⑩五月二十九日、信長入洛。
黄絹に永楽銭の幟を立てた総勢約百人程度の織田信長軍が入洛した。隊の編成は、一番前に長さ三間の槍隊、その後ろの金の唐傘の馬印のもとに、白馬に乗り、紫に金の縫い取りをした南蛮風マントを羽織った織田信長がいた、その信長のすぐ後を鉄砲隊が続き、その後ろに信長の身の廻りの世話をする女房衆が続いた。さしもの物見高い京都の人々も目を瞠り、感心する美しい隊列だった。
見物人の群衆の中に,水干姿の吉田兼和がいた。兼和は見物に出てきたわけではないが、群衆の流れに巻き込まれてしまった。
信長の行軍が通過すると、嫡子信忠の行軍が続いた。信忠の隊は、実戦的な黒の甲冑だった。
美しい隊列の後を武力を誇示する隊列が進んでゆく。どうやら信忠の隊の進む方向と、兼和の向かっている方向は同じらしい。
信忠の隊は、四条通りを進んで、二条御所と通りを挟んだ向かいの妙覚寺に入った。兼和は二条御所に隣接している近衛前久の屋敷に入った。
兼和は奥に通されるなり用件を告げた。
「光秀さまからの伝言が届きました。信長の京都での動向を知りたいということです」
「ふむ、たしか信長は本能寺に入ったと聞いたが」
「はい、また息子の信忠は妙覚寺の方に」
近衛前久はゆっくりと屋敷の裏に目をやった。すぐ目と鼻の先だ。何とも嫌な気分になった。
「しかし、信長はよく動きます。一つの所にじっとして居れない人です。油断できません。ですから光秀殿は、信長の京での動きを逐一知りたいのでしょう」
「うむ」
前久はゆっくりと頷いた。
「とにかく、信長が本能寺に入ったことは光秀に伝えましょう。その後のことは私より近衛様の方がお詳しいかと存じまして」
「ええ、できるだけのことはしましょう。・・・それにしても光秀の言うことがほんとに正しければ、何としてもそれは阻止しなければなりません」
「そうですとも。織田信長には死んでもらわなければなりません」
余談ながら、一つの場所に留まっていられない質の信長は、実際に警備を厚くして身動きが取れなくなるより、本能寺を改装するなどして警備を薄くし、機動力を高めて、安全性を確保する道を選択した。
前久と兼和が話し合っていると、家人が入ってきた。
「ただいま織田信長さまの使者が玄関に見えておりますが」
「の、の、信長!」
二人は驚いて、一瞬息をするのも忘れた。
「用件は」
「それが、主に直接お伝えしたいと申しております」
「それはできません。あなたが聞いてきなさい」
家人は再び玄関に走った。二人は揃って玄関に向かい、物陰に隠れて様子を窺った。
家人は信長の使者と相対して言った。
「御用の向きをお聞きしましょう」
「ご主人がいらっしゃるようなので、お会いして申し上げたい」
「いたとしても、忙しくてお会いすることは出来ないと言っているのです」
「致し方ありません。ご主人にお伝え願いたい。明日、本能寺にて織田右大将さま主催の茶会が催されます。つきましては、近衛相国どのにもご臨席いただきたい」
「さようですか。それなら、また追ってご連絡いたします」
「いや、今すぐご返答いただきたい。織田さま直々のご招待というのは、名誉なことであります。つとめてご出席いただきたい」
「今すぐですと?お言葉ですが、この家の主人は太政官を拝命しておる者でございます。織田様がどれほどのお方か存じ上げませんが、いきなり来られた上に明日茶会だと言われましても」
と言いかけて、家人が横を見やると、当の主人が手招きをしている。
「少々お待ちを。・・・まったく失礼なやつです。どこの田舎者か、紹介状一つ持たないで、のこのことやって来て」
「戻って、承知したと言ってきなさい」
「え」
「聞こえなかったのですか。明日の茶会、間違いなく出席させていただくと言ってきなさい」
「は、はい」
織田信長を知らない家人は、納得できない表情で玄関に引き返した。
「主人が申しますには、明日の茶会、出席させていただくとのことです」
「そうですか、ではよしなに」
使者は後ろも見ずに屋敷をあとにした。家人はそれをぼんやりと見送った。
前久は肝を冷やした。使者が出で行ったのを確かめると、自室に戻ったが、胸の高鳴りを抑えることができなかった。一緒にいた兼和も、魂が抜けたように座り込んだままだった。
「いくら織田信長でも地獄耳ではあるまいし、私たちが何を話し合っていたかわかる訳はないでしょう」
前久は自分に言い聞かせるように言った。
「何もビクビクすることはないですよ。もっと堂々としていないと」
兼和も誰に言うともなく呟いた。
「何もやってないじゃないですか、私たちは、まだ・・・」
「そうですとも、そうですとも」
兼和は大きく鷹揚に頷いた。
しかし、二人とも直ぐに大きくため息をついた。信長からの使者が来ていると聞いた時の、身の毛がよだつような感覚、背筋の凍りつくような感覚を思い出したのだ。
「では私はこれで」
兼和は腰を上げた。
「もうお帰りですか」
前久は心細そうだった。
「はい、明智さんに報告の手紙を書かなければなりませんから。ええ、とりあえず信長が本能寺に入ったことだけでも」
二人は互いに呆然とした表情で別れた。
⑪兼和、光秀に書簡をしたためる。
兼和は近衛邸からどうやって帰宅したかも覚えていなかった。気がつくと、自室で白紙を前に、墨を摺っていた。
光秀から信長誅殺の話を初めて聞いた時、兼和はそれまで光秀に対して冷淡な態度を採っていたのが、打って変わって、まるで自分自身が事を起こすかのように、興奮した。しかし今日はあらためて自分たちがどれ程危険なことをしているかを思い知らされた。その時の動揺が、まだ消えていない。兼和は自分自身に気合を入れて、やっと紙に筆を滑らせた。手紙の内容は、信長・信忠父子が上洛し、信長は本能寺、信忠は妙覚寺へと各々到着したこと、明日本能寺で、近衛卿も出席する信長主催の茶会が行われることなどだ。急いで書きとめ、家人を呼んだ。
「これを急いで、亀山の明智光秀さまのところへ」
「亀山ですか」
家人は驚いて聞き返した。無理もない。兼和の書付や手紙は普通、京中で足りる。亀山は異例の遠さだ。構わず兼和は言った。
「急いで行けば夕方までには着くでしょう。光秀さまに直接渡して、お言葉を聞いてきなさい。今日中に帰れるでしょう。それから変わった様子がないか、城の様子を見てくるように」
「変わったことと言いますと」
「だから、お前のその二つの目を使って、よく見てくればいいのです。見て気づいたことがあれば知らせなさい。さあ早く」
「はあ」
家人は不得要領な返事をした。
「とにかく行っておいで」
兼和は家人を送り出した。
⑫兼和、里村紹巴宅を訪問、その後ふたたび前久宅へ。
家人を送り出した後も落ち着かない兼和は、彼自身が亀山に行き、明智光秀の様子をこの目で見たい気持ちでした。
そういえば、里村紹巴が亀山で歌会をすると言っていた。今日あたり帰宅しているかもしれない。聞けば光秀の様子が少しはわかるかもしれない。
兼和は矢も楯もたまらず、里村紹巴宅に赴いた。兼和も連歌の指南を受けているのです。
「これはこれは、吉田さん」
庭先から顔を出すと、果たして紹巴は戻っていた。
「どういう風の吹き回しですか」
「ええ、ちょっと近くを通りかかったもので・・・明智さんとこで歌会があったそうですね」
「はいはい」
「で、どうでしたか」
「連歌ですか。それはもうおかげさんで、上出来でした」
「それは何よりでした。ところで、亀山のお城の方はご覧になられましたか」
「はい、それは大変な騒ぎでしたよ。戦に出るというので、兵があふれるようで」
「何か城内で変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと?これと言って。とにかく城の中はごった返していますよ。私が見回った時には、武器や兵糧が中国戦線に送り出されている最中で」
「武器や兵糧が中国戦線に送り出されていた。それは本当ですか」
「はい、それがどうかしましたか」
「それは本当に、武器や兵糧だっだのですか」
「ええ、藁に巻かれているのは確かに兵糧や火薬のように見受けましたが」
「それが送られた先が、中国方面だというのは間違いないのですか」
「他のどこに送るところがあるのですか」
「そ、それはそうですが。そうですか、わかりました。私はこれで失礼します。ええ、ちょっと寄るところがありまして、また今度ゆっくりと寄せてもらいます」
「そう仰らずに、もっとゆっくりされればよろしいのに」
「いえ、ほんとに」
兼和はそそくさと紹巴の家を後にした。
兼和はまた近衛の屋敷に向かった。
「連歌師の紹巴によりますと、光秀は戦の荷駄を中国方面に送っているそうです」
「何と」
前久は思わず黙り込んだ。
「それは、毛利との戦に向かうということではないですか」
「そのようにも見えますが」
兼和は苦い顔で下を向いた。
「しかし信長の動向は知らせてくれということですし」
「光秀は一体何を考えているのですか」
普段温厚で知られている前久が、珍しく苛立ちを隠そうとしなかった。(続く)