一天一笑さんによる吉川永青の歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第九回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。
鞆幕府と毛利家の困惑
1576年(天正4年)、紀伊の興国寺にいる義昭主従に転機が訪れます。義昭の奉公衆の中で、最も信長嫌いだった上野清信が、毛利家に備中上野家当主、上野隆徳が滅ぼされたのを機に、毛利家を恨み、織田家に接近する素振りが見えます。義昭は余の筆と言葉は兵の代わりとばかりに、お手紙作戦に励みます。書状を通して義昭は、織田家の動静と光秀の心の軋みを掴む事ができました。織田家が摂津で本願寺と争っている以上、遠からず播州地方の播磨国衆は織田家と誼を通じるか、西国の雄、毛利家を頼るかの選択を迫られることとなります。
又義昭は頃合いを見て、真木嶋昭光に上野清信暗殺指令を出します。
上野清信は(義昭予想の通り)織田家へ逃げ込みました。
同年1月、義昭は動座し、備後の小松寺に戦勝祈願した後(足利家の遠祖尊氏が、九州に落ち延びた後、帰京の戦の戦勝祈願をしたとの故事に倣う。自身を尊氏に擬える)、暫くそこに留まります。会談の決裂以来、義昭をどうにも始末の悪い困り者としてきた毛利家当主輝元は困惑します。果たして、義昭の狙い違わず、将軍の威光を頼みにする北畠具親、武田信景、六角義尭、内藤如安等、各国守護や国司家の一門が集合しました。最初20人だった義昭一行は瞬く間に100人を超える一団となりました。
こうなると、毛利家も放っておく訳にはいかなくなりました。
鞆幕府が本格的に始動します。折しも義昭の内書が効いて、本願寺と織田家とが手切れに動き始めました。チャンス到来とばかりに、義昭は毛利輝元がいる吉田郡山城を前触れも無く、従者を帯同して訪れます。
玄関に入ると“将軍来たる”のアナウンス効果か、当主輝元(毛利元就の孫)の小姓が走り出てきて平伏しました。
小早川隆景、吉川元春ら、いわゆる毛利両川の人々が揃い、輝元が型通りの挨拶をすると、上座の義昭は鷹揚に「苦しゅうない、面を上げよ」と声を掛けます。
話題は、天下の覇者たらんとする織田家と戦うか否かです。つまり、先代元就公の遺言「毛利家は天下を望まず」を守旧するのか(その場合は毛利頼むに足りず、と国衆が大量離反するリスクがあります)との二択を迫られています。
演技派の義昭は、「右馬頭殿」と呼びかけます。これは先代元就公が義昭から賜った官職です。同じく輝元も右馬頭を拝命しています。又備前岡山城主、宇喜多直家の存在も脅威です。
更に毛利家が織田家と戦わない時には、九州の薩摩島津義弘や豊後大友義統(いずれも輝元とっては、手強い存在です)を頼ろうか等々仄めかします。
父隆元が毒殺?されたため、若くして毛利家当主となった輝元は、「上様のご意向を踏まえ、後日評定後、お返事いたします」と言うのが精一杯でした(無能ではないが胆力が不足)。
5月7日、毛利は織田と戦う旨を決定します。これ以後、義昭が動けば毛利が応える、毛利が何かすれば義昭が次の手を打つという、所謂信長包囲網が動き始めます。
同年10月、信長は、若江城の戦いで活躍した荒木村重に播磨攻略を命じます。これにより否応なしに毛利家と織田家の仲は険悪になってゆきます。
1577年(天正5年)3月、毛利輝元は小松寺に入り、義昭に目通りします。毛利両川は戦闘準備ができています。輝元は、気の進まない内心はともかく「いざ出陣し、上様の上洛の道を開いて参ります」と挨拶をせざるを得ません。以前は信長が供奉したものです。事実、義昭の持っているのは足利家の血筋を伝える体一つ。なのに常に態度が大きいのです。
信長、羽柴秀吉を播磨戦線に投入
毛利勢が備中に進軍し、備前国衆の後詰として着陣した頃、義昭は本願寺顕如から一通の書状を受け取りました。内容は、戦国の梟雄、松永久秀が信長に謀反を起こしたが、約2ヶ月後に光秀や佐久間信盛に居城の信貴山城を囲まれ鎮圧された。城主松永久秀は、信長が所望した茶釜“平蜘蛛”に爆薬を詰め込み、自分の身体に結び付け、自ら火をつけ爆死した、というものです。
1577年(天正5年)10月10日のことです。この日は10年前、松永久秀が、奈良東大寺に立て籠る三好三人衆を討つために、大仏殿を焼き払った日でした。何という運命の巡り合わせでしょう!
密かに謀反を唆した義昭は「松永よ、織田家を乱して死んだのなら、我が兄を討った罪、この功を以て許す」と独り言を言うと、ニタリと笑い、書状を思いっ切り破り捨てました。筆者はここで、義昭の持つ情の強さ、水に流すことの難しさを思いました。
松永久秀の謀反を鎮圧した信長は、休む間も無く羽柴秀吉を播磨戦線に投入します。目的は毛利征伐です。その下準備として、播磨国衆を切り崩し、纏める必要があるからです。ところがこの抜擢を快く思わない人物がいました。秀吉より先に播磨攻略を命じられた有岡城主・下摂津守、荒木村重です。
利休十哲の一人に数えられ、越前一向一揆討伐の武功を以て従五位の官職を賜ったのに、信長から役に立たぬと言われたにも等しいこの人事には、到底納得できません。
他方、優れた戦略家の秀吉は、瞬く間に播磨一帯をまとめました。残るは播磨・美作・備前の三国の国境に接する要害の城、上月城です。12月8日、城主赤松政範を討ち取ります。
これは、毛利家にとって複雑で頭の痛い事態となりました。何故なら、赤松氏は、宇喜多直家の盟友だったからです。領国を隣接する宇喜多の手前、赤松を討たれて毛利が黙っていれば、面目も立たないし、毛利家中に内憂が生まれるからです。
毛利家はその体面にかけて、上月城を取り戻さなければならなくなりました。
播磨戦線を陰で操る義昭
1578年(天正6年)1月、義昭に小早川隆景からの書状が届きます。机上の戦略家、義昭の待っていた書状です。内容は播磨の名門、三木城城主の別所長治を調略したいので、口添えを請うとのこと。真木嶋昭光に地図を持ってこさせて、六角義堯に説明します。東播磨と摂津の国境にある三木城を調略できれば、秀吉の退路を塞ぐ事が出来ます。そればかりではなく、現在織田家に恭順の意を示している、中播磨の御着城の小寺政職(黒田官兵衛の旧主)、英賀城の三木通秋、西播磨・龍野城の宇野宏英等、元々毛利方だった大名家を雪崩が起きたように引き戻す(もう一度寝返らせる)事が出来ます。その延長線上には本願寺と、近隣の有岡城が射程距離に入ってきます。義昭は慌てず、先ずは小早川隆景の求めの応じ、別所長治宛の書状をしたためました。同年2月、義昭の予想通り、別所長治が毛利に寝返ると播磨衆も寝返りました。これによって秀吉の播磨攻めは大きく頓挫します。
7月、毛利家は、上月城を奪還します。この上月城の戦いの結果、城主尼子勝久は切腹、山陰の麒麟児と謳われた家臣、山中鹿之助幸盛は、輝元に目通りする前に謀殺されます。
もう一つ、義昭の読み通りに進んだ事がありました。信長の人となりを誰よりも知悉していると自負する義昭ならではです。失策の続く秀吉を、信長が外さない(左遷しない)事です。
義昭は、槙島城の戦いで敗れた自分が首を刎ねられなかったのは、秀吉の諫言あったればこそと知っています。あの信長がそれ程秀吉を買っているのです。何れは勝つ秀吉を播磨戦線から外しません。
この人事が、荒木村重の不満に火をつけます。信長の信条は“必要ゆえに成す”。だがその必要から、自分は外されているのではないだろうか。荒木村重の胸中に、信長への不信の念が湧き、やがて嵐のように吹き荒れます。これを利用しない手はない。本願寺に荒木村重を調略させる。
荒木村重が謀反を起こせば、摂津有岡城は本願寺にとって後詰の城となるだろう。荒木村重にとっては、一向宗門徒の兵力が手に入るだろう。兵力の多寡が戦を決めることもある。
義昭は、毛利輝元と共に、荒木村重に書状を発しました。
同年10月、義昭の放った撒き餌に喰いついた荒木村重は、遂に謀反を起こします。これによって織田軍に侵食されていた毛利勢は、俄然有利になりました。(続く)