一天一笑さんによる吉川永青の歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第十六回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。
幽斎玄旨、御所に挨拶に来る。
時は1587年7月中旬、「お懐かしゅうございます」と御所に一人の訪問客がありました。
得度して幽歳玄旨となった細川藤孝が、一人でやって来ました。
島津義久から、幽斎が降伏を勧めた事を聴いた秀吉は、甚く喜んで、自ら帰洛を勧めてきました。義昭も快諾し、帰洛の際には、征夷大将軍位を返上すると申し出ていました。
細川藤孝は、その交渉役・秀吉側の代理人です。京都での住居・俸禄・日取り等、詰めるべき要件は山ほどあります(秀吉から、義昭との如何なる小さな蟠りも解いておけとの下命を受けている)。朝廷への征夷大将軍位の返還に見合うだけの、秀吉と義昭の条件闘争の側面も見受けられます。
もう一つ、細川藤孝には、義昭の兄義輝が従五位兵部を授けた関係で、藤孝を兵部と呼んでいた足利義昭に、個人的に詫びて“過去の心の荷物・負債”を整理したい気持ちもありました。幽斎は平伏したまま、真摯な声で言いました。
「上様を裏切り、織田に奔りました事、どうかご堪忍賜りますよう・・」
義昭は思う。信長に敗れた宇治真木嶋の戦の折、余に蔑みの眼差しを向けたのもこの男にとっては昔のことだ。余とて同じく、全ては終わった事なのだ。今更、互いに恨み辛みに思うことはないのだ。心から安堵し、昔の一乗院覚慶に戻ったかのような清らかな心で、義昭は幽斎に応じました。
「兵部・・・いや幽斎殿。お手をあげられよ」
義昭は越し方を語った。信長が自分の有利に働いてくれるように、わざと藤孝を伝手に内情を筒抜けにした。改めて幽斎を利用したことを恥じた。そして、光秀を道具として使い捨てにしたことも。
「貴殿の生き様も同じだ。余と関わって歪んでしまった」
義昭は、すっくと主座を降り、幽斎の正面に位置し、畳に額を擦り付けて言った。
「詫びるのは余だ。貴殿ではない。貴殿に咎は一切無いのだ。余も許されるとは思っていない。只貴殿に信長と関わってからの年月を、こうして全て話したかったのだ」
貴殿に憎まれても良い、蛇蝎の如く厭われても良い。それで貴殿の気が済むなら満足である。
「・・・全ては過ぎた事にございます。義昭さまこそ、どうぞ手をお上げなされ」
驚くべき一言に思わず、義昭は顔をあげました。
「今の義昭さまは、全てを悔いておられます。幽斎は嬉しゅうございます。ようやく、一乗院から救い出した頃の義昭さまに戻ってくだされた」
幽斎は、自然に愛情に満ちた微笑をした。
「左様に申してくれるか」
義昭は、自然に柔らかく微笑み返し、礼に則り、もう一度頭を下げた。
義昭の帰洛
天正16年(1588年)1月、義昭は、再び得度し、“昌山”と名乗った。
そして数日後、秀吉と共に、後陽成天皇のいる禁裏にあがりました。
「忝き思し召しを賜りましたこと、恐悦至極に存じます。准后の立場を汚さぬよう、この昌山、襟を正し、世の中のために尽くさんことをお約束奉り申し上げます」
御簾の向こうに朧気に姿を現している後陽成天皇は、か細い高い声で只一言いった。
「励め」
すぐさまいなくなった。
昌山は、関白秀吉から一万石の所領を受けた。また内裏・朝廷からは、将軍位の返上に伴う待遇として、准后(天皇の祖母にあたる太皇太后・母になる皇太后・そして配偶者の皇后の“三后”に准じる“准三后”)の立場となった。
これは、天下人は秀吉であるのは揺るがないが、位としては准后の方が上回る立場となった。
これも、全て秀吉が計らい、内裏に奏上した結果である。さすが秀吉ですね。
謁見の間から退出し、秀吉と肩を並べて歩いていた義昭は丁寧に礼を述べた。
「此度のこと、全て関白殿下のお計らいと存じます。一方ならぬお骨折りの段、深く御礼申し上げます」
そこには嘗て秀吉を自分の陪臣と見下していた義昭はいませんでした。
「いやいや、将軍位を返上される旨を知り、世の静謐を思うその御心に御報い申しあげねばと思うたまでにござる」
関白となった秀吉は、武家言葉で昌山と会話をしました。以前木下藤吉郎だった頃の尾張弁丸出しの田舎武将ではありません。「立場が人を作る」の良い意味での典型ですね。
昌山は続けて、秀吉に話しかけます。
「以前、毛利にいた頃、貴殿こそ私が求めた静謐を実現されるかと思いました。世が定まるのは喜ばしき話にござる」
「関東の北条・奥羽の伊達などを従えれば、世に平穏が訪れましょう。暫しお待ちあれ」
「それは、頼もしきかな。されど・・・」
秀吉は「されど」の言葉に反応し、眉をピクリとあげた(不愉快な仕草)。
「されど、ご存念がございましょうか?」
「いや、さにあらず。一つだけ申しておきたい儀がござります。老婆心ながら、世の頂点に立った時こそ、ぶつかる壁についての話でござる」
秀吉の仕草から、不愉快が失せた。
「それは、ありがたきお話にて、如何なるお知恵かな?」
「いや何、大した話では。天下を握る前より、握った後が大事という程度の事です。抑々、足利の幕府は何故力を失くしたのか。それは、累代幕府を踏み台に遣おうとする輩を撥ね退ける力が無かったからである。父祖の治世に於いて下の者が力(武力)をもつ流れが定まっていたのがすべてであった。最早世を従える力はなくなっていった。翻って、貴殿は多くの領国と兵をお持ちだ。同じ轍を踏む懸念は無いと思し召しであろう」
秀吉は興味深げにうんうんと頷いた。
「実はそうでもないと?」
「貴殿が天下人となる道程の関東や、奥羽の平定は必ずなされるだろうが、新しく豊臣家中となる者の内心はどうであろうか?押さえつけらえたとの思いを払拭しない限り、面従腹背をする者も出てくるだろう」
秀吉は、真剣そのものといった目で、聞き入った。長年、信長の下で沢山の裏切りを見てきて、いろいろ覚えがあるのだろう。
「なるほど、充分に用心することに致します」
「それに越したことはございませんな。もっとも、その様な者の力は小さきものにて、恐るるに足らず」
「ほう、それでは如何なる者に用心が要ると思われます?」
昌山は右を向き、頭二つ小さな秀吉を見下ろす格好になって、ニヤリと笑いながら言った。
「天下を平らげる戦にて、功を挙げたその者たちだ」
「それはまた、どの様な思し召しにて?」
昌山と秀吉は、思わずお互いに顔を真っすぐ見交わす形となった。昌山は躊躇わず言った。
「貴殿は優れた御仁なれど、ご家中には貴殿を凌ぐ才子とておられるかと」
「勿論おります。その様な者には叛く気が起きないほど、恩を施せばよろしいかと」
秀吉は少し嫌そうな顔をしながら、これまた躊躇わず言った。
昌山も秀吉に負けず劣らず真剣に、丹田に気を込めて言った。
「それが、間違いの元」
昌山には、手柄をたてた者を厚遇したいのは人の常だが、人の上に立つ者にはそれが甘さとなることがある、脇が緩くなるとの思いもあった。
さすがの秀吉も、ウンザリした視線を昌山に向けたが、それでも昌山は口を噤まなかった。
「たとえ、貴殿のために命懸けで働き、軍功を挙げた者でも、優れた者は早目に取り除くが肝要なり」
「いやはや、左様に無体な差配があるものか。それでは天下が治まりますまい」
秀吉は次第に渋面になり、些か失笑し、だからお主は幕府を潰してしまったのではないかと言いたげな口ぶりだった。
昌山は思った。確かに己は愚物である。秀吉のように、天下に号令を掛けられる器には、到底及ばぬ。しかし、だからこそわかることがある。
「果たしてそうであるかな。愚物を哄笑し、自らの高尚に安堵する人の常にこそ落とし穴にございます」
そして自らの右手の食指を立て、自分自身に向けた。
「この私と同じになる。人は愚かなもので、自分の愚物ぶりに気が付いた時には取り返しがつかない、とわかる。遅すぎる」
昌山は、秀吉から眼差しを外して、枯山水の庭に向けた。そして言葉を続けた。
「人の世の流れは止められぬ。足利の天下が乱れたのは父祖の代なれど、幕府を決定的に立ち行かなくしたのは私だ。それを認められずに、随分と無様な姿を晒し続けた末、己の器量を思い知ったのだ」
昌山の心からの忠言であったが、秀吉は、粘りつくような怒りを持って応じた。
赤ら顔の猿面が朱色に染まる。しかし、何か気になるのか、頭ごなしに一蹴はしない。
即ち秀吉は、ほぼ治天の君となった現在でも、自分のあり様を疑っている。ならば、早々に自ら見いだせよう、この蒟蒻問答の答えを。
“天下を治めるものは人であってはならない”
「貴殿は、この秀吉も同じと仰せなのか。些か無礼が過ぎますぞ」
秀吉の憤激した面持ちにも構わず、昌山は言葉を続けた。
「私が踏んだ轍などそこら辺に転がっています。ゆえに申すのです。世を正しく保つためには、天下の主はどうあるべきか・・・手始めに力ある者や功ある者を早めに取り除くことなのですわい。これを成せば、貴殿の前には自ずと次の道が示されましょう」
秀吉は奥歯を噛み、釈然としない顔になった。
義昭は思う。今はそれで良いが、不肖の将軍であった私の言葉を正しく受け取る時が来るだろう。その時こそ、人を捨て、この世に確かな秩序を作りだすだろう。愚物な私には過ぎた役目であったが、この男なら成し遂げるであろう。私の最後の言葉を受け取るに相応しい器だ。
「我が忠言はこれまでにてござる。然らば、お先に」
昌山は、立ち尽くす秀吉に会釈して、一人静かに自然な裾捌きで歩いていった。
豊臣の世を生きる昌山は、文禄・慶長の役(1592年~1597年)に際し、200の兵を率いて准后として、本陣の肥前国名護屋まで出陣している。
1597年、病により大坂まで陣を引き揚げ、大坂に戻って間もなく病没した。享年61歳。葬式は、細川幽斎が責任を以て執り行いました。
あの世の昌山は、一年後の秀吉病没ののちに、ゆっくりと豊臣家が政権の座から転落してゆくのを如何思ったろうか。
筆者は、秀吉は昌山の言葉を正確に受け取ったと思います。それは、秀吉の晩年に行った人事が示しています。最古参の家臣・前野将右衛門(土木工事の名人)に対する苛烈な処遇。秀吉の武将人生後半の軍師・黒田官兵衛義高への領地を地政学的に微妙な九州・筑前国黒田藩に据えた事(薩摩の島津に睨みを効かせるため?使い捨て?)。
わけても、黒田官兵衛義孝の出家の経緯。それは官兵衛義孝の文禄・慶長の役の従軍の態度・功績を鑑みて、無理筋にも軍令規律違反を侵したと、ほぼ因縁をつけて出家させた事ですね。
まあ黒田官兵衛は、キリスト教徒(洗礼名シメオン)でしたから、何れは何かの始末をつけたかったかもしれませんね。かくして、黒田官兵衛は、法体となり“如水軒円清”となります。
それらの決意をした瞬間に、“天下を治める者は、人であってはならぬ”の昌山の言葉は、秀吉の脳裏に蘇っただろうか。(了)
後書き
思いもかけぬ長編になってしまいました。
お付き合い頂いた読者の皆様に心より感謝申し上げます。
純粋で線の細い明智光秀の苦悩、滅びゆく血統に生を受け、世の流れを変えようとバケモノになってまで試みて失敗した後、人間に立ち返って新たな使命を果たした足利義昭の人生をお楽しみいただければ幸甚です。
あらためて、吉川永青著『毒牙・義昭と光秀』をお勧めします。
一天一笑さん、長期にわたる連載、まことにお疲れ様でした。