魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

伊東潤『夜叉の都』

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亡き父(平将門)の恨みを晴らすべく、妖女と化した瀧夜叉姫(左端)は、下総の荒れ果てた父の居城で、朝廷が差し向けた討手の大宅中将光圀(中央)に対し、巨大骸骨の幻影を呼び出して応戦する。歌川国芳による浮世絵。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


伊東潤『夜叉の都』(文藝春秋社)を読了して。
多岐に渡る精力的な執筆活動を続ける伊東潤の最新作です。『修羅の都』の続編でもあります。

北条家の現状。わかり合えぬ母子。

建久十年(1199年)一月、頼朝が落馬し、急逝する。折しも頼朝&北条家側と、後鳥羽天皇の側近・源通親を通じて、頼朝と政子の間の次女・乙姫(三幡)の入内を巡る駆け引きが行われていた。頼朝が妥協したため、東国の御家人たちとの関係がひび割れていた。
頼朝は死んではいけないときに死去したのだった。鎌倉幕府は二代将軍として頼家を立て、十三人の宿老による合議制を導入し、存続する。しかし三幡が十四歳で病死する。
当然、三幡の病没により、局面が変わる、朝廷工作への足掛かりを失い、北条家は朝廷と対立か融和か、いずれかの選択を迫られることになる。
そのような局面で、三幡の通夜に訪れた頼家と政子の母子の会話から本編は始まる。
「母上は夜叉とは何かを知っていますか?」
「まさか、私が夜叉だと」
「違いますか?われらは野蛮な東夷。天皇家と血縁となることで、野蛮な血を浄化しようとした。それがどれほど鎌倉幕府を窮地に陥れたかご存じですか?」
「私は亡き頼朝さまと共に、ひたすら天下の安寧を願った。其の為には、朝廷と融和する必要があるのです。それ故、大姫や三幡を入内させようとしただけです」
「果たしてそうでしょうか。母上は入内という人身御供を使って、源家や自分の血を未来永劫に存続させようとしただけではありませんか」
頼家は言うだけ言うと、政子の背後に立ち、その場を去っていった。
頼家は、天下安寧等はきれいごとで、取り繕ってもあなたの本心はわかっていると言う。
後に残った政子は嘆く。
すけ殿、われらの歩んできた道は間違っていたのでしょうか”
“わたしはどうしたらよいのでしょうか”
政子は幾度も心の中で繰り返すのだが、思い出の中の頼朝は黙って微笑んでいるだけだった。

政子の歩み

嘉禄元年(1225年)七月十一日、六十九歳の生涯を終えた政子には、人生の大事な切所せっしょが幾つかあった。
頼朝との婚姻成立以外では、第一に、長男・頼家の失脚と謀殺。第二は次男・実朝が、孫の公暁(頼家の庶子)に暗殺されたことであろう。第三は承久の乱で、朝敵となったが、勝利したことだろう。これら再三の災厄(?)を経て、政子は実弟・義時や甥・泰時、異母弟・時房とともに北条家の実権を握り“尼将軍”“お袋様”として遍く権力を持つに到る。亡き頼朝と歩み「修羅の都」を築いた、その倍以上の年月を権力闘争の渦中に身を置き、夜叉として生きていくことになる。その目的はただ頼朝の遺言ともいえる「武士の府」を守るために。そのためには、肉親の情など振り捨てる。いつの間にか敵対関係となった実父・北条時政と後妻の牧の方を失脚させる。時政亡き後、娘の家に身を寄せた牧の方は落飾して念仏三昧の日々を送り、天寿を全うする。
父・頼朝を尊敬はするが、母・政子とは打ち解けない間柄である頼家を排除しなければならなくなった。政務を顧みず、酒宴や蹴鞠に興じ、愛妾・若狭局の実家・比企家の者ばかり重用する。将軍家が比企家に乗っ取られては北条家の存続が危うい。
政子は嘗て夫・頼朝に食べさた時と同じ要領で附子ぶしトリカブト)入りの結び飯を息子頼家に何食わぬ顔で差し入れをする(段取りは義時が手配した)。毒で苦しむ我が子の姿を正視できない政子が義時と交わした会話。
「そなたは一両日中に亡くなると言ったではありませんか」
「姉上、私は薬師くすしではない。高麗渡来の薬ゆえ間違いはない」
地獄の閻魔大王顔負けの会話だ。武術で鍛えた頼家は回復したが、既に将軍ではなく、政子との埋め難い溝を抱えたまま、伊豆・修善寺で二十一歳の命を落とす。結び飯が毒入りだったと気が付いた時の頼家の心情は如何ばかりだったろうか?

そして、公暁による実朝事件が起きた。都の噂はともかく、今回は政子の預かり知らぬところで、公暁を唆す輩が存在したのだろう。実朝死去に伴い、政子は事実上“お袋様”ではなくなったが、多少世代交代した御家人たちの間ではなおも“お袋様”として敬意を集めていた。公暁庶子ではあるが、頼家の子供を放っておく訳にもいかず、肉親としての罪滅ぼしか、世の中の評判を勘案したのか、もしくは行動を見張るためか、ともかく実朝の猶子にして仏道修行に励む道筋をつけ、空きのできた鶴ケ岡八幡宮別当の地位に就けたのだ。別当就任の神拝式に立ち会い、その成長に涙したのも政子自身であった。
公暁と対面した際「将軍家は私を疎んじておられるのですか」との問いにもっと真剣に応え、諭せば良かったのか。真っ直ぐな視線が「私は還俗して将軍になりたい」と訴えていたのに。頼家に似た、大柄な体格と激情にかられやすい性格はやはり矯正不可能なものであった。しかしながら、孫に息子を殺されるとは。夜叉の自分にふさわしい苦しみだ。自分で引き受けるしかない。
この頃になると、義時の独断専行が著しくなり、政子との間に距離ができていたが、異母弟の時房や義時の息子の泰時と共闘関係にあった。
それ以上に、実朝没後、名実共に治天の君を望む後鳥羽上皇と義時の間には対決しか選択肢がなくなってきた。
承久三年(1221年)、後鳥羽上皇はついに「義時朝臣追討」の院宣を下す。
政子は、何処で迎え討つかの作戦会議には出ないが、鎌倉幕府の精神的主柱であることを示す、歴史に残る演説をする。「尼の最後の言葉です。心して聞くように」で始まる演説だ。
「故右大将が、朝敵を滅ぼし、幕府を開いた恩は海よりも深い。その恩に今こそ報いるのです。院は君側の奸の讒言を受けて、誤った院宣を下しました。鎌倉が西国に蹂躙されることがなくなったのは、ひとえに源家三代の将軍のおかげだ。命を惜しむな。名を惜しめ。我ら東夷の力を思う存分見せつけるがよい」
政子の演説は、前半は悲しげに、後半は肚の底から声を振り絞った。
泰時ら十八騎が小雨の中を叫びながら、京に向かって進軍する。この十八騎が呼び水となり、やがて東海道東山道北陸道から十九万騎の兵が結集することとなる。
鎌倉方は宇治川での最後の激戦を制して入京、勝敗が定まった。
承久の乱は、有能であるがゆえに自分を過大評価した後鳥羽上皇が引き起こした、無意味な戦いであったかもしれない。結局政子には、“関東の武士の府”鎌倉幕府しか残らなかった。しかし明治維新によって斃れるまでの長い間の武家政権の基礎を築いたことには間違いない。

承久の乱直前に、駒若丸(三浦光村)が人目をはばかりながら訪ねてきた。公暁の最後の書状を持ってきたのだ。
“お袋様”
公暁直筆で宛名書きがある。長尾定景から託されたものの、どうしたものか迷っていたようだ。
そこに記されていた真相とは?誰が公暁を唆したのか?
真相を知った政子の取った行動とは?政子に微かに残っていた母の心の最後の一かけらが取らせた行動とは?

話が前後してわかりにくいところもありますが、『修羅の都』に続く『夜叉の都』。乱世を確固たる意志をもって生き抜いた北条政子の物語をお楽しみください。
承久の乱上皇側についた和田朝盛とももりは、行方不明になったのち、鎌倉幕府側についた嫡男の佐久間家盛が手柄を上げたため、後に尾張御器所ごきそに領地を賜り、織田信長の宿老として活躍した佐久間信盛の系譜につながってゆく。
天一