魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

岩井三四二『三成の不思議なる条々』

岩井三四二の時代小説『三成の不思議なる条々』について、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


『三成の不思議なる条々』岩井三四二・光文社を読んで。
岩井三四二にハズレなし」と言われる時代小説の名手が、インタビューの形を用いて、関ヶ原合戦の敗軍の将として刑死した石田三成の人品骨柄を描く。

謎の人物から依頼された聞き書きの旅

関ヶ原合戦から30年後、軽妙洒脱な江戸言葉を使う筆紙商い文殊屋が、謎の依頼人から内密に関ヶ原合戦 がどうして起きたのか等を調べる依頼を受け、普通では入手できない天海大僧正の紹介状を携え、江戸・ 上方そしてまた、江戸と指定された人物との会話の中で、偶然にも消息の分かった、あるいは紹介された人物を訪ねて歩き、聞き書きをしていく物語です。その数は全部で12人。
この12人は、皆年老いていて、刑死した三成をそれぞれの立場から見知った人達です。どの様な人達が登場するのでしょうか?代表的なところでは、三成と共に刑死した安国寺恵瓊に仕えた龍潭瑞月、秀吉の正室で、出家した高台院に仕えたお由良の方(応慶尼)、そして一見何の関係も無いように見える津軽藩主・津軽越中守信枚、三成の元小姓北野七郎【呉服商東海屋貞吉】などの面々です。
つまり、12人の視点から三成が語られるのです。読み進めて退屈しませんよ。

十二人の視点から浮かぶ三成像

12人の共通する三成の外見は「冴えない」「風采の上がらない」「小柄でなで肩」、そして遠くからでもそれと分かる才槌頭です。
雰囲気としては、天下分け目の大戦の総大将よりも、年貢の徴収員か検地の官吏等が似合う。
「さんかん」(算勧?)には滅法強かったらしいです(実際に自ら作った定規を使って、検地を実行した)。又『孫子』などの兵法書を読み込み、知識としては、戦の陣立ては知っていたようです。
机上の学問を規則に則り実践するには長けていたが、目の前の生きている人間の気持ちには鈍感力を発揮 したようです。
心情的には自分に恃むところが多く、決して自分を曲げない。思い込みが強く、融通が利かない、愛想など微塵も無く、一言でいうなら、可愛げの無い奴というところでしょうか。

謎の依頼主の目的と家康の影

謎の依頼主は文殊屋に丁寧な物腰で対応し金払いも良く、人と会食するには付き物の酒手も惜しまないのですが、ただ一つ文殊屋に釘を指している事がある。
それは、この聞き書きを作る目的を知らない方がいいという事です。しかも知らない方が文殊屋の為だとさえ言っている。些か気になりまね。
その依頼主が、関ヶ原合戦について、知りたい若しくは書き表したいのは、主に次の4点です。

  • 先ずは、たかだか20石ばかりの身代の三成が、どうして天下の軍勢をうごかせたのか。
  • 戦の手立ては上手か下手か。
  • 関ヶ原合戦は家康側と三成側とどちらに道理があったのか。
  • 最後に、関ヶ原で戦った人の子孫は、現在どの様な状況なのか(勝った東軍・負けた西軍共に)。

何となく依頼主の狙いがみえてきたのではないのでしょうか?
因みに徳川家康は、1616年駿府城で死去しています。文殊屋が聞き書きの旅をしたのが、大凡1630年頃と 推察されます。この頃には、家康は人々から権現さま(東照神君)と呼ばれていたのです。この呼称から見ても、『家康の遠き道』で示されている、神になる願いは叶ったのでしょう。
文殊屋は石田三成および関ヶ原合戦聞き書きの旅をしているのですが、まるで家康が影のように12人の 話の中に登場します。

秀吉の正室・応慶尼

この12人の中でも、私が注目したのは、応慶尼です。話題は自然に関ヶ原合戦の時、北の政所はどう振舞 ったか?となります。実子にめぐまれなかった北の政所も、夫の秀吉の身代が加増されたことで、豊臣家のゴッドマザーの立ち位置になり、より多くの人の衣食住の面倒を見ることになります(側室同士の揉め事も仲裁します)。北の政所から見たら、養い子たちが喧嘩しているように見えたのか?特に誰に肩入れした事も無く、夫の菩提を弔う日々を送ります。
高台院は、ただ女同士の連帯感なのか、関ヶ原合戦の起こる1年前に、三成の三女お辰を引き取り養女として迎えます。その身元が判らぬように「お客人」と呼び慣わして。お辰は中臈務めを自ら志願しながら、ある日応慶尼に尋ねます。父上は悪人だからこそ首をはねられたのか?と。応慶尼は、困りながらも、豊臣家の忠臣ゆえに家康は三成を悪人にせざるを得なかったと答えます。この答えに納得できたのか?お辰の気持ちは計り知れないが、この日を境に、手習い・行儀作法・針仕事の稽古に打ち込みます。周囲にはさすが治部殿の娘御よ、利発なことと感心されながら、高台院に上臈奉公するまでに成長します。

三成の三女・お辰の運命

お辰の身の上は変転します。
乞われて江戸へ赴き、良い因縁のある、津軽藩津軽越中守信枚の正室となります。
信枚の見込み通りにお辰は、妻として申し分無い働きをします。しかし、信枚は天海大僧正の肝煎りで、家康の養女満天姫を正室に娶る事になります。ここがパワーバランスの妙です。公儀はお辰と信枚の婚姻は黙認していましたが、時勢を読んだ信枚はお辰を側室に格下げして、挙句の果てに押し込めにしてしまいます(満天姫は権高く、嫉妬深く、わざと関ヶ原合戦の屏風を嫁入り道具に持参した)。
信枚は罪滅ぼしか、跡目をお辰の息子に決めるように、書状を残し手配します。
石田治部の孫をとるか、権現の義理の孫をとるか、津軽越中守の肚は決まっていたと見えます(三成の遺児杉山源吾の算勧の才を買って、士官させていた。人間的にも相性が良かったらしい)。
ある意味時勢には逆らえぬが、三成の血に賭けた津軽守の筋の通し方なのでしょう。

謎の依頼人の正体と関ヶ原合戦の道理

この最終章で、謎の依頼人の正体が明らかになります。
文殊屋が直接に会ったのは、誰でしょうか?藩主が直接出るわけにはいかないので、三成の遺児杉山源吾から高島忠吉へと秘密の命令は下ります。
石田三成が刑死したのは40代前半、まだこれからの人生を開拓出来る年代。対する家康は50代後半、もう60代が見えています。『家康の遠き道』の入り口に入ろうという年代になっています。
年代の違い、人としての持ち味の違いが関ヶ原の勝敗を決める遠因となっているかと思われます(家康の調略の巧みさがよく描かれています。所謂狸爺さん説ですね)。
果たして関ヶ原合戦の道理はどちらにあったのでしょうか?合戦は元々が殺し合いだから、道理も何もありゃしません、との考え方もあります。
何事にもよらず、勝負事で一度定まった評価を覆す事に意味があるのかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、関ヶ原合戦に関わった人々の後日談として、複雑な人間関係を垣間見る事のある方、誰とどうやっていつどの様な形を用いて合従連衡を企画するのか思案中の方、もう一つの関ヶ原合戦を知りたい方等にお薦めします。

天一

*一天一笑さんによる岩井三四二『家康の遠き道』のレビューはこちら