魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ルネ・ヴィヴィアン『一人の女が私の前に現われた』へのイントロダクション――ゲイル・ルービン(3)

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パリはマレ地区のタンプル通りとオードリエット通りの交差点にある「ルネ・ヴィヴィアン広場(La place Renée-Vivien)」。2007年命名ウィキメディア・コモンズより。

「…頭上に冠をいただいた
 他の九柱のミューズたちが、アポロの周りにたたずんで、
 苦悩にさいなまれながら、恐れおののいていた時、
 十番目のミューズが、彼女たちの知らない素晴らしいことどもを歌った。
 十番目とは、レスボスのミューズであった」(スウィンバーン)

サフィズムが彼女の知性を育んだのか?それとも知性が彼女をレズビアンとしたのだろうか?」(ジャン・ロワイエールがナタリー・バーネイについて言った言葉)


ルネ・ヴィヴィアン(Renée Vivien, 1877 - 1909)*1は1877年にポーリーン・メアリー・ターンとしてイギリスに生まれた。母親はアメリカ人で父親はイギリス人だった。ターン家はロンドンの穀物市場での取引で財を成したもののごとくである。ルネは教育を受けるためパリへ送られ、そこで家族とともに暮らしていたアメリカ人少女、ヴァイオレット・シリトー(Violet Shillito, 1877 - 1901)と出会った。
ヴァイオレットはルネの生涯における最重要人物のうちの一人となった。二人の少女は最初のうちは親友であり、人生の意味について意見を戦わせ、ともにイギリス国教会の教義を拒絶した。思春期の訪れとともに、ルネはヴァイオレットに対してある激しい、それでいて決して遂げられることのない想いを胸に抱くようになった。
恐らくはその感情の意味するところのものを悟らないうちに、ルネは両親によってイギリスに連れ戻され、社交界デビューに備えることとなった。今や彼女は自分が不幸であると感じ、ヴァイオレットのもとへ戻ることばかりを考え、どこにでもいる良家のお嬢さんとして、体裁上、花嫁修業に励まなければならないことに始終激怒しているという状態に陥った。ルネは1897年、二十歳の頃、遂にヴィクトリア女王の客室付き侍女となって家を出たが、翌年にはパリへ渡り、そこで1899年、ヴァイオレット・シリトーを介して知り合ったナタリー・バーネイと初めて性的関係を結んだ。

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ナタリー・クリフォード・バーネイ。kaykeys.netより。

ナタリー・バーネイ(Natalie Clifford Barney, 1876 - 1972)はオハイオ州デートンにおいて1876年のハロウィーンの日に生まれた。バーネイ一家は当時シンシナティで暮らし、そこで鉄道事業によって巨万の富を築いていた。バーネイ一家は次にワシントンへ移り住んだ。ナタリーはその少女時代の多くをフランスで過ごし、そこでドロシー・ストレイチー(Dorothy Strachey, 1865 – 1960)の小説『オリヴィア』*2によって不滅のものとなった女子校、レ・リュッシュ女学院に通っていた。彼女はまた母親のアリス・パイク・バーネイ(Alice Pike Barney, 1857–1931)が絵を習いに行くのに従って、短期間パリに滞在したこともあった。
彼女の回顧録は著者の驚くべき早熟ぶりを伝えている。彼女はある時ヨーロッパへ家族旅行に行って、そこで男の人が手ぶらで歩いているかたわらで犬を連れた女の人がカートを引きずっている姿を見て自分はフェミニストになったのだと言っている(ナタリー・バーネイ『ぶしつけな回想』1960年)。そのころ彼女はまだ十歳の子供だった。同じ年、彼女の母はカロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837 – 1917)にナタリーの肖像を描いてもらうよう取り計らった。ナタリーはその生涯を通じて衰えることのなかったセンスのいい懐古趣味を発揮して、ヴェネツィアの小姓としてポーズをとり、それは緑色のビロードのダブレットによって完璧なものとなった。*3

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カロリュス・デュラン作「10歳のナタリー・バーネイ」。ウィキメディア・コモンズより。

ナタリーは自分がレズビアンであることを幼いころから知っていて、後年、自分の受けた教育が何も実を結ばなかったとしたら、それは「私の唯一の読書は女たちを眺めることだった('My only books were women's looks.')」からだと言っている。エヴァ・パーマー(Evalina Palmer,1874 - 1952)という名の赤毛の美少女と初めての情交を体験した時、彼女は十六歳だった。二人が出会ったのはメイン州のバーハーバーで、双方の家族が夏期休暇でそこへ来ていたのだった。

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肖像画家だったナタリーの母アリス・パイク・バーネイが描いたエヴァ・パーマー。のちにギリシャ人の男性と結婚してエヴァ・パーマー=シケリアノスと名乗った。ウィキメディア・コモンズより。

1899年、ナタリーはパリに居を構えた。彼女はただちに当時のパリにおけるもっとも有名なクルチザンヌの一人、リアーヌ・ド・プージイ(Liane de Pougy, 1869 - 1950)を誘惑した。プージイはこの交渉に関する実話小説『サッフォーの牧歌』を執筆した。その中に描かれた若きナタリーは、男性の作った法の不正を糾弾し、レズビアニズムとは「肉体の宗教であり、接吻とは祈祷である」としている(リアーヌ・ド・プージイ『サッフォーの牧歌』1901年)。彼女はレズビアニズムが「倒錯」と呼ばれることが許せない。その代わり、彼女はこれを「改宗」と呼び(同書)、事実彼女はリアーヌを「改宗」させたのだった。

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リアーヌ・ド・プージー。レオポルド・ロイトリンガー撮影。ウィキメディア・コモンズより。

ルネと出会った時、ナタリーはリアーヌとまだ続いていた。ナタリーとルネとの愛人関係は、1899年の冬の夜、白百合に満たされた一室で始まった*4。それは1901年の破局まで続き、1904年に少しだけ再開された。もしこの頃二人が分かち合った夢によって、すなわち女性が解放され、同性愛が讃えられる未来社会のヴィジョンによって、二人の胸に点火された情熱を想わないならば、かくも短期の婚外交渉が当事者双方に及ぼしたインパクトの強さを理解するのは困難であろう。

*1:原注:混乱を避けるため、私はこのエッセイでは一貫して「ルネ・ヴィヴィアン」という名を用いているが、本人がこの名を名乗り始めたのは1900年ごろからである。

*2:訳者注:上の「ドロシー・ストレイチーの小説『オリヴィア』」ですが、私が調べた限りでは、どうも日本で紹介されたことはまだ一度も無いようです。以下にAmazon.comの「作品紹介」を訳してみます。
「20世紀におけるもっとも繊細かつ美しく書かれたレズビアン小説の一つであると言われるこの作品が、クレイス・プレス・エディションの一冊として再刊された。
「ドロシー・ストレイチーの古典的名作『オリヴィア』は、パリ郊外のとある小さな女子校に送り込まれたイギリス人少女の恋の芽生えを捉えている。純真で鋭い観察眼の持ち主オリヴィアは、女教師のジュリー先生に熱を上げるが、その恋心を背景に、ジュリー先生ともう一人の女教師カーラ先生との間の緊迫した恋愛関係が遂に終局を迎えるまでの数ヶ月間の出来事をつぶさに目撃する。
「厳密には自伝ではないとは言え、『オリヴィア』はカリスマ的な女教師マリー・スーヴェストル嬢によって経営されていたある女子校における著者自身の体験に基づいていて、マリー・スーヴェストルの影響はナタリー・バーネイやエリナー・ルーズベルトと言った同校の後輩たちの精神のうちにも生き続けた。『オリヴィア』は著者の友人ヴァージニア・ウルフの思い出に捧げられ、1949年に出版されるや絶賛を博した。1951年の映画化に当たっては、コレットが脚本を執筆した。1999年、『オリヴィア』は『パブリシング・トライアングル』誌の20世紀における最も広く読まれたゲイ&レズビアン小説100選のうちの一冊に選出された」
なお著者のドロシー・ストレイチーはリットン・ストレイチー(こちらは日本でも有名な伝記作家)の姉だそうで、一般にはアンドレ・ジイドの英訳者として知られ、『オリヴィア』は唯一の小説作品だと言うことです。

*3:原注:ナタリー・バーネイのコスプレマニアぶり、特にこの小姓のコスプレを好んだことは、『一人の女が私の前に現れた』の中でも言及されている。

*4:訳者注:こちらの記事をご参照ください。