魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

霧島兵庫『信長を生んだ男』

以前の織田信秀の墓入口

2015年に撤去される前の織田信秀の墓の入口。名古屋市中区大須、亀岳林万松寺境内。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんより紹介文を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

プロローグ

霧島兵庫『信長を生んだ男』(新潮文庫)を読了して。
1575年、織田信長は、黒糸縅くろいとおどしの具足に身を包み、黄絹の永楽銭の軍旗をはためかせて自ら出陣した。総大将である。この戦で信長の連枝れんし衆として、初陣ういじんを迎えた21才の若者がいた。名前は津田七兵衛信澄。信長とは伯父・甥の間柄となる。実父は以前、末森城主であった勘十郎信行のぶゆきである。
信澄のかつての傅役もりやく柴田勝家(権六)は、初陣に気負う信澄に声をかけた。「若、戦で人を殺す覚悟はよろしいか」
柴田勝家は、信澄の中にかつての主人・信行の面影を見て、20年前を感慨深く思い出したが、今は目の前の戦に集中すべしと雑念を振り払うように、わざとぶっきらぼうに声をかけたのだった。

母・土田御前の偏愛&戦に明け暮れる父・織田信秀

日本史愛好者にはお馴染みだろうが、三郎信長と勘十郎信行の母、土田御前(六角氏後裔、土田政久の息女?)は依怙贔屓の女人であった。
母子にも相性があるのか、何らかの要因があるのかは不明だが、いずれにしろ長男を冷遇し、次男を溺愛する母親が珍しい訳ではない。
もっとも信行の側からすると、常に子供の先回りをする、躓きそうな小石を取り除き、掃き清めた道を用意する(それ以外の道を通ることは許さない)毒親(?)。そうなると子供は飼い犬、もしくは所有物の扱いに甘んじるしかなかった。決裂する選択肢もある。容貌的には信長の方が母親似で、信行は夫・信秀の面差しを受け継いでいた。
普段の信長は悪童姿。紅い紐の茶筅ちゃせんまげ湯帷子ゆかたびらの上に熊の毛皮を肩脱ぎにする“定番スタイル”は、実母への「お前の思う通りにはならないぞ」との宣戦布告だったのかもしれない。
かくて、折り目正しい白面はくめんの貴公子と、うつけを地でいく悪童が出来上がった。この確執は、表面上、信行が死を迎えるまで続く。夫の織田弾正忠だんじょうのじょう信秀との間には、この2人の外に秀孝、信包のぶかね、市、犬の4人の子供を授かった。
では、夫の織田弾正忠信秀は何をしていたのか?
尾張守護代二家の大和守家やまとのかみけの庶流、清州三奉行の「弾正忠家」との低い家格から抜け出すべく、戦陣を駆け回り、忙中閑ありとばかりに(?)側室や侍女との間に20人以上(?)の子供を儲けたらしい。
何ともエネルギッシュで、人生の時間を無駄使いしない、前進あるのみの人物と思われる。
そして、信長の尾張統一の基礎を作った父親でもあった。

斎藤家と織田家の婚姻同盟の成立と、父の死。

そのような慌ただしい日々の中、美濃の斎藤家と織田家の間に婚姻同盟が成立する。
信長の傅役、平手正秀が活躍したのだ。
お披露目の宴会の夜、信行は帰蝶の目の表情が信長に似ていると思う。帰蝶に惹かれる自分に気が付く。幼き日に兄・信長と奪い合いをした龍笛りゅうてき、母から賜った龍笛で、一曲演奏することになる。これ以後、帰蝶の願い事は断れなくなる。
1552年、尾張の虎と謳われた織田信秀が病死する。信秀の遺言は「家督は三郎に譲る。信行は兄をよく支えよ」です。
信行の聞いた父の最後の言葉は「この世は喰うか喰われるかだ。張り子の虎では生き残れない、本物の虎になれ」です。信行は父より末森城を受け継ぐ。
何故父は、最後に常識人(マナーの教本のような)で、兵法書などを諳んじるほど研鑽した自分ではなく、何事にも桁外れの兄を後継者に指名したのだろうか?不可解な思いと共に、万松寺ばんしょうじでの葬儀は進む。そして、有名な信長らしい焼香。傅役・平手正秀は、その後、諫死かんしした。

平手正秀の突然の死に血の涙を流す信長。後悔をかみしめる帰蝶。自分への日頃の憎まれ口の意味を知る(幼き日の父母への愛情争奪戦が発端にしろ)。
その時、信行は、兄の右腕(軍師)になることを決心する。織田家の内訌を防ぐための汚れ仕事は自分が引き受けようと・・・。
柴田勝家をわざと裏切らせ、信長の身近に仕えさせ、兄弟和解の段取りをつける。
最初の仕事は、曲舞鑑賞のため城外に出た那古屋城主で親族筆頭衆の織田信光を、乱心した家臣に惨殺させる(仕物にかける)。

そのような信行を死病が襲う。父・信秀と同じ病に罹ったのだ。お抱え医師に余命宣告された信行は、自分に与えられた天命を全うする覚悟を決める。
兄・信長を屠るのだ。謀反を起こすのだ。こうして1556年、稲生いのうの戦いが起きる。
それと共に、信長に人間らしさをもたらす兄嫁・帰蝶の存在を危険視する信行の取る行動とは?
稲生の戦いの後、末森城で、母・土田御前と信行の会話。
「命乞いに参ると申したのか」
「さようです。清州城まで御同行願えますか」
この会話に続く土田御前の言葉とは?取った行動とは?
織田信長は、何故信行の長男、津田七兵衛信澄を優遇したのか?

従来の織田信行の評価を変えずに、霧島兵庫ならではの視点からの織田信長・信行を発見することができます。
武辺者一辺倒に見えた柴田勝家の頭脳の面も見られます。
お楽しみください。
天一