魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の二十六

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円明寺川(現小泉川)は桂川へと注ぎ込んでいる細い川で、上の写真でいうと、右手に明智勢、左手に羽柴勢が陣取って対峙した。4travel.jpより。

㊸六月十二日:対峙

結局のところ、明智軍が下鳥羽の陣を払い、山崎に向けて進軍を開始したのは正午過ぎだった。
指揮命令系統が混乱しているせいか、かなり手間取って、時間を浪費した。
途中桂川を渡った。普段の水量はせいぜい大人の膝丈くらいしかない桂川だが、この時は前夜の大雨の影響で増水していた。兵士たちは、場所によっては胸まで水に浸かって行軍しなければならなかった。しかも重い鎧兜を身に着けたままである。重労働どころか、溺死の可能性さえあった。明智軍は山崎の決戦を前に、無意味な戦力の消耗を伴う渡河をしなければならない状況に追い込まれていた。夕方近く、やっと勝竜寺城に入った。
ここから山崎は目と鼻の先である。光秀は勝竜寺城の望楼に上り、夕日方向に位置する羽柴軍を初めて見た。羽柴軍の溢れた兵は天王山山頂まで覆っていた。姫路に到着した時は、せいぜい一万二~三千だった羽柴軍は、街道を往くにしたがって増えていった。主人信長を失った家臣団が合流した結果、尼崎を経て富田に到着した時、羽柴軍はその数三万五千にまで膨れ上がっていた。光秀が見たものは所謂摂津衆(中川清秀池田恒興、加藤光康、木村隼人高山右近)の旗印だった。盟友であった筈の面々がそろって自分の敵に廻っている。光秀は頭を殴られたような気分になった。摂津衆の兵員数は、せいぜい五千程度であったが、光秀の心理に与えた影響は計り知れなかった。
「ここはひとまず兵を引いてはいかがでしょう」
側にいた斎藤内蔵助も、羽柴軍の兵員数に圧倒されながら、言葉を続けた。
「いったん坂本に兵を引いて、籠城戦に持ち込んでは」
返事がないので、斎藤内蔵助は、上目使いに光秀の顔を覗いた。
「殿?」
思考停止状態の光秀は振り向いた。
「兵をいったん坂本に引き上げてはいかがでしょう」
「うむ」
頷きかけた光秀が、我に返ったように大声で言い放った。
「いや、ならん、一歩たりとも引いてはならん。戦うのだ」
光秀は、下鳥羽を出発した時から、この戦いの勝敗を度外視していた。ここで帝(京都)を捨てたら、頭に血が昇った独り善がりの正義だったと、その大義名分の拠って立つところがなくなるのだ。光秀には畢竟戦うしか道が無い。光秀の覚悟は三万五千の大軍を眼前にして揺らいだ。頭ではわかっていても、実際に目にするのとでは違う。天王山の麓を覆う黒山のような人だかりを構成している全ての人々が、光秀に対する憎悪を抱いている。
足が竦むような、首筋に冷たい風が当たるような重い気持ちを振り切るように、光秀は、待機していた軍に命じ、勝竜寺城を後にして、最前線に出発した。

㊹六月十二日:並河隊の発砲

山と川に挟まれた平野を円明寺川が流れていた。円明寺川は、ほんの数歩で渡り終える小川である。羽柴軍は、それを境界と定めてその西側に陣を張っていた。明智軍もその川を目指した。羽柴軍の先鋒は、右翼を池田恒興、左翼を中川清秀、中央を高山右近が務めていた。
彼らは誰一人欠けることなく、羽柴軍に従軍し、光秀に言葉の石礫を投げつけた。弓の弦を鳴らして「裏切り者」「謀反人」「恥知らず」の大合唱を繰り広げた。その声はどよめきとなって明智軍の陣営に響いた。光秀の胸には堪えるものがあった。
「皆の者、敵の言うことに耳を貸すな」
光秀は床几を蹴って立ち上がり、声の届くかぎりの将兵に呼び掛けた。
「正義は我にあり。我らは道を外れてはいない。謀反人、裏切り者ではない。言いたい奴には言わせておけ。遠吠えだ。それよりも、兵卒一人一人に言って聞かせよ。お前たちの主を信じよと」
だが、光秀の言葉が終わらないうちに、数発の鉄砲音が北の方角から響いた。
両陣営の動きが慌ただしくなった。光秀も秀吉も何があったのか、偵察兵を走らせた。鉄砲を放ったのは、丹波衆並河掃部の隊だった。彼らは、天王山の入り口あたりで円明寺川を渡り、敵情視察をしていた。ちょうど羽柴軍の左翼、中川清秀の部隊が集まっている位置になった。日はすっかり傾いて、人員一人一人の判別がもはや付かなかった。
中川隊の誰かが、並河隊の偵察に気が付いたのだ。目を凝らすと熊笹の間で何かが動いている。隊は緊張して集結した。しかし、直ぐにそれ程の人数ではないと気が付いた中川隊は、口々に並河隊に「裏切り者」「謀反人」の言葉を浴びせ、手当たり次第に石を投げつけたりした。並河隊に言わせれば、裏切り者は中川清秀の方だった。今まで明智軍(我が殿)のもとで働いて、世話にもなっていたではないか。それをあっさり手のひらを返して、矢を向けている。恥ずかしくないのか。恥知らずは貴様らの方だ。
しかし、並河隊がいくら声を涸らして叫んでもそこは寡兵の悲しさで、明智軍への「謀反人」「恥知らず」の大合唱は、止むことが無かった。
其の為、並河隊の一人が堪えきれず、鉄砲の火蓋を切ってしまった。
まさかの発砲に中川隊も慌てたが、大至急鉄砲足軽を呼び、鉄砲を撃たせた。
並河隊、中川隊の双方で撃ち合ったが、犠牲者は出なかった。
並河隊はそのままその場を去り、本隊に合流した。
十二日の戦闘らしい戦闘は、この鉄砲隊の応酬だけだった。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

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