魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東潤『天下人の茶』

南宗寺(大阪府堺市)の実相庵。利休好みの茶室と言われる。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんより再度紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。前回の記事はこちら


はじめに

伊東潤『天下人の茶』(文藝春秋)を読了して。
慶長元年(1596年)五月、秀吉が三度目となる禁中能を舞うシーンから始まります。
当時、能は庶民の芸術扱いだったので、伝統と慣習を墨守する宮中を、天下人の権力をもって押し切って、開催に漕ぎつけたのだ。そうまでして、何故秀吉は“明智討”を舞わなければならなかったのか?みかどの高覧を心から願ったのか?
そもそも秀吉が、信長の家来衆から頭一つ抜きんでた存在になったのは、“本能寺の変”で、いち早く謀反人・明智光秀を討ち果たし、その余勢を駆って清須会議で信長の嫡流の孫(信忠の長男)の後見人となり、その地位を不動のものとしたからだ。
だがしかし、本能寺の変後の“中国大返し”を始め、山崎の戦いの勝利まで、秀吉一人で立案・実践できようか?秀吉には協力者がいて、絵を描き、踊らせたのではないだろうか?その人物は、豊臣家の滅亡をも見越していたのではないだろうか?
その人物とは誰なのか?因みに、秀吉は能に夢中になる以前は、茶道に精を出していた。

登場人物

登場人物は、豊臣秀吉を始め、千利休、牧村兵部ひょうぶ、瀬田掃部かもん古田織部細川忠興などです。
勿論、織田信長明智光秀も登場しますよ。利休の弟子の山上宗二も。
武将以外の彼らの共通点は何か?それは茶の湯織田信長はともかく、他の者には師弟関係が結ばれる。朝鮮半島へ出陣した武将もいるし、そうでない武将もいた。
彼らが各々に相応しい茶の道を見つけるのだが、それにはとても大きな代償を支払う。
さすがに、権力者となった秀吉に挑み、最期まで己の美意識を捨てなかった利休の弟子たちだった(勿論、利休七哲に、古田織部細川忠興も入っています)。

秀吉はなぜ利休を恐れたか?

天正四年(1576年)六月、安土城普請開始の折に、信長は茶会を開いた。目的は「茶の湯政道」を実現させるため、堺三人衆(今井宗久、津田宗及、千宗易)と織田家三人衆(明智光秀丹羽長秀羽柴秀吉)の顔合わせをしておこうというのだ。武将から名物茶器を召し上げ、手柄を挙げた他の武将に下賜する。やがて天下万民に茶の湯が行きわたれば(庶民をコントロールできれば)、茶の宗匠たちの権威は高まり、物流や交易が栄える。金に糸目を付けずに買い求める富裕層も出てくる可能性がある。信長は、大陸(厦門アモイ澳門マカオ香港ホンコン)の港を押さえ、南蛮貿易を振興し、利益を得ると、見果てぬ夢を六人に語った。
秀吉には、茶の湯の何が面白いのかは理解不能だが、茶の湯を許可制にして天下を治める必要は理解できた。この「茶の湯政道」の発案者が千宗易と聞き、油断のならない人物だと思った。自分より十五歳年上で、堺の裕福な商家の出身である。挙措動作は人より一拍以上遅いが、鈍い訳ではなく、この男のリズムらしい。声はしゃがれているが、心地よい声である。
この茶席では明智光秀が「『茶の湯政道』では明日の食い扶持が必要な自分の家臣たちを救えぬ」と正論を言って、信長の不興を買い、何も下賜されなかった。丹羽長秀玉澗ぎょくかんの「山市晴嵐さんしせいらんず」を、秀吉は「洞庭秋月図どうていしゅうげつず」を下賜された。
千宗易は秀吉に言った。「われら堺衆は、織田家の治世に大いに期待しております」

第二部

天正五年(1577年)、秀吉は西国を制した褒美として、信長から乙御前釜おとごぜがまを拝領し、更に「茶の湯張行ちょうぎょう」の許可を得た。とうとう自分で茶会を開ける立場になった。しかし、茶会の体裁を整えるのは大変である。大金を投じて牧谿もっけの軸に相応しい茶道具を手に入れた。天正六年(1578年)、三木城の籠城戦を戦いながら、津田宗及を招いて口切の茶会を開き、織田家重臣の列に連なる事ができた。天正八年(1580年)正月、姫路城を完成させ、尼子天目あまこてんもくを手に入れた秀吉は、この天目に初めて心を奪われた。信長の目論見通り、茶の湯に嵌まった。秀吉が茶会に招くのは妙にウマのあった津田宗及だけであり、千宗易は意識的に避けていた。
天正十年(1582年)、秀吉が姫路城で茶会を開いた折に、津田宗及は、千宗易の高弟で「唐名物の造詣については当代随一」との触れ込みの山上宗二を伴ってきた。宗二は信長から秀吉専属の茶頭さどうを務めるよう命じられたのだ(信長専属の茶頭を秀吉が横取りした形になった)。宗二は只不愛想に点前てまえを披露するだけで、秀吉とは必要最小限の会話しか交わさない。しかも突然「所用がある」と堺に帰ってしまった。秀吉は怒るが、秀吉自身多忙であり、宗二ごときにかかわってはおれない。この時期、宇喜多家の後継者問題で信長の指示を仰ぐ必要が出てきたので、安土城に出仕した。結局、宇喜多秀家家督相続が認められ、秀吉は自分の安土屋敷に帰った。帰宅した秀吉は、千宗易の訪問を受けた。
煩わしくもあったが、千宗易を通じて信長の機嫌を損じてはまずい。家人に言いつけた。
「せっかくだから茶をててもらおう。飯と茶会の仕度をしておくように」
黒の頭巾をかぶり、木蘭色もくらんいろの道服を着て、首からは金襴の絡子らくすを垂らした宗易が平服して言った。
「宗二のことで、ご迷惑をおかけしまた。既にキツク叱り、姫路に向かわせました」
「ご配慮かたじけない。この度は茶匠ちゃしょうにも様々あると学びました」
秀吉の皮肉である。
「時に宗易どの、せっかくなので飯の後に、薄茶うすちゃでも点てていただけないか」
略式ではあるが、式正しきしょうの一から三の膳までの食事が出た。食後、一客一亭いっていの茶席に移動した。
宗易の点前を見る秀吉は、名人や名工を超えていると思った。かつて宣教師ヴァリニャーノか誰かが、信長公に絵画を献上した時、名工の仕事と褒めたが、通訳は「いいえ、名人の仕事ではなく、芸術家の仕事です」と訂正した。宗易はまさにそうだ。津田宗及や今井宗久は「名人」ではあるが、宗易は違う。宗易の点てた茶は、濃すぎることもなく、薄すぎることもなく、程よく泡立ち、馥郁とした香りとともに、程よく秀吉の舌を刺激する。
宗易の流れるような動作は、細川忠興が言った以上の何かを持っている。
「尊師は頭の中に曲尺かねわりを持っている。常人には考えられない程、正確で寸分の狂いもなく、茶の湯室礼しつらいに活かされている」
「時に羽柴さま」
秀吉は我に還った。
「右府様は天下を制しても、大陸進出を諦めない限り、天下万民に静謐は訪れません」
「何を言いたい」
「羽柴さま、もしも右府さまがこの世からいなくなれば・・・」
「それ以上言うな!」
秀吉は両耳を塞ごうとしたが、宗易は言葉を続けた。
「右府様をたおし、羽柴さまが天下を取るおつもりがおありか?」
野心のくびきから逃れるには、野心を達成するしかない。まるで底なしの流砂に飲み込まれていくようだ。秀吉は肚を決めた。
秀吉の安土屋敷で、何が話し合われたのかは、二人以外誰も知らない。

その後、天正十二年(1584年)正月、秀吉は侘数寄の象徴として、大坂城内に山里丸を築き、数寄屋(茶室)の座敷開きを行った。これにより、表向きの天下人は秀吉だが、裏の天下人は宗易であることが誰の目にも明らかになった。美の世界を支配した。
天正十四年(1586年)正月。この頃から宗易改め利休と秀吉の関係は、誰の目にもわかるほど隙間風が吹いていた。利休は秀吉をコントロールできなくなった。
利休は苦肉の策として、大陸進出を認める以外なかった。

利休の狭い茶室に代表される「侘び」と、豪華絢爛たる黄金の茶室に代表される秀吉の「侘び」とは相反するようで、源流が同じであるのは、誰にも理解できなかった。
かくして利休は従容と切腹する。その脳裏には、豊臣家が程なくして滅亡するイメージを持ったまま。二人はある意味一心同体だったのだ。

長くなりましたが、利休がいなければ秀吉はいなかった、秀吉がいなければ利休もいなかった。二人とも只の茶人、只の武将に終わらない人生を存分に生きたのだった。
お楽しみください。
天一