魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

『三成の不思議なる条々』其の弐

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから再度紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

時代は、関ヶ原合戦終了から30年経過した頃(家康は死去し、本人の願い通りに神様権現さまになった頃)、筆商い文殊屋は、謎の依頼人から石田三成の縁者に面会し、三成の人となりと、関ヶ原合戦について3点を聞き出し記録してくれ、それも2カ月弱の間に仕上げてくれとの妙な依頼を引き受けます(期限内に12人に面会して、聞き書き作成の仕事です)。
文殊屋は充分な路銀と、なまなかなことでは入手出来ない天海大僧都の紹介状を懐に、江戸を出て上方(備前も含む)へ赴きます。そして江戸へ帰還し『関ヶ原合戦大名衆振舞いノ仔細』と題名をつけて、津軽藩江戸屋敷の高島忠に手渡します。本当の依頼主は死病の床にある津軽藩藩主津軽信枚で、その枕元に納められます。
余談ですが、常陸宮正仁親王妃殿下華子様は、津軽伯爵家出身です。津軽信枚の子孫ですね。

筆商い文殊屋の質問内容

筆商い商文殊屋は、江戸で4人の関ヶ原合戦の生き残り、各々黒田家(藩主黒田長政)・福島家(藩主福島正則)・前田家浪人・旧主前田利家等に仕えた人々に面会します。依頼内容は、関ヶ原合戦当時僅か20石の身代の三成が、どうして軍勢を動かすことができたのか、戦の陣立ては上手か下手か、関ヶ原合戦の道理はどちらにあったのか(家康にあったのか三成にあったのか)の3点です。なにやら徳川家支配の世の中には危ない話題ですね。

三成の容貌・人となり

各々の聞き書きが出来上がりますが、三成の容姿については、小柄でなで肩の体形の上に遠めからも見分けのつく才槌頭、目が大きく反っ歯の記述もあります。総じていえば風采の上がらない小男です。小柄で撫で肩の体格をカバーするためか、大きな声を出し、誰に対しても尊大な態度で接します。人柄は鈍感で、その場の空気も、人の情をも解さず、いつも正論を言って譲りません。今の言葉で言えば変人で頑固、古い言葉で言えば狂狷、どちらにしても褒め言葉は出ませんね。
例えば、福島家家臣の話ですが、文禄年間(1592年~1596年)に太閤秀吉が京都東山に大仏普請をしたので、家康と共に杖を手に普請の進捗具合を見分した折、三成が何かの拍子に杖を落とし、家康が腰をかがめて拾ったのに受け取った三成は礼どころか挨拶もしなかった。衆人環視の場でそれは拙い、しかしこれは、家康が三成を試したのか、逆に三成が試されたのかも知れませんね。兎も角三成は、自分は家康と同格の地位だとの思いからか、その態度をとったのかもしれないですが、いかにももう少し上手く演技したほうが身のためですね(相手は高齢者&権勢を誇る)。だから周囲に憎まれるのですが、それが解らない三成です。威勢や権威・大義名分をもって、軍勢を率いることはできたとしても、人心はついていくでしょうか?算勘に強く、記憶力がよくても、、、です(手製の物差しを作って自ら検地もしました)。

上方にて

文殊屋は、上方で、宇喜多家の元鉄砲頭・毛利家軍師安国寺恵瓊の元弟子・元田中足軽・秀吉の正妻北政所高台院に仕えた応慶尼・三成の元小姓東海屋貞吉に話を聞きます。
江戸と違い、関ヶ原合戦の道理は三成にあった(徳川は天下を盗んだ)という人もいますが、いかんせん家康の年期の入った調略には太刀打ちできない,戦の陣立てについては、関ヶ原を戦場に決めたのがせいぜいでいうところでしょうか。

応慶尼の話に出できた、三成の三女お辰の運命

10歳で父三成を失ったお辰は、高台院の厚意により養女となり、周囲には“お客人”として遇され習い事に精をだす。周囲も心得て詮索しません。ある日お辰は、「父上は何故首を討たれて、六条河原に首をさらされたのか?」と問いますが、応慶尼は「忠臣ゆえに討たれた」と答えます。その日からお辰は、針仕事や手習いや行儀作法・歌等を父親譲りの物覚えの良さをもって身に着け上臈になります(流石に治部どのの娘御よと感心されるほど精進しました)。しかしながら、2~3年後に高台院の元上臈孝蔵主を通じて(?)江戸へ下り以後音信不通になってしまいます。お辰の気持ちは誰にもわかりませんが、三成の血脈を恥じる事無く、一人で生きる姿勢には頭が下がります。また孝蔵主は曲者で、家康の回し者の説があります。実はお辰は、津軽藩津軽信枚の正室となっています。

元小姓による三成像

元小姓呉服商東海屋貞吉によると、負けて洛中を引き回されている三成が、水を所望したが無く、差し出された柿をたべなかったのは、只単に柿が嫌いなだけだったのに、見物人に不思議そうに思料され、実はお腹を壊していたらしい等の話が出来上がるのも日頃の行いですかね。食べ物にも、人間関係にも不器用で、柄のない切れ味のよい包丁みたいな存在だった三成を使いこなせるのは太閤秀吉だけだったとも話しています。
この東海屋貞吉は、妙心寺にある三成の墓参りもします。その妙心寺には三成の遺児の隼人正がいます。出家と引き換えに命永らえて修行に励んでいます(真面目さは父親譲りです)。

津軽藩津軽越中守信枚の決断と『関ヶ原合戦大名衆振舞ノ仔細』

死病と格闘する津軽越中守信枚は、自分の息のある間に次ぎの藩主を決めなければならない立場に立たされている(この頃は、既に末期養子は禁止されています。つまり後継者を越中守自身が決めないと津軽家は断絶・絶家になってしまいます)。
究極の選択です。父親の世代から付き合いがあり、道理を通して、津軽家を守ってくれた三成の孫平蔵(生母はお辰)をとるか、家康の義理の孫をとるか(生母は家康養女満天)。信枚と満天との結婚により(仲介は天海大僧都正室から側室に格下げされても文句を言わなかったお辰は、権高く嫉妬深い満天により押し込めにされて亡くなります。
その罪滅ぼしか、徳川家への抵抗か、何にしても信枚の肚は既にきまっています。更にお辰の弟の、三成の次男八郎を、密かに深味村に匿い養育します。八郎は長じて杉山源吾と名乗り、勘定方・公儀との付き合い、大名同士の付き合いまで、そつなくこなします。
陰ながらさすがに三成殿の息子よ。さすがの働きぶりだとの評価を得ます。
三成の血に賭けた、津軽越中守の目に狂いはなかったのでした。その心意気も見事ですね。道理を重んじる津軽越中守の信枚の気質と、調略をもって天下人の座についた家康とでは馬が合うわけがありません。
ともあれ筆商い文殊屋は頼まれた仕事をなしとげました。

終わりに

長くなりましたが、読んで下さりありがとうございました。
人間石田三成徳川家康の調略の巧みさ、何故関ヶ原合戦は一日で勝敗がついたのか、戦場に道理はあるのか、何を持って小早川金吾を裏切り者とするのか等に興味のある方にお薦めします。
天一