表題のオムニバス小説集につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
はじめに
『鎌倉燃ゆ 歴史小説傑作選』(PHP文芸文庫)を読了して。
7人(谷津矢車、高橋直樹、秋山香乃、矢野隆、滝口康彦、安部龍太郎、吉川永春)の持ち味が存分に発揮された歴史小説集です。
1180年~1219年まで、鎌倉幕府創成期から源家の征夷大将軍・実朝が、公暁(鶴岡八幡宮別当、実朝とは叔父と甥の関係)によって暗殺されるまでの人物や事件に焦点が当てられています。
年代的に言えば、実朝暗殺により源家の血脈は断たれ、源頼朝の未亡人・北条政子とその実弟・北条義時に権力が移り、北条得宗家による執権政治の基盤が出来上がる頃の物語です。
7編の中から“水草の言い条”“八幡宮雪の石階”の2編を紹介します。
“水草の言い条” 谷津矢車
1221年6月8日、鎌倉幕府の侍所と政所の別当を務める北条義時の屋敷が落雷によって一部焼失し、死者1名が出る。承久の乱直前の頃合いである。当然、実姉の北条政子(源頼朝未亡人・尼御台)が様子を見にやってくる。
北条政子はこの時、六十五歳になっていた。実は義時は姉・政子の前に出ると気後れするのだ。
亡き父・時政をして「男に生まれていたら比類なき坂東武者になっただろう」と言わしめた姉なのだ。何と言っても、後鳥羽上皇が有力御家人に“義時追討”の院宣を出されている身の上で、心中穏やかでいられる訳はなかった。有能な官吏の大江広元が、院宣は義時個人ではなく坂東武者全体に対するものだとしたために、御家人たちは御所に集合している。
政子は、面前の御家人相手に出陣前の演説を開始する(大江広元の要請による)。
朝敵となる畏怖に心落ち着かない義時は、何故か回想を始める。
そもそも自分は1177年に元服して江間小四郎と名乗り、江間家(北条家の分家)当主のポジションだった。伊豆山中の田舎武者として一生を終える筈だった。長兄・北条宗時が石橋山の戦いで戦死しなければ、姉・政子が流人の源家の御曹司と祝言を挙げなければ・・・。
父・義政が、権謀術数を用いて、有力御家人として頭角を現さなければ・・・。
その父と距離を置く事件が起きた。
1182年、出産を控えた政子が、頼朝の愛人・亀の前の自宅(伏見殿)を父・時政の後妻の牧の方の肉親・牧宗親を使い、焼き討ちにした事件だ。結果、後妻の肉親が恥辱を味わい、面子を潰された時政は、一族郎党を引き連れて領地の伊豆山中に引き籠る。
都育ちの頼朝は複数の愛人を置くのを疑問に思わなかったが、正室の政子は悋気を起こした。
時政がいなければ政務が滞る事態になった。改めて時政の存在感が際立った事件だった。
江間小四郎には蚊帳の外の出来事だった。父と行動を共にはしなかった。御所に出仕した義時を水干姿の頼朝が出迎えた。父と共に動かずを褒められた義時は正直に言う。
自分は20年余り北条家の一族郎党として、根を持たず、水草のように波に揺られて漂って生きてきた、と。頼朝も「自分こそ、流人となった時から流されるまま生きてきた。挙兵もそうしなければ殺されるからしたまでだ。しかし以仁王の令旨以後、いつの間にか朝廷と距離を置く東国に干渉されない武家政権を創立する目的を持って生きる野心をもった。水草が思わぬところに流れついたのかも知れぬ。ついては義時も常に私の傍で仕えてくれ」と。義時の肚は決まった。
水草のように振る舞うのは変わらないが、根っこ(頼朝・鎌倉殿)を持った。
1205年、義時は亡兄・宗時の“人間一度くらいは己の分を超えて大きく飛ぶ時があってもよい”の言葉を胸に刻み、根回しをして(父の身の安全は保証して)権謀術数の虜となった父・時政と継母・牧の方を追放する。政子も少しも驚かず同意した。
義時は悟る。“鎌倉殿”は人間のつく座ではない。神に近い貴種の血が座るのが相応しい。
義時は親王の鎌倉下向を願ったが、後鳥羽上皇はこれを不愉快に思い、義時追討の院宣を出した。最も避けたかった事態がやってくる。
「随分長い昔話や、それがどうした」
いつの間にか普段と変わらぬ様子の政子の声がした。
「姉上、私は父を退けたことで一生の無理を使ってしまいました。これ以上の無理はできません」
「そなたは昔から肝が小さい」
「・・・」
「考えてみよ、亡兄・宗時の短い人生で自分の分を超える大博打を打つ余裕があったか?父上のことは、本来、兄上がなすべきだった。今回の戦は我が子・実朝がすべきことだった。どの道、実朝は、源氏の血筋に“鎌倉殿”を継がせるつもりはなかったろう。貴種の血を鎌倉殿に戴くのは、実朝の望みでもあった」
義時は姉らしい解釈をすると思った。人生で幾度も無理を実現させてきた姉なのだ。
そもそも父・義政は流人・頼朝の監視役だったのに・・・。
「さすれば姉上、この度の戦は」
「言わずとも、そなた一人の大博打ではない。そなた一人が背負うことではない。この度の鎌倉殿に関わった者たち皆の戦だ。鬼籍に入られた頼朝公・頼家・実朝を始め多くの御家人がそなたについている。多くの知己や有象無象が」
「姉上にはかないませんな」
政子は満更でもない顔をした。
義時は力が湧き、何も怖くなくなった。
「いざ、出陣ぞ」
源家の嫡流が絶えても、頼朝公が心血を注いで成立させた鎌倉幕府は守らなければならぬ。
水草の辿り着いた根は守らなければならぬ。
果たして承久の乱の勝者は後鳥羽上皇か、北条義時か?
“八幡宮雪の石階” 安部龍太郎
1208年、源実朝は疱瘡に罹患し、命は助かったものの、顔に痘痕の残ったことを苦にしたのか、政務をおろそかにして、後鳥羽上皇の家臣より送られた『古今和歌集』等を夢中になって読む。
和歌の家庭教師・源仲章が目を細めるくらい身を入れたらしいです。
その延長線上で、実朝が22歳の頃『金塊和歌集』が完成する。これは藤原定家と書簡を交わしながら、完成させた家集である。金は鎌倉の鎌、塊は大臣を意味するらしいです。義時は後鳥羽上皇が、和歌・蹴鞠を通じて実朝を京都・朝廷に取り込む戦略ではないか、その為に新たに西面の武士(武力)を設けたのではないかと思慮していた。
和田合戦が政子・義時側の完全勝利で終わっていた。これにより、政子・義時に対抗できる有力御家人はいなくなった。武家の権力闘争に嫌気がさした実朝と政子の間の心理的距離は離れてゆく。
1216年、実朝は26歳になった。正室に迎えた坊門信清の娘は同じ年だった。
突然、宋の技師・陳和卿に大型の唐船を造らせる。長さ約27メ―トル、幅約7.3メ―トル。高さは当時の3階建て程だろうか?
由比ヶ浜で進水式をする。4時間にわたって水夫たちが曳くが、何故か船が浮かぶ事は無かった。
1118年、政子と義房は熊野詣を口実に上洛をする。目的は、後鳥羽上皇の皇子を実朝の次の鎌倉殿として貰い受ける為だ(実朝が子供を設ける意志のない事を見越して)。
後鳥羽上皇を慕う実朝と、北条家の一層の繁栄を願う政子との距離は埋めようもなく広がる。鋭敏な歌人の実朝には、政子が如何取り繕うとも、その肚が透けて見えるのだ。
この頃から、実朝は朝廷に「大将所望」の手紙を出す。大納言、そして任左大将を授与される。その拝賀式に必要な調度類は全て後鳥羽上皇から贈られる。
そして、武家では初めての右大臣に任じられる。
1119年1月27日、実朝は、鶴岡八幡宮で挙行される右大臣拝賀の儀式に臨むため、御所を出る。歌を詠む。雪は60センチ程積もっている。
「出でて去なば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな」
振り返ると母・政子が侍女に傅かれながら、雪が降りかかるのも構わず、実朝を見送っている。
尼姿の母がいつになく小さく見えた。
「母上・・・」
実朝は心の中で呟いた。
例え我が身が滅んでも、歌は残る。実朝は中門前の限られた人しか潜れない門を進み、雪に気を付けながら、静々と石段を上がってゆく。
己の運命に従容と従いながらも、自分の道を見つけて生き抜いた“鎌倉殿”を巡る人々の物語、お楽しみください。
なお竹宮恵子『吾妻鏡―マンガ日本の古典』(中公文庫)を参照しました。
一天一笑