魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

伊東潤『峠越え』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


伊東潤『峠越え』(講談社)を読了して。
徳川家康の有名な遺訓“人生は重き荷を負いて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なし。怒りは敵と思え“の基礎を作る一端となったと推定される出来事を描いています。家康は当時39歳か41歳です。武将人生前半の正念場となった「峠越え」をお楽しみください。

何故峠越えをするのか

具体的には、1582年6月、同盟相手の織田信長の執拗な求めに応じて、京都・堺を訪れていた徳川家康にまさかの椿事が起こります。そうです。本能寺の変が勃発し、織田信長及び長男信忠が自刃しました。
これによって、日本は無政府状態に陥ります。家康は何としても領国の三河岡崎城)まで、落ち武者狩りに遭わないように生還しなければなりません。しかも幹線路の東海道は、明智勢に抑えられています。なので、家康一行は、堺から、白子松浦(現在の三重県鈴鹿市白子)まで約130㎞、峻厳な伊賀越えに挑むことになります。信長に就けられた饗応役・案内役の近習長谷川秀一がいるとはいえ、土地勘の無い、山賊が珍しくない伊賀山中を無事に越えられるでしょうか?

一行の面々

家康一行のメンバーは、家老で小言の多い酒井忠次、長い顎を持つ傅役の石川数正、鬼作左の異名を持つ本田重次、“蜻蛉切”の武辺者本田忠勝、後に徳川四天王と言われる働きをする井伊直政、そして伊賀出身で、常に家康の先触れや斥候をする服部半蔵等々です。以上が主な家臣団です。彼らは、家康に仕えながらも遠慮のない口をききます。三河武士は皮肉を言っても、お世辞は殆ど言いません。後に三河譜代衆として活躍しますが、それは又別の話です。
又忘れてならないのは、家康に同行している呉服商初代茶屋四郎次郎清延です。この茶屋四郎次郎は、地獄の沙汰も金次第を地で行く遣り手商人です。商人ならではの方法として、金銭と、家康一行に必要な情報・食料・休憩場所を交換?します。その金のばら撒きかたは半端ないです。兎に角今日がなければ明日もない状況で、ある意味投資している家康に討ち死にされたら元も子もなくなる訳ですから、途中離脱して追加の金を受け取ると、直ぐ合流します。
余談ですが、後年家康の死を誘発したとされる鯛の天婦羅を献上したのは、3代目茶屋四郎次郎清次です。清次はさぞ肝を冷やしたでしょうね。
それと問題の男、旧武田家家臣穴山信君(梅雪斎不白)一行約40人が加わります。家康一行の人数は100人以上です。徳川家康穴山信君一行総勢150人弱、果たして何人が生き残って、白子へ到着し、航路岡崎城へ無事生還出来るのでしょうか?かなりの損耗率が見込まれます。
おまけに、穴山信君は武田家親類衆筆頭(母は信玄姉、正室は信玄3女)の立場ゆえに、最初に諏訪家を継いだ四郎勝頼が、武田宗家を継ぐ事を心よく思わず、武田家の獅子身中の虫となった人物です。自分が生き残るためには、人を裏切るのは朝飯前の上に、武田家の宿敵であった織田信長に対して、涙ぐましい、浅ましいまでのご機嫌とりをし、そのポチぶりを発揮します。まあこんな人にあっては、家康でなくてもかないませんね。穴山信君は、伊賀越え途中で、家康と袂を分かちますが、果たして領国の甲斐までたどり着けたでしょうか?

家康の回想

そしてこれらの事情を背景に伊賀越えが進む中で、家康の心の中の回想場面も各々進みます。
最初は、今川義元の軍師で、今川氏真正室築山殿とは従兄妹)と徳川家康の師匠太源雪斎の臨終の場面から始まります。「竹千代、お前はいかにも凡庸だ。だからこそ切所を見極め後悔の無いように生きろ」が遺言です。ウマの合わない師匠でも、家康の肚には応えます。
そこから、桶狭間の戦いの知られてはいけないカラクリ、三方ヶ原の戦いでの平手汎秀の戦死の真相、正室築山殿斬殺(今川義元の姪)、嫡子信康(正室織田信長娘徳姫)の自刃事件等々。
一番肝心なのは、これも世の中に流布されては拙い本能寺の変の真相です。実は明智光秀による信長弑逆ではなく、信長の指示による計画的な家康謀殺未遂事件だった。鯛の刺身が腐っていたと、明智光秀を大勢の面前で執拗にボコボコにして、饗応役を解任し、備中にいる秀吉の応援部隊として出陣させる。その兵力を家康に向け、家康は偶然本能寺に居合わせた信長の巻き添えになったとして、討ち取る筋書きでした(信長は先に脱出)。
何故信長は、そうまでして家康の命を狙うのでしょうか?

切腹の支度は大変

伊賀越えの途中、家康は幾度か、もう逃げきれないから切腹の支度をと家臣に催促するのですが、その都度切腹の支度ができないと家臣たちに断られます(武将には何時如何なる場合も切腹の作法が求められるらしい、詭弁であっても)。ならば、無事生還することが、家康を守って死んでいった家臣たちへの供養にもなります。三河武士これにありの心意気ですね。白子で船上の人となった家康の胸に去来するものは?

長くなりましたが、桶狭間合戦本能寺の変、家康の前半生に興味のある方にお薦めします。
冒頭の家康公遺訓は、ウィキペディアを参考に一部抜粋しました。余談ですが、東海地方出身の筆者は、昔祖父にこの遺訓を基に長い説教をされた事がありました。恐らく私たち兄弟姉妹皆に共通している、短気な気性を心配してのことだったかと、今は懐かしく思い出します。
天一

峠越え (講談社文庫)

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