魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

脚韻を踏んだ日本語の詩の実作(作例付き)

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イギリス映画『レズビアン・ヴァンパイア・キラーズ』(2009年)のワンシーン。imdb.comより。

日本語で脚韻を踏んだ詩を書くことは無理だと申しました(こちらの記事をご参照下さい)。なぜ無理なのか?と問われれば、客観的かつ合理的な「証明」をしてお見せすることができると思いますが、それは恐らく私の任ではない…むしろ言語学の専門家などにお任せした方がよろしいでしょう。とにかくこの「日本語で脚韻はナンセンス」という命題は、科学的に立証できると私は思います。
で、あくまでもそういう認識の上に立って、本格的な詩作ではなく、単なる遊びとして、脚韻を配した詩を日本語で書いてみる、というのは人の勝手です。私自身、学生時代から試みておりましたし、今もやっておりますし、これからもやっていくと思います。実例を挙げましょう。
まず日本語で脚韻を踏んだ詩を書いてみよう、という方針を確認したのち、どういう風に韻を配分しようかと考えます。西洋の詩人たちはこの点でいろいろと曲芸じみたことをやっておりまして、ブログ『ウインドチャイム』の都環咲耶とわのさくやこ氏はロバート・フロストの例を引いておられますが、こんなのはまだ序の口です。しかし何度も申しておりますように、日本語で脚韻を踏んだ詩を書くことにはもともと無理があるので、そういう認識を踏まえておれば、あまり凝ったことはできないし、しない方がよかろう、と結論できます。
それで比較的簡単な韻の踏み方はと思いめぐらしますと、昔の短い漢詩(いわゆる「絶句」)のことが頭に浮かびます。あれは

a
a
b
a

という韻の踏み方です。「起承転結」というやつですね。
「絶句」というのは四行詩ですが、今から書こうとする詩は四行では短すぎるので、上のような脚韻の配分をした四行を一節として、これをまた「起承転結」の四節続けることにして、この十六行で一篇の詩を構成しようと考えます。上のフロストの作品と一脈通じるところがありますが、フロストのはもう一ひねりしてあり、そこまでは真似しないことにします。
大体こんな調子で以下のような詩が出来上がります。


目を輝かすこのむすめ
 優しい愛を学ぶため
 朝一番に落ち合った
校舎のうらのこの眺め

優しい朝は雨上がり
 何を見ている水たまり
 草と草とがささやいた
いけない恋の物語

目を光らせている教師
 素知らぬ顔で去るわたし
 草のかげには犠牲者の
人形よりも白い足

白目をむいたこのむすめ
 優しい愛は悪い夢
 始業の鐘の鳴るころは
妖女と化する世の定め


しょーもない詩ですが、佳い詩を書く気ははじめから無いので、これでよしとします。
ちなみに、なぜ私がこんな文を書くかというと、これを読んだ皆さんにもやってみてもらいたいからです。日本語で脚韻を踏んだ詩を志向する。それにはもともと無理がある、と割り切った上で取り組んでみられれば、それなりに面白く、よい暇つぶしになると思います。もう一つ実例をあげましょう。


某女子寮の昼下がり
あなたとわたし 美女ふたり
 優雅にお茶を喫すれば
窓のほとりに鳴く小鳥

鳥というより豚の声
いいえ 確かに人の声
 それは窓下そうかの草むらに
眠る少女のいびき声

あの子 確かにうちの寮
 男子有料 女子無料
 校舎のうらの草むらで
からだを売っている不良

どこか可愛い阿呆づら
誰が呼んだか「白い薔薇」
 その正体はただの馬鹿
お茶うけなどにどうかしら

声をそろえて歌ううた
「あなた あなた」と呼ぶあなた
「お茶はいかが」と問うわたし
いびきが止んだ 目があいた

お茶の用意をする二人
こっそり混ぜるこの薬
 ひと口飲めば あら不思議
夜空の星の仲間入り

まずは脱がせて悪ふざけ
写真に撮ってぼろもうけ
 心もはずむ昼下がり
あとはキッスをはずむだけ


最初の例と同じように「aaba」の韻を踏んでいるつもりですが、あんまり阿呆らしいので、この辺にしておきます。

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