以下は去る2023年10月27日、Ahmed Honeiniとおっしゃるイギリスのアメリカ文学研究者の方が「The Conversation」というサイト上に発表した「Netflix版『アッシャー家の崩壊』:ポーを讃えることに失敗した脈絡のない言及のごちゃまぜ(Netflix’s The Fall of the House of Usher: an incoherent mess of references that fails to honour Edgar Allan Poe)」という英文記事の全訳です。例によって元記事を書いた人には無断で訳しますので、前触れなく削除する場合があります。ポーを読む方の参考になれば幸いです。
Netflix版『アッシャー家の崩壊』は原作の質を損なっている
以下の記事はネタバレを含みます。
エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」(1839年)はアメリカ文学史上もっとも有名な短編小説の一つである。疾病、精神疾患および早まった埋葬を主題とするアッシャー兄妹、すなわちロデリックとマデラインの破滅の物語は、多くの世代にわたる読者を震え上がらせてきた。
ポーの小説はこのたび、同名の新しいNetflixシリーズに着想を与えた。『アッシャー家の崩壊』は8話から成るアンソロジー・シリーズで、監督のマイク・フラナガンは同じくNetflixで配信された『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』(2018年)や『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』(2020年)も手掛けている。
フラナガンはこのホラーというジャンルについて明らかに造詣が深く、今日この産業におけるトップクラスの創造的人物の一人という実証された評判を得ている。この新シリーズは、ポーの作品を現代の視聴者たちに紹介するための理想的な販路となるはずであった。
『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』や『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』に見られる通り、原作を翻案する上でこれに大幅に手を加えることは、それ自体は何も悪いことではない。だが『アッシャー家の崩壊』はポーからの引用を編み直し、貼り合わせ、混ぜ合わせているために、効果が混乱している。
このように新味のない引用はあまりに頻繁なので、結果としてショーは支離滅裂で、今なお読者にショックと、恐怖と、魅惑をもたらすポーの作品の質をはなはだしく損なっている。
的外れの言及に終始
このシリーズは、アッシャー家が富と名声をかけたファウスト的な契約を、謎の女性ヴェルナ(「Verna」は「Raven」の陳腐なアナグラム)と結んだのち、急速に崩壊する様子を描いたものである。ポーへの言及は、初めのうちは当て物として楽しめるが、すぐに退屈で耐えられないものとなる。
たとえばアッシャー家の子供たちの名前、フレデリックやタマレーンやヴィクトリーヌやカミーユやナポレオンやプロスペロは、ポーの「メッツェンガーシュタイン」や「早まった埋葬」や「タマレーン」や「モルグ街」や「眼鏡」や「赤い死の仮面」といった詩や短編から採られている。ただ採られているというだけで、これらの言及にはほとんど何の関連性もない。
こうした薄っぺらさはこのショーにおけるロデリック・アッシャーの描写に輪をかけて認められる。彼は詩人になりたいという若いころの夢を繰り返し思い出す。無数の場面において、彼は自分が書いたことになっているポーの「アナベル・リー」や「大鴉」等、その他数限りないポーの詩からの引用を、長々と暗唱する。
私に推測できるのは、このショーの作者はこうした引用によって、ロデリックをその冷酷で助平な本性にかかわらず、なおかつわれわれの同情に値する、繊細で、心乱れた、悲しい男に見せかけたいのではないかということだけだ。私はこのシリーズに出てくる人間に何のシンパシーも感じない。
特に第一話「物寂しい真夜中に」、第六話「ゴールドバグ」、第八話「大鴉」は大失敗だ。これらは資本主義的搾取に対する鋭い批判というショーのテーマに合わせるために、「ウィリアム・ウィルソン」や表題作「アッシャー家の崩壊」のようなポーの短編を歪め、ねじ曲げている。
これらのエピソードは、アッシャー家をロックフェラーやトランプやサックラー等の悪名高き大富豪一族と比較することに懸命で、これに夢中になるあまり、ポーの原作のエッセンスが最良の場合でも破壊され、最悪の場合には完全に失われても止むなしとしている。
二つのエピソードが救い
ポーの作品を成功裡に利用していると思われるのは第四話「黒猫」と第五話「告げ口心臓」だけだ。この二つのエピソードは、ナポレオンとヴィクトリーヌという二人のアッシャーたちについて、その精神的崩壊と変死を軸として展開する点で共通している。ポーの原作同様、ナポレオンもヴィクトリーヌも、みずからの過ちに心を病む。ナポレオンはあやまって殺してしまった猫の代わりに手に入れたそっくりの猫に責め立てられる。この化け猫によって狂気へと駆り立てられた彼は、破壊的な乱行に及んだ挙句、自死を遂げる。ヴィクトリーヌは通常の医療研究の手順からの逸脱を試みたのち、不断の心音に取り憑かれ、やはり自殺に追い込まれる。
いずれのエピソードもポーの原作に対して、罪と、憎悪と、暴力という中心的なテーマを維持している点で忠実だ。これらは人々が人間にも動物にも感じるかも知れない恐怖心に訴えかける。
ナポレオン役のラフル・コーリ、およびヴィクトリーヌ役のタニア・ミラーの卓越した演技は、原作のうちに大書されているホラーと、パラノイアと、フレンジーの感覚を巧みに捉えている。とりわけ注目すべきは、この二つのエピソードが、ポーの作品からの引用を採掘することにさほど執着せず、何よりも魅惑的な映像を創り出すことに専念している点である。
もしこの『アッシャー家の崩壊』が何か有益な目的に資するとすれば、それはポーの作品を新しい世代の読者に発見させることだ。Netflixは、有難いことに、視聴者に対してカンニングペーパーを配布することで、無数の引用がポーのどの作品に依拠するものなのかを教示してくれている。
とはいえ、私はこれらの若い読者が、もっぱらポーの美点にアプローチすることを切に望む。ポーの中にこのシリーズに見られるような歪曲や冒涜を見出そうとしてほしくない。このシリーズは、その可能性を裏切って、権力や強欲に関する表面的で凡庸なストーリーを語るために、ポーの驚異と恐怖とを犠牲にしている。
上のレビューには2023年11月11日現在、2件の批判的なコメントが寄せられていて、下はそのうちの一つ。
この記事は評者がポーについても、フラナガンについても、創造的プロセスについても全く無知であることを示している(ポーは同時代の社会や強欲や不正や資本主義を批判していた)。このシリーズは傑作であり、脚本は絶妙を極めている。そうしていつものように、単なるホラーではなく、この評者にはさっぱりわからないらしい意味というものがこめられている。最後に、言い忘れるところだったが、私は歴史に無知な文学専門家にはもううんざりだ。