魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「妖精の島(The Island of the Fay)」

ポーの「妖精の島」と同時に雑誌掲載されたジョン・サーテイン(John Sartain)による銅版画。「ジョン・マーティンのオリジナルによる」との但し書きがついている。ドイツ語版ウィキペディアによれば、ポーはこの絵から着想を得て「エレオノーラ」とこの「妖精の島」を書いた。eapoe.orgより。

ポーの宇宙観の一端がうかがわれるファンタジー。原文はこちら


「どこにもその土地の守護神が居る」マウルス・セルウィウス・ホノラトゥス


その書名が『教訓譚モラル・テイルズ』と、すべての英訳において誤訳されている『コント・モロー(Contes Moraux)』*1という書の中で、ジャン=フランソワ・マルモンテルは「自分一人で楽しめる才能は楽才だけで、他のものは他者を必要とする」と言っている。彼はここで楽音から得られる快感と、楽音を産出する能力とを混同している。音楽的才能の行使を余すところなく楽しむには他者の評価が必要で、これは他の才能も同様だ。一方、楽才がもたらす効果は一人でいる時こそ完全に楽しめる、これも他の才能と同様だ。この座談の妙手ラコントゥールが明確に抱懐し得なかったか、あるいは洒落たことを言いたいというフランス人特有の欲求から充分に表現し切れなかった観念とはすなわち、より高次元の音楽は、まったく一人きりの状態においてこそ、もっとも完全に楽しめるという動かしがたい認識である。このように言い表せば、音楽を音楽のために楽しむ人、音楽をその霊的な効果のために楽しむ人は、これを即座に承認して下さるだろう。だがこの下界の人間の手の届く範囲内に、おそらくもう一つだけ、孤独の感情センチメントを伴うことで音楽以上に恩恵をこうむる快楽がある。私は自然鑑賞から得られる快楽のことを言っているのである。地上における神の栄光を正しく鑑賞したいと願う者は、これを一人で鑑賞しなければならない。少なくとも私の目には、人間のみならず、地表に生ずる声なき植物以外のいかなる生物の姿プレゼンスも、風景の中の汚点、風景美の真髄ジーニアスに反する不純物と映る。暗い谷、灰色の岩、静かに微笑む湖、寝苦しそうに溜息をつく森、そうして一切を眼光鋭く見下ろしている秀峰――私はこれらのものをそれ自身、生命と感性とを併せ持つ大いなる全体の、途轍もない構成員メンバーたちに過ぎぬと見なしたい。この全体の形(球形)はもっとも完璧で開放的インクルーシブな形である。その軌道は他の仲間の星たちの間にある。その従順な侍女は月である。その間接的な支配者は太陽だ。その寿命は永遠だ。その愉楽とは知識だ。その運命は厖大ぼうだい過ぎて不明である。そうしてこの全体なるものがわれわれについて持っている認識は、われわれが脳内に巣食っている微生物アニマキュールについて持っている認識と酷似しており、微生物アニマキュールがわれわれについて必ずや思っているであろうところとほぼ同様に、われわれはこれを純然たる無生命的イナニメイトな物質だと見なしているのである。
最近の望遠鏡や数学的研究によれば、無知な聖職者たちの駄弁にかかわらず、「神」が空間とその容量バルクとについて、非常に気を使っていることが方々ほうぼうで確認されている。星がその上を動いている円軌道サイクルは、可能な最大多数の天体の、衝突なき運行への進展エボリューションにとって、もっとも適したものとなっている。天体の形もまた、与えられた表面上に、可能な最大量の物質を包含するのに最適なものである。天体の表面自体もまた巧みに最適化ディスポーズされていて、同じ表面を別のやり方で整理整頓アレンジした場合よりも、物質を高密度で収容できる。空間が無限だからと言って、それが容量バルクについて「神」が配慮を怠る論拠にはならない。充満する物質が無限かも知れないからだ。そうして物質への生命力ヴァイタリティの付与は、「神」の活動オペレーションにおける一つの原理であって――事実、われわれの考える限り、それが最重要の原理であることは自明なのだから、この原理はわれわれがこれを日々追跡トレースしている小なる物の世界のみならず、大なる物の世界にも及んでいると考えてもいいはずである。われわれが円軌道サイクルの中に際限なく円軌道サイクルを見つけて、それがすべて「神」を中心とする大きな円軌道サイクルに含まれるなら、われわれは類推によって同様に、命の中に命があり、小なる命は大なる命に含まれ、そうして一切は「聖霊」のうちに息づいていると考えてはならないのだろうか。要するに、人間が自分のことを、この宇宙において、その短い一生の間、またはその永い霊生の間、彼が耕しながら馬鹿にしているこの「谷間の土くれ」*2よりももっと重要な存在だと信じているのは、思い上がりから来るはなはだしい誤解である。人間は、浅はかにも、土くれが活動状態オペレーションにあるところが目に見えないからというだけで、土くれには魂がないなどと思い込んでいる。*3
以上のような、あるいはこれに類した空想は、山林の中を、または海や川のほとりをさまよう際の私の物思いに、俗人どもが必ずや「正気でないファンタスティック」と呼ぶであろう色合いを、常に添えるのだった。そのような境地シーンへの私の旅は、度重なる、人里を遠く離れた、大抵は孤独なものであった。そうして多くの深山幽谷をさまよい、多くの澄んだ湖水に映る空を見つめる面白さは、自分が今ここを一人でさまよい、これを一人で見つめているのだと考えることで倍増した。ヨハン・ゲオルク・ツィンメルマンの名著に触れて「孤独はよいものだ。だが『孤独はよいものだ』と告げる誰かが必要だ」などと言ったフランス人*4*5は、何と薄っぺらな男であったことか。このエピグラムは云い得て妙だが、そもそもそんな必要など存在しないのである。
ある日の一人旅で、山奥の寂しい川辺や湖畔をさまよっていて、私はたまたま小島のある川のほとりに出た。それは緑濃い六月のことで、私はその風景シーンを眺めながらひと眠りしようと思って、いい匂いのする名も知れぬ灌木のもと、草地の上に身を投げ出した。この風景シーンはこのようにして眺めるしかなく、そのような幻想性ファンタズムをこの風景シーンは持っているのだ、と私には思われた。
そこは夕陽の見える西側以外は緑の壁に囲まれていた。鋭角を成してカーブすることで急に見えなくなる細長い水の流れは、東側の深い森へと吸い込まれる以外に、この牢獄からの出口がないように見受けられた。一方、西側の一角では(仰向きに長々と寝そべっている私にはそう見えたのだが)、夕陽の泉からこの谷間へと、見事な真紅の光の瀑布が、絶えず音もなく流れ落ちていた。
この狭い視界の中ほどを流れる川の中央に、植物を満載した円形の小島が浮かんでいた。

島影はその倒影と結ばれて
物ことごとく宙吊りに見え――*6

水は澄み切っていて、島のエメラルド色の草むらに覆われた斜面スロープのどこからが水没しているのか、判然としないほどだった。
私のいるところからは島の東西両端を見渡すことができ、私はこの両者の景観は異様に対照的だと思った。西端は風景美の一大ハーレムだった。夕陽を浴びて、花々とともに光り輝いていた。草は短く、ピンと伸びて、甘い香りを放ち、アスフォデルの花を点在させていた。樹木はしなやかに直立し、ほっそりとして優しく、その姿と葉ぶりとは東洋の風情を帯びていた。その樹皮はつやつやとして、なめらかで、多彩に着色されていた。一望して感じられるのは生きるよろこびだった。無風と言っていい気候条件にもかかわらず、羽根の生えたチューリップかと見紛う無数の蝶の乱舞*7とともに、一切が躍動していた。
島の東端は真っ黒な影に覆われていた。ここでは厳かな、とはいえ美しく安らかな闇がすべてを包み込んでいた。樹木の色は暗く、姿においても素振りにおいても悲しげで、怨念がこもっているかに見えるその身もだえは、生きるつらさや時ならぬ死といったものを連想させた。下草もまた糸杉の影の色を帯びて黒く、その細長い葉先は力なくうなだれていた。そうして草の間の至るところに醜い小山ヒロックがあり、小山ヒロックは高さも幅も奥行きもなく、墓ではないが、墓のような外観を呈しており、ローズマリーヘンルーダとがその周囲から上部へと這い上がっていた。樹影は大量に水没し、水に自分自身を葬ることで、この水という元素エレメントの深みに闇を生みつけているような気がした。私はこんな風に考えた。日が傾くにつれ、生まれた樹影は生んでくれた樹木から、絶えず黙々と身を投げて、流れる水のおもてに取り込まれる。一方、樹木からは絶えず次の樹影がなげうたれて、それがすでに葬られた先人たちに取って代わる。
この考えは、ひとたび私を捉えるや、とても興奮させた。私は空想に夢中になった。「もしも魔法の島があるとすれば」と私は自分に言った。「それはこの島だ。これは絶滅を免れた希少な妖精たちの棲み家なのだ。あの緑の墓は彼女たちの墓だろうか。だとすると、彼女たちもやはり死ぬのだろうか。樹木が樹影を次々と手放しながらその実質を消耗するように、妖精たちもまたその存在を少しずつ『神』に返還しながら死ぬのではないだろうか。老い朽ちる樹木が吸い込む水面に樹影を投げかけて、水は樹影を捕食することで更に黒ずむように、妖精たちも水に影を落とすことで、彼女たちを呑み込む死を養っているのではないだろうか」
なかば目を閉じながらこんなことを考えていると、日はさらに傾き、水の流れはすみやかに島を周回した。その上に浮かんでいるシカモアの樹皮の、大きくて、まばゆいばかりに真っ白な薄片フレークの数々は、思い思いの姿勢を取っていたゆえ、想像力の作用によって、どんなものへでも瞬時に変換コンバートされそうに思われたまさにその時――私がまさしく考えていた通りの「妖精」が一人あらわれ、島の西端の光の中から東端の暗がりへと、おもむろに突き進んでゆく様に思われた。彼女は妙にはかなげなカヌーの上に直立して、幻でしかない一本のオールを漕いでいた。夕陽の残照の影響下にあるうちは、彼女の姿は歓喜に輝いていた。だが東端の暗がりへと滑り込む際、悲しみで醜怪化した。彼女はゆっくりと移動し、島を一周すると、ふたたび光の世界に姿を現わした。「彼女が経た激変レボルーションは」と私は考えながら言った。「彼女の生涯における短い四季の一周期サイクルなのだ。彼女は夏を駆け、冬を抜けた。一つ年を取って、一年寿命を縮めた。なぜなら私は彼女が暗がりへと滑り込む際、彼女の落とした影が波に呑まれ、それで黒い水がもっと黒くなるのをこの目で見たからだ」
ボートに乗った「妖精」はふたたび現われた。だが彼女の姿からははじけるような歓喜が減って、不安と気苦労とが増えていた。彼女はふたたび光の中から(刻々と深まる)闇のうちへと移り、影は落ち、黒ずんだ水へと吸い込まれた。そうして彼女は何度も何度も島の周囲をめぐり(その間に日は急速に沈んでいった)、彼女の姿には、明るみに出るたびに、よりいっそう深い悲しみが感じられた。彼女はさらに衰え、活気を失い、輪郭も不明瞭になっていった。そうして暗がりを通過するたびに、彼女はもっと暗い影を落とし、波ももっと黒くなった。だが遂に日はとっぷりと暮れ、もはやかつての「妖精」の亡霊でしかなくなったこの「妖精」は、悲しみに打ちひしがれて、ボートに乗ったまま、暗黒の水域へと姿を消した。そうしてあたりは真っ暗になり、私は彼女の妖しい姿を永遠に見失ってしまったので、彼女がそこから再生できたかどうかは知る由もない。

上の銅版画の原画とされるジョン・マーティンの「パンとシュリンクス」。gallerix.orgより。

*1:原注:ここでの“Moraux”は“mœurs”から来ていて、これは「今風の」、もっと厳密に言うと「生活習慣の」の意。

*2:訳者注:「彼はかれて墓に行き、塚の上で見張りされ、谷の土くれも彼には快く、すべての人はそのあとに従う。彼の前に行った者も数えきれない」云々。(『口語訳旧約聖書ヨブ記 21:32-33)

*3:原注:ポンポニウス・メラは潮の干満に触れて、その著『世界地理』に曰く「あるいは世界は大いなる動物やも知れぬ、云々」。

*4:原注:バルザック。大意であって、言葉は記憶しない。

*5:訳者注:オノレ・ド・バルザックではなく、ジャン=ルイ・ゲ・ド・バルザックの言葉だそうです。こちらのサイトに詳しい解説があります。

*6:訳者注:ポー自身の詩「海中の都市」第26-27行参照。

*7:原注:「(蝶は)液体の空を泳ぐ一輪の花のようだ」――ジャン・コミール神父。

再読・伊東潤『天下人の茶』

南宗寺(大阪府堺市)の実相庵。利休好みの茶室と言われる。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんより再度紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。前回の記事はこちら


はじめに

伊東潤『天下人の茶』(文藝春秋)を読了して。
慶長元年(1596年)五月、秀吉が三度目となる禁中能を舞うシーンから始まります。
当時、能は庶民の芸術扱いだったので、伝統と慣習を墨守する宮中を、天下人の権力をもって押し切って、開催に漕ぎつけたのだ。そうまでして、何故秀吉は“明智討”を舞わなければならなかったのか?みかどの高覧を心から願ったのか?
そもそも秀吉が、信長の家来衆から頭一つ抜きんでた存在になったのは、“本能寺の変”で、いち早く謀反人・明智光秀を討ち果たし、その余勢を駆って清須会議で信長の嫡流の孫(信忠の長男)の後見人となり、その地位を不動のものとしたからだ。
だがしかし、本能寺の変後の“中国大返し”を始め、山崎の戦いの勝利まで、秀吉一人で立案・実践できようか?秀吉には協力者がいて、絵を描き、踊らせたのではないだろうか?その人物は、豊臣家の滅亡をも見越していたのではないだろうか?
その人物とは誰なのか?因みに、秀吉は能に夢中になる以前は、茶道に精を出していた。

登場人物

登場人物は、豊臣秀吉を始め、千利休、牧村兵部ひょうぶ、瀬田掃部かもん古田織部細川忠興などです。
勿論、織田信長明智光秀も登場しますよ。利休の弟子の山上宗二も。
武将以外の彼らの共通点は何か?それは茶の湯織田信長はともかく、他の者には師弟関係が結ばれる。朝鮮半島へ出陣した武将もいるし、そうでない武将もいた。
彼らが各々に相応しい茶の道を見つけるのだが、それにはとても大きな代償を支払う。
さすがに、権力者となった秀吉に挑み、最期まで己の美意識を捨てなかった利休の弟子たちだった(勿論、利休七哲に、古田織部細川忠興も入っています)。

秀吉はなぜ利休を恐れたか?

天正四年(1576年)六月、安土城普請開始の折に、信長は茶会を開いた。目的は「茶の湯政道」を実現させるため、堺三人衆(今井宗久、津田宗及、千宗易)と織田家三人衆(明智光秀丹羽長秀羽柴秀吉)の顔合わせをしておこうというのだ。武将から名物茶器を召し上げ、手柄を挙げた他の武将に下賜する。やがて天下万民に茶の湯が行きわたれば(庶民をコントロールできれば)、茶の宗匠たちの権威は高まり、物流や交易が栄える。金に糸目を付けずに買い求める富裕層も出てくる可能性がある。信長は、大陸(厦門アモイ澳門マカオ香港ホンコン)の港を押さえ、南蛮貿易を振興し、利益を得ると、見果てぬ夢を六人に語った。
秀吉には、茶の湯の何が面白いのかは理解不能だが、茶の湯を許可制にして天下を治める必要は理解できた。この「茶の湯政道」の発案者が千宗易と聞き、油断のならない人物だと思った。自分より十五歳年上で、堺の裕福な商家の出身である。挙措動作は人より一拍以上遅いが、鈍い訳ではなく、この男のリズムらしい。声はしゃがれているが、心地よい声である。
この茶席では明智光秀が「『茶の湯政道』では明日の食い扶持が必要な自分の家臣たちを救えぬ」と正論を言って、信長の不興を買い、何も下賜されなかった。丹羽長秀玉澗ぎょくかんの「山市晴嵐さんしせいらんず」を、秀吉は「洞庭秋月図どうていしゅうげつず」を下賜された。
千宗易は秀吉に言った。「われら堺衆は、織田家の治世に大いに期待しております」

第二部

天正五年(1577年)、秀吉は西国を制した褒美として、信長から乙御前釜おとごぜがまを拝領し、更に「茶の湯張行ちょうぎょう」の許可を得た。とうとう自分で茶会を開ける立場になった。しかし、茶会の体裁を整えるのは大変である。大金を投じて牧谿もっけの軸に相応しい茶道具を手に入れた。天正六年(1578年)、三木城の籠城戦を戦いながら、津田宗及を招いて口切の茶会を開き、織田家重臣の列に連なる事ができた。天正八年(1580年)正月、姫路城を完成させ、尼子天目あまこてんもくを手に入れた秀吉は、この天目に初めて心を奪われた。信長の目論見通り、茶の湯に嵌まった。秀吉が茶会に招くのは妙にウマのあった津田宗及だけであり、千宗易は意識的に避けていた。
天正十年(1582年)、秀吉が姫路城で茶会を開いた折に、津田宗及は、千宗易の高弟で「唐名物の造詣については当代随一」との触れ込みの山上宗二を伴ってきた。宗二は信長から秀吉専属の茶頭さどうを務めるよう命じられたのだ(信長専属の茶頭を秀吉が横取りした形になった)。宗二は只不愛想に点前てまえを披露するだけで、秀吉とは必要最小限の会話しか交わさない。しかも突然「所用がある」と堺に帰ってしまった。秀吉は怒るが、秀吉自身多忙であり、宗二ごときにかかわってはおれない。この時期、宇喜多家の後継者問題で信長の指示を仰ぐ必要が出てきたので、安土城に出仕した。結局、宇喜多秀家家督相続が認められ、秀吉は自分の安土屋敷に帰った。帰宅した秀吉は、千宗易の訪問を受けた。
煩わしくもあったが、千宗易を通じて信長の機嫌を損じてはまずい。家人に言いつけた。
「せっかくだから茶をててもらおう。飯と茶会の仕度をしておくように」
黒の頭巾をかぶり、木蘭色もくらんいろの道服を着て、首からは金襴の絡子らくすを垂らした宗易が平服して言った。
「宗二のことで、ご迷惑をおかけしまた。既にキツク叱り、姫路に向かわせました」
「ご配慮かたじけない。この度は茶匠ちゃしょうにも様々あると学びました」
秀吉の皮肉である。
「時に宗易どの、せっかくなので飯の後に、薄茶うすちゃでも点てていただけないか」
略式ではあるが、式正しきしょうの一から三の膳までの食事が出た。食後、一客一亭いっていの茶席に移動した。
宗易の点前を見る秀吉は、名人や名工を超えていると思った。かつて宣教師ヴァリニャーノか誰かが、信長公に絵画を献上した時、名工の仕事と褒めたが、通訳は「いいえ、名人の仕事ではなく、芸術家の仕事です」と訂正した。宗易はまさにそうだ。津田宗及や今井宗久は「名人」ではあるが、宗易は違う。宗易の点てた茶は、濃すぎることもなく、薄すぎることもなく、程よく泡立ち、馥郁とした香りとともに、程よく秀吉の舌を刺激する。
宗易の流れるような動作は、細川忠興が言った以上の何かを持っている。
「尊師は頭の中に曲尺かねわりを持っている。常人には考えられない程、正確で寸分の狂いもなく、茶の湯室礼しつらいに活かされている」
「時に羽柴さま」
秀吉は我に還った。
「右府様は天下を制しても、大陸進出を諦めない限り、天下万民に静謐は訪れません」
「何を言いたい」
「羽柴さま、もしも右府さまがこの世からいなくなれば・・・」
「それ以上言うな!」
秀吉は両耳を塞ごうとしたが、宗易は言葉を続けた。
「右府様をたおし、羽柴さまが天下を取るおつもりがおありか?」
野心のくびきから逃れるには、野心を達成するしかない。まるで底なしの流砂に飲み込まれていくようだ。秀吉は肚を決めた。
秀吉の安土屋敷で、何が話し合われたのかは、二人以外誰も知らない。

その後、天正十二年(1584年)正月、秀吉は侘数寄の象徴として、大坂城内に山里丸を築き、数寄屋(茶室)の座敷開きを行った。これにより、表向きの天下人は秀吉だが、裏の天下人は宗易であることが誰の目にも明らかになった。美の世界を支配した。
天正十四年(1586年)正月。この頃から宗易改め利休と秀吉の関係は、誰の目にもわかるほど隙間風が吹いていた。利休は秀吉をコントロールできなくなった。
利休は苦肉の策として、大陸進出を認める以外なかった。

利休の狭い茶室に代表される「侘び」と、豪華絢爛たる黄金の茶室に代表される秀吉の「侘び」とは相反するようで、源流が同じであるのは、誰にも理解できなかった。
かくして利休は従容と切腹する。その脳裏には、豊臣家が程なくして滅亡するイメージを持ったまま。二人はある意味一心同体だったのだ。

長くなりましたが、利休がいなければ秀吉はいなかった、秀吉がいなければ利休もいなかった。二人とも只の茶人、只の武将に終わらない人生を存分に生きたのだった。
お楽しみください。
天一

 

 

杉本苑子『竹ノ御所鞠子』

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竹ノ御所鞠子(みなもとの媄子よしこ)の墓。鎌倉市大町妙本寺。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


はじめに

杉本苑子『竹ノ御所鞠子』(中公文庫)を読了して。
鎌倉幕府第二代将軍・源頼家の遺児達の運命を描いた長編歴史小説です。
頼家の遺児の中で只一人の女人である鞠子まりこ姫とその母・刈藻かるも木曽義仲の娘)の“源氏の血脈のくびき”から逃れられない悲劇をひもといてゆきます。同時に北条家との権力闘争に敗れた者の痛ましい運命も確かな筆致で描きます。敗軍の将を肉親に持った女人たちの運命の過酷さをも描きます。

鞠子姫を巡る人々

幽閉された伊豆修善寺で、父・頼家が北条家により謀殺されたのは、鞠子姫が数え年三歳の頃だった。
従って、鞠子姫には父の記憶は殆どない。勿論、父や異母兄弟と共に暮らしたことはないのだ。父・頼家は、祖父・頼朝の影響を受けたのか、多情な男だった。なので、鞠子姫には、四人の異母兄弟がいる。父は何れも頼家ではあるが、長兄・一幡の母は比企能員の娘、次兄・公暁の母は加茂重長の娘、三兄・栄実えいじつの母は昌寛しょうかん法橋ほっきょうの娘、弟・禅暁の母は意法坊生観の娘である。癇癖が強く、気性の激しい頼家はどのような気持ちで複数の側室を持ったのだろうか?情の強い母・北条政子への当てつけか?
長兄の一幡は和田合戦に巻き込まれる形で、僅か六歳で命を落としている。
北条政子は、祖母に当たるが、日頃の音信はありません。
日頃、鞠子姫は、母の刈藻と共に、比企ヶ谷の奥に竹ノ御所を設け、人目を避け、ひっそりと暮らしている。使用人も二十人程で、護衛の男手は諏訪六郎雅兼ぐらいであった。
鞠子姫が十歳になった頃、次兄の十二歳になる善哉が剃髪得度し、公暁法名を授けられた。受戒し、京都園城寺へと修行に行くため、別れの宴が催され、四人の異母兄弟が八幡宮別当に集ったところから、物語が動き出します。

忍寂の予言

別れの宴で、公暁は叔父にあたる実朝は自分たちから、将軍位を簒奪さんだつしたのだというようなことを、辺りを憚らず、物凄い形相をして言います(乳母夫めのとぶ三浦義村の入れ知恵か?)。
最年長の気負いもあろうが、公暁の気性の激しさは父・頼家譲りで矯正不可能だったらしい。
予定より早く宴を切り上げた鞠子姫を送ってきた八幡宮の社僧・忍寂にんじゃく公暁の警護をしていて、観相をする)がある予言をします。
「頼家公の遺児の中では、鞠子姫のみに寿相が見えます。おそらく三十歳頃までは長らえられるものかと・・・」後日公暁は、将軍・実朝の甥に相応しい威容を整え、京都園城寺に向けて、出発します。
同じころ、明浄めいじょうという尼僧が竹ノ御所の前で行き倒れており、刈藻は懇願に負けて還俗させ、たえと名をあらため、下女として雇い入れます。とてもではないが、尼寺で大人しく修行する気性ではありません。奥向きを取り仕切る小宰相は油断のならない娘と警戒します。

実朝、由比ヶ浜に唐船を造らせる。

和田合戦の後、建保四年(1216年)、実朝は(功績らしい功績が皆無なのにも関わらず)六月に中納言、八月に左近中将兼任と、驚くべきスピードで官位昇進を果たす。
同じ頃、宋人の陳和卿のそそのかし(?)により、唐船の建造を命じる。余りにも突拍子のない命令に、母・政子や叔父・北条義時いぶかしがり、官位を望むことを含め、大江広元を通じて諫言するのだが、実朝は我が道を行くとばかりの行動をとり続ける。実朝の本心は誰にもわかりません。もはや親子の情など振り捨てたようである。
由比ヶ浜で行われる唐船の進水式。十六歳になった鞠子姫に、祖母・北条政子から招待状がくる。断れるはずがない。刈藻は、日頃の行き来がないのに何故だろう。政子・義時姉弟の底意は何だろうかと疑います。用心のため、当日、鞠子姫に地味な装いをさせます。
結局、唐船は由比ヶ浜に浮かびませんでした。その原因を巡って、様々な流言飛語が行き交いました。執権・義時は「こちらが前将軍の忘れ形見、鞠子姫か。おいくつになられた?」と優しく刈藻母子に話しかけます。刈藻は、忍寂の予言を思い出し、気を揉みます。
執権・義時は何の目的をもって、進水式に招待したのだろうか。気味が悪い。
その頃には、和田残党に担がれた栄実が自殺に追い込まれました。享年十四歳。

鞠子姫の結婚

鞠子姫は其の頃、臣下の諏訪六郎雅兼と結婚した。自然な成り行きだった。誰も反対せず、北条家には知らせず、厳かに式を挙げたが、鞠子姫の毎日は静かに過ぎていった。
母の刈藻は、このまま何事もなく(鎌倉から忘れられた状態のまま)日々が過ぎてゆくことを心の底から願った。やがて夫婦の間には娘が生まれる。
刈藻は、安産祈願に詣でた背振せふり地蔵で、娼妓に身を落とした妙と出会い、忍寂の予言を思い出し、暗澹たる気持ちになる。
偶然だが、この頃、異母兄・公暁鶴岡八幡宮別当として帰って来た。再会を喜ぶ三人(公暁、鞠子、禅暁)。格式に相応しい待遇を受け、僧形となっていても、父・頼家譲りの気性の激しさは変わっていなかった。さっそく公暁は、別当の務めもかまわず、上宮の窟に参籠さんろうして、一千日の祈願を行う。この祈願、実は実朝を呪詛するためであると打ち明けられた鞠子姫は異母兄・公暁の無事を祈る。

実朝暗殺

実朝は朝廷の「位撃ち」に注意して、官位昇進を固辞しなさいとの周囲の諫言を聞き入れず、又「源氏の正統は私一代で絶える」とも公言した。これにより執権・義時との関係は更に微妙になってゆく。
果たして建保七年(1219年)正月に執り行われた右大臣拝命の式典で、公暁に惨殺される。
公暁は“父の仇討つべし”との大音声と共に、刀を迷わず振り下ろす。あっという間の出来事だった。裏に誰の陰謀が隠されているかは不明だ。
やがて、公暁は迎えに来た乳母夫の三浦義村の兵に討たれる。公暁傅役もりやくの忍寂も多勢に無勢で切り結び、壮絶な斬り死を遂げる。
これにより、源頼朝の正嫡(孫世代)の男子は僧籍にあるもの以外、全て死に絶えた。
頼朝の子孫の男子が断絶した、これは何を意味するのか?残るは女人の鞠子姫のみだ。
揺れる鎌倉幕府には、ほんのわずかでも頼朝の血脈を継ぐ将軍が緊急に必要になる。
将軍位をいつまでも空位にしておくわけにはいかない。事は幕府の存続にかかわるのだ。頼家の遺児で鞠子姫だけが目こぼしされるように、大人になれたのか?
女性のみに備わった出産の機能を期待されているのだった。形だけでも、薄くなろうとも、朝廷と融和するためには、源氏の血脈が必要なのだ。
北条政子の紡ぎ出した頼朝の血脈を継ぐ公家の男子とは誰か?
鞠子姫と夫の六郎、そして愛娘・万亀まきの運命は?

長くなりましたが、悲運の鞠子姫の物語をお楽しみください。
天一

 

 

源実朝と ‘Highly Sensitive Person’

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2017年5月、鎌倉由比ヶ浜海岸に発生した夜光虫。ウィキメディア・コモンズより。

近ごろ一天一笑さんのブックレビューに「実朝暗殺」の文字がしきりに現われ、その度にこの源実朝という人物のことを考えるので、少しまとめておく気になりました。
近ごろネット上で「HSP」という文字をよく目にしますね。「ハイリー・センシティブ・パーソン(Highly Sensitive Person)」の略だということですが、日本語版ウィキペディアによると、 ‘Highly Sensitive Person’ とは以下の四つの指標で示されるところの「感覚処理感受性(Sensory Processing Sensitivity)」なるものがきわめて高い人たちのことだという。

  • 「認知的処理の深さ」(grater depth of information processing)
  • 「刺激に対する圧倒されやすさ」(greater ease of overstimulation)
  • 「情動的な反応性や共感性の高まりやすさ」(increased emotional reactivity and empathy)
  • 「ささいな刺激に対する気づきやすさ」(greater awareness of environmental subtleties)

私の目には、これはそのまま「詩人」の定義に見える。「詩人」とは、平ったく言うと、われわれが些細なことと感じるような出来事から、天地がひっくり返ったかのようなショックを受け、取り乱す人のことをいうのです。
「詩人は被造物中もっとも傷つきやすい存在である。事実、彼は逆立ち歩きのような不安定な状態にある」というポール・ヴァレリーの言葉をこちらの記事でご紹介しましたが、ヴァレリーはこの同じ文の中で「フランスでは詩人は決して本気にされなかった。フランスにおいて詩の発作があれほどしばしば反逆の形を取ったのはそのせいである。従ってフランスには国民詩人なる者は存在しない」とも書いていたように記憶します。*1
これが日本ではどうだったかというと、日本には古来「詩人」についてのある固定したイメージがあります。すなわち集団生活に適応できず、富からも社会的地位からも見放され、乞食のようななりをして、寂しい国々をさまよい歩いている。それが日本のオルフェウスともいうべき柿本人麻呂から近世の詩的怪物・松尾芭蕉にいたるまでの日本における「大詩人」の伝統的な姿です。
従って、たとえば新聞小説でひと山当てたある「文豪」が、暇つぶしに書斎でひねった俳句などに、本当の意味での詩的価値など何もない。これに対して、たとえば戦前、種田山頭火という俳人がおりましたね。彼の俳句は形式的には新しいが、生き様の上では彼はガチンガチンの「守旧派」で、頑迷固陋なまでの「伝統墨守派」であったわけです。
源実朝に戻りますが、彼もまた「天性の詩人」です。本来なら裸一貫で諸国を放浪しているようなタイプです。以下『金槐和歌集』から数首引きます。

大海おほうみの磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも

小林秀雄はこの歌について、

かういふ分析的な表現が、何が壮快な歌であらうか。大海たいかいに向かつて心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事を思ふなら、青年の殆ど生理的とも言ひたい様な憂悶を感じないであらうか。(『無常といふ事』)

と書いている。小林秀雄の指摘は当たっているのですが、実朝の分析的な傾向は、たとえば次の歌のような、「壮快」と言うよりも「豪快」と言っていいスケールの歌の中にも感じられる。

山は裂け海はせなむ世なりとも君に二心ふたごころわがあらめやも

どうもこの源実朝という人は、非常に優れた知性と繊細な感受性とを兼ね備えた、きわめて情緒不安定な人物だったのではないかと考えられる。とはいえ時は以後数百年にわたって日本を事実上支配することとなる「暴力政権」の勃興期。その血で血を洗う権力闘争の中枢部に、この ‘Highly Sensitive Person’ は生を享けたのです。これは(今風に言えば)「あり得ない」レベルの悲劇です。
さぞかし辛かったでしょう。逃げ出せるものなら逃げ出したかったに違いない。そこで思い起こされるのがあの不思議な、伝説的な渡宋計画です。彼はおそらく本当に日本から脱出して、大陸の山奥深く、隠れて暮らしたかった。だが周知の通り、船は出来上がったが、進水に失敗して、砂浜で朽ち果てるままとなった。彼の絶望は如何ばかりだったでしょうか。
もちろん彼の内面の苦悩など、『吾妻鏡』は一行も触れてはおりません。だがさらに彼の孤立感を深め、彼を苦しめたと考えられる要因がある。それは肉親の無理解です。

乳房吸ふまだいとけなきみどりごとともに泣きぬる年の暮かな

いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる

物言はぬ四方よものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

上の三首、親子の情愛を歌って非常に特色あるものですが、ここから当然、実朝は母親の愛情に飢えていたのではないかという推測が成り立つ。彼の母親北条政子は、彼とは正反対の個性でした。少なくとも北条政子の目には、実朝は我が子ながらまったく不可解な人物と映じていたに相違なく、これがまた鋭敏な実朝をして世を生きづらく感じさせる大きな理由の一つとなっていたであろうと推察されます。

*1:確か『邪悪な想念パンセ・モーヴェーズ』という本の中にあった言葉だと記憶しますが、確認はしていません。

吉川永青「讒訴の忠」

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伝梶原氏一族郎党の墓。神奈川県高座郡寒川町一之宮。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


はじめに

吉川永青「讒訴の忠」(『鎌倉燃ゆ 歴史小説傑作選』所収)を読了して。
石橋山の戦い大庭景親に敗れ、土肥どい実平さねひらと共に洞窟に隠れた源頼朝を助けた(見逃した)武将・梶原景時の人物像を、吉川永青独自の視点から描きます。
従来の卑怯者のイメージを払拭し、源氏の嫡流に賭けた景時が、何故自ら進んで讒言者の道を選んだのかを解き明かします。

義経との確執

梶原景時は頭が痛かった。寿永三年(1184年)、一の谷合戦で手柄を上げた義経は、“鎌倉殿”頼朝の許可を得ないまま、後白河院から検非違使左衛門少尉さえもんのしょういの位を受けてしまった。これが何を意味するのか、義経にはまるで分らない。だからこそ、先陣を切って一の谷を駆けたにもかかわらず、褒美が出ない事に不満を持つのだろう。景時は、義経の戦目付(軍監)なのだ。義経が頼朝の指示に従って戦闘を行なっているかを報告し、その戦いぶりを監督する立場にある。
景時は、一の谷合戦は義経による独断専行の不意討ちでの勝利と頼朝に報告した(本来は明石まで進軍し、平家の搦め手から攻める作戦だった)。故に褒美はない。
「平家に勝利すれば、兄上は私を認めてくださる」との信念に凝り固まった義経にどう説明すれば(指導すれば)、“鎌倉殿”が目指す武士の府が理解できるのだろうか?
異母兄弟とはいえ、頼朝は公人・鎌倉殿であり、義経は家人である限り、頼朝と肩を並べることはできない。家人は皆横並びの存在でなければならないのだ。
まずこの度の任官を受けたことを、鎌倉殿に詫びるのが筋だと諭した。しかし、義経は言った。
「何ゆえ詫びねばならぬ。弟の任官は、兄上にとっても誉であろう。院に気に入られている俺が任官され、重用されれば、兄上は名実ともに世の中を統べられる筈だ」
景時は天を仰いだ。
「心得違いをされるな。それでは平家と同じことになります。平家の二の舞にならぬよう、武士が上に立ちながらも、朝廷とは友好関係を築かなければなりません」
「俺がいればそのような必要はない。もう話すことがないならば、下がれ」
義経は武器使用の戦術・戦略の天才であっても、権謀術数には長けていない。
後白河院義経を重用するのが源家分断策でもあることすらも判らないのだ。
寿永四年(1185年)二月、屋島の戦いで、戦術を巡って景時と義経は激論を交わす。後白河院は“大将は先陣を切らず”の教訓を教える良い機会であるとして、高階泰経を通じて義経は京都に戻るよう伝える。
しかし義経は首を縦に振らない。そこで妥協策として屋島にわたる船に逆櫨さかろを付ける提案をした。しかし手柄を焦る義経は頑として応じない。戦評定では、土肥実平が仲裁に入る始末だった。
激昂した義経は僅かな供回りを連れて、追い風になった嵐の海に船を漕ぎ出した。
景時は戦目付の役割を果たすために(如何に不仲であろうとも義経を死なせては鎌倉殿に申し訳が立たない)、嵐の治まる明け方に船を出した。平家を討伐した義経は得意満面に景時に言い放つ。
「一日遅れ。端午の節句にも間に合わない。六日の菖蒲とはお主のことだ」
屈辱感が景時を打ちのめした。義経は更に西進し、壇ノ浦で平家を滅ぼす。壇ノ浦の戦い義経が一日で勝利したのは、船の漕ぎ手を射る禁じ手を使用したからだった。

主君・頼朝との信頼関係

それと前後して、峻厳な眼差しの頼朝の館に呼び出された景時は、或る依頼を引き受けた。
源氏の世の中が定着していない今の御家人たちの引き締め役になってくれ。
「東国は東国」を落ち着かせ、義経のように朝廷に取り入ろうとする者を戒めよ。
“讒訴の徒”となってくれ。
景時は感激した。自分は頼朝の望む坂東を作るために生まれてきたのだ。何とも言えない喜びが景時の心を熱くした。自分は義経の教育係は全う出来なかったが、これはやり遂げてみせる。こうして、偉大なるイエスマン景時が誕生した。だが、それを理解するのは頼朝のみだ。“讒訴の徒”は千葉常胤つねたねや三浦義澄からも距離を置かれるようになる。

征夷大将軍の宣下

月日は流れ、義経が討たれ、奥州藤原氏も頼朝の追討軍に討たれる。ようやく頼朝の東国支配は確実になる。後白河院崩御(建久三年、1192年)と共に、頼朝に征夷大将軍宣下せんげされる。
武士が実を取り、朝廷はその上の名ばかりの存在となった。政敵になりそうな甲斐源氏安田義定梟首きょうしゅする。

頼朝急逝

宿願かなったが、頼朝は落馬する。不審に思う景時は、六男の景国に落馬の様子を探らせるが、曖昧模糊として目ぼしい話はなかった。見舞いに駆けつけた自分を追い返した北条時政の冷たい視線が、景時の心に甦った。
御家人六十六人による連判状を大江広元から見せられる。頼家は認めるか詫びるかどちらかを選択せよという。景時は鎌倉を出て、領国の相模国一之宮に下がるも、時政は容赦しなかった。
亡き主君・頼朝の一周忌法要を済ませた景時は、相模国を出て、京都に向かう。
時政側は待ち構えていたように、“謀反人”景時征伐の軍を立ち上げる。
梶原一族は、駿河清見の関で時政軍に追いつかれ、父・梶原景時をはじめ、嫡男・源太景季、次男・平次景高、三男・景茂かげもち、六男・景国、七男・景宗、八男・景則、九男・景連ら、一族ことごとく壮烈な戦死を遂げる。

六十歳の景時は最後に何を思ったろうか。孤独で誰にも理解されなかった男の心中は如何に?
“忠臣・景時”は、自分が“始末”されてしまえば、誰も北条時政・義時父子から頼家を守るものがいなくなる。それだけが心残り、無念だったのではないだろうか。
報われなかった“讒訴の忠”の物語をお楽しみください。一天一笑。