魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

永岡慶之助『数寄の織部』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

永岡慶之助『数寄の織部』(PHP文庫)を読了して。
この小説は、戦国時代後期に豊臣秀吉千利休の知遇を得て、武将としても茶人としても活躍した古田織部の一代記です。千利休の門人の中でも、優れた“利休七哲”の一人として活躍しました。美濃の国人古田重安の一族として生まれ、幼名は左介と名付けられる。幼少期から乗馬をよくして、美濃の自然に馴染む。母親と経験した蛍狩りが強烈な記憶として残ったらしい。

信長に仕える

信長の命を受けた佐原勘解由(元美濃守護・土岐頼芸の老臣、古田家と同じく土岐家)の仲介により信長に出仕することになる(かの明智光秀も土岐家の血族です)。
この時期の信長は、桶狭間の合戦で今川義元を屠って以後まさに日の出の勢いですが、また武力を使わずに東海地方の武将を引き抜きたい時期でもありました(縁故就職ですかね?)。とまれ、古田左介として、播磨戦線や有岡城荒木村重追放等に活躍し、主君信長から千利休について茶道を学ぶ事を許されます。また信長の入京にも供をして、権力者信長に豪商や部下たちが差し出した名物茶器の桃底花入・初花の肩衝(茶入)・富士茄子の茶入等を直接見る機会にも恵まれるのです(余談ですが、豪商大文字屋宗観の差し出た初花には、中国古代、かの楊貴妃が香油を入れたとの伝承があります)。その他の天下の名物茶器は殆ど信長のものになりました。信長は名物茶器収集にも執念を燃やします。
ここで左介の頭に一つの考えが浮かびます。部下たちを競わせ奮闘させる為の道具ではないのだろうか?即ち名物・名器を信長自ら下賜することに意味があるのではないだろうか(恩賞として知行地をあたえるかわりに)。しかし、朝廷の勅許を得て、有名な伽羅の香木蘭奢待を一寸八分切り取り、そのまた細切れを今井宗久千宗易(利休)の2名に与えた。これは両名の茶の湯の道を切り開いた事に対する褒美である、ちゃんと茶の湯の事も考えていると安心します(文化振興策ですかね?茶人にとってはこの上ない栄誉です)。
古田織部は、小姓の森蘭丸とも同郷で馬が合ったようです。

本能寺の変以後の話

天正10年、織田信長・信忠父子が本能寺の変で斃れると(このとき、信長末弟の織田有楽斎は、恥も外聞もなく女装して逃げた)、その後明智光秀を屠った豊臣秀吉は、日の出の勢いです。関白となった秀吉により、従五位下織部正に叙せられる。領地も与えられる。正式な名前は、従五位下織部正重然となります。古田織部は、信長という重り(漬物石?)の外れた複雑且つ微妙な人間関係の中を生きていくことにならざるを得ません(徳川家康にも油断なりません)。この時点で既に、乗馬しながら移動する武将と、屋内を活躍の場とする茶人の空間感覚の違いから茶室の広さについて、不協和音が起こっています。茶堂に対する思い入れも、必要度も大いに違うのでしょうね。聡い石田三成は、情に引きずられないように忠告します(三成意外と"いい奴”だ)。

天正19年利休切腹、秀吉病死する

利休は、関白秀吉より堺の自宅に蟄居謹慎せよとの命令が下される(京都から追放)。利休の周囲は潮が引いたように誰も居なくなる。船の発着地(淀納所)から利休を見送るのは只2人細川忠興古田織部(当時48歳)です。この半月後利休は従容と切腹する。
利休に切腹させるだけでは気が済まない秀吉は、利休の木像を引きずり降ろして磔刑にしたり、首をさらさせたりもはや正気とは思われません。
そうこうしているうちに、何事にも心利く羽柴秀長が病死し、秀吉もこの世に未練を残しながらも死亡、前田利家も病死する。そうなると織部周囲のパワー・バランスが崩れて来ます。徳川家康も不気味な動きを見せます。そうです、関ヶ原合戦に突入せざるを得ません。
茶人武士として誰に仕えるかは生死を賭けた人生の大問題です。
天下の趨勢が決まった後は、関ヶ原合戦は僅か一日で勝敗が決します。古田織部は、それまでの経緯から東軍に属します。
戦よりは、名実ともに利休の後継者として茶道の第一人者として忙しい日々を過します。
壮絶な切腹を遂げた師匠利休を超えて、織部ならではの茶道を完成させるべく励みます。
家督を譲り隠居の身の上ですが、忙しいので、木村宗喜を家宰に雇入れます(これが後で災難を呼ぶ)。1610年、京都所司代板倉伊賀の守勝重(駒姫や一の台を捕縛した役人)を通じて、将軍勅命による江戸参府が伝達されます。将軍家茶の湯指南役に推挙されたのです。断ることはできません。

織部茶の湯界の頂点を極める

1612年織部は茶道界の中心人物としての地位を確立します。
茶の湯や、小堀遠州とはまた違う庭を造り、後世“織部好み”と言われる美濃焼を誕生させます。家康とも面会する機会を得ます。この頃の家康は、「武家諸法度」や「寺院法度等を創案している、まさに岩井三四二の『家康の遠き道』を踏み出します(公に豊臣家滅亡をトレースします)。何やら、古田織部の周辺もざわついてきました。このタイミングで、家宰の木村宗喜が、大阪城豊臣方の大野修理治長(淀殿の乳兄弟)と頻繁に会食したりします。
1613年織部は将軍家新年の茶会の茶頭を務め、彼の式正織部流茶法は武家茶の湯として揺ぎ無き権威を持ちます。茶の湯の頂点を極めれば後はどうなる?師匠利休の死にざまが思い出されます。時流を読めない淀殿・秀頼母子の立てこもる大坂城。そして溢れる関ヶ原合戦以降無宿に近い浪人たち。人生の仕上げに豊臣家を滅ぼそうとの家康の執念。
茶人武将古田織部は、己の信じる道を進みます。どの様な結末が待ち受けていようとも。

伊達政宗のかぶき姿、伊達鉄砲隊の活躍、荒木村重の平蜘蛛の茶釜、剣豪将軍と謳われた足利義輝の最期(塚原卜伝の弟子、新陰流も使う。辞世の句も詠む)、真田昌幸・信繁・信行の家の存続をかけた“真田化け札”の真骨頂、片桐且元の不器用な調略等、戦国時代ならではの読み物です。
戦国時代に興味のある方、茶道に興味のある方にお薦めします。
天一

数奇(すき)の織部(おりべ) (PHP文芸文庫)

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