こめかみを霧雨に濡らしたまま、私はヴァリーのサロンに入った…鬼百合は巨大な花冠を広げ、そこから強烈な香気を発散させていた…ヴァリーはペルシャ織のソファーの上にごろりと横たわって、数人の友人たちをもてなしていた。彼女の白いワンピースはその全身を覆い隠すと同時に露出していた。彼女はそんな煽情的なネグリジェをデザインする術に長けていた。そのほどいた髪は月光のような後光となって、彼女の顔の周囲を取り巻いていた。そのかたわらで、ゾロアスター経典の翻訳者にして注釈者であるところのペトルス博士が、月並みな有罪判決を言い渡していたが、そのお言葉はおのずとポルノグラフィックな意味合いを帯び、彼のぶあつい唇による表現にはそれほどいやらしいものがあった。彼はレバントの露天商に酷似していた。その大袈裟な手ぶり身ぶりは、あたかも実在しないお客さんたちの前で、色鮮やかすぎるカーペットを拡げて見せているかのようであった。彼の会話は、その文学的スタイルと同様、胸の悪くなる匂いや、野蛮な色彩や、要するに安っぽいオリエンタル・ショップのあらゆる悪しき趣向を思い起こさせた。彼は恐らく妻の沈黙の埋め合わせをしたいという願望から、いささかしゃべり過ぎており、その妻の方は、読者の心を掻き乱してやまない文才に恵まれた小説家でありながら、あまり口を利かなかった。彼女はまるで上の空で、間断のない夢想に我を忘れているように見えた。彼女の緑色のローブのひだは、そのしなやかな体にさざなみとなって打ち寄せ、ために彼女は海中の草を思わせた。切り取られたゼラニウムの花が一輪、その暗色の髪を血に染めていた。
わが幼き日々からの選ばれし妹イオーネが、少し離れたところで妄想にふけっていた。その額はあまりにも広く、あまりにも高く秀でていて、その考え込んでいる顔全体を威圧していた。それは人目を引き、ために人は彼女の不可解なほど悲しげな茶色い目や、優しい口もとをほとんど思い出せないのであった。
ヴァリーの友人のうちの一人で、レオナルドが描いた性別不詳の聖ヨハネ、そのイタリア人の微笑を奇妙にもルーブルのギャラリーにおいて輝かせているところのあの『中性人』にそっくりの女がいて、私のロアリーが『芸術』における模倣について自説を展開する声に耳を傾けていた。
サン・ジョヴァンニは詩人だった。彼女の詩はその微笑と同様に変態じみていた。彼女の名声は文学者と芸術家との極めて限定されたサークルを越えて広がることはなかった。それどころか、彼女の思い入れたっぷりの性欲描写は、ブルジョワからも売文業者からもひとしく顰蹙を買っていた。ただ何人かの偶像破壊者たちだけが、その大胆さゆえに彼女を尊敬していた。彼女の著書には『サフォーのリズムで』『ボナ・ディア』『エレシウスにおけるセレスの秘儀』などの怪しげな快楽を暗示するタイトルが冠されていた。
「模倣者はほとんど常に、創造者よりも優れた才能に恵まれている」と述べるヴァリーに、サン・ジョヴァンニは目で賛成していた。「色の反映は色そのものよりも美しく、音の反響は音そのものよりも優しい。たとえばシェイクスピアはボッカチオの素晴らしい反響。原作者の声を増幅し、神聖化し、無限にまで拡張する山彦よ」
私はと言えば、私はイオーネのそばへ行って、低い声で話しかけた。
「もう考えないで、私のあまりにも物思いがちな『友』よ。考えないで、私たちの旧い友情の名にかけてお願いするわ。誰かを、何かを愛しなさい。愛は考えごとに比べればはるかに危険が少ないのだから。私はどんな幻覚があなたを苦しめているのかを知っている。解明できない世界の『謎』が、今あなたに取りついて離れないのね。未知なるものを前にしたその苦しみは私にもわかるのよ。この命取りにもなりかねない呪縛から逃れるため、私はかつてある『宇宙』論を編み出して、それは少なくとも極度に単純であるというメリットを持っているの。名付けられないもの、理解できないものとは二面性を持つ考え、すなわち両性を具有する考えだと私は思う。すべて醜く、不正で、獰猛で、だらしのないものは『男の原理』から発する。すべて痛ましいまでに美しく慕わしいものは『女の原理』から生ずる。
「二つの『原理』は勢力が拮抗していて、お互いを不倶戴天の敵としている。一方が他方を根絶やしにして終わるのだけれど、両者のうちのどちらが最後の勝利を収めるのか、この難問は人々の永遠の苦悩よ。私たち女は、『男の原理』に対する『女の原理』の勝利を、すなわち『暴力』と『残虐性』とに対する『善』と『美』との決定的勝利を、暗黙のうちに待ち望んでいるのだわ」
イオーネはその古い象牙の色をした細長い手をじっと見つめていた。自分の手を何時間でも見つめている、それは彼女の病的なまでの悪癖だった。彼女は微笑んだだけで、返事をしなかった。おお、イオーネの笑顔の悲しさよ。それは痛ましい涙よりももっと気遣わしいものであった。
…サン・ジョヴァンニの声が突然私を現実の世界へと呼び戻した。彼女は今ペトルスに対して彼女の一番の持論を擁護していて、ペトルスはいやらしい目配せをしながら、アルカイオスがプサッファに捧げた詩を難じていた。
『すみれ色の髪の織姫、蜂蜜の笑みをたたえた清純なるプサッファよ、私の唇が告げたがっている思いがあるが、恥ずかしくて口に出せない』
「何が清純ですかね」と彼は問うていた。「『愛の女神』ほど清純でない女はいまいとも思われるが」
「お言葉ですが」と『中性人』が割って入った。「あなたは白き炎とでも呼ぶべき愛、熱烈であると同時に純粋な愛というものが存在することを認識していらっしゃらない。とは言えプサッファがかつて彼女の音楽の『恋人』たちに捧げたものはまさにそのようなものだったのです。『美』をそのもっとも優しくデリケートな姿で呼びさます愛、それは淫らな夢想と狂おしい肉欲とで居ても立ってもいられないあの修道院生活よりもはるかに清純ではありませんか。
「それはキリスト教的結婚制度という打算の上に築き上げられた同棲関係よりもはるかに清純ではありませんか。一人の処女によって建てられた処女たちのための学校、プサッファが詩と音楽との複雑な技法を教えていたあのミチレーネの学校ほど、見事に清純なものは夢みることも出来ませぬ。ただ娼婦たちだけが美しい楽曲を敬虔にも収集していた一時代にあって、この貴族の少女は、『歌』の聖なる信仰に、敢えて全身全霊を捧げたのです」
「プサッファは確かに『不遇な』偉人、『言われのないそしりを受けた』偉人だったわね」とヴァリーが言った。「人はこの処女を、この貴人を、下賎の娼婦らと一緒にしてこなかったかしら。人は彼女が優男のファオンに愚かな恋をしたなどという、歴史的根拠が無いばかりか馬鹿馬鹿しくもある、あのような伝説をでっち上げなかったかしら。そうして最後に、人は彼女が人妻だったという仮説、アテネの喜劇作者たちが彼女を笑いものにするために捏造した仮説を、ほとんど世界中で承認しなかったかしら」
「彼女の夫と言われる人は」とサン・ジョヴァンニが加勢した。「スーダ辞典によれば、アンドロス島からお嫁さん探しの旅に出たことになっています。しかしこの人のケルキュラス(「ペン軸」の意)という名やその出身地の名前は、その由って来たるところの下らない冗談の種類を充分に示しています。その上、古代ギリシャの慣習では、よそ者と結婚するために自らの町を離れることはまずありませんでした」*1
「アティスやエランナの聖なる微笑みを、ケルキュラスやファオンのひげづらと取り替えることが出来るのは、あまり高尚なことの解らない人たちだけね」と私は賛意をあらわした。
「同様にブルジョアの卑しいモラルはプサッファのこの断章を捕えました。
『黄金の華と見紛う美しき子をわれは所有す。わが最愛のクレイス、われは愛すべきリディアの全土よりもこの子を(選ぶ)…』
「その結果、恋人で女奴隷のクレイスが、彼女の実の娘と間違えられたのです」
言葉を切ったサン・ジョヴァンニの顔は怒りに蒼ざめていた。
「『アフロディテ祷歌』や『愛する女への頌歌』を読んだあとで、動物のような妊婦姿など誰が想像できますか」
「彼女の聖なる御名、あのプサッファという優しくて響きのよい名前さえ今は文字られて、サッフォーなどという味気ない名前で呼ばれている」とヴァリーは溜息をついた。「サッフォーと聞いてただちに思い浮かぶのは取るに足りない詩や彫像のことばかり。ブルジョアの大群はこのようにして彼女の名を語り継ぎ、それでこの驚くべき女性の目もくらむような真の姿はまだ一度も『世界』に現われたことがないのよ」
「おお私の『女司祭』よ、神秘家の怒りに燃えている時のあなたは何て美しいの」私は自分にしか聴こえない声で言った。「そんな時のあなたはもはや人間ではなく、超自然的な存在のように見えるわ」
ペトルスは頑固だった。今度は男の美しさを褒め上げて、それが女の美に優るものであると断言した。
「仕方のない男ね」とサン・ジョヴァンニが私にささやいた。「私は彼がブルジョアの中ではもっとも誠実な心と態度の持ち主だと信じていたけれど、今の彼はイギリスの観光客に少年たちの純潔を差し出しているいかがわしい闇商人のように見えるわ。すべてのレバント人と同様、彼は自覚のない痴漢なのね。彼が帰ったら、窓を開けて、カーテンをバタバタしなければ」
「少年たちが美しいのは女に似ているからよ」とヴァリーはペトルスに反論していた。「それでもやっぱり女にはかなわないわ。彼らには女のような立居振舞いのしとやかさも、均整の取れた曲線美もそなわってはいないのだから」
「私はね」とサン・ジョヴァンニが言った。「私は若い神様の彫像のうちでは『サモトラケの勝利』のあの有翼の壮観、あの女性美の至高の生まれ変わり以上に優れたものはないと思う。私はヘラクレスが大嫌い。ヘラクレスとは」と彼女は力をこめて言った。「カーニヴァルのレスラーか、肉屋の小僧を神格化したものに過ぎないわ。私は人体の筋肉や腱に我を忘れて見入ったことは一度もない」
彼女は微笑みながら思いを凝らした。
「もし」と彼女は続けた。「魂が何人もの人の姿を取るというのが本当なら、私は昔レスボスに生まれたことがあるわ。私はそのころ愛想のないひよわな子供で、年上の少女に連れられて神殿に行くと、プサッファがそこで『女神』に祈っていた。私はそこで『アフロディテ祷歌』を聴いた。比類のない声が流れ出て、せせらぎの音よりももっと耳に快かった。詩は波となって打ち寄せ、海鳴りのように死んではまた蘇るのだった。本当に、本当に、私は『アフロディテ祷歌』を聴いたのよ。*2輝かしい記憶は年を経ても、世紀を越えても色褪せることはない。とは言え私はまだ子供でしかなく、不器量な上に胸がときめいて口が利けなかったから、プサッファは私を好まなかった。しかし私は彼女に恋をして、それでのちに私の体が一人前の女の体となった時、私は彼女を思ってすすり泣いたのだった。彼女の訃報を聞いたのはシシリーにいた頃だった。しかしその死は栄光に満ちたものだったから、私は泣かず、仲間の者たちが泣くのを見て驚き、腹が立った。私は彼女たちにプサッファの高邁な教えを思い出させてやった。いわく、
『…なぜなら愁嘆はミューズに仕える者の家には不要だから。そんなものは私たちにふさわしくない』」
「私は」とヴァリーも笑顔で物語った。「私はアラビアの小さな羊飼いだった。昼間はずっと寝ていて、緑色とすみれ色のたそがれが来るとはじめて目覚め、夕闇の中を羊たちを追って山を下り、紅い大砂塵のまっただなかを歩いた。そこで月が昇るのに真っ先に気がついた私は『月が出るよ』と叫びながら一番近くの村へ駆け込んだ。するとこの大ニュースを聞いた者はすべて空を見上げて、月の出に先立って山の端が琥珀色に染まるのを見てよろこんだものだった」
ペトルスは瞑想中であった。彼はその小太りした体全体で、飽食したお殿様の精神集中を表現していた。
そうして遂に「あなたはなぜそんなに男を嫌うのですか」とサン・ジョヴァンニに尋ね、そのとろんとした目で彼女を見つめた。
「私は男性が好きでも嫌いでもありません」サン・ジョヴァンニは友好的に答えた。「ただ女性に多くの危害を加えてきたことで、私は男性を恨めしく思っているのです。彼らは私が立場上打ち倒したいと思っている政敵です。ひとたび『思想』の戦場を離れれば、私は彼らを知りませんし、知りたいとも思いません」
ペトルスの脂ぎった顔に厳粛な表情が現われた。人の目には、彼は神託を下そうとしている修行僧とも見えたであろう。彼は長いあいだ『中性人』をじっと見つめていて、それから厳かに断言した。
「マドモアゼル、あなたが異性にどうしようもなく心惹かれている自分を隠していらっしゃるのは明らかですな。あなたの恋愛遍歴のゴールは、必ずや男性の腕の中にあるのですよ」
彼の笑顔にあらわれた無邪気な思い上がりは、ペンテシレイアの心をも和ませたかも知れなかったが、『エレシウスのセレス』の詩人の顔は怒りで真っ赤になった。
そこで私は彼女の口から暴言がほとばしり出ようとするのを制し、代わりに非常にショックを受けた者の口調でこのように応じた。
「ムッシュー、それは生理に反する逸脱行為となりましょう。私はこのお友だちをとても尊敬しているので、彼女にそんなアブノーマルな恋愛ができるとは思いません…」(第2章終わり)
*1:訳者注:英語版ウィキペディアによれば、「アンドロス島から来たケルキュラス」とは「男の島から来た突起物(=男根)」を意味するとのこと。
*2:訳者注:「比類のない声が流れ出て」から「『アフロディテ祷歌』を聴いたのよ」までの三行、訳者が使用している仏語原文では欠落しており、ジャネット・フォスターの英訳によって補います。