その日、薄紫色の織物のように、美しい黄昏がおのずと紅潮している巷々をさまよいながら、私はふとサン・ジョヴァンニの姿を見つけた。彼女の姿はいつもにも増して、古い額縁によって周囲から切り取られているかのように見えた。その凹凸を欠いた胸や腰は、未熟な少女かエフェベのもののようで、それで彼女のルーズなワンピースの描く曲線はおおよそふくよかさを欠いていた。彼女は小姓のようにまっすぐで、細長かった。
「サン・ジョヴァンニ、あなたの歩みをここに導いたものは偶然ばかりではないようね。どんなフィレンツェ女が、イタリアの夜よりも黒い目をして、恐らくはリュートを爪弾いたり薔薇の花びらをむしったりしながら、あなたの訪れを待ちかねているのかしらね」
『中性人』はごく内輪の問題を抱えている様子で、そっけなく答えた。
「あなたがヴァリーに寄せている切ない思いの底には、あなた自身にも意外なほど綺麗な心が眠っていると、私は信じているの。あなたのうちにあるその優しい友情に訴えたい。どうか冷静に聞いて」
私の不思議なお友だちは、あたかも決心がつきかねるとでもいうように、少し間を置いた。
「あなたは私ほどヴァリーを理解してはいない。あなたのイギリス人らしい精神の中には、今も古いプロテスタントの因子が眠っていて、アメリカ娘たちの幼稚でひねくれた遊び心が熱中するあの大胆にして無邪気な恋愛遊戯を大目に見ることが出来ない。あなたたちは異なる種族の血を引いているのよ。二人がお互いに理解し合うことはとても無理ね。ヴァリーはその侵しがたい美しさを惜し気もなくさらすことで男たちを責めさいなむことを好む。彼女は誰の目にも眩しい生ける女神、それでいて誰の手にも届かない女神のふりがしたかったのよ。彼女は欲望と劣情との獣的な雰囲気の中で、自分が侵すべからざる存在であることを知ってよろこぶ。彼女は自分のまなざしとほほえみとが生み出すこの拷問が好きでたまらない。この女性ならではの魔力の感覚に、彼女は酔い痴れているのね。けれど彼女自身は日ざしのかげに隠れた永遠の氷よりも冷たいままなの。あなたの誇り高いサクソン人魂は、このような手練手管を決して許さない。あなたが持っているのは昔の『円頂党』の魂、反骨の魂、懐疑的でとげとげしい魂なのよ」
彼女は言葉を切って、謹聴している私の目の中を、その謎めいたまなざしでのぞき込んだ。
「おお、フランスの俗物ヴィクトル・ユゴーにはほとんど理解されなかったオリバー・クロムウェルの女弟子よ、心して聴いて。もしあなたがその激しい嫉妬心と純情とを抑制することが出来ないならば、あなたはヴァリーを失うでしょう。彼女はあなたが閉じ込めようとしている濃霧の中から逃げ出すわ、さもなければ窒息してしまうもの。彼女には外界が、空間と太陽とが必要なの。彼女はそれほど若さにあふれ、それほど生きたいと願っているのよ…」
「おおサン・ジョヴァンニ、背徳の愛の守り神よ、どうすればいいか教えて。あなたほどヴァリーと親しい人はいないのだから」
「あなたも知ってのとおり、ヴァリーは『売春夫』とこっそり婚約するというあやまちを犯した。けれどこのような瑣事に、それが実際に持っている以上の重要性を附さないことね。ほとんどのアメリカ娘たちは、これまでにも何度も言ったとおり、いたるところで結婚の約束をしながら、そのような犠牲を払うつもりは毛頭ないものなのよ。それは唇への接吻の口実に過ぎず、そうしてアメリカでは、唇への接吻は、フランスにおける頬への接吻と同じ程度の軽い意味のものなの。姉妹同士で、あるいは友人同士で――それ以上の深い意味はまったくなしに――彼女たちは唇を重ねて接吻をする…要するにヴァリーは母国の慣習に従っているだけよ。彼女には既に十三人の婚約者がいて、そうして恐らくはただこの不吉な数字にとどまることを避けるためにのみ、十四人目の婚約者を選んだのだわ…」
サン・ジョヴァンニは一瞬ためらった。
「お願い、私たちのモルガン・ル・フェイからあの男と絶交するという約束を取り付けて。私は堕落などという時代遅れの馬鹿げた言葉は使わない。ありがたいことに、今どき堕落できるのは十代の女の子たちだけよ。彼女たちだけが同棲したり、妊娠したりすることによって堕落できるの…ヴァリーは決して男に身を任せたりしない」彼女は続けた。「彼女は男性を愛せない、それはあなたも知っているはず。彼女が男に気を許さないのは、人が敵に対して本能的に気を許さないのと同じ。彼女は仇同様に彼らを憎み、ライバル同様に彼らと張り合っている。ヴァリーが男に恋をしているのではないかなどと心配しないで…」
私にはもうサン・ジョヴァンニの言葉が聴き取れず、その微笑みを浮かべた唇の曲線も見えなかった。悲しみで足もとがふらついた。
「さらば、背徳の聖女よ」私はつぶやいた。
知らず知らずのうちに、ヴァリーの家まで来ていた。私はほとんど苦痛が無いこと、と言うよりもむしろ苦しんでいる自覚が無いことに驚いていた。
入ろうか入るまいか、これまでは浮かれた気持ちで何度もためらってきたその扉へと近づくうちに、この今という瞬間の恐ろしさがようやく現実味を帯びてきて、それは気を失った患者が新たな激痛で意識を取り戻すさまに似ていた。
そのあと続いて起こった出来事については、あまり正確には思い出せない。なぜなら私は悪夢の世界へと足を踏み入れてしまったからである。巧みに照明を落とされた緑色のブドワールと、ヴァリーの白いシルエットが目に浮かぶ。
私の目には、彼女の唇はひきつった微笑みで歪んでいるように見えた。「売春夫」氏は肘掛け椅子の中であわてふためいていた。
私はヴァリーに近づいた。
「お祝いを述べに参りましたの。お二人のご婚約について…」
ヴァリーは立ち上がった。その姿は贖罪の白百合のごとく美しかった。
「何のことかしら」彼女は即座に切り返した。「私とド・ヴォーダム氏との間に婚約問題など存在しないわ」
…私が現実的な事物の認識を取り戻した時、「売春夫」氏はもはやブドワールにはいなかった。ヴァリーは冷たい怒気を帯びた目で私を見つめていた。
すっかり頭に血がのぼった私が、如何なるたどたどしい暴言を吐いたか、私は知らない。私は彼女を責めたりなじったりする文言を機械的に作成して、それを断固たる口調で述べ立てようと努力していた…私のロアリーの薄い唇はへの字に結ばれていた。それはもはや彼女のこわばった顔の上に引かれた一本の細い線にしか見えなかった。私は自分でもわけのわからないことを言っている自分の声を聴いていた…
ヴァリーは沈黙を破った。その声は金属製の器具を打ち鳴らしたように冷たかった。
「あなたのそのわけのわからない思い込みは許せない。もし私が中傷をさげすむなら、中傷の反響でしかない連中をもさげすむであろうことは、あなたもわかっているべきだったのよ。私とド・ヴォーダム氏との関係についての作り話はすべて無実無根。それは恐らくあなたの嫉妬心から生まれた妄想によるでっち上げでしょう。あなたはそうやって愚かしくもうるさい揣摩臆測を私に押しつけて楽しいでしょうけれど、こうひっきりなしに引っ掻き回されては、もう私の我慢の限界を超えているわ。私たちは今『運命』の曲がり角にいる。これからは別々の道を歩むべきね。私はあなたとはいつも誠心誠意で接してきた。あなたに対してだけはいいかげんな口説き文句を使わなかった。出会った頃から、あなたにだけはこの空っぽの心をさらけ出してきた。あなたを愛せるようになりたかった。けれどあなたは最後まで私に人を愛するすべを教えてはくれなかった」
「私のこの不器用な嫉妬心だけが、お互いのまったくの無理解の原因なのかどうかはわからないわ」と私は言った。「私は確かにこの過敏な猜疑心で、これまであなたに迷惑をかけてきた。けれどそれは、あなたが私に対して示してきた冷酷非情なあしらいの正当な帰結ではないのかしら。あなたは私に対して、いつも怠け者の従者を怒鳴りつける主人のような、心ない口の利き方をしてきた。あなたは私を傷つけてよろこび、あなたの愛妾たちの目の前で、私をなぶりものにしてきたのよ。たとえこの満身の創痍が、ほかの何ぴとの愛撫よりも甘美だとしても、それはまたこの世での希望のすべてを失うよりもつらくて…ヴァリー、私の『絶世の美女』にして『最愛のひと』、私は決してあなたを責めたりはしない。あなたのためなら喜んで人生を棒に振るわ。あなたは犠牲になることの素晴らしい快感を、一切をあきらめることの信じられないよろこびを教えてくれた。人が『聖母』を愛するように、私は信仰に近い気持ちであなたを愛しているの。事実、修道士や修道女たちは、世俗と一切の縁を断つほど信仰に燃えていながら、私がすべてを捨ててあなたに従った時の聖なる恍惚感を知らなかった。ヴァリー、あなたは私の『永遠のひと』。あなたは私を追い払うことが出来る、あなたの心ない恩恵が及ばない辺境の地へと私を追放することが出来る。けれども人生のメタモルフォシスの影響を受けない場所に私が安置したあなたの比類ない思い出までは消すことが出来ない。初恋の思い出は烙印のように焼きついて、一生消えるものではないのだから」
彼女はもはや私の言うことなど聞いてはいなかった。ある冷たい怒りが青い瞳の中で輝いていて、北国の川の流れのような風情だった。
「あなたといること自体がたまらなくなってきたわ」彼女は極刑を言い渡す裁判官のように、淀みない口調で言った。「あなたは私の行く手に影を落とす暗雲。日ざしを暗くし、花盛りの薔薇を涙に暮れさせる。あなたのすさまじい陰気臭さは、私を言いようもなくいらいらさせる。あなたはそのおおらかさを欠いた性格で、不愉快きわまる人物となる。あなたという女は怒りと憎しみで出来ているのよ。あなたは私を一番醜く見える角度からしか見ようとはしない。私が持っている立派で気高いもののすべてからあなたは目をそらしてしまう。あなたのけちくさい嫉妬心は事実と外観にこだわるばかりで、その奥に隠れている本質や、実際には起こらなくても起こったかも知れない出来事についてまでは思いを馳せようとしない。消えてくれないかしら。あなたのそのうわべだけの『愛』とやらに比べれば、どんな女の子の本気の『好き』でも私には好ましい。消えて」彼女は非情な声でそう命じた。
私は去った。私の内部からは一切の物音が消え失せていた。私の心は復活の望みのない亡骸を納めた墓であった。*1(第14章終わり)
*1:訳者注:上の「私は去った」以下の文は訳者が使用している仏語原文では欠落しており、ジャネット・フォスターの英訳によって補います。