いつぞや cygnus_odile さんが紹介して下さったイギリスの日刊紙『ザ・スペクテイター』1711年11月27日号の記事、原文を見つけましたので、抄訳しておきます。
「私は本日の紙面に、あるギリシャの短いマニュスクリプトの翻訳を掲載することで、公衆への約束を果たしたいと思う。このマニュスクリプトは、ルカーテ岬に建っていたアポロの神殿に保管されていた記録の断片だと言われているものである。それは恋人たちの身投げに関する小史であり、こんなタイトルが付いている。いわく『第四十六オリンピアードに、みずからの恋の病を癒すため、ピュティアン・アポロの神殿に誓いを立てた上、ルカーテ岬からイオニア海へ身投げした男女の記録』。
「この記録の内容は、身投げをした人の名前と、その人が思いを寄せていた人の名前と、身投げの結果、死んだか、助かったか、身体に障害が残ったかだけを簡潔に記した、大半において無味乾燥な叙述である。そこには実にたくさんの死亡者の名が記されているので、これを全訳すれば、あたかも死亡者名簿一覧といった趣きを呈するであろう。そこで私はこれを要約するにとどめ、特に変わった例、喜ばしい例、または特に悼むべき例など、何らかの点で特筆すべき例だけを抜粋して訳出することにした。前置きはこのくらいにして、以下本文。」
とまあ前置きがありまして、あとにいろんな人の身投げの話が続くわけです。たとえば断崖から下を見ただけで足がすくんでしまい、おめおめと生きながらえた人(よかったですね)。片思いの相手の名を聞かれて、どうしても口に出せず、身投げをあきらめた人。夫に先立たれて身投げに来たが、追い駆けてきた別の男性に愛を告白されて、その場で結婚式を挙げて帰って行った人。また中にはお互いに浮気していて、喧嘩ばかりしていて、それで夫婦一緒に身投げして、奇跡的に二人とも助かって、その後は幸福な結婚生活を送ったなどという、涙の出るような話もあります。
サッフォーの関係者では、兄カリクサスの記事。
「カリクサス:サッフォーの兄。高級娼婦ロドピに恋する。彼女のために大散財し、妹から身投げするよう、恋愛事件の当初より勧められたが、最後の一タレントを使い果たすまで聞き入れず。ロドピに捨てられて、ようやく決意。死亡。」
またサッフォーと同郷で、親交があったと言われるアルカイオス。
「アルカイオス:高名な抒情詩人。しばらく以前からサッフォーを熱烈に愛している。彼女のために身を投げようとルカーテの岬にやってきたが、その夜はちょうどサッフォーが身を投げた日の夜で、彼女の遺体が見つからなかったという話を聞くと、彼女の投身行為を大いに嘆き、これが彼の125番目のオードが書かれる機縁となったと言われている。」
サッフォーその人についてはこうです。
「サッフォー:レスボス島民。ファオンに恋する。花嫁のような純白の衣裳を着てアポロの神殿に到着。マートルの花の冠を頭に飾り、彼女自身の発明による小さな楽器をたずさえている。アポロへの賛歌を一曲歌い終わると、祭壇の一方に花冠を掛け、もう一方にハープを掛ける。それからスパルタの処女のように衣裳の裾をたくしあげると、数千人の見物人が見守る中(みな彼女の身の安全を心配し、彼女が救出されるよう願を立てていた)、岬の絶頂までまっすぐに闊歩してゆく。そこで彼女は自作の詩の一節を復唱したが、その声は我々の耳には届かなかった。そのあと、彼女はこれまでこの危険な行為を試みた人々のうち、誰にも見られなかったような大胆不敵さで、岩から飛び降りた。そこに居合わせた者の多くは、彼女はまっさかさまに海へ落ちて行って、二度と浮かび上がることはなかったと語った。しかし他の者が断言するには、彼女は水面に達することなく、落下中に一羽の白鳥と身を変じ、その姿で空中を旋回していたとのことである。彼女の衣裳の白さとそのはためきとが彼らの目を欺いたのか、それとも彼女は本当に悲しげに歌うたう小鳥と化したのか、レスボス島民の間ではいまだに謎とされている。」
上の文章の描くところが史実かどうか、そんなことはどうでもよろしい。読後一瞬、目の前に白い幻影がひるがえる…これは一種の名文だと思います。