魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

「Netflix版『アッシャー家の崩壊』にはポーの魂がない」

Netflix版『アッシャー家の崩壊』から、ヴィクトリーヌ役のタニア・ミラー。www.imdb.comより。

以下はAja Romanoというライター集団が、去る2023年10月13日、www.vox.comというサイト上に発表した「Netflix版『アッシャー家の崩壊』はポーの情熱的怪奇を欠く――これらの登場人物のうち、死体に対して不適切な振舞いに及んだことのある者が一人でもいるだろうかNetflix’s The Fall of the House of Usher lacks the passionate weirdness of Poe - I’m not convinced any of these people have ever behaved inappropriately with a corpse! )」という英文記事の抄訳です(マイク・フラナガン監督のキャリアに関するパラグラフを一部割愛しております)。例によって元記事を書いた人には無断で訳しますので、前触れなしに削除する場合があります。ポーを読む方の参考になれば幸いです。

www.vox.com


ポーを今風に脚色することに何の意味があるのか。マイク・フラナガンによるNetflix最新シリーズ『アッシャー家の崩壊』はエドガー・アラン・ポーの同名小説の大まかな翻案だが、これには確かに馴染みの深い名詞が数多く現れる。それぞれのエピソードが一つの、もしくは二つ以上の懐かしいポーの作品に依拠しており、われわれの心をジュニア・ハイスクール時代へとトリップさせてくれる。問題はトーンが無いことだ。
まず、ほとんどの人間が原作「アッシャー家の崩壊」について何か知っているとすれば、それはこのタイトルの「崩壊」が近親相姦の意だということだ。だがNetflix版はその代わりに、これがオピオイド危機の話ならどうだい?と提案する。
この物語は、ある製薬大手の冷たくてよそよそしい継承者が、その帝国の衰退期に、子どもたち一人一人が悲惨な死を遂げるのを見届けるというものだ。 ショーの 8つのエピソードを通じて、フラナガンはポーの最もよく知られた短編のいくつかからアイデアを借用し、強欲と一族の破滅を描いたほぼオリジナルのストーリーを作り上げ、ある種のポー的な映像世界を創出する。 とはいえ壮大エピックな家族ドラマの間にあって、ポーとの関連へのこだわりはしばしば不純であり、不快ですらある。 登場人物の一人にアナベル・リーを名乗らせ、主人公にポーの有名な詩をランダムに朗読させることは、彼の変わらぬ愛をわれわれに確信させてくれるだろうか。 たぶんノーだ。
しかしながら、これがショーが依存しているアプローチであって、その結果、テーマとムードがミスマッチを起こしている。 『アッシャー家』には、手の込んだ仕掛けはあるが、ポーの全作品の中核を成すエレメントが決定的に欠落しているように思われる。 それは情熱だ。登場人物たちの死に様はゴシックホラーかも知れないが、生き様はそうではない。

Netflix版『アッシャー家の崩壊』から、フレデリック・アッシャー(ヘンリー・トーマス)と重傷を負った妻モレラ(クリスタル・バリント)。www.imdb.comより。

注意: 以下のレビューは『アッシャー家の崩壊』のネタバレを含みます。

ライターとして、ポーもフラナガンも陰気で、少なからず恥知らずで、死や悲しみや喪失ロスについての心理学的ならびに哲学的問題に取り憑かれている。 「アッシャー家の崩壊」なるポーの悪名高い短編小説は、フラナガンの家族に対する執着を共有しているので、フラナガンと更に相性がいい。 フラナガンの作品に時間を費やしたことのある者なら誰でも知っているように、彼がベタなびっくり箱ジャンプ・スケアや内省的独白よりも好む唯一のものは、家族について考えること――すなわち何が家族を結びつけ、何が引き裂き、何が家族を再び結びつけるのかを考える機会であって、 それはマイク・フラナガンの世界観には、たとえ最も皮肉な瞬間であっても、家族の再会と救済への希望が常に存在するからだ。
アメリカン・ホラー・ストーリー』で同じキャストが繰り返し起用されたのと同じように、フラナガンは中心となる役者たちのローテーションを組んで仕事をする傾向がある。 このシリーズでは彼らは皆、自分たちがポーの暗い世界に生きているという自負に全身全霊を捧げており、守秘義務やスピン報道に関する皮肉や警句とともに、ポーの詩や小説からの狂った台詞をすらすらと口にする。 各エピソードは、それぞれ別の有名なポーの短編小説に漠然たるテーマを負っており、『ファイナル・デスティネーション』のごとき災難のごちゃ混ぜホッジポッジの中で死の様相が展開する。 アッシャー家(サックラー家の明らかな類似品アナローグ)の凄惨な死は、アメリカのオピオイド危機に対する超自然的な報復だが、その危機とはまさしくアッシャーが先導アッシャーしたものだった。連続死の凄まじさが呼び寄せたかに見えるのは超自然的な死の女神、すなわち「フラナギャング」のOGメンバーの一人カーラ・グギノで、アッシャーたちを死へと追いやるために、一連の仮面ペルソナを着けて現れる。
ショーはこの設定により、ポーのよく知られたテーマへの継続的参照と、特定の原作に焦点を当てたエピソードとの間を行ったり来たりすることができる。 たとえば有名な詩「大鴉」、古典的な復讐劇「アモンティラードの樽」、そして「アッシャー家の崩壊」への言及は随所に登場する。 他の作品では主として登場人物の名前で(たとえばカール・ランブリーが見事な沈着で演じた元刑事の検事オーギュスト・デュパンは『モルグ街の殺人事件』や『盗まれた手紙』などのポーの小説に出てくる探偵と同じ名前)、または何気ない余談や、会話中に挿入される直接の引用によっても言及される。 この一連のほのめかしは、露骨なものからひそかなもの、明敏なものからうるさいものまで多岐にわたる。 ある時、ロデリックの無表情な弁護士ピム(素晴らしいマーク・ハミル)がディナーにゲストを呼ぶ話をするが、これはもう一人のピムが当該ゲストの人肉を食うというポーの原作小説へのほのめかしである。 登場人物の一人には、ポーの実人生での敵、ルーファス ・グリスウォルドの名が付けられている。
参考文献にはもれなくチェックが入っている。「モルグ(死体保管所)の殺人」では霊長類による死が取り上げられる。 「赤死病」は今風の狂宴バカナルとなり、きわめて邪悪な方向に向かう。「ゴールドバグ」のエピソードには黄金虫が出てくる。 また『アッシャー家の崩壊』とのタイトルが示す通り、誰かが生き埋めの憂き目に会う。とはいえこうした隠し味は、楽しいおまけ要素イースター・エッグとして機能することを除けば、メインストーリーに寄与するところがほとんどない。そしてメインストーリーは参照している原作と、実際のショーとの乖離かいりに悩まされる。
フラナガンは今回、自身の最大の参考文献に対して、一種の「使いまわしミックス・アンド・マッチ」のアプローチを採用しており、オリジナルとの一致がほとんど偶然に過ぎなくなっていることが多い。 たとえばポーの短編「黒猫」は、もとは暴力的な衝動に抵抗できない殺傷中毒者の物語だ。 しかし『アッシャー家』の「黒猫」では、視聴者が中心人物と過ごす時間がほとんどないうちに、彼と化け猫との戦いが始まってしまうので、彼のそうした内的側面が見えてこない。 その代わり、その心理学は「落とし穴と振り子」のテーマとして引き渡されるので、結果的に「落とし穴と振り子」には原作との共通点がほとんどなく、一方で「黒猫」には原作を忘れ難いものとしているあの凶暴な激しさや深みがまったく無い、等々。
さらに、これらの死の裏に横たわる理由――アッシャーとその家族とがグギノ演じる死神に付きまとわれるのに8つのエピソードが費される理由は、本質的にファウスト的であり、すべてが呪いによるもので、勧善懲悪的であることが判明する。 ポーの未だに残る謎、彼の小説とその主題の上を覆う内的モチベーションと夢幻的ロジックに関する未解決の巨大な問題は、そこには見当たらない。
確かに素晴らしくクリエイティヴな瞬間はいくつかある。たとえばフラナガンは、アッシャー家全員を紹介するオープニングで、気の利いたクロスカットや対話のオーバーラップによるモンタージュを愉快に編集している。それから殺人また殺人だ。デカダンス、メロドラマ、血潮、美味なるホラー。あなたがこの作品を鑑賞する目的が、キャラクター一人ひとりのド派手な死までの運命のカウントダウンの8サイクルであるなら、あなたは大満足だろう。
だがこのショーには、ポーを時代を超えた人気者たらしめている詩的な繊細さや感情の深さ、意味の重みといったものがほとんどない。 ポーの小説は影に満ち、熱を帯びて膨張した想像に満ちている。 それらは悪夢と、幻覚と、狂気との入り乱れた混沌を呼び覚ますのだ。 フラナガンの『真夜中のミサ』の荒涼たる沈鬱と、『ヒル・ハウス』の背後からヌッと現れる幽霊とを組み合わせれば、このテーマにぴったりだったことであろうに、この企画が代わりに採用したのは重役会議的感情麻痺だった。設定も、登場人物同様、淡白で冷たい。ポーのゴシック要素の挿入は、内輪もめしている大金持ち一家を皮肉る夜間照明ハロゲンコア的雰囲気の中では、不自然に殺菌されてしまったかに見える。登場人物が幻覚に打ち負かされ、ハエのように地べたに叩きつけられる時でさえ、物語のトーンは他人行儀なままだ。われわれはあたかもロデリック・アッシャー(ブルース・グリーンウッド)のごとく、無情な会社のビルの上から人間の苦悩を見下ろしている一羽の鳥の視界に閉じ込められているかのようで、ポーがわれわれを取り込んだような悪夢の中を真っ逆さまに落ちてゆく気がすることは決してない。
もう一つ、この翻案には、ポーの性心理的葛藤(psychosexual turbulence)がまるで感じられない。 確かに変態行為はしょっちゅう出てくるが、ショー全体のトーンに合わせて、常に性欲処理的で、情熱がなく、快感すら乏しい。 ある登場人物は乱交パーティーを主催するが、ビジネス戦略としてに過ぎない。 別の女性は、個人秘書たちをコントロールして、純粋に取引上のセックスをさせる。 もう一人は夫との肉体関係をすべてセックスワーカーに外部委託している。 そうして繰り返すが、アッシャー兄妹の間には、昇華された近親相姦的欲望のヒントすらない。これこそが皆が原書を手に取る理由の半分であるというのに。
あなたはこれらの登場人物のうちの誰一人として、倒れた敵の前で狂ったように笑ったり、墓穴から執念深く這い出してきたり、死体と不適切な交渉を持ったり、その他ゴシック小説をたまらなく面白いものにするあの物凄すぎる個性の発揮といったものを一切しないことに気がつくだろう。なるほど、ロデリック・アッシャーとその妹マデライン(メアリー・マクドネル。月並みな出来)は、彼らの母親の「早すぎた埋葬」について、さだめしトラウマを抱えていることだろう。事実、第一のエピソードで、彼らの母親は墓穴から這い出して来るのである。ところがこのプロットは何らインパクトを残さずに片づけられ、兄妹は平気でふたたび人を生き埋めにする。アモンティラードのクライマックスたるあの凶行ですら、単なる覇気のない商取引に堕してしまう。狂喜はどこだ?激怒はどこだ?ヒステリアはどこだ?最終的に考えられないような狂った行為へと爆発する、あの長期にわたって抑圧されてきた感情の解放はどこだ?ポーはどこだ?
フラナガンはこの点について、二つの人格変容キャラクター・アークでわれわれを満足させてくれる。この二つはいずれもが痛めつけられた狂暴な心理の混沌たる矛盾をよく捉えており、ストーリーが時間をかけてキャラクターを確立した上で、人格が次第に崩壊してゆく有様を描き出しているので、いずれも成功している。第一の勝利はタニア・ミラーのもので、彼女はヴィクトリーヌ・ラフルカードなる心臓病学者を演じ、奇跡的な医療技術を追い求めるあまり、精神錯乱に陥ってしまう。その結果は驚くほど血まみれで、一点非の打ちどころのない恐怖の表現となる。第二の勝利はヘンリー・トーマスのもので、彼はフレデリック・アッシャーという意地悪な長子を演じ、弟や妹が次から次へと死に始めると、家族に対する疑心暗鬼と怨恨から、凶悪な家庭内暴力へと突っ走るが、それはクラシックで皮肉な一撃によってピークに達する。
この二人のアッシャーの変貌はよく考えられ、巧みに表現されるが、皮肉なことに、これが他の犠牲者たちのケースの不手際を際立たせる結果となっている。フラナガンはあたかもポーの阿片オピウムに対する伝説的な耽溺から、現代のオピオイド危機との関連を思いつき、ポーの作品の情動的エッセンスについてはそれ以上掘り下げることなしに、思考実験を行なかったかに見える(ポーはおそらく阿片中毒ではなかった)。これはおそらくフラナガンが心のどこかで独自のストーリーを書きたいと思っていたからだろう。Netflix版『アッシャー家の崩壊』は、純粋で生々しく、スタイリッシュで素晴らしい恐怖の瞬間を数多く含んでいる。とはいえこの映像作品は、その元となる素材を均一に把握できずに失敗しているので、むしろその元となる素材にまったく依拠していなければ、かえって成功していたことだろう。理想的なフラナガン作品への鍵は、いいとこ取りの翻案などではなく、完全にフラナガン自身の発案によるストーリーの展開にあると思われる。


下は謎の女性ヴェルナについて語るカーラ・グギノ。「彼女はスーパーナチュラルな存在。悪魔ではなく、悪しきものですらない。人々は死に臨んで、彼女を前に本当のことを話す機会を与えられる…マイク・フラナガンは私に言った、『アッシャー家の人々は個々の楽器で、ヴェルナはこれを一つにするシンフォニーのようなものだ』と。」


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