魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の二十五

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「長篠合戦のぼりまつり」の様子。ウィキメディア・コモンズより。

㊵六月十一日:富田

一方、光秀がすばやく陣払いをした報せを聞いた秀吉は、軽い失望を覚えたものの、落胆はしなかった。勿論光秀が郡山城を攻めたならば、秀吉は一気に明智軍を打ち砕く算段を整えていた。秀吉は独り言を言った。
「光秀、まずは命拾いしたな。・・・それにしても、あの男(筒井順慶)の馬鹿さ加減はどうだ」
秀吉は思った。目先の安全を守る一面しか見ず、大手柄を逃した馬鹿者だ。わざと光秀を怒らせ、郡山城を攻めさせ、あと二日辛抱すれば、この秀吉が背後から光秀を仕留めたものを。さすれば筒井順慶は、この戦で一番の手柄を上げて、領地でも黄金でも望みのままに手に入れられたであろうものを。それどころか、わしが大返しをして富田へ来ていることまで、光秀に喋りおって(秀吉は筒井順慶の気持ちなど考慮していない)。
実のところ、秀吉軍は姫路を出発して以来、不思議な高揚感に包まれていた。例えば国を挙げての祭りに参加しているような雰囲気が、中国路を駆ける間に醸成されていた。総大将秀吉の“天下人に成り上がれる絶好のチャンス”の気分が反映されたからであろう。
秀吉は黒田官兵衛の描いた絵に従い、毛利との際どい和議を成立させると、岡山から姫路まで約八十キロの行程をひたすら走れと命じた。その行軍の様は、毛利に背後を襲われる恐怖を常に感じながらの遁走といったほうが正確であったろう(毛利家は元就三男・小早川隆景の厳命により追走を断念した)。この時秀吉自身は、身の安全を図り、船で姫路入りをした。
もはや背後を気にする必要が無くなってから、初めて目の前の敵、明智光秀に気を配る余裕ができた。秀吉はここに来て、自分が乾坤一擲の大博奕をしていることに気付かされた。
ならば、賭け金をケチってはいられない。姫路城に蓄えた軍資金、兵糧を全て兵士たちに分配し、空っぽになった金蔵と米蔵を披露した。大盤振る舞いをした。
兵士たちは一斉に町に繰り出し、思う存分飲食をし、遊び、軍を挙げての乱痴気騒ぎをした。
そして九日朝、全軍東に向かって移動を開始した。兵士たちは思った。仇討ちか何か知らないが、死ぬほど走った後、存分に遊んで、一文無しだ。何だかサッパリしたもんだ。よし、後は戦うだけだ。兵士たちの心は軽やかだった。
姫路城下は秀吉特需で潤った。秀吉は光秀と決着をつける意気込みを、自分自身も空穴からっけつになることで、兵士たちに示した。

㊶六月十二日:下鳥羽

洞ヶ峠から引き返した光秀は、下鳥羽の南殿寺に入った。湿気を含んだ生暖かい風の中の行軍は、明智全軍を疲労困憊させた。もう一歩も歩けないと泣き言まで出てくる有様だった。夕方には雨になった。低く垂れこめた雲が、遠く光ったかと思うと、肚の底に響くような雷が鳴った。
その驟雨を突いて、間者から秀吉軍が動き始めたと報告があった。
「ついに来ますかね?」
斉藤内蔵助が光秀の顔を覗き込んだ。
「うむ、おそらくは明日の朝。夜襲は無いだろうから、今のうちに皆休め」
光秀は自分に言い聞かせた。明日はかなり厳しい戦になるが、これで決着がつく。
当初の目論見とは多少ズレが発生しているが、まだ綻びてはいない。自分の望んだことはこういうことだったのだ。織田の残党を結集させて一気にカタをつける(筆者はここで旧織田軍が反秀吉で簡単に纏まると光秀が考えているのも不思議です。織田家からしたら、光秀はどのみち外様とざまの存在だと思うのですが)。
明日の戦いこそまさに正念場だ。
兵員数では、確かに劣勢だが、秀吉軍は即席の連合軍だ。結束の程度は強くないだろう。そこにわが軍の勝機がある。秀吉軍は、仇討ちを主眼とし、逸る気持ちで遮二無二攻めてくるに違いない。そこを、じっくりと腰を落ち着けて、迎え撃つことができる。云うまでもなく野戦では、敵を自軍の有利な場所におびき寄せた方が勝ちだ。光秀の頭脳には、勝敗の機微が計算されていた。
しかし、その計算には秀吉を過小評価した誤差が含まれていることを、心労のためか、光秀は気付かなかった。
光秀と秀吉は、云うならば織田兵軍学校で主席を争う頭脳の持ち主だった。
この時、二人の頭脳にあったのは、野戦の教科書ともいえる長篠の戦だ。長篠の戦といえば、馬防柵や鉄砲隊の三段撃ちが有名だが、何といってもそれ以前に用意された場所(馬防柵が設置可能な場所、銃を持った兵が隊列を組める場所)に敵をおびき寄せることができたことが、武田家に勝った最大の勝因である。二人とも戦闘の行われる場所には充分留意しただろう。ただ光秀は肝心なところを読み間違えた。即ち秀吉軍がどの様なモチベーションを持ち、戦いに挑むかを読み間違えた。そのことを光秀は、夜明けと同時に思い知らされる。

雨は夜明け前に止み、日が昇り、霞が立った。南殿寺の光秀のもとに、伝令が駆け込んだ。
この時点で、秀吉軍の姿がそろそろ見えてくる頃だろうと想定していた。
「秀吉はどこまで来ている」
「秀吉軍は、昨日富田を出て山崎に到着、そこに留まっています」
「山崎?山崎まで来て、そこから動いていないのか?」
「はい、山崎に陣を張っております」
「何?山崎に陣を張っただと?」
驚愕した光秀は、地図に目をやった。山崎。光秀の視線はその一点で動きを停めた。「やられた」声にならない声を出した。
光秀は秀吉の意図をすぐに理解した。秀吉軍は山陽道を駆け上がってきた。山陽道は、山崎で、西国街道と二股に分かれる。どちらの街道を通っても上洛できる。
ここで光秀は、初めて秀吉の戦略が自分より一枚上手だと気が付かざるを得なかった。
“信長の仇を討つ” を旗印に秀吉軍はひたすらに明智軍を目指しているものだと思い込んでいた。しかし、現実には秀吉は山崎に陣を張り、光秀にここまで来て戦えと手招きしている。光秀が山崎まで攻めに出なければ、秀吉は難なく西国街道を上り、上洛するだろう。秀吉に先に上洛されたら終わりだ。光秀は正真正銘の逆賊になってしまう。
秀吉の目的は天下を掌握することだったのだ。戦の場所を山崎とするのは、既に秀吉の術中にはめられているのだが、もはやそんなことに拘っている場合ではない。山崎への進軍を躊躇ためらっている場合ではない。もはや待ったは無い。
光秀は下知をした。
「陣を払い、出撃する。全軍に触れて廻れ」
明智軍は、慌ただしく陣を払い、山崎への行軍を開始した。

㊷六月十二日:山崎

山崎は淀川に面した、商人の町だった。淀川の水運を利用し、良質な京都の酒を、大坂に運ぶ中継地として栄えた。町の規模そのものはさして大きくないが、裕福な町屋が並んでいた。
鳥羽街道は、淀川に沿って走っている。大坂方面から京都に向けて鳥羽街道を進むと、左に摂津の峻厳な山並みが見える。見ようによっては淀川の流れが、山並みに強引に押し曲げられた形になっている。その山並みの端の一番高いところが、天王山と呼ばれている。
秀吉はその天王山の麓に主力軍を置いた。山と川に挟まれた隘路あいろを抜けると、目の前に平野が広がってくる。秀吉軍はその平野に、扇を広げたように陣を配置した。
更に、天王山山頂に軍師・黒田官兵衛義孝と羽柴秀長(秀吉異母弟)の陣を張らせた。
今しがた、一騎の伝令が秀吉の本陣に駆け込んできた。
「報告します。明智軍は今朝、下鳥羽の陣を払い、ここ山崎に向けて兵を発進させました」
「そうか、明智が動いたか」
秀吉は床几から立ち上がり、大きく頷いた。
来い、明智。お互い信長公のもとで勤め、手の内を知悉した間柄だ。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―