魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の九

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桂川に架かる渡月橋ウィキメディア・コモンズより。

⑮六月二日未明:老ノ坂

近衛邸を出た宇佐は、明智軍と行き会った。場所は明智軍が急な山を下り、やっと平地に出たあたりだった。全軍に休止の触れが出た。
明智全軍に細かい命令が下る。馬沓うまぐつを切って捨てること。雑兵は新しい草鞋と足半あしなかをつけること。鉄砲隊は火縄を切り、小口に火をつけておくこと。以上が指示の全てだった。
指示そのものは簡単・簡潔であっても、行軍を停め、一万を超える明智勢に行き渡らせ、尚且つ指示が確実に徹底したか確認を取るのには、かなりの煩雑さを伴う。宇佐はちょうどそういうところに駆けつけたのだった。宇佐は直ぐに光秀の前に通された。光秀への報告の内容は、信長公が今夜囲碁を観戦され、疲れて寝所に休まれた、それだけだ。光秀の近習たちは、神出鬼没の信長公の居場所を如何して報告するのだろうと、首を捻っていた。
それよりも宇佐の報告を受けた光秀の興奮ぶりに異常さを感じていた。宇佐は信長が確実に本能寺にいると告げた。光秀は、暫く帷幄いあくの中を歩き回った後、呟いた。
敵は本能寺にあり・・・」

光秀の重臣たちに非常招集がかけられた。斎藤内蔵助利三・明智治左衛門光忠・藤田伝五・溝尾庄兵衛・明智左馬之助秀満の五人が集まると、光秀はやおら切り出した。
「われらはこれより京に向かい、信長公を討ちたてまつる。日頃の行い許し難きによって、信長を討つ」
「しかし、殿」
藤田伝五は、体を小刻みに揺らしながら言った。伝五は思わず立ち上がっていたが、そのことにさえ気が付いていない様子で、さらに続けた。
「そのようなことが本当にできるものでしょうか」
「伝五、我が手勢はいかほどだ」
「一万五千は」
「信長の手勢はせいぜい百、妙覚寺の信忠と合わせても五百には満たない。一万五千の明智勢をもって、信長を討てない道理があろうか。京にのぼれば、天下は必ず取れる」
「天下が・・・」
伝五の声は擦れ、今にも泣きださんばかりだった。
光秀は、改めて重臣たちを見渡し、或いは睨み、ゆっくりと言い放った。
「私は信長を討つ、討って天下を手に入れる。何の異論かある」
「あっぱれ!よくぞ決心された。殿は今日より天下さまじゃ!」
斎藤内蔵助が大音声を挙げた。それで重臣たちはハッとして、それぞれに席を立ちあがった。
「各人、陣に戻り、兵卒一人ひとりにこのことを告げよ」
「おお!」
重臣たちは気勢をあげ、部隊に散った。そして各々叫んだ。
「これより、われらは京に上り信長を討つ。今日よりわがお館さま、惟任日向守さまが天下さまになられる。皆々ご加増がある。下々草履取りに至るまで励み候らえ。天下さまじゃ」
「天下さまじゃ」の声は、次第に広がり、唱和が始まり、大きなうねりになって沸き上がった。
「天下さまじや、天下さまじゃ」
光秀はその声を複雑な思いで聞いていた。内心では正義を行うための蹶起でなければならない。しかし、形としては、謀反である。当然兵士たちは、悪・謀反を起こすことに興奮していた。
「天下さまじゃ、天下さまじゃ」
内蔵助が触れ回る。大きな矛盾を孕んだまま、明智軍は暴走を始めようとしていた。光秀はその勢いに乗ることに決めた。明智軍は熱に浮かされたように京都に向かって進軍を開始した。

⑯六月二日払暁:京都

明智軍が桂川に差し掛かったころ、東の空がしらみ始めた。光秀は槍隊の隊長、天野源右衛門を呼んだ。夜が明ければ、野良仕事に出る百姓もいるだろう。其の中には明智軍の姿を見て、本能寺に注進に走る者が出てくる可能性がある。その可能性を排除して進む(進軍中、会う人を全て殺す)のが奇襲作戦の常套だ。その役目を天野に任せた。天野は、無辜の民を殺したくはないと願いながら、槍を駆って、京都まで四ないし五キロの街道を進んだ。
しかし、天野の願いは叶わなかった。七条口・東寺の近辺の瓜畑に十人程の農民がいたのだ。彼らは瓜泥棒を用心して夜間警戒をしていたのだった。尚悪いことに、自分たちがそこにいることが分かるように、筵旗むしろばたを立てていた。農民の一人が街道を指差した。指の先には、鎧兜を身に着け、手槍を携えて、馬に乗った武士の姿があった。天野源右衛門はゆっくりと馬を進めて畑に乗り入れ、優しい声で農民に尋ねた。
「お前たちは何をしているのか」
農民は正直に答えた。
「瓜泥棒を警備している」
「そうか、瓜泥棒か」
源右衛門は、初めてそこが瓜畑であることを知った。天野はおもむろに親しく話していた農民に槍の穂先を向け、一息にその心臓を貫いた。天野はさらに呆然としている農民たちの腹を突き、穂先で脳天を突いた。ここで四人の農民が死んだ。残った農民は蜘蛛の子を散らすように逃げた。彼らは逃げながら、自分たちの何がこの武士を怒らせたのか、何故自分たちが殺されなければならないのかが判らなかった。農民たちは次々と、天野の槍に突かれ、或いは馬の蹄に蹴られ、踏みつけられて死んでいった。
天野は躊躇わずに残った二人の父子を槍にかけた。親子は折り重ななって、畑の中に倒れた。そして動かなくなった。
そうして瓜畑にいた農民は、全て死に絶えた。後には源右衛門と踏まれた瓜と荒らされた畑があるだけだった。
程なくして明智全軍がやってきた。彼らは一様にギョッとした。道の脇に打ち捨てられている農民の死体を目にしたからだ。更に、街道脇に控えている天野の異様な血塗れの姿に、より一層ギョッとした。天野は微動だにせず、騎乗したまま、血のこびりついた槍を携えて、行き過ぎる軍を静かに見つめていた。
天野は光秀の横にピタリと控えていた。これを見た兵士たちは、この行軍は遊びではないと思い知らされた。戦に行くのだ。もはや、臆して逃亡し、天野の槍に突かれるのが嫌ならば、前進するしかないのだ。行軍は進められた。
明智軍は、京都に入る直前で二手に分かれた。先ず、本隊は七条通を東に進み、油小路あたりで北に曲がり、一気に本能寺に向かった。斉藤内蔵助に率いられた別動隊は、千本通りを東に向かい、四条通から本能寺を襲う(迂回して横から本能寺に突入する)。当時の本能寺の裏手は、マメ科の蔓が絡まっており、人手の入らない原生林のようになっていたので、格好の目印となったのだろう。京都の町中に入った明智軍は、幾つかの隊に分れて通りを進んだ。一万五千の明智軍が一つになって進むには、京都の通りは物理的に狭すぎたのだ。また万一信長を討ち漏らしてはならない事情もある(余談だが、忠臣蔵大石内蔵助も、吉良邸討ち入りの際には表門隊と裏門隊に分けた)。
碁盤の目のように整備されている京都の通りは、方向・方角さえ間違えなければ、どの道を通ろうが必ず目的の場所に着く。明智勢は幾つかに部隊を分け、ひたすら本能寺を目指した。京の町は組に分かれていて、組と組の境界には木戸が設けられている。木戸をくぐるに際して兵士たちは、旗指物を倒したり、槍や鉄砲を木戸に触れないように用心した。全軍が本能寺に到達するまで物音一つ立たなかった。午前六時、明智勢は、本能寺を水も漏らさぬように取り囲んだ。織田軍も京都の民も誰も気付かなかった。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―