魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

吉川永青「讒訴の忠」

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伝梶原氏一族郎党の墓。神奈川県高座郡寒川町一之宮。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


はじめに

吉川永青「讒訴の忠」(『鎌倉燃ゆ 歴史小説傑作選』所収)を読了して。
石橋山の戦い大庭景親に敗れ、土肥どい実平さねひらと共に洞窟に隠れた源頼朝を助けた(見逃した)武将・梶原景時の人物像を、吉川永青独自の視点から描きます。
従来の卑怯者のイメージを払拭し、源氏の嫡流に賭けた景時が、何故自ら進んで讒言者の道を選んだのかを解き明かします。

義経との確執

梶原景時は頭が痛かった。寿永三年(1184年)、一の谷合戦で手柄を上げた義経は、“鎌倉殿”頼朝の許可を得ないまま、後白河院から検非違使左衛門少尉さえもんのしょういの位を受けてしまった。これが何を意味するのか、義経にはまるで分らない。だからこそ、先陣を切って一の谷を駆けたにもかかわらず、褒美が出ない事に不満を持つのだろう。景時は、義経の戦目付(軍監)なのだ。義経が頼朝の指示に従って戦闘を行なっているかを報告し、その戦いぶりを監督する立場にある。
景時は、一の谷合戦は義経による独断専行の不意討ちでの勝利と頼朝に報告した(本来は明石まで進軍し、平家の搦め手から攻める作戦だった)。故に褒美はない。
「平家に勝利すれば、兄上は私を認めてくださる」との信念に凝り固まった義経にどう説明すれば(指導すれば)、“鎌倉殿”が目指す武士の府が理解できるのだろうか?
異母兄弟とはいえ、頼朝は公人・鎌倉殿であり、義経は家人である限り、頼朝と肩を並べることはできない。家人は皆横並びの存在でなければならないのだ。
まずこの度の任官を受けたことを、鎌倉殿に詫びるのが筋だと諭した。しかし、義経は言った。
「何ゆえ詫びねばならぬ。弟の任官は、兄上にとっても誉であろう。院に気に入られている俺が任官され、重用されれば、兄上は名実ともに世の中を統べられる筈だ」
景時は天を仰いだ。
「心得違いをされるな。それでは平家と同じことになります。平家の二の舞にならぬよう、武士が上に立ちながらも、朝廷とは友好関係を築かなければなりません」
「俺がいればそのような必要はない。もう話すことがないならば、下がれ」
義経は武器使用の戦術・戦略の天才であっても、権謀術数には長けていない。
後白河院義経を重用するのが源家分断策でもあることすらも判らないのだ。
寿永四年(1185年)二月、屋島の戦いで、戦術を巡って景時と義経は激論を交わす。後白河院は“大将は先陣を切らず”の教訓を教える良い機会であるとして、高階泰経を通じて義経は京都に戻るよう伝える。
しかし義経は首を縦に振らない。そこで妥協策として屋島にわたる船に逆櫨さかろを付ける提案をした。しかし手柄を焦る義経は頑として応じない。戦評定では、土肥実平が仲裁に入る始末だった。
激昂した義経は僅かな供回りを連れて、追い風になった嵐の海に船を漕ぎ出した。
景時は戦目付の役割を果たすために(如何に不仲であろうとも義経を死なせては鎌倉殿に申し訳が立たない)、嵐の治まる明け方に船を出した。平家を討伐した義経は得意満面に景時に言い放つ。
「一日遅れ。端午の節句にも間に合わない。六日の菖蒲とはお主のことだ」
屈辱感が景時を打ちのめした。義経は更に西進し、壇ノ浦で平家を滅ぼす。壇ノ浦の戦い義経が一日で勝利したのは、船の漕ぎ手を射る禁じ手を使用したからだった。

主君・頼朝との信頼関係

それと前後して、峻厳な眼差しの頼朝の館に呼び出された景時は、或る依頼を引き受けた。
源氏の世の中が定着していない今の御家人たちの引き締め役になってくれ。
「東国は東国」を落ち着かせ、義経のように朝廷に取り入ろうとする者を戒めよ。
“讒訴の徒”となってくれ。
景時は感激した。自分は頼朝の望む坂東を作るために生まれてきたのだ。何とも言えない喜びが景時の心を熱くした。自分は義経の教育係は全う出来なかったが、これはやり遂げてみせる。こうして、偉大なるイエスマン景時が誕生した。だが、それを理解するのは頼朝のみだ。“讒訴の徒”は千葉常胤つねたねや三浦義澄からも距離を置かれるようになる。

征夷大将軍の宣下

月日は流れ、義経が討たれ、奥州藤原氏も頼朝の追討軍に討たれる。ようやく頼朝の東国支配は確実になる。後白河院崩御(建久三年、1192年)と共に、頼朝に征夷大将軍宣下せんげされる。
武士が実を取り、朝廷はその上の名ばかりの存在となった。政敵になりそうな甲斐源氏安田義定梟首きょうしゅする。

頼朝急逝

宿願かなったが、頼朝は落馬する。不審に思う景時は、六男の景国に落馬の様子を探らせるが、曖昧模糊として目ぼしい話はなかった。見舞いに駆けつけた自分を追い返した北条時政の冷たい視線が、景時の心に甦った。
御家人六十六人による連判状を大江広元から見せられる。頼家は認めるか詫びるかどちらかを選択せよという。景時は鎌倉を出て、領国の相模国一之宮に下がるも、時政は容赦しなかった。
亡き主君・頼朝の一周忌法要を済ませた景時は、相模国を出て、京都に向かう。
時政側は待ち構えていたように、“謀反人”景時征伐の軍を立ち上げる。
梶原一族は、駿河清見の関で時政軍に追いつかれ、父・梶原景時をはじめ、嫡男・源太景季、次男・平次景高、三男・景茂かげもち、六男・景国、七男・景宗、八男・景則、九男・景連ら、一族ことごとく壮烈な戦死を遂げる。

六十歳の景時は最後に何を思ったろうか。孤独で誰にも理解されなかった男の心中は如何に?
“忠臣・景時”は、自分が“始末”されてしまえば、誰も北条時政・義時父子から頼家を守るものがいなくなる。それだけが心残り、無念だったのではないだろうか。
報われなかった“讒訴の忠”の物語をお楽しみください。一天一笑。