魔性の血

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葉室麟『墨龍賦』其之四

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明治時代の錦絵で、信長(右端)をまさに討たんとする安田作兵衛国継(中央)と、これを止めようとする森蘭丸(左)。ウィキメディア・コモンズより。

天一笑さんによる葉室麟はむろ りん歴史小説墨龍賦ぼくりゅうふ』の紹介記事、第四回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。


春日局は語る⑨本能寺炎上

天正10年5月29日、愛宕山参詣・百韻終了後、明智光秀は4人の重臣たちのみを招集し、謀議をします。メンバーは娘婿の明智左馬之助秀満、従兄弟の明智次右衛門光忠、家老藤田伝五、斎藤内蔵助利三です。光秀は彼らに何かを打ち明けたようです。
6月1日、「上様が中国出陣の閲兵を行うので京都に向かう」と触れを出します。誰も疑いません。雨でぬかるんだ丹波街道を京都に向かって、13000人の明智勢が進軍します。その間、安田作兵衛を偵察に向かわせます。同時に信長に通報する者がいないか警戒を怠りません。
6月2日未明、明智勢は桂川西岸に到着し、戦闘の準備をします。この時、友松は対岸の葦原に潜んでいました。一晩待ったところ、軍馬の蹄や剣の触れ合う音が聞こえました。 長い列を作って桂川を渡河する明智勢を見た友松は、思わず飛び出します。光秀は魔王信長を倒す正しい使命を果たすのだと気持ちが高揚し、彼はやはり蛟龍だったと感激し、新たに龍神雲龍のイメージを膨らませるのでした。そしてその先導役は武士の守護神・摩利支天が乗り移ったかのような斎藤内蔵助に違いありません。明智勢は桔梗紋の幟を立て、本能寺を蟻の這い出る隙間もないように包囲し、火矢を放ちます。信長の警護は30人の小姓達だけです。衆寡敵せず、小姓達は斃れてゆきます。信長は、当初自ら弓を射て応戦しますが、全部つるが切れてしまいます。次には槍を持って奮戦しますが、傷を負います。そこで奥へ退き、女房衆に対して有名な「女子は苦しからず、急ぎ罷り出でよ」との指示を出します(ちなみに信長は実は女性で、この時本来の姿に戻り、女房衆に紛れて脱出したので遺体が見つからなかったとの説があります)。本堂に火が回り、信長は切腹します。享年49歳。討ち入りが終わったのは、午前8時頃でした。
信長の遺体を探しますが見つかりません。不安に陥る光秀に、内蔵助は「信長が火の中へ入ってゆくのをそれがしが見て御座る」と言って光秀を安心させます。次なる標的は妙覚寺にいる中将信忠です。 信忠は父信長を助けに行こうとしますが、状況が理解できると断念して、二条新御所に籠もり、たとえ敵わなくとも戦う腹を決めます。その前に、誠仁親王を無事脱出させます(この間明智勢も休戦に応じる)。 自ら討って出た信忠側は奮戦しますが、明智勢が近衛前久邸の屋根から鉄砲を撃ちかけると、500人の手勢も次々と討ち死にしてゆきます。 信忠は父信長と同じ様に炎の中で自刃します。享年26歳。
友松は、明智勢が気勢を上げる焼け落ちた本能寺跡や、二条新御所の界隈を歩きます。そして何事にも派手好きだった信長の時代が終わり、豪華絢爛を旨とする狩野永徳の時代もまた終わった事を全身で感じ取っていました。質実剛健で、私怨に因らず、天の裁きを行う気概のある光秀の時代が来るならば、その絵師として、存分に自分の腕を振るうことが出来ると希望が湧きます。それと同時に友松の脳裏には“雲龍図”の構想が浮かび上がってくるのでした(以上、本能寺の変については伊藤眞夏『ざわめく竹の森』をご参照いただければ幸いです)。

春日局は語る⑩光秀の迷走

恵瓊えけいは、羽柴秀吉の軍師黒田官兵衛から、光秀謀反・信長死すとの知らせを受け取ります。 秀吉は備中高松城を水攻めして、落城寸前まで追いつめています。毛利家は、このまま高松城城主・清水宗治を見殺しにしては外聞が悪いと、外交僧の恵瓊を和睦の交渉役に派遣して、条件を協議している最中でした。しかし信長の死により事情が変わります。
官兵衛(秀吉側)は信長の側近の長谷川宗仁からの書状を読んで、恵瓊(毛利家側) に協力か自死かどちらかを選択せよと迫ります。勿論恵瓊は協力関係を選びます( 官兵衛と恵瓊の二人が揃ったら、どんな謀略でも成立します)。早速和睦を清水宗治に上申します。毛利家の対面を傷つけず、高松城に籠もる将兵たちの命を助ける方法はただ一つ。そうです。城主清水宗治切腹です。恵瓊が説得工作をします。6月4日、高松城を囲む水面に一艘の小船が出ます。清水宗治は、猛将にふさわしく、見事に切腹します。それを見届けた秀吉勢は、すぐさま中国路からの撤退を開始します。所謂“中国大返し”です。
毛利家では好戦派の吉川元春が秀吉に追手を掛けようとしますが、小早川隆景や当主の毛利輝元は「既に和睦は成った。破っては毛利の名が廃る」と引き止めます。恵瓊はほっと胸をなでおろします。それにしても光秀が主殺しをするとは、偽の国譲り状が効きすぎたか。しかし秀吉は首尾よく光秀討伐を成し遂げるであろう、と北叟ほくそ笑みます。毛利家では未だに元就公の「毛利家は天下を望まず」の遺訓が生きているのです。
光秀は安土城を接収後、近江・美濃の二ヶ国を支配します。6月8日に坂本城に帰還し、 9日には京都に入ります。朝廷や寺社に安土城の金銀財宝を献上します。 ここまでは順調に進みました。
秀吉東上の噂を聞き、半信半疑ながら鳥羽に出陣します。そこで細川藤孝高山右近中川清秀、筒井順啓等を待ち受けますが、誰一人として明智勢と合流しません。
光秀にはざっくりと二つの不安要素があります。一つは「主殺し」の汚名が予想以上に重くて返上しがたい事。もう一つは羽柴秀吉が恐るべきスピードで東進してきて、勢いがあることです。負ける博奕は打てません。よって光秀が書状で催促しても、誰一人として明智勢には加勢しません。細川藤孝は自分の髷を返事として使者に渡します(出家して細川幽斎を名乗る)。光秀が密かに挟み撃ちを期待していた毛利家も動きません。結局秀吉軍26000人に対し、16000人の手勢で戦う羽目となります。光秀は坂本城籠城は不利と考え、山崎(後のいわゆる西国街道への入り口)を合戦の地に選びます。しかし13日午後、敗北が決定的となり、勝龍寺城に逃げ込みます。同日深夜、坂本城への帰り道、小栗栖おぐるすの竹藪で農民に襲撃され、重傷を負います。落命を覚悟した光秀は、重臣溝尾庄兵衛に介錯させて、自刃します。山崎の合戦に従軍した斎藤内蔵助は堅田で捕らえられ、17日に六条河原で処刑されます。享年49歳。 光秀主従の首級は本能寺跡に晒されます。更に内蔵助の首のない胴体は、粟田口で磔柱はりつけばしらに括り付けられます。(つづく)

墨龍賦 (PHP文芸文庫)

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