表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
はじめに
門井慶喜『家康、江戸を建てる 』(祥伝社文庫)を読了して。
1590年、北条氏滅亡(小田原征伐、北条氏照・氏政切腹)の後、太閤秀吉の命により、家康は所謂“関東移封”を行い、江戸に入府します。これは、先祖伝来の所領である三河・遠江・駿河そして自力で得た甲斐・信濃の五か国を放棄し、江戸に本拠地を移した訳です。そして移封に伴う、荒野の開拓、河川工事、統一貨幣の鋳造、水道の設営(民衆の飲料水の確保)等インフラストラクチャーの整備、そして江戸城の石垣を積み、天守閣を完成させ、徳川家の天下を示威、今日の東京の基礎となった都市の建設の物語です(余談ですが秦の始皇帝も度量衡の統一をして、国作りをしました。焚書坑儒だけではありません)。
目次を開くと、躍動的な見出しが出てきます。
- 第一章 流れを変える
- 第二章 金貨を延べる
- 第三章 飲み水を引く
- 第四書 石垣を積む
- 第五章 天守を起こす
登場人物は、自分の寿命のあるうちに、豊臣政権打倒後を視野に入れて、江戸の町作りに執念を燃やす家康。ボンクラな二代目と見る周囲の目を気にしながらも、自分らしさを失わず、父家康に出された課題をクリアーしようとする秀忠。
そして、雇われの身で、自分たちの技や腕に自信を持つ名も無き職人たちです。荒ぶる大名、伊達政宗と大久保長安も出てきます(鉱山開発、貨幣鋳造には有能でした)。
第一章 流れを変える
この章は、小田原落城近い石垣山の陣中で、秀吉と家康との“関東の連れ小便”から始まります。譜代の家臣団は、移封に後ろ向きのようですが、『吾妻鑑』を読み込んでいる家康には何か心得があるようです。いざ移封してみると、太田道灌が縄張りをした頃の面影はなく、江戸城は荒れ寺のようで、周囲は低湿地です。家康は太閤検地の実績がある直参の伊奈忠次に“江戸の地均しをせよ”と命じます。抽象的な命令なようですが、これは後に“利根川東遷事業”と呼ばれます。利根川を東へ曲げて渡良瀬川と合流させる治水工事を推進・完成させよとの命令です。家康は側近の本多政信を書記にして、伊奈忠次に3か条の誓詞を入れさせ、忠次を代官頭に任じて河川改良工事を進めさせます(家康の直轄地にして目の届くようにします)。伊奈家三代四人の男による河川改良工事の物語です。
会の川、渡良瀬川、利根川、常陸川の4つの川の混じった水で、鴻単の勝願寺の伊奈家の墓を洗う場面は感動です。お楽しみください。
第二章 金貨を延べる
1593年、家康が一年前に秀吉に立てた貨幣(小判)鋳造の願いに応えて、京都から江戸に秀吉の吹立御用(貨幣鋳造)役、後藤長乗が金工の橋本庄三郎を供に連れて、江戸に逗留し、上方から職人を呼び、工場を作り、貨幣鋳造の準備が完了します。後藤長乗は帰洛しますが(家康は京都人が嫌いです)、自分の腕に自信があり、後藤家家人のままでは終わらない野心を持つ橋本庄三郎が挑んだ貨幣戦争(秀吉の方が小判を作るのが速かったが、正確さ緻密さでは家康に軍配が上がる)、坪量貨幣から計数貨幣への過度期の貨幣史を楽しめます。
有能な官僚の大久保長安も出てきます。秀吉の晩年から関ヶ原合戦まで、時代の波をかいくぐり、自重しながら、貨幣鋳造に執念を燃やす橋本庄三郎と後藤長乗との養子縁組を巡る駆け引き、関ヶ原合戦以後の貨幣鋳造の主導権を握るための高札をめぐる攻防(家康の指示)等読みどころ満載です。
当時の貨幣の種類、身分制度など少しわかりにくいかも知れませんが、貨幣界の関ヶ原合戦、お楽しみください。
第三章 飲み水を引く
1590年の家康入府に際して、利水工事の構想を練ります。当時の江戸の水は潮辛くて、飲料水には適しません。そこで、お菓子作りの得意な三河以来の家臣、大久保藤五郎に喫緊の課題として、湧き水の出る箇所を探索せよと命じます。この大久保藤五郎は、自分は馬上のまま、家康を見下したまま会話をする凄い奴です。1603年、朝廷工作が一段落した家康は、鷹狩に出た折、地下水を含む関東ロ-ム層に注目し、地元の百姓(名主)内田六次郎に「七井の池」まで案内させ、実際に六治郎の家に行き、茶を飲み、菓子を食べてみてから、六治郎を上水普請役に任命します。六次郎の主な仕事は近在の百姓たちに上水普請の協力を取り付ける事と、水源の管理と、初歩的な水路の開削の技術者の手配などです。
そうなると、かつて家康から先に江戸の利水を任されて、開渠式で成果を上げた藤五郎の気持ちは収まらず、六治郎とお互いに「この菓子司が」「この百姓上がりが」と激しく対立することとなります(藤五郎は、家康と上水普請役は自分一人の確約を得ています)。
しかしながら、江戸の人口が増え、山の手にある武家屋敷にまで上水を引くころになると、工事の方法もより専門的になり、機材や技術者も必要となってきます。六次郎と藤五郎の手には負えなくなり、徳川家の上級家臣、安部正之配下の春日与右衛門(土木実務者)が途中参加してきます。この春日与右衛門は伝手を頼り、用水奉行や、伊奈忠次から有能な熟練労働者を借ります。上水工事は素人から専門家による開発へと段階が変わりました。そうして、後の神田上水が出来上がりました。春日右衛門は、水量調節の失敗を乗り越えて、長い年月をかけて大洗堰を完成させます。その胸に去来する思いとは?藤五郎と六次郎は上水普請から手を引いた後は、憑き物が落ちたように和解します。東京の地名の由来なども出てきますよ。頑固な三河武士もよい人がわりをすることがあります。
第四書 石垣を積む
伊豆の臨済宗・永長寺の枯山水の庭石を切り出した通称“見えすき五平”が驕慢な大久保長安に呼び出され、江戸城の石垣の普請を命じられます。“唐・天竺・えすぱにあにも、千代田の名を轟かす石垣を作れ”との下命です。当時の江戸城の内濠・外濠は約五里(二十キロ)に及び、約十万個の石が必要です。伊豆の石を切り出し、石垣に使えるよう加工し、船に乗せて江戸迄運ぶ現場監督の仕事です。家康が江戸城お手伝い令を発布したことから、伊豆半島は大規模開発地帯となり、石切りバブルが起こる頃には、目ぼしい石も無くなったので、大久保長安に願い出て、山師となり、天城火山群の中に目指す壁面をみつけます。この壁面を石丁場にするための苦闘が始まります。丁寧な仕事をするために資金不足に陥った五平は、伊達政宗を頼り、四千両と引き換えに雇われの身になります。そして単身江戸へ赴き、伊達家担当の江戸城大手門の普請場で、もう一人の“見えすき”(石の内部構造が肉眼で見通せる)喜三太と競いながら、江戸城大手門の枡形の正面の石垣に鏡石と呼ばれる石を積み込む(城を守る象徴)。喜三太は五平の願いを叶えるべく、天城山で五平が一生に一度出会える石を鏡石に使うように伊達家に上申し、伊達家は許可をだします。五平の寿命のあるうちに完成するのでしょうか?藤堂高虎なども出てきます。
第五章 天守を起こす
秀忠が征夷大将軍を継いだ頃の話です。江戸城は完成までの道のりが見えてきたころ、仕上げの天守閣をどう作るか?の物語です。泰平の時代を象徴する新しい天守閣は、安土城や大阪城の天守閣のようであってはなりません。今までにない天守閣をつくらなければなりません。どのような天下人の普請になるのでしょうか?
家康のもとで、大工頭を務める中井正清は、藤堂高虎から図面を受け取るなり、悩みます。
大阪城や聚楽第、鐘の事件で有名な方広寺の作事の責任者だった正清は、何に面妖さを感じとったのでしょうか?家康の江戸城普請は、大名に金を使わせ、忠誠心を試す意味で天守閣が必要です。ではなぜ天守閣の外壁を白壁にしなければならないのでしょうか?
父家康が白壁に拘る理由は?答えは秀忠自身で見つけ出すしかないのです。それを見つけられれば、秀忠自身が江戸城建設の総責任者となり、初めて江戸城の主・征夷大将軍として、世の中に、庶民目線から認められることになるのです。悩んだ秀忠は変装して、一人で漆喰の工事現場に出かけたりします。秀忠の奮闘をお楽しみください。
終わりに
1590年~1620年頃の時間軸を前後しながら、最初は太閤秀吉の命に従い、振り当てられた江戸を“地均し”する話から、貨幣戦争を経て、関ヶ原合戦の後は江戸城建設の話(家康は豊臣家の反撃?を心配して一刻も速く江戸城を完成させたかったらしい)、仕上げの天守閣の話、年老いて自分の死後を考える家康の話等、お楽しみください。
巨大都市をつくる話なので、分かりにくいかも知れません。2019年1月2日~3日にかけて放送されたNHK正月時代劇『家康、江戸を建てる』(前編~水を制す・後編~金貨の町)を参考にして戴ければ幸いです。
一天一笑