一天一笑さんによる葉室麟の歴史小説『墨龍賦』の紹介記事、第三回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。
春日局は語る⑥ 安土城完成。友松、再び帰蝶に面会。
1581年、安土城の障壁画が完成します。小姓の森蘭丸を従え、現れた信長は「大儀であった。余は気に入ったぞ」の言葉と共に、小袖を下賜します。友松が直に信長の顔を見たのは、これが初めてでした。「こいつに兄・親族を皆殺しにされたのか」と無念の思いが沸き起こってきます。豪華絢爛の安土城の襖絵・障壁画等に永徳は持てる力を注ぎ込みましたが、褒められても余り嬉しくなさそうです。永徳は言います「馬揃えの際の上様なら、もっと美しく描けたろうに」と。
明智光秀は書状の件を忘れて、信長の臣下になり切ってしまったのだろうかと疑う友松に、奥女中から「御台様がお呼びですよ」と声がかかります。
帰蝶は言います。「日饒上人は、あれからほどなくして亡くなったが、美濃の常在寺の日覚上人も斎藤道三の実子だから、数年前の宗論で法華宗を裏切った信長を、斎藤道三の血は許さないだろう。私の名前は帰蝶ですが、上様は法華経のクモの糸に捕らわれるでしょう。上様を狩る鷹狩りをします。上様は、いずれ罠に落ちるでしょう」帰蝶は“国譲り状”が実在しないことを以前から知っていたのです。かつての美濃の国主・土岐頼芸は、鷹の絵を好んで上手に描きました。内蔵助も本来、美濃斎藤家の血筋です。
帰蝶の言う法華経のクモの糸や鷹狩りは何を暗示するのでしょうか?帰蝶は誰を鷹になぞらえているのでしょうか?父・斎藤道三を喪った今、帰蝶は自分が信長にとって利用価値の無い女となった事を良く知っています。
春日局は語る⑦「本能寺の変」への序曲
友松は、絵師として狩野永徳に負けない絵を描くことに、生きがいを見出します。恵瓊に呼びだされ、東福寺退耗庵に行きます。当時、恵瓊は毛利家外交僧、友松は織田家側です。
友松は、1578年の尼子勝久切腹と、山中鹿之助への騙し討ちを責めます。更に三木城別所家への兵糧攻め、摂津荒木村重への調略に暗躍していたことを皮肉りますが、恵瓊の面の皮は千枚張りです。ついでに「帰蝶御前に書状が渡ったなら、何かが起こりますな」の言葉を残し、二人は別れます。信長の中国平定は着々と進んでいます。羽柴秀吉と明智光秀は、それぞれ山陰道・山陽道を競うようにして進軍します。
1582年2月、信長は武田家滅亡を目指します。まず手始めに勝頼の親族・木曽義昌(正室は武田信玄の三女・真理姫)を裏切らせ、次には親族衆筆頭・穴山梅雪(正室は武田勝頼の異母姉)が徳川家康に内通します。
更に、岩殿城城主・小山田信茂の離反に会い、二進も三進も往かなくなった武田勝頼は、3月11日、天目山で、一族皆自刃します。武田家滅亡です(伊東潤『武田家滅亡』をご参照いただければ幸いです)。武田家掃討戦を終えた信長は、長年の宿敵を討ち果たした安心感からか、安土への帰路を東海道に決め、富士山など名所見物もしました。
また東海道といえば、徳川家康です。信長は家康から丁重な接待を受けました(吝嗇な家康が、お金を惜しまなかった)。
その接待への答礼として、信長は家康を安土城へ呼び、光秀にその饗応役を命じます。その時のもてなしの料理の鯛が腐っていたと信長に叱責され、饗応役を外されます。後任は堀久太郎でした(岩井三四二『とまどい本能寺の変』をご参照いただければ幸いです)。
春日局は語る⑧ 光秀主従、本能寺へ進軍
この時期、信長麾下の対上杉北部方面軍には柴田勝家、滝川一益は関東方面、羽柴秀吉は備中高松城などに展開して、競い合うように攻略に励んでいます。信長は天下人目前です。3男信孝は、総大将として、四国方面軍(土佐の長宗我部元親征伐)の準備をしています。5月18日、四国攻めの準備に余念の無い斎藤内蔵助が狩野屋敷に友松を訪ねて来ます。副将は、丹羽長秀です。津田信澄、池田恒興、高山右近、中川清秀等は、各々所領にて、出陣の支度をしています。内蔵助は内心、長宗我部元親に嫁いだ妹・桔梗の身を案じていますが、口には出さず、主人明智光秀に従って四国攻めに赴くため、友松に別れの挨拶を述べます。信長の指示によって、明智光秀は、羽柴秀吉を総大将として仰がねばならないのですが、本人も明智家家臣も納得がいきません。
複雑な表情の内蔵助を、友松は真っすぐに見据えて問います。「帰蝶御前から明智様に、何かお話がありましたか?」
「何もございません」がっかりする友松に、内蔵助は目線を合わせて囁きます。「某でござる」
友松はあっと驚きます。本来の美濃斎藤家の血筋を引く内蔵助は、信長に美濃を奪われたことに憤りを感じています。更に光秀は羽柴秀吉と並ぶ織田家の出世頭で、所領も大きくなりました。兎に角目立ち過ぎます。帰蝶御前の人選は確かでした。斎藤内蔵助は、口が堅く、自己抑制も利き、戦場での経験も豊かで、一騎駆けもできる立場です。内蔵助は更に続けます。「京都に出てきた上様は、本能寺に泊まられるだろう。絵師の友松殿にも、良い画題が必要であろう。6月1日より昼夜なく桂川に出向かれたら如何かな?数日かかるかも知れぬが、佳い景色が観られるやも知れぬ」友松は目の前が開けた思いでした。本能寺は日蓮宗のお寺です。そして明智光秀が丹波亀山城から京都を目指すには、桂川を越えなければなりません。内蔵助は「もっとも待ち惚けになるかも知れぬ」とも言います。友松は「絵師としてこれ程の楽しみはない。待ち惚けでも気落ちしない」とお互い笑顔で、日頃と同じよう別れて行きました。結果的には、この会合が内蔵助と友松との永遠の別れとなりました。打倒信長の強い意志を胸に秘めながらも、内蔵助の挙措動作は普段と変わりませんでした。
5月29日、15000人の四国遠征軍が、住吉に着陣します。信長も上洛し、本能寺に宿泊します。光秀主従は、愛宕山を参詣し、連歌の会(愛宕百韻)を催します。(つづく)