⑭六月一日十九時頃:亀山城
山の日暮れは早い。暗い山中に位置する亀山城は、煌々と明るかった。数え切れない程の篝火が焚かれ、夜空を焦がしていた。遠目には夜祭が始まりそうな光景だった。
総大将明智光秀は、全軍に触れを出した。
“出陣は今夜二十二時”
城内は不思議な高揚感に包まれていた。出陣といっても、中国路に向けて行軍するのみで、直ぐに戦闘があるわけではないのだ。血気にはやる彼らは、この七日間の待機に飽きが来て、苛立っていた。
城内では、酒が振る舞われた。飯も出され、皆思う存分飲食を楽しんでいた。その実、こうしていられるのもあと数時間ということは皆も判っていた。
光秀に、まず吉田兼和の書状が、続いて近衛前久の書状が届けられた。前久の使者は、やはり、伏見の稲荷だった。伏見の稲荷は、直ぐに光秀のもとへ通された。光秀は、武者窓の隙間から入ってくる灯りの下、前久からの書状を読み終えた。書状の内容は、本能寺での茶会の途中、勅使が訪れた事。その勅使自身による報告。即ち、信長は明日二日に京都御所に出仕し、征夷大将軍位辞退の理由を言上する手筈となっていること。またその席上で、作暦のことを再度問題にするつもりでいること等々。そして最後に、光秀に信長を討つ覚悟の有りや無しやを問うていた。
光秀は静かに控えていた伏見の稲荷に尋ねた。
「近衛卿は何か言っておられたか」
「特に何も」
「文面では明日、信長公は京都御所に出仕なさるそうだが」
伏見の稲荷は静かに顔を伏せた。
光秀は、暫くの間瞑目をして、やがて口を開いた。
「明日信長公が御所においでになることはないでしょう。近衛卿にはそのようにお伝え願いたい」
「明日信長公が御所においでになることはない」
稲荷は光秀のことばを復唱した。
「うむ」
「かしこまりました」
稲荷は一礼して去った。
“信長は明日天皇に拝謁出来ない”
光秀は一人静かに、ルビコン川を渡る決意を言葉にしたのでした。
「お呼びで」
酒のせいで少し赤い顔をした斎藤内蔵助が現れた。
「あまり過ごさぬように」
「は」
「出陣の準備は」
「万事整っております。士気も揚がっています。ご心配ありません」
「そうか。ところで妙な事を尋ねるが」
「はい?」
「京におられる天皇をお前はどう思う」
「天皇ですか、はてさて」
「例えば天皇のお命を危うくする者があるとしたら、お前ならどうする」
「・・・」
内蔵助には光秀が何の話をしているのかがサッパリ掴めなかった。訝し気に光秀を見るしかなかった。構わず光秀は続けて問う。
「その曲者を退治し、天皇のお命を安んじ奉るのは良いことだと思うか」
「はあ、それはその、安んじ奉ればそれに越したことはないと思いますが・・・天皇とは要するに、神道・神主の親玉のようなもので、我々武士とは縁の薄いものかと」
「神道の親玉か」
内蔵助は少し慌てて言った。酔いが醒めたのだ。
「いや、私はいい年はしておりますが、そのようなことにはトンと不案内なもので」
「いや、いいのだ。そろそろ皆にも酒を控えるよう言ってくれ」
光秀は、再び一人になった。ひとりごちた。
「神主の親玉か」
天皇に対する認識不足を内蔵助一人の事として笑うわけにはいかないのだ。例えば内蔵助にお前の主人は誰だと問えば、明智光秀である。その光秀は織田信長に仕えている。その信長は誰に仕えているのかと聞かれれば、大方の人々は答えに困るだろう。信長の上に将軍(足利義昭)がおり、その上に天皇(正親町天皇)が存在し、任命権を持つ仕組みになっていると言ったところで、果たしてどれほどの者(明智全軍中の何人)に納得させることができるのか、期待はできない。だからと言って、光秀自身の信長を討つ覚悟は揺らぐことは無い。問題はそれを自分の統率する明智軍にどう伝えるかだ。内蔵助があの様子では、他の重臣たちも似たりよったりであろう。
光秀自身の中では、天皇の命を守る為に主君信長を討つのは正義である。しかし、その正義を成す為には主君信長を弑逆する不正義を行わなければならない。その二律背反・矛盾を飲み込んで、今は謀反人にならなければ達成できない正義を行なうのだ。おそらく誰にも判らない。
篝火が武者窓を通して、光秀の顔を照らしていた。
⑮六月一日深夜:京都
京都の町は寝静まっていた。どこの通りにも人影は無い。
文人風の初老の男とその従者とみられる男とを囲んだ武士の集団が本能寺に向かっていた。初老の男の悠然とした態度からは、護衛をされていると見受けられるが、異様な一団であった。やがて、一行は本能寺についた。
従者は、風呂敷包みを主人に渡すと寺内には入らず門前で見送った。暫くすると適当なところを見つけたらしく、その場所にしゃがみ込んだ。その時、従者に声をかける者があった。驚いて顔をあげると、年若い同じく従者の身分らしい男が笑いかけてきた
「もし、ご主人のお供かな」
「・・・」
「こんなに夜遅く、あんたも大変だね」
「あんたは?」
「俺かい、俺もお供だよ。さる名のあるお公家さまだが、ホントの話、こちらの御用でね」
と言って男は小指を立てて見せた。その指を見て従者もニンマリした。
「そういうことだから、朝まですることが無い。見たところご同業のようなので、お付き合い願おうと思って、声をかけたんだが、邪魔じゃなかったかね」
「いやいや、へっへっ」
従者はだらしなく笑っている。男も「へへへ」と笑って従者の横に肩を並べてしゃがみ込んだ。
「なあ兄弟、ここは今をときめく織田信長さまの宿泊所じゃないのかね」
「ふむ」
「どうやら、そちらはそんなに色っぽい御用向きではなさそうだね。」
「ああ、うちの主人は囲碁名人の鹿塩利賢といって、ちょっとは知られた師匠なんだ。まあ、お前さんには縁が無いかな」
「ほお、囲碁のお師匠さまとは、俺とは縁がなさそうだが、どうしてまた本能寺くんだりまで出張るのかな」
「信長公のお召だから仕方ない。日蓮宗に日海とかいう囲碁の名人が居て、信長公は、うちの主人とどちらが勝つのか戦わせてみたいと思い立ったらしい」
「それは酔狂なこと」
「まったく、いい迷惑だよ。いきなり侍がどやどややって来て、やれ本能寺だ、囲碁の勝負だって言うので、ここまで連れてこられたんだよ」
「それはまた。ところでその勝負はどちらが勝ちそうなんだい」
「そりゃわかりっこないよ。只そうそう、うちの主人に勝てる相手がいるとも思えないが」
「そいつは面白い。どうだい、暇つぶしに賭けようじやないか。ここに十文ある」
「あんた、ちょっと相手が悪いよ。うちの主人は天下第一の名人だよ。十文捨てるようなもんだ」
「そうかい、じゃあ決まりだな。ところでその囲碁っていうのは、勝負がつくまでには、どれくらいの時間がかかるんだい?」
「そうだな、だいたい一刻(二時間)は掛かる」
「へえ、結構かかるんだ。まあ時間ならいくらでもある。構うことないな」
そう言うと、二人はぼんやりと壁にもたれ夜空を見上げた。
一時間もした頃か、急に寺の中が騒がしくなった。門前に名人鹿塩利賢が現れたのだ。中に案内されたときと同じように、武士が付き添って、手にした松明で足元を照らしている。しかし、門前までくると名人はもう結構だからと、家まで送ろうとする武士の申し出を固辞した。
武士もあえて送ろうとせず、松明を名人に渡して送り出した。
「これはお早いお帰りで」
従者は立ち上がった。
「うむ」
名人は風呂敷包みと松明を従者に手渡した。話相手になっていた男もちゃっかり後ろについて愛想笑いをしている。
「そちらは」
「どうも、通りすがりの者で」
通りすがりもヘチマもないだろうが、厚かましくへらへら笑いながら、二人の後をついてくる。更に厚かましくも直接名人に話しかけた。
「ところで、ちょいとお聞きしたいんですが、今日は囲碁の勝負をされたそうで、その勝負はどちらが勝たれたんでしょうか?」
名人は男を睨んだが、憮然として答えた。
「勝負は無しだ」
「囲碁に引き分けがあるんですか」
「引き分けではない。ご臨席の信長公も、お疲れのご様子で囲碁の観戦中に寝所にお渡りになられた。お相手の日海さまと相談して、今日の勝負はそれで持ち試合ということにしたのだ」
「はあ、信長さまは寝所の方に・・・さようで」
三人は暫く夜の小路を歩いた。
名人はさっきまで絶えず話しかけていた男が急に静かになったので、訝しく思い後ろを振り向くと、夜に溶けてしまったかのように男は姿を消していた。
その男の姿は、近衛前久の屋敷の庭先にあった。膝をつき、畏まっていた。書院にはまだ灯りがともっていた。
「宇佐か」
前久の声がした。障子が開いて前久が顔を出した。
「本能寺で何か変わったことがあったのか」
「とりたてて変わったことは・・・只ご報告しておきたいことがございまして」
「うむ」
「先程本能寺で囲碁の名人鹿塩何某が呼び出され、信長公ご臨席で一局あった由。しかし信長公は疲労の為、勝負の半ばで寝所に渡られたそうにございます」
「信長公が寝所に渡られた」
「はい」
「では間違いなく本能寺にお休みになったのだな」
「御意」
前久は暫く黙って、その意味していることの重大性を確かめていた。
「宇佐、悪いがそのことを亀山の明智殿に知らせてもらいたい。これからすぐに行ってもらえるか」
「はい」
宇佐の動きは機敏だった。すっくと立ち上がったかと思うと、次の瞬間には姿が見えなくなっていた。
前久は、宇佐が消えた闇を祈るような気持ちで見つめていた。昼間光秀に送った伏見の稲荷はまだ帰ってこない。なので当然前久は、光秀の決意を知らない。前久は思う。光秀は亀山を出発して、どこに向かうのだろう。もし中国路に向かうならば、信長を討つつもりはない。使いの宇佐も無駄になる。しかし、もし信長を討つつもりなら、信長が本能寺の寝所で休んでいるとの確実な情報は、価値が非常に高くなる。しかし、今の前久には、夜の闇を祈る気持ちで見つめるより他にできることはなかった。(続く)