魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

『D. G. ロセッティ作品集』(岩波文庫)

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D. G. ロセッティ「自画像(1847年)」。wikiart.orgより。

訳詩家としてのD. G. ロセッティ

この本、図書館で借りて、通勤電車の中で読み飛ばし、得るところ多かったので少しまとめておこうと思ったのですが、パッケージ商品というのか、色んなものが詰め合わせになっているため、まとめるのが大変ですね。
とにかくユニークな本です。編集方針がユニークです。詩と散文と絵画作品を含み、詩は短詩と長詩、散文はフィクションとエッセイといった具合に選択がヴァラエティに富んでいます。きっとD. G. を知っている人にも知らない人にも内容に興味が持てるよう、工夫を凝らされた結果なのでしょうね。
以下のように章立てされています。


「小説」
ソネット
「抒情詩」
「長詩」
「批評」


この後に「付録」としてウォルター・ペイターの短い「D. G. ロセッティ論」が載っています。
この中で私が一番面白かったのは、ずばり「『イタリア古詩人』の序」です。なぜか「批評」の章に入っていますが、人様の作品の批評ではありませんで、D. G. 自身の訳詩集に附した序文です。周知の通り、D. G. ロセッティは偉大な訳詩家です。巻末の「解説」にもある通り、ダンテの『新生』の英訳がもっとも有名かと思いますが、他にもサッフォーの断章とか、フランソワ・ヴィヨンのあの「去年こぞの雪、いずこにありや」という詩の英訳も人口に膾炙しておりますね。これについては上のウォルター・ペイターの文にも少し引かれています。
少し引用します。

韻を踏んだ翻訳の生命はこの点にある――すなわち、優れた詩を拙い詩にしてはならないということだ。詩歌を清新な言語に翻訳することの唯一の真の動機は、清新な国民に、可能な限り、さらなる一つの美を所有せしむることでなければならない。詩は厳密な科学ではないから、訳の逐語性はこの主要なる目的にとって、まったく二義的なものでしかない。私はいま逐語性と言ったのであり――忠実さとは言っていない。両者はけっして同じではないのだ。かくの如く成否の第一条件であるものと逐語性とが両立し得る場合には、翻訳者は幸運なのであって、両者を結びつけるために最善を尽くさなければならない。しかるに、そのような目的が大胆な言い換えによってしか叶えられない場合は、それこそが訳者のとるべき唯一の道である。

もう一箇所。

翻訳者の仕事は(それは全人類について言えることだが)、幾分の自己否定の仕事である。訳者はしばしば、もし自分の思い通りにしても良いならば、彼自身の語法と時代に特有の優雅さを利用したくなるだろう。原作者が用いた構造を無視しても良いのならば、ある抑揚が彼の役に立つであろうし――原作者が用いた抑揚を無視しても良いのならば、ある構造が役に立つであろう。しばしば、適切な韻を用いるためにある連の美しい形を弱めなければならないことがあるし、詩人が詞藻の豊かさを大いに享受しているところで、訳者自身は乏しい語彙しか持たないこともある。時には音楽のために内容を軽んじ、時には内容のために音楽を軽んじたくなる。だが、それをしてはいけない。等しく両者に対応しなければならない。また時には作品の瑕瑾が彼を苛立たせ、彼はそれを取りのけて、詩人の代わりに、彼の時代が拒んだことをしてやりたい気持ちに駆られる。だが、それをしてはいけない――そんなことは約束にない。彼の道は、魔法のあなぐらをくぐり抜けるアラジンのそれに似ている。たくさんの貴重な果実や花を素通りして、ランプだけを探さなければならない。もし、しまいに地上の光の中へ出てきた時、古いランプが新しいものに――見た目にはキラキラ光るが、本物と同じ力はなく、同じ魔神を呼び出すこともできない新しいランプにすり替えられていなければ、幸いである。

上の引用のうち、後の方ので触れられている誘惑、すなわち訳者が「意訳」の範疇を逸脱して「改作」に及ぼうとする誘惑、これについてはこちらの記事でも少し触れておりますけれども、特に訳者が一家を成した詩人である場合、この誘惑は相当強いものであろうと察せられます。確かポール・ヴァレリーも、自分で訳したウェルギリウスの『牧歌』の序文で、同じこの誘惑について触れていたように記憶します。
まあ、我々のような素人が遊び半分に訳している限りは問題になることも少ないでしょうけれど、いくら不人気ブログの埋め草記事とは言え、やはり原作者の名を冠した状態で公にするからには一定の責任は負わなければなりません。大訳詩家が遺したこの貴重な「訳詩の心得」とでも呼ぶべきもの、私なりに肝に銘じたいと思います。

「ヘレン姉さま」と「ジェニー」

この本でもう一つ、私にとって嬉しい驚きだったのは「長詩」の章です。D. G. ロセッティの長い詩をこれだけまとめて日本語に訳されているのを見るのは、少なくとも私は初めてです。
このうち「ヘレン姉さま(Sister Helen)」は日本でも割と昔から親しまれている作品で、確かネット上でも訳詩が公開されていたと記憶します*1が、ある研究者の訳詩には「呪ひの蝋像」なるサブタイトルがついています。

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D. G. ロセッティ「シスター・ヘレン」。ウィキメディア・コモンズより。

上はD. G. 自身が描いた「ヘレン姉さま」のためのスケッチです。手前にいるのが「ヘレン姉さま」、向こうにいるのは見張り役の弟さんですね。そうして向かって左手に描かれているのが問題の「呪いの蝋人形」で、見たところ、かなり大きな人形を杭のようなものに縛りつけて暖炉の前に置き、火あぶりにする形です。詩の本文によりますと、これを三日三晩かけて溶かして行くようで、この呪いをかけられた相手は「体が溶けそう」な高熱にうなされる、というわけです。呪術の心得のある女が、自分を裏切って他の女と結婚した男をこの方法で呪い殺すという筋のゴシック・フィクションです。
この「長詩」の章で今回大きな収穫だったのはもう一つ、「ジェニー(Jenny)」という詩です。とても長い詩で、原詩はなかなか読む気がしないものですが、これがまともな日本語訳で一気に読める日が来ようとは思いも寄りませんでした。
この詩の内容を説明するには、設定を今の日本に置き換えてみるのがいいかも知れません。ラブホテルの一室で、美しい風俗嬢と二人、飲んだり歌ったりして夜を過ごすうち、女の方は眠りこけてしまい、男の方はそのかたわらで、白々と明けてゆく外の景色を見ながら物思いにふけっている、そんな男の独白です。巻末の解説によりますと、この詩の草稿を読まされたジョン・ラスキンは「たいていの人には理解されないだろうし、理解出来た人々の気分を害するだろう」と評したらしい。確かに英国ヴィクトリア朝時代の人々の通念からするとかなり不道徳な内容を含んでいると言えるでしょうが、現代日本の読者には、性別を問わず、楽しんでいただけるのではないでしょうか。この詩についてはまた触れる機会があろうかと思います。
あと「抒情詩」の章の「閃光(Sudden Light)」や「小説」の章の「手と魂(Hand and Soul)」等々についても書きたいことがありますが、またの機会にします。とにかくユニークな本です。D. G. ロセッティを全然知らない人にもお薦めできると思います。

D.G.ロセッティ作品集 (岩波文庫)

D.G.ロセッティ作品集 (岩波文庫)

 

*1:英国バラッド詩アーカイブ」というサイトで全訳が公開されています。