魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

続『黒王妃』

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カトリーヌ・ド・メディシス(日本語版ウィキペディアより)

先日、佐藤賢一の『黒王妃』について、一天一笑さんによるレビューを掲載しましたが、一天一笑さんから更に詳しい内容紹介をいただきましたので掲載します。それでは一天一笑さん、よろしくお願いします。

三人所帯

中世のカトリック教徒も離婚はできる。教皇庁が「結婚の取り消し」、この結婚は間違いだったと認めれば、事実上の離婚は成立する。
遠縁のローマ教皇クレメンス7世の亡き後、教皇庁はカトリーヌに忖度はしない。修道院送りは必定。離婚されない為には、何としても王子・王女を無事に産まなければと王太子妃カトリーヌは、輿入れに際して召し連れた占い師などと協力しながら、妊活に励む。皮肉なことにアンリ2世の愛妾デイアーヌ・ド・ポワティエの協力も得て。デイアーヌにしたら、冴えない、地味な王太子妃がいればこそ、寵姫の立場が守れるわけです。アンリ2世を真ん中にこの奇妙な共犯関係(妻妾同居)は、宮廷人に三人所帯と揶揄されながらも、1559年6月30日の騎馬試合で、槍で目を突かれ重症を負った夫アンリ2世が息をひきとるまで続く。結果として、ノストラダムスの有名な大予言は的中する。カトリ―ヌは終生この占星術師の予言を固く信じます。
アンリ2世崩御後、デイアーヌは、宮廷追放されるが、隠居生活を送り天寿を全うする。(とことん追い詰めないのがカトリーヌの流儀です。或はもはや存在しない扱い?)
カトリーヌは、アンリ2世の息のある間に既に決まっていたサヴォイア公と先王の王女マルグリットとの結婚式を挙行します(イタリア戦争終結・平和条約の証)。そして、アンリ2世の崩御後はいかなる場合も黒衣を纏う事を己に課します。書名の黒王妃はここからきたのでしょうか?
いずれにしても、カトリ―ヌがアンリ2世を独占できたのは崩御してからなのでした。

妊活の成功

カトリ―ヌの必死の妊活はどうなったのか?気むずかし屋と呼ばれた夫王アンリ2世との関係は何とも言いようがありませんが、10人の子供に恵まれました。1544年長男フランソワ、1545年長女エリザベート、1547年次女クロード、49年次男ルイ(早世)、1550年三男シャルル、1551年四男アンリ、1553年三女マルグリット、1555年五男エルキュール・フランソワ、1556年双子の女の子(早世)。1544年から1556年まで、まるで仕事のように出産します。何という見上げた気力・体力でしょう。妊活が実りました。
この子供たちは成人後、王子たちは五男を除いて、カトリーヌに王母陛下(母后)の地位を与え、王女たちはフランスの国益に叶う外交・婚姻政策の大事な手駒となります(特に長女エリザベートは1559年スペイン・フェリペ2世王妃、三女マルグリットは1572年ナヴァール王妃)。
後にスぺイン王妃イザベル(カトリーヌの長女エリザベート)は、夫王フェリペ2世の子を身ごもったまま病死します。
イザベルの死後、スペインとの紐帯が切れることを恐れたカトリ―ヌは、三女マルグリットをフェリペ2世の後添いにするよう画策しますが、これは上手く行きませんでした。
子供たち(4王子・3王女)との母子関係についていえば、支配的な強権的な母后であった事でしょう。そして第4王子アンジュー公アンリ(後のアンリ3世)を偏愛する母后でもありました。長男フランソワには腫れ物に触るように接したらしいです。この偏愛(母親の愛情の過度の不均衡)は、感情の起伏が激しく神経質な三男シャルル9世を刺激し、プロテスタントのコリニー提督を、公式の場で父上と呼ぶほど傾倒するようにさせたのかもしれません。聖バルテルミの虐殺・ヴァロワ朝の断絶の遠因になったのかも知れません。またノストラダムスの予言が的中してしまいます。

短命だったフランソワ2世

アンリ2世の崩御後、病弱な長男フランソワ2世が即位します。王妃はメアリー・スチュワート(スコットランド女王、アンリ・ド・ギーズの従姉妹、エリザベス1世の又従姉妹、つまりイギリス王位継承権を持つ立場です)。
カトリ―ヌは王妃から母后へと宮廷内の立場が変わります。そしてまだ暫くは地味な、控え目な母后でいる選択をする(フランソワ2世の治世の間)。
筆頭王族コンデ公、メアリー・スチュワートの叔父ギーズ家、その他の貴族との権力闘争・宗教戦争にも絡みません。
地味な母后カトリ―ヌは、フランソワ2世の短い治世の後、嫁のメアリー・スチュアートを故国スコットランドへ放逐してしまいます(史上最悪の犬猿の仲の嫁姑だったらしい)。
メアリー・スチュワートは、よくフランス宮廷の喪服の白い服を着用したので(義父アンリ2世、夫フランソワ2世の喪に服するため)フランス在住中は白王妃と呼ばれた。
フランソワ2世の崩御直前、名医アンブロワ-ズ・パレに開頭手術を命じなかったカトリ―ヌは、息子王を身体障害者にするのを忍び難かったのか、それとも陰でお店屋さんの娘(メディチ家)と姑を蔑称で呼ぶ生意気な嫁メアリー・スチュワートを宮廷から排除するチャンスが巡って来たとの、どちらの考えだったのか?歴史は黙して語らない。
当時、膿を出す開頭手術の成功率は高いとは言えないが、カトリ―ヌはいつ頃からフランソワ2世の崩御後を想定し始めたのでしょうか?ノストラダムスの大予言に、何か影響を受けたのでしょうか?(続く