魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「エレオノーラ(Eleonora)」

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バイアム・ショー(John Liston Byam Shaw)画「エレオノーラ」。ウィキメディア・コモンズより。

「美しい姿(をした人)によって守られているので、(私の)魂は安泰だ」*1 レイモンド・ラリー


私は奔放な想像力と情熱的な恋愛で知られた一族の出身である。人は私を狂人呼ばわりしてきた。しかし狂気とは最高の英知ではないかー―輝かしきものの多くではないかー―深遠なるもののすべてではないかー―それは心の病から来るものではなくて、通常の知性の過剰に由来する精神の高揚したムードから来るものではないかー―といった疑問はまだ解かれていない。真っ昼間から夢を見ている者は、夜しか夢を見ない者よりもたくさんのことを知っている。灰色の幻のうちに、彼らは永遠への一瞥を入手し、我に返るとみずからが偉大な神秘の間近に迫っていたことを知って戦慄する。断片的に、彼らは善に属する知恵を学ぶが、それよりも悪に属する単なる知識の方をより多く学ぶ。彼らは『名状しがたい光』の大海へ、舵もコンパスも持たずに突入し、ヌビアの地理学者の冒険を再現するかのごとく、「そこに何があるかを見究めようとして、暗黒の海に入る」*2
だから私は狂人で結構である。少なくとも私はみずからの精神に二つの顕著な状態があることを認める。一つは私が前半生を回想する時の、議論の余地なく知的で明晰な状態であり、もう一つは私が現在について思いめぐらす時、および私の後半生を構成するもろもろの記憶について思索する時の、暗然とした疑惑の状態である。ゆえに、私が前半生について語ることは、信ぜよ。されど私が後半生について語ることどもは、信じられることだけ信じるか、あるいはまったく信じないでおけ。それともすべてが真実らしく思われるなら、このエディプスの謎を解け。
私が若かりし頃に愛した少女、その人の思い出を私はいま明確に、心静かに書き綴っているわけであるが、彼女は若くして亡くなった私の母の、たったひとりの妹の一人娘だった。私の従妹の名はエレオノーラと言った。私たちは熱帯の太陽のもと、『八千草の谷』というところで、いつも一緒に暮らしていた。
案内人なしでこの谷を訪れることは不可能だった。なぜなら谷は大丘陵を張りめぐらして、その奥地を日ざしから隠蔽してしまっていたからである。周囲にはおよそ道というものが無かった。そうして私たちの楽しい住まいへとたどり着くには、森の数かぎりない青葉を力づくで押しのけ、芳香ある無数の草花の今を盛りと咲き乱れているその命を、心なく踏み散らさなければならなかった。それで私と、私の従妹と、そして彼女の母親との三人は、谷の外側にある世界のことは何も知らず、ただひっそりと暮らしていた。
谷には一筋の細くて深い川が流れていて、その姿はエレオノーラのひとみを除けば、どんなものよりも涼しげだった。その上流は谷を取り囲んでいる山々の彼方の暗い領域に端を発し、その下流は忍びやかに迷路を描いて、緑陰の峡谷をくぐり抜け、果てはその由って来たるところよりもなお暗い、山間の低地へと消え去っていた。私たちはこれを『音無し』の川と呼んでいた。その流れには音を吸い取ってしまう力があるように思われたからである。その川床からは何の音もしなかった。そうしてその流れはとてもゆるやかだったので、その深い川底にはいつもきれいな小石が見えて、それは動くということが無く、まるで流れていないように見える清水の底で、いつも同じ位置にいて、いつもきらきらと輝いていた。
その川のほとり――そしてその川に迂回して流れ込んでいる多くの美しい小川のほとり――またその川べりから川の深みにかけて、その底の小石が沈んでいるところにまで広がっている空間――そうした地点にはこの谷の全土の地表、すなわち川から谷周辺の山々にかけての地表同様、丈の短い青草が、少しのむらも無くびっしりと生えそろうとともに、バニラの香りを漂わせ、しかも黄色い金鳳花や、白い雛菊や、紫のすみれ花や、真っ赤なアスフォデルが咲き乱れ、その比類ない美しさで私たちの心に『神』の栄光と慈愛とを謳歌していた。
またこの草地のあちらこちらに、さながら夢に見る無人の境のごとく、異形の大樹が立ち並び、そのすらりとした樹幹は必ずしも直立しておらず、真昼時になると谷の中心部へと差し込んでくる日ざしを求めて、その身をしなやかに傾斜していた。その樹皮は光沢ある白と黒とのまだら模様で、かわるがわるヴィヴィッドな光を放ち、そうしてエレオノーラの頬を除けば、どんなものよりもすべすべした手触りだった。ためにもし葉肉の厚い青葉が、その頂きから小刻みに震える長い列を作って、ゼピュロスの息吹きと戯れているのでなければ、それらの樹木のたたずまいは、その支配者たる太陽神に対して敬意を表しているシリアの大蛇の姿とも見えたことだろう。
十五年もの間、私とエレオノーラとは、何ごころなく手に手を取ってこの谷間を逍遥してきた。それは私が二十歳、彼女が十五歳になった年のある夕暮れのことだった。私たちは大蛇のような木立のかげに腰を下ろして、お互いにひしと抱き合いながら、『音無し』の水の面に映った自分たちの姿を眺めていた。楽しかったその日、それから眠りに就くまで、私たちはひとことも口を利かなかった。また明くる日になっても無口で、ぎこちない会話しか出来なかった。私たちは川の波間から愛神エロスを呼びさましたのだった。そうしてこの時私たちの胸に点火されたのは父祖伝来の恋愛感情だった。私たちの一族を何世紀にもわたって特徴づけてきたあの恋の情熱が、これまた私たちの一族の特徴である豊かな想像力のもろもろの産物を引き連れてやってきて、この『八千草の谷』で共に喜びにはじけた。すべてのものに変化が訪れた。これまで花をつけたことのなかった大樹のこずえに、明るい色の、星の形をした、不思議な花が咲き出でた。草原の青は深まった。白い雛菊は一本また一本と消えてゆき、倍以上の数の真っ赤なアスフォデルがそれに替わった。行く先々に生気が現われた。これまで見られなかった背の高いフラミンゴが、あらゆる華やかな出で立ちの小鳥たちとともに、その真紅の翼をひるがえした。金色や銀色の魚がいつも川にいるようになり、その川の中からは次第に微かな声が聴こえてきて、次第に大きくなり大きくなり、遂にはアイオロスの竪琴の音よりも優しい声となって、それはエレオノーラの声を除けばどんな声よりもきれいだった。そうして今や久しく西方に見られたある巨大な雲が、紅色と金色に絢爛と染め上げられて漂いはじめ、この谷の上空にとどまるや、今度は日に日に大地に近づいてきて、遂にはその一端が山の頂きにかかるまでになり、その裂け目から洩れてくる光はあらゆる影を美と変じて、私たちはあるいは永遠の間、この栄光と荘厳の牢獄に閉じ込められたかと思われた。
エレオノーラの美しさは天使の美しさだった。とは言え、花々の間で過ごしたその短い一生を通じて、彼女は世間知らずの無邪気な少女に過ぎなかった。彼女はその心を動かしている熱い想いを本当に素直におもてに表わして、『八千草の谷』を共に歩きながら、みずからの心をかえりみ、恋を知って自分がどんなに変わったかを私に話して聞かせてくれた。

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フランスのイラストレーター、オーギュスト・ルルー(Jules Marie Auguste Leroux, 1871 - 1954)による挿画。cubra.nlより。

ある日、人間が必ずこうむる『死』と呼ばれる最後の悲しい変化について涙ながらに語ったあと、彼女は遂にそれ以降、この憂鬱なテーマにのみこだわるようになり、私たちのあらゆる語らいにこれを織り交ぜるようになった。それはシラズの吟遊詩人の歌の中で、詩句のあらゆる印象的なヴァリエーションのうちに、同じイメージが繰り返し現われる様に似ていた。
彼女は自分が死病に冒されたことを知ったのだった。彼女はただ亡くなるためにだけ完成された。とはいえ彼女にとっての死の恐怖とは、もっぱら一つの心配事のうちにあったので、それを彼女はある夕暮れ、『音無し』の川のほとりで私に打ち明けた。「私が死んでこの『八千草の谷』に埋葬されたなら、あなたは必ずやこの恵まれた谷を永遠にあとにして、いま私を愛して下さっているのと同じように烈しく、外界の世間ずれした女の子を愛するようになる、それがつらいのです」そこで私は直ちに彼女の足もとに跪いて、エレオノーラ自身と『天』とに誓いを立てて言った。「私は君以外のどんな女のものにもならないし、君と、君が私に捧げてくれた命がけの愛の思い出に対して、不実と見られるような真似は決してしない」そうして私は強大な『宇宙の支配者』に呼びかけて、わが誓いが如何に信心深く厳粛なものであるか、照覧あれと訴えた。そして必ずや天上の聖女となるであろう彼女と『神』に対して、私が誓いにそむいた場合、ただちに差し向けるよう求めたその呪いは、あまりにもむごたらしい刑罰を含んでいたので、今ここにその内容を書き記すことは憚られる。するとエレオノーラの涼しげなひとみがきらきらと輝いた。そうして彼女はやっと安心したとでも言いたげに溜息をつき、身を震わせて激しく泣いた。けれども(所詮は子供だった)彼女は私の誓いを受け容れて、それで安らかに死の床に就いた。それから何日もしないうちに、彼女は静かに息を引き取りながら言った。「最期まで私に優しくしてくれたお礼に、死んでからも目に見えぬ姿であなたを見守ってあげます。そうしてもし許されるなら、夜のしじまに、目に見える姿であなたのもとへと帰ってまいりましょう。しかしもしそれが『天界』の霊の力の及ぶところでないのであれば、せめて私がそばにいることを頻繁に気配で知らせるために、夕風に私の吐息を届けさせ、また天使たちが提げている吊り香炉からの芳香で、あなたが吸い込んでいる大気を満たして差し上げましょう」このような言葉を遺して、彼女はその汚れなき生涯を終え、私の生涯の前半部分もまたその幕を閉じた。

ここまでは私もありのままに語った。しかしこのようにして恋人を喪ったことで、『時間』の経路に形成されたバリアーを通過して、私の後半生へと歩を進めるにつれ、私は疑惑の影がわが脳裡に雲集するのを感じ、この手記が結局は狂人のたわごとに過ぎないのではないかという気がしてきた。だが先へ進もう。――時はのろのろと過ぎ、私はなおも『八千草の谷』にとどまっていた。けれども万象の上には第二の変化が現れていた。星の形をした花々は木々のこずえから消え、二度と咲かなかった。草原の青は色あせた。そうして真っ赤なアスフォデルは一本また一本と枯れてゆき、それに替わって倍以上の数の、暗い色をした、肉眼のようなすみれの花が咲き、それは不快そうに身をもだえながら、いつも露に濡れていた。行く先々で活気がなくなっていた。背の高いフラミンゴはもはやその真紅の翼をひるがえすことなく、供として連れて来たあらゆる華やかな小鳥たちとともに、谷から丘へと悲しげに飛び去っていった。金色や銀色の魚たちは峡谷を通って下流へと泳ぎ去り、もはや川を飾ることはなかった。そうしてアイオロスの琴の音よりも優しく、エレオノーラの声を除けばどんなものよりも清らかだったあのせせらぎの音は、少しずつ衰え、その声は次第に低くなり低くなり、遂にはすっかりもとの粛然たる『音無し』に戻ってしまった。そうして最後にあの巨大な雲が舞い上がり、元通りの暗雲となって山々の頂きを離れ、西の空へと帰っていったので、『八千草の谷』からは一切の多彩な、陸離たる栄光が消失した。
とはいえエレオノーラとの約束は忘れられたわけではなかった。なぜなら私は天使たちが提げている吊り香炉の響きを聴いたからである。聖香の香りは常に谷を漂っていた。そうして私が一人ぼっちで、物憂く、やり切れぬ思いをしている時、涼しい風が私の額を訪れて、私に恋しい人の吐息を届けてくれた。夜の大気はしばしば定かならぬささやきの声に満たされた。そうして一度、ただ一度だけだった。霊的スピリチュアルな唇がわが唇の上に重ねられ、私は死の眠りのように深い眠りから、目覚めた。
それでも私の淋しさは癒されるべくもなかった。私はかつて私の心をあふれんばかりに満たしてくれた愛が欲しかった。エレオノーラとのことが際限もなく思い出されて、私はとうとう谷にとどまっていることが苦痛になった。それで私は世俗の喧騒と虚栄とを求めて、永遠に谷をあとにした。


私は見知らぬ街にいた。そこではあらゆるものがこれまで私が『八千草の谷』で久しく夢みてきた夢を忘却させるに足りるものだった。威風堂々たる宮廷の栄華のさまや、刀剣や武具の狂おしく触れ合う音や、女たちの目も眩むばかりの美しさに、私の心は乱れ、酩酊するのだった。とはいえ私の心は操を守っており、夜の静かなひとときにエレオノーラがそばに来ていることはやはり気配で感じ取れた。ところが急にそうした兆候がなくなり、眼前の世界が暗くなって、私は邪恋に取り憑かれ、恐ろしい誘惑に心奪われて、茫然自失した。なぜなら私が当時仕えていた国王の絢爛たる宮廷へ、遠い、遠い未知の国から一人の少女がやってきて、その美貌に私の不実きわまりない心はひと目で屈服し、もっとも熱烈で、もっとも卑屈な恋の奴隷と化した私はその足もとにあえなくひれ伏したからだった。実際、あの人間とは思えないほど美しい乙女アーメンガードの前に跪いて、涙ながらに思いの丈を打ち明けた時の私のあの熱狂、あの痴れ心地、あの天にも昇るような夢見心地に比べれば、あの谷間の小娘に対するのぼせ上がりなど何であったか。おお天使アーメンガード、それは光の処女であった。私はそれを知って、他の誰をもかえりみなかった。おお天使アーメンガード、それは聖なる少女だった。そうして彼女の忘れ得ぬまなざしが私に向けられた時、私は彼女の目と彼女自身のこと以外に何も考えられなかった。
私たちは結ばれた。そして私はかつてみずから求めた呪いを恐れはしなかった。地獄の苦しみは結局私に降りかかってはこなかった。ただ一度、もう一度だけ、夜のしじまに、私の城の窓辺の風が、私を見捨てたあの愛しいひとの吐息を運んできた。そうしてそれはあの懐かしい美しい声となって言った。
「心安らかにおやすみなさい。なぜなら『恋』の神様は今なお君臨統治しており、そうしてあなたはアーメンガードなる女を愛することで、天国において明かされるであろうある理由によって、このエレオノーラに対する誓いから解放されたのです」

 

 

*1:原文ラテン語

*2:原文ラテン語