魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

源実朝と ‘Highly Sensitive Person’

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2017年5月、鎌倉由比ヶ浜海岸に発生した夜光虫。ウィキメディア・コモンズより。

近ごろ一天一笑さんのブックレビューに「実朝暗殺」の文字がしきりに現われ、その度にこの源実朝という人物のことを考えるので、少しまとめておく気になりました。
近ごろネット上で「HSP」という文字をよく目にしますね。「ハイリー・センシティブ・パーソン(Highly Sensitive Person)」の略だということですが、日本語版ウィキペディアによると、 ‘Highly Sensitive Person’ とは以下の四つの指標で示されるところの「感覚処理感受性(Sensory Processing Sensitivity)」なるものがきわめて高い人たちのことだという。

  • 「認知的処理の深さ」(grater depth of information processing)
  • 「刺激に対する圧倒されやすさ」(greater ease of overstimulation)
  • 「情動的な反応性や共感性の高まりやすさ」(increased emotional reactivity and empathy)
  • 「ささいな刺激に対する気づきやすさ」(greater awareness of environmental subtleties)

私の目には、これはそのまま「詩人」の定義に見える。「詩人」とは、平ったく言うと、われわれが些細なことと感じるような出来事から、天地がひっくり返ったかのようなショックを受け、取り乱す人のことをいうのです。
「詩人は被造物中もっとも傷つきやすい存在である。事実、彼は逆立ち歩きのような不安定な状態にある」というポール・ヴァレリーの言葉をこちらの記事でご紹介しましたが、ヴァレリーはこの同じ文の中で「フランスでは詩人は決して本気にされなかった。フランスにおいて詩の発作があれほどしばしば反逆の形を取ったのはそのせいである。従ってフランスには国民詩人なる者は存在しない」とも書いていたように記憶します。*1
これが日本ではどうだったかというと、日本には古来「詩人」についてのある固定したイメージがあります。すなわち集団生活に適応できず、富からも社会的地位からも見放され、乞食のようななりをして、寂しい国々をさまよい歩いている。それが日本のオルフェウスともいうべき柿本人麻呂から近世の詩的怪物・松尾芭蕉にいたるまでの日本における「大詩人」の伝統的な姿です。
従って、たとえば新聞小説でひと山当てたある「文豪」が、暇つぶしに書斎でひねった俳句などに、本当の意味での詩的価値など何もない。これに対して、たとえば戦前、種田山頭火という俳人がおりましたね。彼の俳句は形式的には新しいが、生き様の上では彼はガチンガチンの「守旧派」で、頑迷固陋なまでの「伝統墨守派」であったわけです。
源実朝に戻りますが、彼もまた「天性の詩人」です。本来なら裸一貫で諸国を放浪しているようなタイプです。以下『金槐和歌集』から数首引きます。

大海おほうみの磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも

小林秀雄はこの歌について、

かういふ分析的な表現が、何が壮快な歌であらうか。大海たいかいに向かつて心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事を思ふなら、青年の殆ど生理的とも言ひたい様な憂悶を感じないであらうか。(『無常といふ事』)

と書いている。小林秀雄の指摘は当たっているのですが、実朝の分析的な傾向は、たとえば次の歌のような、「壮快」と言うよりも「豪快」と言っていいスケールの歌の中にも感じられる。

山は裂け海はせなむ世なりとも君に二心ふたごころわがあらめやも

どうもこの源実朝という人は、非常に優れた知性と繊細な感受性とを兼ね備えた、きわめて情緒不安定な人物だったのではないかと考えられる。とはいえ時は以後数百年にわたって日本を事実上支配することとなる「暴力政権」の勃興期。その血で血を洗う権力闘争の中枢部に、この ‘Highly Sensitive Person’ は生を享けたのです。これは(今風に言えば)「あり得ない」レベルの悲劇です。
さぞかし辛かったでしょう。逃げ出せるものなら逃げ出したかったに違いない。そこで思い起こされるのがあの不思議な、伝説的な渡宋計画です。彼はおそらく本当に日本から脱出して、大陸の山奥深く、隠れて暮らしたかった。だが周知の通り、船は出来上がったが、進水に失敗して、砂浜で朽ち果てるままとなった。彼の絶望は如何ばかりだったでしょうか。
もちろん彼の内面の苦悩など、『吾妻鏡』は一行も触れてはおりません。だがさらに彼の孤立感を深め、彼を苦しめたと考えられる要因がある。それは肉親の無理解です。

乳房吸ふまだいとけなきみどりごとともに泣きぬる年の暮かな

いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる

物言はぬ四方よものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

上の三首、親子の情愛を歌って非常に特色あるものですが、ここから当然、実朝は母親の愛情に飢えていたのではないかという推測が成り立つ。彼の母親北条政子は、彼とは正反対の個性でした。少なくとも北条政子の目には、実朝は我が子ながらまったく不可解な人物と映じていたに相違なく、これがまた鋭敏な実朝をして世を生きづらく感じさせる大きな理由の一つとなっていたであろうと推察されます。

*1:確か『邪悪な想念パンセ・モーヴェーズ』という本の中にあった言葉だと記憶しますが、確認はしていません。