魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の二十四

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郡山城奈良県大和郡山市)は桜の名所でもある。ウィキメディア・コモンズより。

㊳著者伊東眞夏の細川藤孝人物評

ここで著者伊東眞夏による細川幽斎の人物評をひもといてみよう。
細川藤孝(幽斎)は、戦国時代を生き残る知恵をどうやって身に着けたのか?
細川藤孝は、三淵晴員はるかずと智慶院(公家で学者の清原宣賢のぶかたの娘)の次男として生まれた。実兄は三淵藤英。縁あって七歳の時、細川家の養子となる。やがて、十三代将軍足利義藤(後の義輝)の偏諱へんきを受けて、藤孝として元服する。
真偽のほどは兎も角、十二代将軍足利義晴落胤とも云われている。つまり足利義輝や義昭とは庶兄の続柄となる。それを細川藤孝自身がどこまで信じたのか、人格形成にどのような影響を及ぼしたのかは知ることはできない。血筋的には将軍職に推挙されても不思議ではない。彼自身の認識では手の届かないものではなかった。戦国時代にあって、特異ともいえる自分を強引に売り出すことが無く、一見無欲の人に見えるのはそうした環境が作用したのだろう。冷静に天下人になるということは、どういうことなのかと観察していた。
将軍の権威といっても、藩屛はんぺいの守りがあってこそ保てるものなのだ。義輝の頃にはそれらはほころび、崩壊しており、将軍は裸同然であった。利用できる間は利用され、利用価値がないとされると全方位から射的ゲームの的にされる側面を持っていた。
それを知る幽斎は、天下争奪戦から距離を置いていた。権威の側面をかいま見ることのない信長、秀吉、家康は何れも、熾烈な天下争奪戦の中に身を置いて遮二無二奮闘していた。しかし幽斎は、足利義輝が惨殺された時は、幽閉され、おそらくは殺される運命であった覚慶(足利義昭)を助け出し、越前朝倉家に寄寓させた。
光秀と幽斎が出会ったのは朝倉家の屋敷であった。二人は、意気投合した。特に五歳年上の光秀の方が、これは運命的な出会いと感激したらしい。独学で身に着けた教養の限界を知る光秀にとっては、何事もそつなくこなし、筋目の良い教養(古今和歌集の正式な継承者)を持つ幽斎に憧れたのかもしれない。おそらくは精神的に兄事けいじ していただろう。
その仕上げに幽斎の嫡男、忠興に娘の玉子をめとらせたのだから、光秀は幽斎のことで知らないことはないと思い込んだのだろう。しかし、光秀は幽斎の冷徹な人間観察力と、何故足利義昭が、信長に京都を追放されるまで信長に臣下の礼を取らなかったのか、その理由を些末なこととして処理していた。何故幽斎は、光秀に五年遅れて臣下の礼をとらなかったのだろうか?義昭がともに追放されても見捨てなかったのか?
それは、幽斎に流れる貴人の血が許さなかったのである。自分は只々足利の血脈に敬意を表していたので、仕える主人は足利の血脈以上の価値が無ければならない。天下人(主席)に相応しい器量人でなければならない。信長はそれを知ってか知らずか、自分に臣下の礼をとった幽斎に即刻丹後一国(光秀の隣国)を与えている。その意味では信長と幽斎はお互いの価値を認め合っていた。無欲な幽斎は、自分は主席にならなくても、次席でも構わないが、自分が仕える主人を選ぶのだ。
幽斎にとって、光秀は盟約を結ぶには相応しい人物であるが、臣下の礼をもって仕えるのに相応しい人物ではない。光秀に援軍を送らない。幽斎の決定は誰にも覆せないのだった。

㊴六月十一日:洞ヶ峠

光秀は下鳥羽、南殿寺で筒井順慶の援軍到着を待っていた。
ねぎらいの酒と肴を充分に用意させていた。しかし、深夜になっても援軍到着の報せはこなかった。見かねた斉藤内蔵助が言った。
「筒井殿が見えられたら、直ぐにお知らせに上がります。それまで別室でお休みになられたらいかがでしょう」
「うむ、そうだな」
盟友が次々と離れてゆく。気持ちが萎えそうな光秀は、一寝入りすれば気持ちも状況も変わると自分に言い聞かせて就寝した。
体中をグルグル巻きにされ、水底にいる夢を見た。息ができない、このままでは死んでしまうと思った途端に目が覚めた。光秀は床を払って広間に進みでた。
そこには、昨日のもてなしの宴会の用意が、そっくりそのまま残されていた。
「誰か」
「は!」
斉藤内蔵助が駆け付けた。
「筒井はどうした」
「未だに」
いつになく、歯切れの悪い内蔵助の返答に光秀は苛立った。
その苛立ちを並べられたままになっている膳に向け、蹴り散らした。
「お気を静められよ」
「筒井を討つのだ」
「し、しかし、それは」
筒井を討てば、自分たちは完全に孤立無援となる。
光秀は構わず言った。
「筒井に使いを出せ。これより我らは大和の国境に兵を出す。速やかに合流されたし。
さもなくば」
と言いかけた時、物見の者が駆け込んできた。
「報告します」
「何だ」
「噂では羽柴秀吉に率いられた軍が、姫路から尼崎に移動中。その数三万」
内蔵助は驚いて光秀を振り返った。
「そんなことは捨て置け」
「しかし、三万の兵とは並大抵ではありませんぞ」
「流言飛語に惑わされるな。それがあの秀吉のやり方だ。我らを混乱せせるつもりだ。第一、奴は毛利に掛かり切りで、動けるわけがない」
「それはそうかもしれませんが」
「そうに決まっている」
「事が事ですから、真偽のほどを確かめてみませんと」
内蔵助は冷や汗をかきながら言った。
「それ程心配なら、確かめるだけ確かめるがいい。しかし兵は筒井に出す。直ぐ筒井に使者を送れ。我らに協力せねば、一気に踏みつぶすと」

全軍に慌ただしい出陣命令が下った。
明智軍は朝、下鳥羽を出発し、昼前には淀川を渡った。そこから行軍し、洞ヶ峠に陣を張った。
ここで、光秀は筒井順慶に最後の使者を送った。光秀のもとに、直ぐ郡山城主・筒井順慶からの使者が到着した。
「まず申し上げます。我がお館、筒井順慶の病気の報は、その場の取り繕いでした。お館は息災です。只諸般の事情で兵を出せとのご要望には応じかねます」
「しかし、それでは・・・」
「それがご不満とあれば」
使者は斉藤内蔵助の言葉を遮って、口上を続けた。
「ご随意に我らの城を攻められよ」
「我ら一万五千の兵をもって攻めれば、郡山城など二日も持たぬぞ」
「おそらく、そうでありましょう。しかし我らは二日もあれば十分でございます。そうなれば、全滅の憂き目を見るのは、明智殿の方でございましょう」
「何を」
「光秀殿は羽柴秀吉殿が東上されていることをご存じありませんか」
「筒井殿もまた、流言飛語を信じられるのか。秀吉は毛利家に張り付けになっている筈だ」
「畏れながら、毛利とは和議成立の由」
「・・・」
「既に七日前の事でございます」
「そ、それは」
明智殿の密使は毛利に着く前に捕らえられました。秀吉は本能寺の変が公になる前に、毛利との和議を成立させました。その上で軍を反転させ、七日に姫路、九日には尼崎に向けて進攻しております。もし、ここで明智殿が我らを攻めれば、直ぐに秀吉の軍が背後を突きましょう。我らは今でこそどちらにも味方をしませんが、攻められれば防戦いたします。二日持てば、秀吉軍が、明智軍を完全に包囲するでしょう。そうなれば、不本意であっても我らも秀吉軍に加担いたす所存でございます」
「うむ」
「どうか、このまま穏便にお引き取りください。このまま兵を引かれたなら、背後を襲うような真似はいたしません」
使者はゆっくりと頭を下げ、帷幄いあくを出て行った。
光秀は使者の口上を聞いただけで、完全な敗北を喫したような気がした(使者も胆力がないと務まりませんね)。
順慶は自分にできるのは、光秀を見逃すことだけだと言っているのだ。

そこへ明石方面からの偵察兵が戻ってきた。その報告は、筒井の使者の言っていることを裏付けしただけだった。しかも、秀吉は既に富田へ、淀川の目と鼻の先まで進軍しているとのこと。秀吉は指呼の間に来ているのだ。最早、見栄だの外聞だのに拘っている場合ではない。すぐさま陣を引き払らわねば。
光秀は、筒井の使者に深謝するとともに、洞ヶ峠の陣を払い、下鳥羽まで兵を引いた(出陣と退陣のスピードがどんどん速くなります。軍を維持できなくなる前兆ですね)。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

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