魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ルネ・ヴィヴィアン『一人の女が私の前に現われた』へのイントロダクション――ゲイル・ルービン(2)

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1907年1月、ムーランルージュで「エジプトの夢」と題した無言劇を演じるコレット(左)と、当時コレットと愛人関係にあり、この舞台での共演者であり、この芝居の作者でもある「男装の麗人」ベルブーフ侯爵夫人マチルド「ミッシー」ド・モルニー。ちなみに私がこの画像を拝借した下のブログ記事のオーサーは、最近公開された伝記映画『コレット』の中で、この「ミッシー」が「男」に書き換えられていると厳しく告発しています。

thevelvetchronicle.com


19世紀の記されざる歴史のうちの一つに、セクシュアリティにおける深甚なる変化がある。19世紀はヨーロッパが近代へと変化するにつれて始まった流れが最高潮に達した時代である。歴史家たちは長い間、巨大な社会的変貌――工業化とか、都市化とか――について想像力を駆使することに忙殺されてきた。彼らは近年になって、家族構成や性生活における変化にも関心を寄せるようになってきたが、これらの変化が同性愛における一革命をも含んでいることに気づいた者は少なかった。同性愛が今日見られるような姿を取ったのは19世紀のことなのである。
中世において、同性愛とは一行動パターンに過ぎず、罪深き行ないと言うに過ぎなかった。人間の一タイプとしての同性愛者という考え方は19世紀の産物である。性科学者たちが同性愛者という個人のカテゴリーを認識したのも、さような個人を描写するための学術用語を発展させたのも19世紀においてのことであった。19世紀の作家たちもまた、都市風俗(urban sub-cultures)の描写の中に、同性愛と呼ぶ他はないものを証拠として記録している。19世紀のもろもろの都市は同性愛者専用のコミュニティを包含しており、それは酒場や、食堂や、非公式のネットワークや、会員制クラブの周辺に集中していた。
1910年以前のパリの多様なレズビアンソサエティが、コレット(Sidonie-Gabrielle Colette, 1873 - 1954)によって魅力的に描写されている。1906年から1911年までの間、コレットは最初の夫と別れてミュージック・ホールでのパフォーマンスで生計を立て、ミッシーことベルブーフ侯爵夫人を情人とした。ミュージック・ホールを通して、コレットは大衆的な同性愛文化に親しんだ。彼女は「パルミラ」という名の安居酒屋に入りびたった。客は貧しく、食事は安く、経営者は男っぽくて乱暴なお母さんで、無一文の人たちには無料で食わせてやっていた。

「私はセミラミスのお店に行くの。セミラミスとは言い得て妙よ。それは軍服姿の女王様で、青銅のヘルメットをかぶって、肉切り包丁で武装しているの。そして配下の髪の長い男の子たちや髪の短い女の子たちに、色彩豊かな言葉で話しかけるのよ…
「…そこではほとんどの男の子が女に無関心なの。彼らはディナータイムにそこへ来て、快適にくつろいで、休息を楽しむの。夜に備えて体力を回復させているのね。彼らはこのひとときだけはお尻を振ったり、ヒイヒイ声で歌ったり、エーテルで濡らしたハンカチをひらひらさせたり、手に手をとって踊ったりする必要がない…彼らは優しくて、疲れていて、彩られたそのまぶたは眠気でとろんとしているの。
「…セミラミスのお店で食事を摂りながら、私は女の子たちがペアを組んで踊っているのを見て楽しむの。彼女たちはとても踊りが上手なのよ…それはお金のために踊っているのではなくて、キャベツのスープとビーフシチューの間で、ただ楽しみのために踊っているの。彼女たちは若いモデルで、隣近所からの嫌われ者で、ミュージック・ホールで端役をもらったりするけれど、今は失業中の女の子たちなの…私はただ結ばれた美しい二つの肉体だけを見る。それはワルツの風に吹かれて、薄い衣裳の下で光り輝いている…彼女たちは安っぽいダンス・ホールの常連客よろしく、猥褻に、肉感的に、さながらヨットの丈高い帆柱のごとく、優しく身を傾けながら踊るの…たまらないわ。私はあれが本当にどんなバレエよりきれいだと思う…」(ロバート・フェルプス『地上の楽園――彼女自身の言葉によるコレット伝』1966年)

恋人のミッシーを通じて、コレットは不機嫌な女貴族たちと知り合った。三十年後、彼女たちを思い出して、コレットはこう書いた。

「この男子禁制のサークルの支持者たちは、その集会について口外することを許さなかった。そこへ彼女らはタキシードに長ズボンという出で立ちで現われ、この上なく慇懃に、礼儀正しく振舞った…
「今となってはどこに見つけることが出来よう、あのような食事仲間たちを…大英帝国の女男爵たち、ロシア皇帝の女いとこたち、大公閣下の妾腹の娘たち、パリのお洒落な女富豪たち、そうしてまたあの鋼のように冷たい目と手を持った、オーストリア貴族の年老いた女騎手たちを…」(コレット『純と不純』1967年)

ルネ・ヴィヴィアンとナタリー・バーネイが1900年の少し前、まだ二十代も初めの頃にやってきたのは、このように同性愛文化の花咲き乱れる都パリであった。この二人の若い女レズビアンルネッサンスを唱えたのはまさにこの地においてだった。彼女たちは当時のパリのレズビアンソサエティの成員たちに比べて「ゲイ・コンシャスネス」('gay consciousness' =「同性愛者としての自覚」)とわれわれが今日呼ぶところのものにおいて、ずば抜けていた。虚飾に満ちた「ベル・エポック」期の有閑婦人という外見の下に、人は現代におけるレズビアンフェミニズム運動の二人の先駆者を見るであろう。