ポーの宇宙観の一端がうかがわれるファンタジー。原文はこちら。
「どこにもその土地の守護神が居る」マウルス・セルウィウス・ホノラトゥス
その書名が『教訓譚』と、すべての英訳において誤訳されている『コント・モロー(Contes Moraux)』*1という書の中で、ジャン=フランソワ・マルモンテルは「自分一人で楽しめる才能は楽才だけで、他のものは他者を必要とする」と言っている。彼はここで楽音から得られる快感と、楽音を産出する能力とを混同している。音楽的才能の行使を余すところなく楽しむには他者の評価が必要で、これは他の才能も同様だ。一方、楽才がもたらす効果は一人でいる時こそ完全に楽しめる、これも他の才能と同様だ。この座談の妙手が明確に抱懐し得なかったか、あるいは洒落たことを言いたいというフランス人特有の欲求から充分に表現し切れなかった観念とはすなわち、より高次元の音楽は、まったく一人きりの状態においてこそ、もっとも完全に楽しめるという動かしがたい認識である。このように言い表せば、音楽を音楽のために楽しむ人、音楽をその霊的な効果のために楽しむ人は、これを即座に承認して下さるだろう。だがこの下界の人間の手の届く範囲内に、おそらくもう一つだけ、孤独の感情を伴うことで音楽以上に恩恵をこうむる快楽がある。私は自然鑑賞から得られる快楽のことを言っているのである。地上における神の栄光を正しく鑑賞したいと願う者は、これを一人で鑑賞しなければならない。少なくとも私の目には、人間のみならず、地表に生ずる声なき植物以外のいかなる生物の姿も、風景の中の汚点、風景美の真髄に反する不純物と映る。暗い谷、灰色の岩、静かに微笑む湖、寝苦しそうに溜息をつく森、そうして一切を眼光鋭く見下ろしている秀峰――私はこれらのものをそれ自身、生命と感性とを併せ持つ大いなる全体の、途轍もない構成員たちに過ぎぬと見なしたい。この全体の形(球形)はもっとも完璧で開放的な形である。その軌道は他の仲間の星たちの間にある。その従順な侍女は月である。その間接的な支配者は太陽だ。その寿命は永遠だ。その愉楽とは知識だ。その運命は厖大過ぎて不明である。そうしてこの全体なるものがわれわれについて持っている認識は、われわれが脳内に巣食っている微生物について持っている認識と酷似しており、微生物がわれわれについて必ずや思っているであろうところとほぼ同様に、われわれはこれを純然たる無生命的な物質だと見なしているのである。
最近の望遠鏡や数学的研究によれば、無知な聖職者たちの駄弁にかかわらず、「神」が空間とその容量とについて、非常に気を使っていることが方々で確認されている。星がその上を動いている円軌道は、可能な最大多数の天体の、衝突なき運行への進展にとって、もっとも適したものとなっている。天体の形もまた、与えられた表面上に、可能な最大量の物質を包含するのに最適なものである。天体の表面自体もまた巧みに最適化されていて、同じ表面を別のやり方で整理整頓した場合よりも、物質を高密度で収容できる。空間が無限だからと言って、それが容量について「神」が配慮を怠る論拠にはならない。充満する物質が無限かも知れないからだ。そうして物質への生命力の付与は、「神」の活動における一つの原理であって――事実、われわれの考える限り、それが最重要の原理であることは自明なのだから、この原理はわれわれがこれを日々追跡している小なる物の世界のみならず、大なる物の世界にも及んでいると考えてもいいはずである。われわれが円軌道の中に際限なく円軌道を見つけて、それがすべて「神」を中心とする大きな円軌道に含まれるなら、われわれは類推によって同様に、命の中に命があり、小なる命は大なる命に含まれ、そうして一切は「聖霊」のうちに息づいていると考えてはならないのだろうか。要するに、人間が自分のことを、この宇宙において、その短い一生の間、またはその永い霊生の間、彼が耕しながら馬鹿にしているこの「谷間の土くれ」*2よりももっと重要な存在だと信じているのは、思い上がりから来るはなはだしい誤解である。人間は、浅はかにも、土くれが活動状態にあるところが目に見えないからというだけで、土くれには魂がないなどと思い込んでいる。*3
以上のような、あるいはこれに類した空想は、山林の中を、または海や川のほとりをさまよう際の私の物思いに、俗人どもが必ずや「正気でない」と呼ぶであろう色合いを、常に添えるのだった。そのような境地への私の旅は、度重なる、人里を遠く離れた、大抵は孤独なものであった。そうして多くの深山幽谷をさまよい、多くの澄んだ湖水に映る空を見つめる面白さは、自分が今ここを一人でさまよい、これを一人で見つめているのだと考えることで倍増した。ヨハン・ゲオルク・ツィンメルマンの名著に触れて「孤独はよいものだ。だが『孤独はよいものだ』と告げる誰かが必要だ」などと言ったフランス人*4*5は、何と薄っぺらな男であったことか。このエピグラムは云い得て妙だが、そもそもそんな必要など存在しないのである。
ある日の一人旅で、山奥の寂しい川辺や湖畔をさまよっていて、私はたまたま小島のある川のほとりに出た。それは緑濃い六月のことで、私はその風景を眺めながらひと眠りしようと思って、いい匂いのする名も知れぬ灌木のもと、草地の上に身を投げ出した。この風景はこのようにして眺めるしかなく、そのような幻想性をこの風景は持っているのだ、と私には思われた。
そこは夕陽の見える西側以外は緑の壁に囲まれていた。鋭角を成してカーブすることで急に見えなくなる細長い水の流れは、東側の深い森へと吸い込まれる以外に、この牢獄からの出口がないように見受けられた。一方、西側の一角では(仰向きに長々と寝そべっている私にはそう見えたのだが)、夕陽の泉からこの谷間へと、見事な真紅の光の瀑布が、絶えず音もなく流れ落ちていた。
この狭い視界の中ほどを流れる川の中央に、植物を満載した円形の小島が浮かんでいた。
島影はその倒影と結ばれて
物ことごとく宙吊りに見え――*6
水は澄み切っていて、島のエメラルド色の草むらに覆われた斜面のどこからが水没しているのか、判然としないほどだった。
私のいるところからは島の東西両端を見渡すことができ、私はこの両者の景観は異様に対照的だと思った。西端は風景美の一大ハーレムだった。夕陽を浴びて、花々とともに光り輝いていた。草は短く、ピンと伸びて、甘い香りを放ち、アスフォデルの花を点在させていた。樹木はしなやかに直立し、ほっそりとして優しく、その姿と葉ぶりとは東洋の風情を帯びていた。その樹皮はつやつやとして、なめらかで、多彩に着色されていた。一望して感じられるのは生きるよろこびだった。無風と言っていい気候条件にもかかわらず、羽根の生えたチューリップかと見紛う無数の蝶の乱舞*7とともに、一切が躍動していた。
島の東端は真っ黒な影に覆われていた。ここでは厳かな、とはいえ美しく安らかな闇がすべてを包み込んでいた。樹木の色は暗く、姿においても素振りにおいても悲しげで、怨念がこもっているかに見えるその身もだえは、生きるつらさや時ならぬ死といったものを連想させた。下草もまた糸杉の影の色を帯びて黒く、その細長い葉先は力なくうなだれていた。そうして草の間の至るところに醜い小山があり、小山は高さも幅も奥行きもなく、墓ではないが、墓のような外観を呈しており、ローズマリーとヘンルーダとがその周囲から上部へと這い上がっていた。樹影は大量に水没し、水に自分自身を葬ることで、この水という元素の深みに闇を生みつけているような気がした。私はこんな風に考えた。日が傾くにつれ、生まれた樹影は生んでくれた樹木から、絶えず黙々と身を投げて、流れる水の面に取り込まれる。一方、樹木からは絶えず次の樹影が擲たれて、それがすでに葬られた先人たちに取って代わる。
この考えは、ひとたび私を捉えるや、とても興奮させた。私は空想に夢中になった。「もしも魔法の島があるとすれば」と私は自分に言った。「それはこの島だ。これは絶滅を免れた希少な妖精たちの棲み家なのだ。あの緑の墓は彼女たちの墓だろうか。だとすると、彼女たちもやはり死ぬのだろうか。樹木が樹影を次々と手放しながらその実質を消耗するように、妖精たちもまたその存在を少しずつ『神』に返還しながら死ぬのではないだろうか。老い朽ちる樹木が吸い込む水面に樹影を投げかけて、水は樹影を捕食することで更に黒ずむように、妖精たちも水に影を落とすことで、彼女たちを呑み込む死を養っているのではないだろうか」
なかば目を閉じながらこんなことを考えていると、日はさらに傾き、水の流れはすみやかに島を周回した。その上に浮かんでいるシカモアの樹皮の、大きくて、まばゆいばかりに真っ白な薄片の数々は、思い思いの姿勢を取っていたゆえ、想像力の作用によって、どんなものへでも瞬時に変換されそうに思われたまさにその時――私がまさしく考えていた通りの「妖精」が一人あらわれ、島の西端の光の中から東端の暗がりへと、おもむろに突き進んでゆく様に思われた。彼女は妙に儚げなカヌーの上に直立して、幻でしかない一本のオールを漕いでいた。夕陽の残照の影響下にあるうちは、彼女の姿は歓喜に輝いていた。だが東端の暗がりへと滑り込む際、悲しみで醜怪化した。彼女はゆっくりと移動し、島を一周すると、ふたたび光の世界に姿を現わした。「彼女が経た激変は」と私は考えながら言った。「彼女の生涯における短い四季の一周期なのだ。彼女は夏を駆け、冬を抜けた。一つ年を取って、一年寿命を縮めた。なぜなら私は彼女が暗がりへと滑り込む際、彼女の落とした影が波に呑まれ、それで黒い水がもっと黒くなるのをこの目で見たからだ」
ボートに乗った「妖精」はふたたび現われた。だが彼女の姿からは弾けるような歓喜が減って、不安と気苦労とが増えていた。彼女はふたたび光の中から(刻々と深まる)闇のうちへと移り、影は落ち、黒ずんだ水へと吸い込まれた。そうして彼女は何度も何度も島の周囲をめぐり(その間に日は急速に沈んでいった)、彼女の姿には、明るみに出るたびに、よりいっそう深い悲しみが感じられた。彼女はさらに衰え、活気を失い、輪郭も不明瞭になっていった。そうして暗がりを通過するたびに、彼女はもっと暗い影を落とし、波ももっと黒くなった。だが遂に日はとっぷりと暮れ、もはやかつての「妖精」の亡霊でしかなくなったこの「妖精」は、悲しみに打ちひしがれて、ボートに乗ったまま、暗黒の水域へと姿を消した。そうしてあたりは真っ暗になり、私は彼女の妖しい姿を永遠に見失ってしまったので、彼女がそこから再生できたかどうかは知る由もない。
*1:原注:ここでの“Moraux”は“mœurs”から来ていて、これは「今風の」、もっと厳密に言うと「生活習慣の」の意。
*2:訳者注:「彼は舁かれて墓に行き、塚の上で見張りされ、谷の土くれも彼には快く、すべての人はそのあとに従う。彼の前に行った者も数えきれない」云々。(『口語訳旧約聖書』ヨブ記 21:32-33)
*3:原注:ポンポニウス・メラは潮の干満に触れて、その著『世界地理』に曰く「あるいは世界は大いなる動物やも知れぬ、云々」。
*5:訳者注:オノレ・ド・バルザックではなく、ジャン=ルイ・ゲ・ド・バルザックの言葉だそうです。こちらのサイトに詳しい解説があります。
*6:訳者注:ポー自身の詩「海中の都市」第26-27行参照。
*7:原注:「(蝶は)液体の空を泳ぐ一輪の花のようだ」――ジャン・コミール神父。