表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
はじめに
杉本苑子『竹ノ御所鞠子』(中公文庫)を読了して。
鎌倉幕府第二代将軍・源頼家の遺児達の運命を描いた長編歴史小説です。
頼家の遺児の中で只一人の女人である鞠子姫とその母・刈藻(木曽義仲の娘)の“源氏の血脈の軛”から逃れられない悲劇を繙いてゆきます。同時に北条家との権力闘争に敗れた者の痛ましい運命も確かな筆致で描きます。敗軍の将を肉親に持った女人たちの運命の過酷さをも描きます。
鞠子姫を巡る人々
幽閉された伊豆修善寺で、父・頼家が北条家により謀殺されたのは、鞠子姫が数え年三歳の頃だった。
従って、鞠子姫には父の記憶は殆どない。勿論、父や異母兄弟と共に暮らしたことはないのだ。父・頼家は、祖父・頼朝の影響を受けたのか、多情な男だった。なので、鞠子姫には、四人の異母兄弟がいる。父は何れも頼家ではあるが、長兄・一幡の母は比企能員の娘、次兄・公暁の母は加茂重長の娘、三兄・栄実の母は昌寛法橋の娘、弟・禅暁の母は意法坊生観の娘である。癇癖が強く、気性の激しい頼家はどのような気持ちで複数の側室を持ったのだろうか?情の強い母・北条政子への当てつけか?
長兄の一幡は和田合戦に巻き込まれる形で、僅か六歳で命を落としている。
北条政子は、祖母に当たるが、日頃の音信はありません。
日頃、鞠子姫は、母の刈藻と共に、比企ヶ谷の奥に竹ノ御所を設け、人目を避け、ひっそりと暮らしている。使用人も二十人程で、護衛の男手は諏訪六郎雅兼ぐらいであった。
鞠子姫が十歳になった頃、次兄の十二歳になる善哉が剃髪得度し、公暁の法名を授けられた。受戒し、京都園城寺へと修行に行くため、別れの宴が催され、四人の異母兄弟が八幡宮の別当に集ったところから、物語が動き出します。
忍寂の予言
別れの宴で、公暁は叔父にあたる実朝は自分たちから、将軍位を簒奪したのだというようなことを、辺りを憚らず、物凄い形相をして言います(乳母夫・三浦義村の入れ知恵か?)。
最年長の気負いもあろうが、公暁の気性の激しさは父・頼家譲りで矯正不可能だったらしい。
予定より早く宴を切り上げた鞠子姫を送ってきた八幡宮の社僧・忍寂(公暁の警護をしていて、観相をする)がある予言をします。
「頼家公の遺児の中では、鞠子姫のみに寿相が見えます。おそらく三十歳頃までは長らえられるものかと・・・」後日公暁は、将軍・実朝の甥に相応しい威容を整え、京都園城寺に向けて、出発します。
同じころ、明浄という尼僧が竹ノ御所の前で行き倒れており、刈藻は懇願に負けて還俗させ、妙と名をあらため、下女として雇い入れます。とてもではないが、尼寺で大人しく修行する気性ではありません。奥向きを取り仕切る小宰相は油断のならない娘と警戒します。
実朝、由比ヶ浜に唐船を造らせる。
和田合戦の後、建保四年(1216年)、実朝は(功績らしい功績が皆無なのにも関わらず)六月に中納言、八月に左近中将兼任と、驚くべきスピードで官位昇進を果たす。
同じ頃、宋人の陳和卿の唆し(?)により、唐船の建造を命じる。余りにも突拍子のない命令に、母・政子や叔父・北条義時は訝しがり、官位を望むことを含め、大江広元を通じて諫言するのだが、実朝は我が道を行くとばかりの行動をとり続ける。実朝の本心は誰にもわかりません。もはや親子の情など振り捨てたようである。
由比ヶ浜で行われる唐船の進水式。十六歳になった鞠子姫に、祖母・北条政子から招待状がくる。断れるはずがない。刈藻は、日頃の行き来がないのに何故だろう。政子・義時姉弟の底意は何だろうかと疑います。用心のため、当日、鞠子姫に地味な装いをさせます。
結局、唐船は由比ヶ浜に浮かびませんでした。その原因を巡って、様々な流言飛語が行き交いました。執権・義時は「こちらが前将軍の忘れ形見、鞠子姫か。おいくつになられた?」と優しく刈藻母子に話しかけます。刈藻は、忍寂の予言を思い出し、気を揉みます。
執権・義時は何の目的をもって、進水式に招待したのだろうか。気味が悪い。
その頃には、和田残党に担がれた栄実が自殺に追い込まれました。享年十四歳。
鞠子姫の結婚
鞠子姫は其の頃、臣下の諏訪六郎雅兼と結婚した。自然な成り行きだった。誰も反対せず、北条家には知らせず、厳かに式を挙げたが、鞠子姫の毎日は静かに過ぎていった。
母の刈藻は、このまま何事もなく(鎌倉から忘れられた状態のまま)日々が過ぎてゆくことを心の底から願った。やがて夫婦の間には娘が生まれる。
刈藻は、安産祈願に詣でた背振地蔵で、娼妓に身を落とした妙と出会い、忍寂の予言を思い出し、暗澹たる気持ちになる。
偶然だが、この頃、異母兄・公暁が鶴岡八幡宮の別当として帰って来た。再会を喜ぶ三人(公暁、鞠子、禅暁)。格式に相応しい待遇を受け、僧形となっていても、父・頼家譲りの気性の激しさは変わっていなかった。さっそく公暁は、別当の務めもかまわず、上宮の窟に参籠して、一千日の祈願を行う。この祈願、実は実朝を呪詛するためであると打ち明けられた鞠子姫は異母兄・公暁の無事を祈る。
実朝暗殺
実朝は朝廷の「位撃ち」に注意して、官位昇進を固辞しなさいとの周囲の諫言を聞き入れず、又「源氏の正統は私一代で絶える」とも公言した。これにより執権・義時との関係は更に微妙になってゆく。
果たして建保七年(1219年)正月に執り行われた右大臣拝命の式典で、公暁に惨殺される。
公暁は“父の仇討つべし”との大音声と共に、刀を迷わず振り下ろす。あっという間の出来事だった。裏に誰の陰謀が隠されているかは不明だ。
やがて、公暁は迎えに来た乳母夫の三浦義村の兵に討たれる。公暁の傅役の忍寂も多勢に無勢で切り結び、壮絶な斬り死を遂げる。
これにより、源頼朝の正嫡(孫世代)の男子は僧籍にあるもの以外、全て死に絶えた。
頼朝の子孫の男子が断絶した、これは何を意味するのか?残るは女人の鞠子姫のみだ。
揺れる鎌倉幕府には、ほんのわずかでも頼朝の血脈を継ぐ将軍が緊急に必要になる。
将軍位をいつまでも空位にしておくわけにはいかない。事は幕府の存続にかかわるのだ。頼家の遺児で鞠子姫だけが目こぼしされるように、大人になれたのか?
女性のみに備わった出産の機能を期待されているのだった。形だけでも、薄くなろうとも、朝廷と融和するためには、源氏の血脈が必要なのだ。
北条政子の紡ぎ出した頼朝の血脈を継ぐ公家の男子とは誰か?
鞠子姫と夫の六郎、そして愛娘・万亀の運命は?
長くなりましたが、悲運の鞠子姫の物語をお楽しみください。
一天一笑