 その硬い髪をつかんで
彼はふるえる手であなたを持って
教えてよ 生首よ その冷たい歯の上に
お別れのキスをしたのかしら

うるさい世間から 汚らわしい大衆から
詮索する検察から遠く離れて
変わり果てたお嬢さん そのミステリアスなお墓の中で
安らかにおやすみなさい

世界中逃げ回る彼 あなたの不死の姿が
寝ていてもそばで見守るから
彼もまたあなた同様 必ずやあなたひと筋
死ぬまで浮気しないよ


*『悪の華』初版79。原文はこちら

*1:ボードレールは時としてこの「目(oeil)」という名詞に通常の、辞書的な字義から逸脱した意味をこめて用いており、マラルメランボーもこれにならっている。同様にボードレールが特異な意味をこめて詩に用いた単語に「雲(nuage)」や「両膝(genoux)」があります。