伊東眞夏『ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―』
園城寺おんじょうじ(三井寺)の金堂(国宝)。ウィキメディア・コモンズより。 六月十四日~六月十五日:秀吉、光秀の首を探索する。 六月十五日:秀吉、園城寺に進駐する。 後記 六月十四日~六月十五日:秀吉、光秀の首を探索する。 十四日の朝、秀吉軍は…
伝説に基づき再現された鵺ぬえの像(兵庫県西脇市・長明寺)。ウィキメディア・コモンズより。 六月十三日:勧修寺尹豊と溝尾の会見 勧修寺尹豊の人物像 六月十三日:勧修寺尹豊と溝尾の会見 「お待ちください。すぐに主人に取り次ぎますので」廊下が急に騒…
網代笠を被る托鉢僧。ウィキメディア・コモンズより。 六月十三日:小栗栖の光秀主従 光秀死す 六月十三日:小栗栖の光秀主従 光秀(前に一人、後ろに二人の供を連れている)は、雨の匂いのする重い風の中を駆けた。皆羽織袴を着用して、網代笠を被っていた…
勝竜寺城の推定城郭部分。国土交通省の国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。ウィキメディア・コモンズより。 ㊼六月十三日:親王たちの変節 ㊽光秀は勧修寺尹豊を憎む。 ㊾六月十三日:勧修寺 ㊼六月十三日:親王たちの変節 しかし、内裏の事情は複雑…
「明智藪」の石碑(京都府京都市伏見区小栗栖小阪町本経寺寺領内)の奥にある案内板。矢印が藪の奥を指している。2016年1月撮影。www.travel.co.jpより。 ㊺六月十三日:山崎 ㊻伊東眞夏は推理する。光秀の策謀。 ㊺六月十三日:山崎 緊張を孕んで夜が明けた…
円明寺川(現小泉川)は桂川へと注ぎ込んでいる細い川で、上の写真でいうと、右手に明智勢、左手に羽柴勢が陣取って対峙した。4travel.jpより。 ㊸六月十二日:対峙 ㊹六月十二日:並河隊の発砲 ㊸六月十二日:対峙 結局のところ、明智軍が下鳥羽の陣を払い…
「長篠合戦のぼりまつり」の様子。ウィキメディア・コモンズより。 ㊵六月十一日:富田 ㊶六月十二日:下鳥羽 ㊷六月十二日:山崎 ㊵六月十一日:富田 一方、光秀がすばやく陣払いをした報せを聞いた秀吉は、軽い失望を覚えたものの、落胆はしなかった。勿論…
郡山城(奈良県大和郡山市)は桜の名所でもある。ウィキメディア・コモンズより。 ㊳著者伊東眞夏の細川藤孝人物評 ㊴六月十一日:洞ヶ峠 ㊳著者伊東眞夏の細川藤孝人物評 ここで著者伊東眞夏による細川幽斎の人物評を繙ひもといてみよう。細川藤孝(幽斎)…
宮津城の大手門と二の丸の塀。明治初期に撮影。ウィキメディア・コモンズより。 ㊱六月十日:丹後国・宮津城 ㊲細川幽斎の決断 ㊱六月十日:丹後国・宮津城 出家したばかりの細川幽斎は慣れない坊主頭を無意識に撫でながら、届いたばかりの光秀の書状を読み…
プラザデラオ比日友好公園(マニラ)の高山右近像と記念碑。ウィキメディア・コモンズより。 ㉞光秀、御所にて任命式を済ませる。 ㉟光秀、妙心寺に帰還する。 ㉞光秀、御所にて任命式を済ませる。 「殿・・・殿・・・」遠くで声がする。どうやら自分は仰向…
平成天皇の即位の礼の際、皇后陛下が着席された御帳台。ウィキメディア・コモンズより。 ㉜六月九日:光秀のタイム・トリップ(1) ㉝六月九日:光秀のタイム・トリップ(2) ㉜六月九日:光秀のタイム・トリップ(1) 光秀が玄関に向かおうとすると、「…
国宝・曜変天目茶碗。藤田美術館蔵。ウィキメディア・コモンズより。 ㉚六月八日:坂本城 ㉛六月九日:京都 ㉚六月八日:坂本城 坂本城に帰還した光秀は、ここ2~3日の迷走状態を振り返った。どこで自分は釦ボタンを掛け違えたのだろうか。信長弑逆は世間…
姫路城天守。ウィキメディア・コモンズより。 ㉘六月七日:秀吉軍、中国路を駆け抜ける。 ㉙六月七日:吉田兼和の来た夜に、信長の魂を感じる。 ㉘六月七日:秀吉軍、中国路を駆け抜ける。 羽柴秀吉麾下きか、軍の体ていを成していない兵士たちは、ひたすら…
摠見寺(そうけんじ)(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦の安土城跡に建っている)の三重塔あたりから見た「西(にし)の湖(こ)」。ウィキメディア・コモンズより。 ㉖六月五日:安土城 ㉗六月六日:安土城 ㉖六月五日:安土城 光秀は城に上がると、躊躇(た…
清水宗治公首塚(岡山県岡山市)。ウィキメディア・コモンズより。 ㉔六月三日・四日:備中高松城 ㉕六月五日:安土城 ㉔六月三日・四日:備中高松城 人口湖の上に浮かぶ高松城では、城主・清水宗治を中心に、白熱した総員参加の軍議が開かれていた。廊下や…
関ヶ原古戦場。ウィキメディア・コモンズより。 ㉓六月三日:坂本城 翌朝、目覚めた光秀は、ここは何処だろうと思った。更に、自分はどうしてここにいるのだろう、戦に行かなければならないのに、と嫌な胸騒ぎがした。寝起きの良い光秀にしては珍しいことだ…
歌川国芳「赤松(高松)之城水責之図」。ウィキメディア・コモンズより。 ㉒六月三日 主人信長の命令で、中国戦線に投入された秀吉は、六月二日の時点で、何処で何をしていたのだろうか。天然の要害、高松城を攻めあぐんでいた。小高い山脈を背にして、城の…
広重が描いた瀬田大橋。ウィキメディア・コモンズより。 ⑳六月二日:瀬田橋炎上 ㉑六月二日夕刻:安土城下 ⑳六月二日:瀬田橋炎上 ここで著者の伊藤眞夏は、史書の「風の吹くように」という文言に注目している。“烽火(のろし)”を使用したのではないかと推…
落合芳幾画「平蜘蛛を割る松永久秀」。この姿は人間ではありませんね。ウィキメディア・コモンズより。 ⑲六月二日:妙心寺 妙心寺に到着した光秀は、静かに信長公遺体発見の知らせを待った。信長の遺体と首級が無ければ、光秀は反逆者と認定される。何が何で…
現在の妙覚寺。ウィキメディア・コモンズより。 ⑲六月二日午前九時頃:中将信忠 本能寺と同じように、周りに堀をめぐらし、小さな城郭のような構えを持つ妙覚寺に宿泊していた信忠に、本能寺の変の報せが届いた。信忠は自ら先頭に立ち、父信長の救出を試みた…
揚斎延一・延重作『本能寺焼き討ちの図』(1894年)。手前は安田国継を迎え撃つ森蘭丸。奥に信長自刃の様子が障子に映る。ウィキメディア・コモンズより。 ⑱南蛮寺:六月二日午前六時~ ⑱南蛮寺:六月二日午前六時~ 佐与が南蛮寺に駆け込んだ頃から時間が遡…
今は京都市右京区の春光院に伝わる「南蛮寺の銅鐘」。イエズス会の紋章が彫られている。ウィキメディア・コモンズより。 ⑰六月二日:南蛮寺午前八時(佐与の回想) ⑰六月二日:南蛮寺午前八時(佐与の回想) 本能寺から約二百メートル離れているイエズス会の…
桂川に架かる渡月橋。ウィキメディア・コモンズより。 ⑮六月二日未明:老ノ坂 ⑯六月二日払暁:京都 ⑮六月二日未明:老ノ坂 近衛邸を出た宇佐は、明智軍と行き会った。場所は明智軍が急な山を下り、やっと平地に出たあたりだった。全軍に休止の触れが出た。明…
アドルフ・イヴォン作『ルビコン川を渡るシーザー』。ウィキメディア・コモンズより。 ⑭六月一日十九時頃:亀山城 ⑮六月一日深夜:京都 ⑭六月一日十九時頃:亀山城 山の日暮れは早い。暗い山中に位置する亀山城は、煌々と明るかった。数え切れない程の篝火(…
『泰西王侯騎馬図』(サントリー美術館本、部分)。1610年ごろ。ウィキメディア・コモンズより。 ⑫六月一日昼、本能寺で茶会が開かれる。前久は敗北感を感じる。 ⑬前久、帰宅後直ぐ二条御所に参内する。 ⑫六月一日昼、本能寺で茶会が開かれる。前久は敗北感…
犬夜叉が着ていた「火鼠の衣」も「水干」の一種であると言われている。MayMartinzさんがdeviantart.comに投稿した画像。元画像はこちら。 ⑩五月二十九日、信長入洛。 ⑪兼和、光秀に書簡をしたためる。 ⑫兼和、里村紹巴宅を訪問、その後ふたたび前久宅へ。 ⑩…
「雪の京都-愛宕神社本殿」。ウィキメディア・コモンズより。 ⑧五月二十七日、愛宕神社に参詣 ⑨五月二十八日、愛宕百韻を開催 ⑧五月二十七日、愛宕神社に参詣 光秀の希望に反して、詔(みことのり)は出ないと決まった。光秀は翌日、長男光慶(みつよし)を…
勧修寺宸殿。ウィキメディア・コモンズより。 ⑥光秀、坂本城に帰還する(五月二十四日) ⑦光秀、山科で近衛前久と勧修寺尹豊に会う(五月二十五日) ⑥光秀、坂本城に帰還する(五月二十四日) 朝廷の動向が気に掛かり、心落ち着かない光秀は、長男の光慶(み…
吉田兼見(兼和)像。國學院大學図書館所蔵。ウィキメディア・コモンズより。 ④光秀、密かに吉田兼和の屋敷を訪問する ⑤兼和、光秀の依頼を受ける。 ④光秀、密かに吉田兼和の屋敷を訪問する 光秀は予定通り、吉田兼和(かねかず)の屋敷に到着します。家人に…
大英博物館に展示された江戸時代のからくり人形。「茶坊主」ってこんな姿をしていたんでしょうか。ウィキメディア・コモンズより。 ③光秀、饗応役を外される。 ④坂本への帰還 ③光秀、饗応役を外される。 茶坊主に取り次ぎを頼んだのは、光秀の賄(まかな)い…