⑳六月二日:瀬田橋炎上
ここで著者の伊藤眞夏は、史書の「風の吹くように」という文言に注目している。“烽火”を使用したのではないかと推測を試みる。問題は、本能寺の変が起きたという報せが、安土にいつ、何度にわたって届けられたかである。
史書によると、第一報が「風の吹くように」午前十時頃、安土にもたらされたとある。本能寺は午前八時から九時の間に炎上している。これは驚異的なスピードである。第二報は、午後に伝えられている。第三報も、光秀が安土へ向かったことを告げている。果たしてどの様な方法を用いたのだろうか?当時の京都~安土間は、人間の足なら丸一日、早馬を駆っても半日はかかる距離だった。
安土城を目指す明智軍は、中洲をはさんで大小二つの橋を持つ瀬田橋を前に、信じられない光景を見ていた(瀬田橋の全長は約二百二十五メートル)。
何としたことか、瀬田橋が燃えているのだ。光秀謀反の報せを受け、瀬田橋を守る瀬田城城主、山岡景隆・景佐兄弟は、開城の申し出に応じたはずなのに。
いざ明智軍が瀬田橋に到着してみると、城主兄弟は橋に火を放ち、城を引き払って逃亡した。一万五千の明智軍の軍勢と荷駄を渡すには、橋は必要不可欠なのに。
「火は消せるか」
光秀は、側に控えている斉藤内蔵助に尋ねた。
「はい、消せます。但しこの火の廻りから、消火後直ぐに渡れるものでもなかろうかと」
「ならば、渡れるようになるまで、どれくらいの時間がかかる」
「橋の床と桁がかなり燃えているので、修理して一万の軍が渡せるまでには、どう見ても二日はかかります」
「うむ」
光秀は、無性に腹が立った。天下人明智光秀の名乗りを挙げるには、今が大事な時なのに、こんなところで足止めされるとは。 一瞬、京に戻ろうかとも思ったが、本能寺の殺戮の結果、死臭の充満した街を思うと、戻る気持ちにも到底なりえなかった。 だからと言って、瀬田橋の修理を待つ時間を無為に過ごしてはならない。そうだ、坂本に帰ろう。坂本城はわが城ではないか。何を遠慮することがあろう。
「内蔵助、わしは坂本に帰る。橋の修理が終わったら知らせてくれ」
「かしこまりした。修理は昼夜を分かつことなく行います」
「うむ」
光秀は騎乗の人となり、馬の口を返して、鞭をあてた。内蔵助の事だから、瀬田大橋は一両日中には通行可能となるであろう。
㉑六月二日夕刻:安土城下
信長の留守を預かり、同時に信長の娘や愛妾を預かる役目を負った日野城城主、蒲生賢秀(蒲生氏郷の実父、信長の二女冬姫の舅)は、困り果てていた。信長父子の横死が内密に届いた後、安土城の評定の間では、誰も彼もが俯き、沈黙に支配されていた。緊急事態で対策を練る必要があるのだが、発言どころか、咳払い一つ聞こえない。
物見が報告に来た。
「山崎片家様が自らの屋敷に火をかけ、出奔されたとのこと」
「山崎か。早まったことをしてくれた。町の様子はどうだ」
「噂では荷物を纏めて、町を出ようとしている者たちがあふれているとか」
そのうち、町は収集のつかない大混乱に陥るだろう。信長父子の自刃はもはや秘密でも何でもなくなっていた。恐るべし、噂の伝播力。これでは織田家臣が一丸となり、明智軍を迎え撃つのは到底無理だ。蒲生は決断した。
「明智軍と戦うのは諦め、この安土城を明日三日に開城する。引き揚げじゃ」
蒲生は素早く奥向きに足を運び、信長父子の横死を正式に織田家の女人たちに報告した。そして家臣や女人たちには、日野城に向けて明日出発すること、安土城に蓄えられている金銀財宝は何一つ持っていかないこと、安土城に決して火をかけてはならないことを申し渡した。安土城は築城されてから日が浅く、家臣たちには美濃出身の者が多かったので、安土には余り愛着を持たなかったのだろう。信長によって、云わば強制移住させられた者が殆どだった。
ここで本能寺の変の報せが伝わった時、織田家臣たちは何をしていたのかに、伊東眞夏は注目している。堺には、四国征伐を計画中の三男織田信孝と、丹羽秀長と、信長の甥津田信澄(信長の実弟信行の息子)がいた。
堺では、信長父子の自刃が伝わると、織田家の家臣たちは蜘蛛の子を散らすように逃亡してしまった。信孝と丹羽秀長は突然、することが何もなくなってしまった。
織田家の血脈を誇る肥大化した自尊心以外に、これといった能力も人望も持たない信孝は、本能寺の変は明智光秀と津田信澄(光秀の娘婿でもある)の共謀によって引き起こされたとの噂を鵜呑にして、信澄の首級を挙げた。伯父信長と家督相続を争った実父信行の遺児として、複雑な環境の中で織田家連子衆として懸命に生きてきたにも関わらず、従兄弟信孝の「敵討ちらしいことをしないと格好がつかない」との思いのもと、謀反人の片割れの汚名を着せられ、殺され、晒し首にされてしまった津田信澄の人生とは何だったのだろうか。
信孝は信澄を討った後は、何もすることが無く、ズルズルと大阪に逗留し、“中国大返し“を成し遂げた秀吉と合流した。
その他の織田家の重臣たちを見てみよう。北陸で魚津城(上杉景勝の属城)を攻め、落城させた柴田勝家は、 六月七日頃には、本能寺の変の報に接し、松倉城の包囲を解いて自分の城に戻り、守備を固めた。共に戦っていた佐久間盛重、佐々成政、前田利家も各々の城に戻り、守備を固めた。柴田勝家は兵員をかき集めていた途中で光秀敗死の報を受けとった。そして、信長から信濃に居城を拝領した森長可(森蘭丸の兄)は、家臣と今後の事を相談して、信濃の城を捨て、美濃に戻ることを決心したが、秀吉が勝った合戦には到底間に合わなかった。又甲州征伐の滝川一益も九日には本能寺の変の報せを受け取ったが、領地に釘付けとなり、身動きができなかった。これらはもはや織田軍が織田軍たりえないことを示していた。大事な京都・大和地方は、空白・無政府状態となり、その中心に一万五千の明智軍がいた。重臣たちはいずれも上洛など覚束ない遠隔の地に釘付けになっていた。この状況を冷静に分析し、戦略を立てていたのは羽柴秀吉只一人だった。(続く)