表題作につきまして、一天一笑さんから紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
澤田瞳子『星落ちて、なお』(文藝春秋社)を読了して。
江戸末期に活躍した不羈の画家河鍋暁斎の娘とよ(河鍋暁翠)、異母兄周三郎(河鍋暁雲)、そして暁斎の後援者鹿島清兵衛に焦点を当てた長編小説です。第165回直木賞受賞作でもあります。
何事にも破天荒だった暁斎の死後、約30年の月日の流れを娘のとよの視点から描きます。
この物語は明治22年、暁斎の葬式の場面から始まります。葬式は暁斎の後援者、鹿島清兵衛が、諸事万端を見事に取り仕切ります。
遺された家族は異母兄周三郎、とよ、放蕩者の弟記六、病弱な妹きく、没交渉の姉とみです。
何せ弟子だけでも200人は下らない暁斎でしたから、目に見えるものの後始末だけでも、並大抵ではありません。
一時は狂斎を名乗り、風刺絵を描いていたこともあります。弟子の中には、鹿鳴館やニコライ堂を建てた、建築家のジョサイヤ・コンドルもいます。雅号は暁英です。
とよは、長年他家に養子に出されていた周三郎とはそりが合わないのですが、話し合わなければならないことは多岐にわたります。周三郎は、後始末をせずに自宅に帰ってしまいます。
だが、父暁斎の不羈の画風を受け継いだのはこの異母兄だった。とよは、自分の絵の腕前は、遠く異母兄に及ばないと自覚しています。
この周三郎は、正論をいうのですが、余りにも不器用すぎます。
「親父は、北斎になりたかったのだ。お前に5才の頃から絵を仕込んだのも、北斎の娘の役割を期待したからだ」
周三郎のこの言葉は、若き日のとよには堪えますが、周三郎の死後は苦にならなくなります。明治30年頃になると、暁斎の特徴の本格的な狩野派、土佐派の画風は古いとされ、周三郎の絵が顧みられることもなくなりました。周三郎は、不遇のまま「河鍋の家はお前だけになる。親父の絵を忘れるな」と言い遺します。
その前後、暁斎の後援者でとよにも良くしてくれた鹿島清兵衛が、養子先の鹿島から廃嫡され、放り出されてしまいます。理由は、ただならぬ放蕩です。
家業を顧みることなく、正妻に任せっきりで、暁斎に絵を習う、笛を習うなど多趣味なだけならまだしも、本郷に儲けの見込めない写真館を開く、決定的なのは名妓ぽん太を落籍したことです。正妻の堪忍袋の緒が切れたのです。とよは暁斎の死後、正式に挨拶に出向いています。このようなところが周三郎をして、お前は糞真面目過ぎると言わしめる所以でしょうか?
とよは、転居を繰り返し、女子美術学校で教鞭をとるが、暁斎の親友の真野八十吉(暁柳)の仲立ちによって高田商会に勤務する高平常吉と見合い結婚をする。そして一人娘よしを授かります。とよの画業に理解のあった常吉ですが、とよは“画鬼の娘”として生きるには結婚生活は継続できないと判断し、よしが3歳の頃別居し、やがて離婚してしまいます。
それが、大正2年の時です。
とよは暁斎の25回忌法要を執り行うと共に、「河鍋暁斎遺墨展覧会」を開き、大盛況の結果を得ます。
その会場へ設けた茶席に、中年の男女がとよを、ひっそりと訪ねてきます。
それは、かつての鹿島清兵衛とぽん太でした。
清兵衛は、今は三木如月と芸名を名乗り、笛を専門とする能楽の囃子方として舞台に立ち、暮らしているらしい。
とよは三木如月を展覧会後の宴会に誘うのだが、如月はきっぱりと断る。そして「梅若観覧能」の招待券をとよに手渡す。演目は“砧”です。
但し梅若家は、主筋にあたる観世家と免状の発行(大事な収入源)をめぐって諍いをしている。梅若家の舞台の観覧は遠慮している人もいるほどだ。
「必ず来てくださいよ。お待ちしていますから。十月十五日、午後二時ごろです」
お互いの存在が、落魄の原因となったにも拘わらず、寄り添う二人の姿を見てとよは自分と常吉の4年の結婚生活は何だったのだろうと思う。常吉に不満があって別れた訳ではないのだが・・・。
とよは、遭遇した関東大震災で、被災した画室より、娘や周囲の人の無事を喜び、やはり父のように画鬼にはなり切れないが、それでよいのだと思う。
父だったら、惨状のさまをスケッチし始めるだろう。
三木如月は、延期された舞台を務め、依頼された舞台も務め、静かにあの世に旅立つ。
56歳になったとよは気が変わり、一度は断った村松梢風のインタビューを受け、語り始める。異母兄周三郎が見たら、そんな暇があるなら絵筆を取れと言ったろう、と苦笑しながら。
河鍋暁斎の娘として、父の絵を疎み、愛していたことに気が付く。
ならば、これからも父や兄の絵を見て、心躍らせる人がいるかもしれない。そのために自分は父と異母兄について語ろう。とよはそう思った。
絵に取り憑かれた河鍋家の人々の物語をお楽しみください。
筆者も以前、河鍋暁斎の絵を見て、画力の高さ、正確なデッサンに圧倒された記憶があります。
一天一笑