魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

続々『黒王妃』

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エドワール・ドゥバ・ポンサン作「虐殺跡を視察するカトリーヌ・ド・メディシス」(1880年)。日本語版ウィキペディアより。

引き続き、一天一笑さんによる佐藤賢一『黒王妃』の内容紹介です。一天一笑さん、よろしくお願いします。

散々な目に会ったシャルル9世の花嫁

1563年、次王シャルル9世が13歳で成人すると、皆(移動する宮廷)を率いて全国行脚をします。
その様は今までの地味な仮面?を脱ぎ捨てるようです。絵巻物のような見事な行列、訪問先で繰り広げられるカトリ―ヌ主催のアトラクション(イタリアン・ルネサンスの粋を凝らした)は、国内外にイタリアの文化力と財力を見せつけます。2年ほどかけて、フランス国内を廻りました。シャルル9世の14歳から16歳の時に行われました。国民や地方貴族へのシャルル9世の顔見世と、女子供しかいない王家を舐めるなよとのカトリ―ヌ独特の挨拶ですかね?
シャルル9世の結婚は、政治の実権を握りつつあった、摂政(?)の地位についたカトリ―ヌが、有無を言わさずに決める。即ちヴァロワ家にとって価値のある結婚です。当然王族同士の結婚です。お相手は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇女、エリザベート・ドートリッシュです。
カトリ―ヌは、遠来の花嫁の心情には一切斟酌することなく、役割のみを求めます。夫のシャルル9世には仲睦まじい愛妾がいる。おまけに、1572年8月24日の聖バルテルミの虐殺の時、興奮して銃を構えたシャルル9世を止めようとして、「黙れ、このドイツ女」と足蹴にされてしまいました。姑には気の利かない嫁と陰口を叩かれ、散々です(母子ともに、人を道具としか扱わないのですね。何をかいわんや)。
「母上、それではお先に」それがシャルル9世の最後の言葉だったと伝えられています。
エリザベート前王妃が迷わず、実家のパプスブルグ家に帰ったのは、賢明な判断だったでしょう(カトリ―ヌにしたら既に用済みなのですから)。
フランソワ2世とシャルル9世が崩御しても、カトリ―ヌの母后の地位は変わりません。

アンリ3世の統治とヴァロア王朝の最期

カトリーヌの四男アンジュー公アンリに縁談がもち上がります。花嫁候補は何とエリザベス1世です。母后としてはイギリス・プロテスタントとも誼を通じておきたいところでしょう。しかしながら、年齢差や宗教など越えがたい問題があり、縁談不成立です。結局アンジュー公アンリは一目惚れした貴族の娘と結婚します(本人たっての希望、カトリ―ヌは臣下の娘との結婚に渋々同意する)。
このアンジュー公アンリは兄王シャルル9世に対するライバル意識が半端なく、自分が母后に優遇されているのを、周囲に見せつけるような、難しい人だったらしいです。
加えて男色を好む噂もありました。女装癖もあって、本人は楽しんだらしいです。
溺愛するアンリを王座につけるカトリーヌの望みは、1573年ヤゲロ-朝が断絶したポーランドに国王としてアンリを押し込むことによって叶う。しかし、アンリは、1574年シャルル9世崩御の一報を受けて、素早く帰国する(ポーランド王座やアンナ女王には魅力を感じなかったらしいです)。
お洒落が人一倍好きなアンリ3世が治める事になったフランスは、内戦状態でした。
カトリックプロテスタントの戦いです。プロテスタントに押され気味だったカトリックは、神聖同盟カトリック)を率いるアンリ・ド・ギーズ(王妹マルグリットと恋仲だった)と弟の枢機卿が、ブロワの3部会で王権の制限を提案し、巻き返しを図りますが、アンリ・ド・ギーズは、アンリ3世の放った刺客に暗殺されてしまいます。又意趣返しか、1589年8月2日アンリ3世は用心していたにも関わらす、ドミニカ派の修道士に刺殺されます。末弟のアランソン公は病没(1584年)しているので、ヴァロワ朝は断絶します。女性に王位継承を禁じたサリカ法典により、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボンがフランス王として即位します。

末娘マルグリットとナヴァール王アンリ・ド・ブルボンの縁談

 (話は1570年ごろに戻って)末娘マルグリットの醜聞(アンリ・ド・ギーズと交際していた)にカトリ―ヌ母后は、激しい怒りをみせながらも、一挙両得の案を実行に移します。
マルグリットとナヴァール王アンリ・ド・ブルボン(後のブルボン朝アンリ4世)の結婚です。プロテスタントと和解でき、マルグリットを宮廷から追い出せます。アンリ・ド・ブルボンは、フランソワ1世の姪ナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレ(熱烈プロテスタント)を母に、同じくプロテスタントであったが後にカトリックに改宗したヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボンを父に持つユグノーの指導者です。そして、フランス宮廷で養育されていた時期があるので、マルグリットとアンリ・ド・ブルボンは所謂幼馴染の間柄なのですが、王家と王家の結婚、カトリックプロテスタントとの結婚となると、一筋縄ではいかないのが、読み取れます。この時、父アントワーヌは既に戦死していました。
ですから、後はアンリ・ド・ブルボンの母で当時のナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレを説得すれば良いだけです。
カトリ―ヌのお手紙作戦が功を奏したのか、ジャンヌ・ダルブレは同意してパリに出て来ます。
パリに来て結婚の準備(買い物)を始めていたジャンヌ・ダルブレは周囲の武器が飛ぶように売れている、緊迫した不穏な状況・雰囲気を感じたのか(プロテスタントも結婚式見物の為大移動中。一触即発の状態?)息子アンリに手紙で領地から出ないように、慎重に行動するように書き送っています。

聖バルテルミの虐殺

1572年8月18日ノ-トルダム大聖堂で、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボンとフランス国王の妹君マルグリット・ド・ヴァロワの結婚式が挙行されます。そして連日の披露宴へと進みます。
8月21日にコリニー提督が狙撃され、瀕死の重傷を負います。激情家のシャルル9世は すぐさま、犯人を捜索させます(指示したのは、カトリ―ヌ・ド・メディシス?最初からフランス王家はプロテスタント指導者を殺す肚づもりだった?)。
父と仰ぐコリニー提督と、強烈な母后カトリ―ヌとの間で板ばさみになったシャルル9世は、錯乱状態におちいり、叫ぶ「生き延びた者が後から朕を非難することができないよう、ユグノーはひとり残らず殺してしまえ」。かくして引き金は引かれた。
24日昼過ぎに、シャルル9世は虐殺中止を命じるが、止められない。パリでは、2000人から4000人が殺されたと伝えられている。セーヌ川が血に染まったという。
ナヴァール王アンリ・ド・ブルボンはプロテスタントから、カトリックに改宗せざるを得なくなる。後にフランス王位に即くとき再度改宗をするが。彼もまた父と母の狭間で苦しんだのだろう。

この物語は、カトリ―ヌ・ド・メディシスが、虐殺された死体が堆く積み上げられた道を、これでフランスに平和がくると、堂々と歩いている場面(シャルル9世が、虐殺を肯定する文章を読み上げる場面)で幕を閉じる。一概には言えないが、いつの時代にも、社会的地位があり仕事に忙殺される、家庭内では無力な父親、強く家庭内女帝になって、子供の人生を乗っ取る母親の構図が垣間見える事に嘆息を禁じ得ない。

ヴァロワ朝佐藤賢一講談社現代新書を参考文献としました(引用しています)。
萩尾望都王妃マルゴ集英社も参照しました。

天一