魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

吉川永青『毒牙・義昭と光秀』(其の十五)

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耳川(宮崎県美郷町西郷区田代)。「耳川の戦い」(1578年)では、足利義昭の内書に大義名分を得た島津義久が、南下してきた大友宗麟軍を撃退し、九州統一のチャンスをつかみました。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる吉川永青ながはる歴史小説『毒牙・義昭と光秀』の紹介記事、第十五回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


秀吉、天下を睥睨する。

ここで、本能寺の変以後の織田家の動向を極く簡単にお浚いしておきましょう。
早速7月16日現在の愛知県清須市で、本能寺の変の事後処理(織田家家督相続・領地再分配)のための話し合いが持たれます。所謂清須会議が開かれます。
信長の嫡孫(信忠の子供・後の中将織田秀信)が家督相続をします。しかし、まだ幼児ですので政務など執れません。なので、叔父にあたる織田信孝・信勝が後見人となります。傅役もりやくは小回りの利く堀秀政に決まり、その他、信長に重臣として用いられていた柴田勝家丹羽長秀池田恒興羽柴秀吉の4人を執権とします。
まあ所謂集団合議制を採る訳ですが、絶対的存在の信長の横死によって崩れた織田家のパワーバランスを切り貼りして表面上は保ったように見えても、そうそう綺麗に分割統治ができる筈がありません。この合議制は、直ぐに崩壊します。
まず、大徳寺臨済宗)で行われた信長の葬儀で、既に不協和音が見て取れます。喪主は羽柴秀勝(信長4男、於次丸おつぎまる)です。秀吉は実子の無いのを逆手にとり、養子縁組しました。
葬式の席次には不満が続出しました。此れを機に、織田家中は2つに分裂します。秀吉派と反秀吉派を自認する柴田勝家神戸かんべ信孝(信長次男)です。
1583年4月、賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉は、柴田勝家を越前北ノ庄城にて滅ぼします。柴田勝家には、神戸信孝の取り持ちにより、亡き主君織田信長実妹お市の方が再嫁していました。その後、1584年3月~9月迄の“小牧こまき長久手ながくての戦い”(東海戦役)を経て、信長の遺児の信雄・信孝の影響力はほぼ無くなり、天下の覇権は羽柴秀吉の手に移ります。小牧・長久手の戦いで信雄と組み、敵方に回った徳川家康とは、巧妙に手打ちします。四国の長宗我部元親は孤立無援となります。
更に、同年石山本願寺跡地に、黒田官兵衛を責任者として大坂城を築きます。
1585年、毛利家と羽柴家の領地の国境を決めます。羽柴秀勝毛利輝元の養女との婚約も相整いました。6月、羽柴軍は四国平定をほぼ成し遂げます。
その余勢を駆って、8月、豊後・豊前に3000人の軍勢を従えた毛利輝元が、総大将として、九州征伐の先陣を切ります。勿論毛利の小早川隆景、羽柴の黒田官兵衛も帯同しています。
清須会議に興味のある方は、三谷幸喜監督の映画『清須会議』をご覧ください。

義昭、真木嶋昭光に最後の下知を下す。

1586年11月、義昭は真木嶋昭光を御所に呼び、茶を立てた後、自らにも茶を立てる。
真木嶋は言った。
「この御所もすっかり寂しくなりましたな」
真木嶋の言葉に義昭は回想する。備後に移った頃、複数の武将が“反信長の旗印”と余を持ち上げ、集っていた。武田信景、六角義堯よしたか、内藤如安ジョア、北畠具親などがいた。彼らは討ち死にするか、他家の家臣となった。今残っているのは真木嶋昭光只一人だ。
小春日和。義昭は長閑のどかに言った。
「暖かいのう。穏やかな風じゃ」
月日は、義昭の表情や声から、時勢に抗う・戦うといった気勢を洗い流していた。己の不徳と身の程を知り、清められたのでしょう。素直な笑みを浮かべる義昭を見て、軽く目頭を押さえた真木嶋昭光が訪ねた。
「それでよろしいのですか」
「余にはもう追い風も吹かぬ。もはや幕府云々の時代ではない。秀吉は、朝廷から関白の宣下せんげと“豊臣”の姓も下賜かしされた。今や名実ともに天下人となった。毛利家も遠からず、豊臣家に従うだろう」
「されど鎮西・島津家、奥羽・伊達家、関東・北条家、未だ関白殿下に平伏しておりませんが」
「左様、道半ばじゃ。だが、今の関白殿下の勢いなら、遠からず世を平穏に導くだろうよ」
義昭は苦い物を飲み込んだような表情をした。
「尤も少しばかり悔しくもあるが。20年以上前、余が天下の静謐を追い求め始めた頃、名もなき秀吉は織田家中では軽輩だった。それがあっと言う間に、追いつかれ、追い越された。余は、全く平穏の気持ちとはいかんのだが・・・」
らば、争わず何をなさりたいのですか」
「寧ろ、天下をめぐる争いを停めたいのだ。直近では、九州征伐・鎮西攻めだ。天下を静謐に治める道を歩むに当たっては、僭越ながら余は関白殿下より先達だ。しかるに、信長と争い、世を乱したのみだった。このままでは体面が悪いのだ」
そして、眼差しを遥か虚空にむけて言った。
「結局、わが手に残されたのは将軍位のみ。その将軍位の威光を使って関白殿に力添えすれば、如何どうにか格好がつくやも知れぬ。故に薩摩の島津殿にくだるよう、内書をしたためてみようと思う」
真木嶋は、ニッコリ自然に微笑んで言った。
らば、直ぐに手配いたしましょう」
「頼むぞ。今回が、其方に与える最後の下知となる」
数日後、義昭の内書は、島津義久に間違いなく届きますが、さほど(停戦や降伏が叶うほど)の効果はありませんでした。
しかしながら、人を動かす効果はありました。人心掌握の術を心得た秀吉は、内書に注目して、出家した細川幽斎玄旨を御所へ、条件の話し合いの使者として差し向けます。二人とも明智光秀の人生には深く関わりました。
そして、1587年3月、秀吉が自ら20万の軍勢を率いて九州征伐に臨むと、戦の何たるかを心得ている16代当主島津義久足利義輝から義の1文字の偏諱へんきを受けた)は、徹底抗戦はせず、4月21日、豊臣家に降伏しました。

 


『清須会議』映画オリジナル予告編

 

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毒牙 義昭と光秀

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  • 作者:吉川永青
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