魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

吉川永春『乱世を看取った男・山名豊国』

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山名豊国像。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


吉川永春『乱世を看取った男・山名豊国』(角川春樹事務所)を読了して。
応仁の乱を引き起こした山名宗全の末裔・山名豊国(法名「禅高」1548 - 1626)が、戦国時代の荒波にもまれながら、自分の意地や誇りを投げ捨て、その終焉を見届けるべく奮闘し、上級旗本として山名家を生き残らせた、「生き残り戦術」の物語です。

山名家の窮状

足利幕府の成立に功を上げ、「六分の一殿」と謳われた五代前の山名宗全入道(持豊)の頃には十国を領したが、その影響力の大きさ故に室町幕府の後継者争いに翻弄され、山名家の家運は衰退の一途をたどっていった。
山名家の領地は但馬・因幡を残すばかりになっていた。その上1557年、山名家と盟友関係にある周防すおうの大内義長が、新興勢力の毛利元就もとなりに敗れ、自害した。また桶狭間の戦い今川義元が討たれ、息子・今川氏真うじざねは弔い合戦をする様子が見られない。これを皮切りに、織田信長は武将として名をあげ、徳川家康は、人質として過ごした今川家のくびきを徐々に離れる。
ここから山名家は、怒濤のごとく押し寄せてくる、新興勢力の毛利家と織田家のどちらと手を組むのか、あるいは臣従するのかを遠からず選ばなければならない状況だ。
出雲・伯耆ほうきを治めていた尼子あまこ晴久の没後、還俗した尼子勝久や武将・山中鹿之助しかのすけ幸盛の動静にも気を配らなければならない。
1560年、兄・豊数とともに元服し、幼名の九郎から豊国と改め、伯父の但馬守護・山名祐豊すけとよの娘・藤を正室に迎え、名ばかりの名門・山名家を再興させるべく出発する。
実兄・数豊との関係は、決して良好とはいえず、寧ろライバル関係に近いものだったが、後年、死病に罹った豊数は、自分の胸の丈を打ち明け、自分と同じてつを踏むなと諭す。
この“和解”は後に豊国を助ける役割を果たす。

第一次鳥取城の戦い

1580年5月16日、羽柴秀吉が、鳥取城下に攻め込んでくる。
かねてから、石垣を倍高く積んで備えていた。毛利家の援軍は望めない状況だ。
鉄砲と弓矢を使用したゲリラ戦で、何とか羽柴軍を撃退する。
しかし鳥取城は守ったものの、因幡衆が毛利家に差し出していた大事な人質(豊国の娘・蔦姫をはじめとする)が託された鹿野城しかのじょうは、5月26日に落城した。
早速、羽柴秀吉に降参するかどうか、軍議を開く。
軍議では重臣の森下道譽どうよ用瀬もちがせ伯耆守や中村春続はるつぐが無理勝手な机上の空論を言い合い、まとまらなかったが、伯父・山名祐豊の逝去の訃報を聞いた豊国は、鳥取城開城を決める。蔦姫ははりつけにされる寸前だった。
鳥取城は吉川きっかわ経家つねいえが入ることになった。豊国は鹿野城の名ばかりの守護になるが、森下道譽らの押し込めの企みに遭い、逃亡するが、その過程で長子・庄七郎を射殺される。

得度

山名家の菩提寺妙心寺東林院で得度をする。妙心寺五十六世・九天くてん宗瑞そうずいの導きによる。
彼の法話により、姿形は法体ほったいになったが、所領や宗家そうけを無くしても、やはり武士であることには変えようもないと悟る。
かねてから参陣の誘いを受けていた、姫路城・羽柴秀吉のもとへ、傅役もりやくの岡垣次郎左衛門と共に赴く。秀吉は、軍師・黒田官兵衛を連れて騒々しく上機嫌で現れる。
秀吉は、豊国に尋ねる。何故三ヶ月の籠城戦が可能だったのか。現場兵士の意思統一ができたのか。
豊国は答える。
「籠城に必要な物資は、全て私が用意しましたので」
「は?」
秀吉は声を上げた。
因幡をよく知る禅高は力説する。今は稲の刈り入れには遠く、毛利が兵糧ひょうろうを回すことも難しい。鳥取城を攻める絶好の機会だと。「しかし梅雨が来る」と黒田官兵衛は言った。

1581年6月、第二次鳥取城の戦いが始まる。「鳥取かつえ殺し」と言われる戦だ。
鳥取城を誰よりもよく知る禅高は、羽柴の本部付きとなり、黒田官兵衛とともに策を練る。
米を高値で買い占め、農民200人以上を鳥取城に追い込み、兵士1400人とともに籠らせた。たちまち窮地に陥った吉川経家は、開城と自分の首を和睦の条件とする。他の者は助命願う。
秀吉はその条件でよしとするが、禅高はここを先途と訴えた。
織田家と毛利家が争ったのは、元々は因幡衆の不明にございます。禍根は断たねばなりません」
「森下道譽と中村春続の二人のことか」
「さよう。生かしておけば必ず羽柴様に背きましょう」
鳥取城の戦いは、吉川経家切腹と、森下と中村の首をもって終了した。
鳥取城には宮部継潤けいじゅんが城主として入った。
秀吉は禅高が正論を言いながらも、その実、息子の仇討ちをしたことを知っている。

これ以後、関白となった山名禅高は、秀吉自らの勧誘を受けて、お伽衆として出仕することになる。
その目的は、足利幕府の名門・山名家の家名の利用だろうとは思うが、娘を側室として差し出している以上、嫌とは言えないのだった。
秀吉の九州征伐に帯同し、歌を詠んだりもした。

家康との出会い

1588年4月14日、聚楽第落成式に内心面白くない気分で参加した禅高は、徳川家康と出会う。家康は「そなたのことは、垣屋かきや豊続とよつぐ殿から聞いている」と自然に話しかけてくる。今日の役目は終わったという家康に誘われるままに、家康の宿所に行き、膳を囲むことになった。
世の人が古いものをとうとぶならそれを逆手に取る。徳川家が新田家の庶流というのは嘘だが、それで下の者を束ねるのも、民百姓を案じるのも楽になる。それが天下を治める道につながる。
自分のしてきたことは無駄ではなかったと腑に落ちた禅高は、家康に近侍することになる。秀吉のお伽衆としての務めは歌会や茶会の時のみとした。

これ以後、関ヶ原合戦では、亀井新十郎玆矩これのり麾下きかとして自ら出陣した。勝者となった家康は、禅高に但馬国・村岡六千七百石を与えた。禅高が戯言ざれごとで言った「百分の一殿」の夢は叶ったのだ。

戦国時代の終焉を見届ける使命を果たし、側室と傅役に看取られて、1626年10月7日、静かにこの世を去った。
治世は家光の時代になっていた。

地味ではあるが、人生の岐路において、選択を誤らなかった男の物語です。
お楽しみください。
天一