魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の二十三

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宮津城の大手門と二の丸の塀。明治初期に撮影。ウィキメディア・コモンズより。

㊱六月十日:丹後国宮津

出家したばかりの細川幽斎は慣れない坊主頭を無意識に撫でながら、届いたばかりの光秀の書状を読み返した。次に光秀が返した自分の髷を見つめて、光秀が怒るのは当然だと思った。
しかし、それから程なくして光秀から第二便の書状が幽斎の元に届けられた。
書状はさすがの幽斎も胸を打たれる内容だった。まず冒頭で光秀は我を忘れて怒りに身を任せた事を詫びていた。更に頭に血が昇った感情の時が過ぎれば、幽斎のしたこと(出家したこと)はこの状況下ではもっともであると書かれていた。
まだまだ書状は続く。今までの昵懇のよしみを以て、何とか我が陣営に合力してもらえないだろうか。更に貴方が出陣できないのであれば、有力家臣を差し向けて貰う方法でも構わないと綴られていた。
光秀の書状を読み終えた幽斎は、庭に出て池でも眺めていなければやりきれない気持ちになった。光秀の応援要請に応えるつもりはないが、光秀の行く末を考えれば、何とも寝覚めの悪いことになる。
「父上」
廊下の向こうで、息子の忠興ただおきの声がする。
「こちらでしたか、父上」
「うむ」
幽斎は池を離れて、縁側に腰を落ち着けた。何と忠興の頭には髷が乗っているのではないか。無論着ている物も普段と変わらない姿である。親子揃って出家したはずであったが・・・
「光秀どのから書状が届いたということですが」
「ああ、そこにある。お前も目を通すがよい。なかなか面白いぞ。しかも随分と気前がよい。何でも、丹後と若狭の国をわしらにくれるそうだ」
忠興は、義父・光秀の書状を食い入るように読んだ。その忠興に実父・幽斎がまるで他人事のように話しかけた。改めて言うまでもなく、忠興にとって幽斎は実父であり、光秀は正室玉子たまこの実父、忠興にとっては義父の続柄となる。その光秀の窮状を訴える書状を読んでとても実父のように落ち着いてはいられない。忠興は逸る心を抑えながら、父と話した。
「父上」
「面白いと言えば、最後の一条などは一段と面白い」
光秀の書状は、三項目の箇条書きとなっていた。
第一項:救援を乞う。
第二項:恩賞として本領安堵の問題。
第三項:五十日後もしくは百日後に、今の問題が全て解決したなら、自分のすべての地位を、嫡男十五郎(光慶みつよし)と娘婿与一郎(忠興)に譲る。
幽斎が忠興をからかって言った。
「随分と豪気なものだ。これでお前も天下取りだな」
確かに文面だけを見れば、当年十四歳の十五郎に光秀の後継者として政務が執れる筈が無く、当年二十九歳の忠興が天下人光秀から指名されて、天下の仕置きをすることができる。しかし、娘婿とは言え、赤の他人の忠興に、信長公を弑逆してまで得た天下をみすみすを簡単に譲ったりはしないだろう。読む側が自分の都合よくとる人物ならば、目の前の好餌に喰いつくだろう。優れた現状分析の能力を持ち、数多の書状を読みこなしてきた幽斎だからこそ、光秀の書状に込められた策略に気が付いたのだった。ここで光秀の書状に隠された策略を説明しよう。
確かに五十日・百日もあれば問題はすべて解決するの件だが、目の前の混乱を治める破壊や粛清には一応の決着をつけることは可能だろう。しかし、新しい征夷大将軍を頂く幕府の体制が固まるには破壊行為の倍以上の年単位の月日が必要だ。おそらくは五年、いや十年かかるだろう。
その年月は、十四歳の少年、十五郎(光慶)を成人させる。彼を中心とした体制も堅固なものになるだろう。そうなれば、忠興に天下人の御鉢が廻ってくる可能性は低くなる。
しかもこの書状の最後には「このことの関しては、書状を持たせた使者に説明してあるから、その者とよく相談していだだきたい」と付け加えられている。
その付記を見ても、光秀が忠興に天下を譲るつもりなど無いことが見て取れる。しかしながら、光秀が細川家を軽んじているわけではない。むしろ新しい体制が出来上がった暁には、重臣の責任ある地位を用意するつもりはあった。ここで推測すると、光秀が細川父子に求めた役職は、限りなくナンバー2に近い補佐役だったのではないのだろうか。
「父上」
忠興がいつになく投げやりな、傍観者的な態度の幽斎に呼び掛けた。
忠興にしても行間の含みを理解することはできた。そうであっても、傍観者のようではいられないのだ。勿論、光秀の書状一つで天下を我が物にできる夢などは見ない。生来短気ではあるが、それぐらいの分別はできる人物だ。

細川幽斎の決断

「父上はどうするおつもりですか?」
「どうすると言っても」
いつになく歯切れの悪い幽斎は、言葉に詰まったが、やがて吐き捨てるように言った。
「何にしても、遅すぎたよ。その書状にしてもそうだ」
そう言われると忠興には返す言葉が無い。実は、光秀からの書状が到着する前に、何通もの秀吉からの書状が届いていたのだ。おかげで幽斎は毛利家と和睦が成立したことも知っているし、秀吉軍の大まかな現在地点も推測できる。秀吉は光秀の思い込み(中国戦線から一歩も動けまい)のはるか先の行動を執っているのだ。
幽斎は光秀のとり返しのつかない戦略ミスを残念に思った。
どうして本能寺の変を起こした直後に、親明智派の細川・高山・筒井などに非常招集をかけなかったのか。情勢のハッキリしないあの時期であれば、光秀の要請に応じたやも知れぬものを。光秀は安土城にこだわり、そこで絶好のチャンスを逃したのだ。それ以上に、交わすべき連絡を怠った。自分が事を起こせば必ず仲間が助けてくれるとの一方的な思い込みのみを信じて、連絡を怠った。そこが大きな行き違いの原点だったのだ。
秀吉は、昨日姫路を出発した。今日あたりには尼崎まで到着するだろう。移動の間にも秀吉軍は人数を増やし、巨大勢力となりつつあった。
「父上、私だけでも手持ちの兵を連れて、明智軍に加わりましょうか?」
「ならん」
幽斎は、忠興の申し出を厳しい口調で却下した。
「しかし、父上」
「ならんと言ったらならん。命令だ」
「・・・」
幽斎は、視線を忠興から庭へとゆっくり移しながら、何気ない様子で付け加えた。
「それから、玉子どののことだが、いずれはどうにかせねばなるまい」
「離縁しろということですか」
幽斎は、苦い物を飲み込むような顔をして頷いた。
「うむ」
「たとえ父上の仰せでも、それだけはお断りいたします」
「忠興!」

余談ながら、細川家と明智家の紐帯のための政略結婚ではあったが、忠興は些か偏執狂的に玉子を愛していたという説があり、様々な逸話が残っている。
結局細川忠興は、謀反人・光秀の三女、玉子を離縁しなかった。後に玉子は細川忠興正室・洗礼名細川ガラシャとして壮絶な最期を遂げることとなる。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―