表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんより再度紹介記事を頂いておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。前回の記事はこちら。
はじめに
伊東潤『天下人の茶』(文藝春秋)を読了して。
慶長元年(1596年)五月、秀吉が三度目となる禁中能を舞うシーンから始まります。
当時、能は庶民の芸術扱いだったので、伝統と慣習を墨守する宮中を、天下人の権力をもって押し切って、開催に漕ぎつけたのだ。そうまでして、何故秀吉は“明智討”を舞わなければならなかったのか?帝の高覧を心から願ったのか?
そもそも秀吉が、信長の家来衆から頭一つ抜きんでた存在になったのは、“本能寺の変”で、いち早く謀反人・明智光秀を討ち果たし、その余勢を駆って清須会議で信長の嫡流の孫(信忠の長男)の後見人となり、その地位を不動のものとしたからだ。
だがしかし、本能寺の変後の“中国大返し”を始め、山崎の戦いの勝利まで、秀吉一人で立案・実践できようか?秀吉には協力者がいて、絵を描き、踊らせたのではないだろうか?その人物は、豊臣家の滅亡をも見越していたのではないだろうか?
その人物とは誰なのか?因みに、秀吉は能に夢中になる以前は、茶道に精を出していた。
登場人物
登場人物は、豊臣秀吉を始め、千利休、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、細川忠興などです。
勿論、織田信長も明智光秀も登場しますよ。利休の弟子の山上宗二も。
武将以外の彼らの共通点は何か?それは茶の湯。織田信長はともかく、他の者には師弟関係が結ばれる。朝鮮半島へ出陣した武将もいるし、そうでない武将もいた。
彼らが各々に相応しい茶の道を見つけるのだが、それにはとても大きな代償を支払う。
さすがに、権力者となった秀吉に挑み、最期まで己の美意識を捨てなかった利休の弟子たちだった(勿論、利休七哲に、古田織部も細川忠興も入っています)。
秀吉はなぜ利休を恐れたか?
天正四年(1576年)六月、安土城普請開始の折に、信長は茶会を開いた。目的は「茶の湯政道」を実現させるため、堺三人衆(今井宗久、津田宗及、千宗易)と織田家三人衆(明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉)の顔合わせをしておこうというのだ。武将から名物茶器を召し上げ、手柄を挙げた他の武将に下賜する。やがて天下万民に茶の湯が行きわたれば(庶民をコントロールできれば)、茶の宗匠たちの権威は高まり、物流や交易が栄える。金に糸目を付けずに買い求める富裕層も出てくる可能性がある。信長は、大陸(厦門、澳門、香港)の港を押さえ、南蛮貿易を振興し、利益を得ると、見果てぬ夢を六人に語った。
秀吉には、茶の湯の何が面白いのかは理解不能だが、茶の湯を許可制にして天下を治める必要は理解できた。この「茶の湯政道」の発案者が千宗易と聞き、油断のならない人物だと思った。自分より十五歳年上で、堺の裕福な商家の出身である。挙措動作は人より一拍以上遅いが、鈍い訳ではなく、この男のリズムらしい。声はしゃがれているが、心地よい声である。
この茶席では明智光秀が「『茶の湯政道』では明日の食い扶持が必要な自分の家臣たちを救えぬ」と正論を言って、信長の不興を買い、何も下賜されなかった。丹羽長秀は玉澗の「山市晴嵐図」を、秀吉は「洞庭秋月図」を下賜された。
千宗易は秀吉に言った。「われら堺衆は、織田家の治世に大いに期待しております」
第二部
天正五年(1577年)、秀吉は西国を制した褒美として、信長から乙御前釜を拝領し、更に「茶の湯張行」の許可を得た。とうとう自分で茶会を開ける立場になった。しかし、茶会の体裁を整えるのは大変である。大金を投じて牧谿の軸に相応しい茶道具を手に入れた。天正六年(1578年)、三木城の籠城戦を戦いながら、津田宗及を招いて口切の茶会を開き、織田家の重臣の列に連なる事ができた。天正八年(1580年)正月、姫路城を完成させ、尼子天目を手に入れた秀吉は、この天目に初めて心を奪われた。信長の目論見通り、茶の湯に嵌まった。秀吉が茶会に招くのは妙にウマのあった津田宗及だけであり、千宗易は意識的に避けていた。
天正十年(1582年)、秀吉が姫路城で茶会を開いた折に、津田宗及は、千宗易の高弟で「唐名物の造詣については当代随一」との触れ込みの山上宗二を伴ってきた。宗二は信長から秀吉専属の茶頭を務めるよう命じられたのだ(信長専属の茶頭を秀吉が横取りした形になった)。宗二は只不愛想に点前を披露するだけで、秀吉とは必要最小限の会話しか交わさない。しかも突然「所用がある」と堺に帰ってしまった。秀吉は怒るが、秀吉自身多忙であり、宗二ごときにかかわってはおれない。この時期、宇喜多家の後継者問題で信長の指示を仰ぐ必要が出てきたので、安土城に出仕した。結局、宇喜多秀家の家督相続が認められ、秀吉は自分の安土屋敷に帰った。帰宅した秀吉は、千宗易の訪問を受けた。
煩わしくもあったが、千宗易を通じて信長の機嫌を損じてはまずい。家人に言いつけた。
「せっかくだから茶を点ててもらおう。飯と茶会の仕度をしておくように」
黒の頭巾をかぶり、木蘭色の道服を着て、首からは金襴の絡子を垂らした宗易が平服して言った。
「宗二のことで、ご迷惑をおかけしまた。既にキツク叱り、姫路に向かわせました」
「ご配慮忝い。この度は茶匠にも様々あると学びました」
秀吉の皮肉である。
「時に宗易どの、せっかくなので飯の後に、薄茶でも点てていただけないか」
略式ではあるが、式正の一から三の膳までの食事が出た。食後、一客一亭の茶席に移動した。
宗易の点前を見る秀吉は、名人や名工を超えていると思った。かつて宣教師ヴァリニャーノか誰かが、信長公に絵画を献上した時、名工の仕事と褒めたが、通訳は「いいえ、名人の仕事ではなく、芸術家の仕事です」と訂正した。宗易はまさにそうだ。津田宗及や今井宗久は「名人」ではあるが、宗易は違う。宗易の点てた茶は、濃すぎることもなく、薄すぎることもなく、程よく泡立ち、馥郁とした香りとともに、程よく秀吉の舌を刺激する。
宗易の流れるような動作は、細川忠興が言った以上の何かを持っている。
「尊師は頭の中に曲尺割を持っている。常人には考えられない程、正確で寸分の狂いもなく、茶の湯の室礼に活かされている」
「時に羽柴さま」
秀吉は我に還った。
「右府様は天下を制しても、大陸進出を諦めない限り、天下万民に静謐は訪れません」
「何を言いたい」
「羽柴さま、もしも右府さまがこの世からいなくなれば・・・」
「それ以上言うな!」
秀吉は両耳を塞ごうとしたが、宗易は言葉を続けた。
「右府様を斃し、羽柴さまが天下を取るおつもりがおありか?」
野心の軛から逃れるには、野心を達成するしかない。まるで底なしの流砂に飲み込まれていくようだ。秀吉は肚を決めた。
秀吉の安土屋敷で、何が話し合われたのかは、二人以外誰も知らない。
その後、天正十二年(1584年)正月、秀吉は侘数寄の象徴として、大坂城内に山里丸を築き、数寄屋(茶室)の座敷開きを行った。これにより、表向きの天下人は秀吉だが、裏の天下人は宗易であることが誰の目にも明らかになった。美の世界を支配した。
天正十四年(1586年)正月。この頃から宗易改め利休と秀吉の関係は、誰の目にもわかるほど隙間風が吹いていた。利休は秀吉をコントロールできなくなった。
利休は苦肉の策として、大陸進出を認める以外なかった。
利休の狭い茶室に代表される「侘び」と、豪華絢爛たる黄金の茶室に代表される秀吉の「侘び」とは相反するようで、源流が同じであるのは、誰にも理解できなかった。
かくして利休は従容と切腹する。その脳裏には、豊臣家が程なくして滅亡するイメージを持ったまま。二人はある意味一心同体だったのだ。
長くなりましたが、利休がいなければ秀吉はいなかった、秀吉がいなければ利休もいなかった。二人とも只の茶人、只の武将に終わらない人生を存分に生きたのだった。
お楽しみください。
一天一笑