魔性の血

拙訳『吸血鬼カーミラ』は公開を終了しました。

ルネ・ヴィヴィアン作『一人の女が私の前に現れた』第15章

翌日、私はトレドへ向けて旅立った。記憶の中でいつまでも色あせない姿をとどめているあの街の秋の日のたたずまいが、私は好きだ。あの街の不治の病に冒された家並みや、病める舗道や、傷だらけの壁や、断末魔の苦しみにあえいでいるフレスコ画の数々が、私は好きなのである。狂気への偏愛は、私をエル・グレコの絵画へと引き寄せるのだった。彼の描く天使たち、その奇妙に反り返った額からは二度と叡智の光が放たれることもないであろう、そんな狂おしい天使たちが、その幻覚に襲われたまなざしで私を魅了した。マドリッドで、私は彼の肖像画に描かれた、あり得ないほど細長くて蒼ざめた顔の数々を、ほれぼれと眺めて時を過ごした。
この死と狂気への奇妙なあこがれはどこからやってきたのか、私は知らない。発狂するほど想像力が豊かでもなければ、自殺するほどの度胸も持ち合わせてはいない私なのに…
そう、私は確かにこの最後の『行為』を決行する勇気を持ち合わせてはいなかった。私を思いとどまらせたものはその手段の醜さと煩わしさであったが、本当はそれよりも死にそこなって、生き恥をさらすことの方が怖かった。
繰り返し思い出されたのはサン・ジョヴァンニがかつて『熱病の聖母』を讃えて作った病的な連祷で、それはこの街の寂しい景観によく合致していた。

嫌な匂いのする あなたの吐息は 街を腐らせてしまいました…
壊疽の緑いろ 人体に有害な緑いろ
ひしめき合って 夜は爬虫類のように這い寄るのです
人々は繰り返し祈りを唱えます
熱烈な妄想にくちびるは焼け
汗にまみれて 悪寒にふるえながら
『熱病の聖母』よ 蒼白のあなたに 心からなる祈りを捧げます

影は その悪しき輝きを あなたに捧げました
青白い燐火こそ あなたの妹とも言うべきともしび
鬼火たちは あなたの祭壇を 金色に飾ります
処女たちの死に微笑みかける処女よ
金切声を上げなければ あなたは振り向いてくれない
『業病』の聖母よ ふりならす鈴の音のような
朝拝や夕拝の 甘美なる阿鼻叫喚は あなたをめざして一斉に立ちのぼります

地衣植物によって壁を蝕まれたあなたの大聖堂は
その不快な生温かさで 夜をして吐き気を催させます
ぞっとするような結婚式で真っ黒になったベッドの上は
患者たちの手の湿り気で じくじくと濡れております
みにくい肌をした病人たちや ご臨終の人たちは
猛禽の叫びのうちに その吐息を混ぜ合わせ
『傷病』の聖母よ あなたの膝にくちびるを押しあてます

打ち続くあなたへの祈りの 神々しい風に吹かれて
悲しいさだめを負った人々は 深くこうべを垂れました
そうして聖歌と 聖なる香のかおりと
そしてまた 醜怪きわまる 血膿(けつのう)の流れとのあいだに
ペスト患者らの猛烈な悪臭が立ちこめております
血と膿と 青白い涙とによって
『断末魔』の聖母よ あなたのあらわなるおみ足は祝福されたのでございます

少しずつだが、私の目にもこの『ペストの聖母』の蒼白な顔が見えるようになってきた。その澱んだ目は死せる湖の影を映して蒼ざめていた。その乱れた衣裳からは瘴癘の気が流れ出ていた。その顔は悪夢のように千変万化した…とは言え私をもっとも震え上がらせたものは、この恐ろしいイメージにヴァリーの面影が重なることだった。あの凝然たるまなざしはヴァリーのまなざしだ…あの絶え間なく移り変わる表情はヴァリーの表情だ…彼女は私が元気を取り戻そうとしているこの地の太陽と空気とを汚しにやってきたのだ。一切を忘れてやりなおしたいという私の希望を永遠に打ち砕くためにやってきたのだ。彼女は来た。私は彼女から逃れられない…

時は流れた。淋しさのつれづれに、私はサン・ジョヴァンニに宛てて手紙をしたためた。

彼女は後悔のようにつきまといます。私は立ち直れません、息を吹き返すことが出来ません。彼女の思い出は私を殺しますが、とどめを刺してはくれないのです。
彼女の噂を聞きました。彼女は幸せですね。下らない晩餐会や舞踏会に明け暮れ、楽しい日々を過ごしており、私がここで一人苦しんでいることなど知ったことではないのです。
二度、自殺を試みましたが、果たしませんでした。けれどもしこの弱くて臆病な心のうちに、死ぬだけの気力が見いだせたとしたら、そしてもし遂に成功したとしたら――決して、決して彼女には言わないでちょうだい、ね――私が死んだのは彼女のせいだということを――私を死へと追いやったものが彼女に他ならないということを。
かつてイオーネの白い白い友情は私の慰めであり、よりどころでもありました。彼女を失って以来、私にはもう何もありません。
ヴァリーを知ってからの数日間は、エクスタティックな放心状態、魅せられた眩暈に過ぎませんでした。そう、それらの日々の間、私は何も考えられず、ただ生きているだけでした。にもかかわらず、彼女が私を愛してはいないことを、私も彼女も勘違いをしているだけだということを私は知っていた。けれどもう手遅れで、引き返す意志もありませんでした。
彼女が私を愛せないとしても、それは彼女の落ち度ではありません。私の落ち度でもありません。彼女を責めないでやって下さい、私も彼女を責めませんから。
おお光の詩人よ、薔薇の詩人よ、性愛の詩人よ、あなたは死を恐れていますね。古代レスボスから時を超えてやってきたあなたが、死ぬのを怖がっているなんて。私はと言えば、私にとって死とは『憧れの人』のようなものです。北方に生まれ育った私は、現実を神秘で覆い隠す白い霧を好みます。冷たい闇が分けても好きなのです。
人生なんか大嫌い。自分が何でどうして未だに生きているのか、さっぱり解りません。
私が書くものすべては女々しく、無力で、意味がない。それは私の心のように女々しく、私の思想のように無力で、私が生きていること自体と同様に意味がないのです。イオーネの最期を思い出すと心がなごみます。彼女が今は幸せに違いないと思うと気が晴れるのです。彼女はもはや人生の重圧に苦しむことはない。彼女はもはや夜のしじまの奥深くを流れるひとつの香り、若草の茎をしたたる緑の一滴に過ぎない…
ああ、この悲しみ、この月並みな悲しみよ。何のめりはりも面白味もないこの悲しみ。『悲しみ』は通俗です、なぜならそれは万人の所有物ですから。『悲しみ』とは不特定多数と交わる醜い娼婦。そうと知っていればこそ、私はうんざりするのです。吐き気をもよおすのです。
おおヴァリー!彼女の微笑みは聖き魂の微笑み、その涙は降って湧いたように頬を濡らす。とは言え彼女はまず恐ろしく冷酷な人。私は人が『故人』を偲ぶように彼女を愛したい。ただ彼女の素晴らしさや、熱い口づけのけだるさや、優しい時間の物悲しさだけを思いたい。
彼女の肖像画が、ずいぶん前に注文したものですが、皮肉な『運命』の共謀のおかげで、やっとこちらに届きました。この顔を、この唇を見つめていると、生々しい心の傷がまたしても口を開きます。ああ、この冷たい目、この目が優しさのかけらもないまなざしでこの胸を刺し貫いたのだ…
あなたも知っての通り、初恋でした。他の人を好きになったことはありません。こんなにも激しく荒削りな愛で、他の女性をも愛せるようになることは決してあるまいという気がします。
このような固定観念から気をそらそうとしている間も彼女のことが忘れられません。私はあるスペインの女の子を慎重に口説きました。けれどこんなことはただの取るに足りない遊び、たとえば天気の話のようにあまりにも陳腐な話題を粉飾するのにより都合がいい単純な話題です。それはほんとの恋ではない。子供の痛みと、殉教者の苦悶くらいの差があります。
そうは思いませんか。
私は一つの快楽であるような死を、人生に対する慰めであるような死を夢みています。そのような死は、人が垣間見たことのない『ありえない幸せ』であることでしょう。このような死への憧れは、愛する女性めざして高まってゆく欲情にも等しいものです。

サン・ジョヴァンニは優しい冷やかしの手紙を返してきた。私に辛辣な皮肉を浴びせ、「浮気者」呼ばわりするのである。彼女はあの黒い瞳のスペイン娘のことをしきりに持ち出すのだった。
私はすぐに返事を書いた。

サン・ジョヴァンニ、それではあなたは心理学が医学とほとんど同じように必ず間違いを犯すものだとは知らないのかしら。あなたが陥っている最大の過ちは、私のヴァリーへの愛を過去形で書けると思い込んでいることです。私たちの間は何もかも終わりました。それが彼女を愛し続ける最大の理由です。
私は愚かしい嫉妬心で彼女を困らせるという過ちを犯しました。けれどこの嫉妬心はまったく特殊なものなのです。彼女が女性美の前に跪いている間は私も彼女を責めたりはしませんでした。ただ私があの汚らわしい男どもと、彼女の微笑みを、約束を、口づけまでをも共有していたのだと知るに及んで、私の自尊心は遂に耐えられなくなったのです。
それは致命的な恥辱、許すべからざる侮辱です。
的外れなことばかり言っている女占い師さん、例のセビリア産のブルネットはと言えば、明日一週間ぶりに彼女と会うのですが、別にわくわくしてもおりません。彼女はあの『もう一人の人』、あの『かけがえのない人』と同様に嘘つきですが、かつて私を惑わせたあの心ない魅力も、全身に帯びた魔力も持ち合わせてはおりません。
だからと言って私の新しい女王様が最高であることに変わりはありません。彼女はほとんど無知無教養ですが、いろいろといけないことを知っているのです。
あまりペラペラとしゃべりすぎているかも知れませんね。実のところ、私は苦しみのあまりわけがわからなくなっているのです。私はヴァリーをたいそう憎んでいます。彼女が苦しんでいるところを見たら、いい気味だと思うことでしょう。それでいて彼女をどんな微かな苦痛からも免れさせるために、知恵を絞り、血を流してやることでしょう。あとのことは知りません。彼女を愛しています。
さよなら、ミチレーネの女詩人よ、プサッファの教えの敬虔なる信奉者よ。次はいつ会えるかしらね。明日をも知れぬ状態の今の私には、とても先のことなど考える余裕はありません。あなたはたぶん私を、少しはかわいそうだと思って下さることでしょう。なぜならあなたは誠実で、繊細で、優しいお友だちだから。精神分析に凝っている間は別ですが。
サン・ジョヴァンニ、私はあえてその手に接吻を致しますまい。あなたの手はほとんど男性的な手、相手をとらえ、わが物とし、そうして守ってやるけれども、決してみずからを与えることをしない手です。あなたも知っての通り、私は手というものに対して熱烈な関心を抱いています。手は顔よりも雄弁です。
イオーネが何時間も、古い象牙のような鈍い色をした病める両手を見つめていた姿が思い出されます…
私はまた普通のお友だちのように、あなたの手を握りしめることも致しますまい。なぜならサン・ジョヴァンニ、あなたの手はよこしまな者の手だから、私の心は乱れるのです。あなたの細長い五本の指は蛇のようで、私をとても不安にするのです。以上、すべてを考慮した上で、あなたにただこのひとことを告げるにとどめます。さよなら。

私はモーレスクの夢に溺れるべく、聖都トレドを発った。アルハンブラ宮殿は私にとって信仰の魔術だった。『ドス・ヘルマナスの間』は分けても大切なものとなった。ある追憶と魔法の夕べ、私は王家の二姉妹、ソライダとソラハイダを見た。
…彼女たちは噴水の両側に、向かい合って腰かけていた。歌うたう水は闇の中できらめき、彼女たちの無邪気な目はそれを見ながら笑っていた。グズラ奏者たちが奏でる子守歌も、彼女たちの変わらぬ夢想を寝つかせることは出来なかった。折にふれ、王女たちは不思議な歌を歌って、その声は噴水の音楽を圧倒した。
彼女たちの近くて遠いまなざしは、水煙の彼方にお互いの影を探していた。そうしてお互いの名を呼び、お互いの姿を認め合うたびに、彼女たちは激痛に身をふるわせた…
しかし噴水は宮殿中のあらゆる扉よりも効果的に二人を隔てていた。それは彼女たちの目には越えがたい壁と映るのだった。彼女たちは水煙を透かして微笑み交わしていた…決して互いに寄り添ったり、手を取り合ったりすることはなかった。決してその淋しげな唇を重ね合うことはなかった。ただ『欲望』と『後悔』との限りない魅力を、その胸にひしと抱きしめたまま命尽き果てるのであった。(第15章終わり)