魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

四拍子対三拍子

別宮貞徳著『日本語のリズム―四拍子文化論』(講談社現代新書、1977年)を読む。
著者の主張は日本語のリズムが四拍子を基調としているというものですが、これは別に著者の主張を待つまでもなく、事実です。問題は「それがどうしたのか?」ということですが、著者によれば、

つまり、多くの詩人は、和歌、俳句の定型詩を否定し、七五ならぬ新体詩をつくったつもりでいたが、よくよく見ると、相変わらず四拍子の枠のなかにとじこもっている。いいとか悪いとかの問題ではなく、ほとんど体質的にそこからなかなか逃れられないのではないか。
先ほどの奥野健男氏の言葉を引用すると、『明治以来の文章改革、文学革新にもかかわらず、日本人の中に七五調の音数律は根強く残っている。文学者が、まともに取り組まなかっただけに野放しにされてきた』。多分そういうことがあるのだろう。七五調とか三十一文字とか、数字ばかりが頭にあって、その根本にあるリズムを、ほとんど考えてみようともしない。そこで、マンネリズムに嫌気がさした作家詩人は、ただやみくもに七五調を毛嫌いし、定型を否定したつもりでいるか、あるいは、極端な自由詩に突っ走って、言葉の美しさよりも思想を前面に押し出そうとする、反面、一般大衆は、まるで伝統の温泉につかったように、七五調の標語やせりふからぬけられないでいる。

私の考えはちょうどこれと反対でして、日本語が四拍子の言語であるならば、われわれ日本人はあくまで四拍子に固執するべきで、四拍子の枠内で新しい効果を得ることを志すべきだと思います。どう組み合わせても四拍子にしかならない言語を使って三拍子の詩を書くなどというのは、重力の法則を無視した建築を設計するのと同じほど馬鹿げたことです。どうしても三拍子の詩が書きたいならば、お隣の韓国人の使っている言語が三拍子だそうですから、韓国語で書けばよろしいでしょう。


ところが話はこれでおしまいではありません。同じく著者の主張によれば、蒲原有明がすでに日本語で三拍子の詩を書いている、というのです。それは有明の詩集『独弦哀歌』(1903年)で採用された「独弦調」と言われる「四七六」の音数律で、たとえば
>別離(わかれ)といふに微笑む君がゑまひ…
これは普通に分析すると、
>わかれと|いふに微笑む|君がゑまひ…
という風に四拍+六拍+七拍になるのですが、著者の主張する読み方では、
>わかれと|いふに|微笑む
>君が|ゑまひ|○○○(休止符)
というように、等時な三つの「ブロック」を二つ重ねたものと考えることが出来、完全な三拍子になるそうです。

わたしは、現代俳句や口語短歌が、定型の枠をのがれたと称しながら、その実、根元的な四拍子に依然としてとどまっているのにくらべれば、固い音数律にみずからを縛りながらも、美しい三拍子を編み出した蒲原有明のほうが、リズムのうえでははるかに新しく現代的のような気がするのである。

蒲原有明の詩集を借りてきました。もっとも、彼の詩集をひもとくのはこれで何回目でしょう。私は彼の詩を面白いと思ったことがないのであります。『独弦哀歌』のページを開いてみますが、以前と変わらず、さらに感興がありません。
ちなみにこの詩集の冒頭には十五篇のソネットが収められており、それが一括して「独弦哀歌」のタイトルを冠されております。つまりこの十五篇のソネットが「独弦調」の産物であるわけですね。

ここでちょっと日本語でソネットを書く、という行為の意味を考えてみましょう。ソネットには本来、脚韻の踏み方にいろいろと決まりがあり、この決まりをきちんと守って書くところにソネットの創作上の妙味があります。これに対して日本語では、もう何度も申し上げている通り、脚韻を踏んだ詩を書くことは事実上不可能です。従って日本語でソネットを書くことにはまったく意味が無い、ということになります。
日本語でソネットを書く。蒲原有明は日本で最初にこの愚行と取り組んだ詩人たちのうちの一人です。しかし彼は少数ながら後世に伝えるに足る佳いソネットをいくつか遺しました。特に有名なのが『有明集』(1908年)という詩集に収められている「茉莉花(まつりか)」と題された一篇で、日夏耿之介が『明治大正詩史』の中で激賞したため、不朽の名声を獲得しました。
『独弦哀歌』に戻りましょう。たとえばこんな詩はいかがでしょうか。

黄金(こがね)の朝明(あさあけ)こそはおもしろけれ、
狭霧(さぎり)に匂ひてさらばさきぬべきか。
嘆かじ、ひとり立てどもわが為めいま
おもふに光ぞ照らす、さにあらずや。
小径(こみち)を、(さなり薔薇のこの通ひ路、)
世にまた恋にゆめみるものの二人、
嗚呼今静かにさらばさきぬべきか。
(第三番「薔薇のおもへる」)

なるほど美しい詩ではありますが、これが「あたらしい感動、あたらしい表現を韻律化」した結果なのでしょうか。そもそもこの詩想は普通の七五調では表現不可能なものなのでしょうか。この変態的なリズムを採用しなければならない必然性はどこにあるのか。
さらに考えると、こういうリズムを使いこなすためには、はじめに七五調で書いてこれを無理やりこのリズムに当てはめる、というようなやり方では駄目で、はじめからこのリズムで頭に浮かんでくるようでなければならないと思います。そのためにはこのリズム(別宮教授の言われる「三拍子」)によほど習熟していなければなりません。ふとした思いつきではとても無理です。