表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
仁志耕一郎『家康の遺言』(講談社)を読了して。
『松姫はゆく』などで骨太な筆致と細やかな人情の描写に定評のある仁志耕一郎が、死病と戦いながら来し方を回想する家康を描きます。
本書は「逢坂の難関」「不死身の月」「二人の半蔵」「千の貝合わせ」そして「家康の遺言」の5編の中・短編からなっています。
「逢坂の難関」
1584年頃、伏見城を目指す道中の元徳川家家老・石川数正の心中を、有名な小倉百人一首の蝉丸の“これやこの”の歌になぞらえて描き出した短編です。
天下の定まらない情勢にあって、人質時代から常に伊賀越えの時も近習していた(両親よりも長い時間を共有した)主君家康や、松平家中・三河武士団と別れ、五十歳を過ぎた数正は徳川家から豊臣家への主替えの茨の道を歩みます。しかも三河衆には、人たらしの秀吉が本領を発揮した結果の数正の転職の目的も見当がつきません。当然裏切り者扱いになります。世間の嫌がらせの落首もあります。ただ権謀術数に長けた家康だけは事の是非を理解するのでしょうか?
つまり、徳川家の内情を知悉している数正を豊臣家に置くことだけで徳川家を牽制することになるのです。数正が徳川と豊臣の直接対決を避ける緩衝材の役目を果たしています。
数正は、松本への転封(事実上の隠居)を受け入れて、松本城を築城します。
落馬による骨折をして、文字どおりに用済みになった数正に、ある日家康から丁寧に折りたたまれた白紙の書状と酒と河豚が届けられます。果たして数正のとる道は?家康の思いは?お楽しみください。
「不死身の月」
この短編は彦右衛門こと鳥居元忠が登場します。家康が松平竹千代と名乗っていた頃からの主従関係です。当然人質時代も近習として家康に仕えていました。彼此五十年以上の付き合いでしょうかね。家康の大きな負け戦、三方ヶ原の戦いでも一緒でした。戦死者2千人。
鳥居元忠が何故”三河武士の鑑“と呼ばれるようになったのか?1600年家康討伐軍の石田三成4万の軍勢に対し僅か2000人の総大将として討ち死にしたからです。13日間の攻防戦の末、伏見城は落城します(上杉征伐に向かっている家康を助けるためにより長く持ちこたえるのが使命)。一ヶ月半後の関ヶ原合戦の前哨戦ですね。
松平家忠や松平近正など徳川一門の隠居組も忠義を尽くし、伏見城で討ち死にします。家康のすることに無駄はありません。又”三河武士鑑“の鳥居元忠は自分の首に高値を付けたとも言えます。事実嫡子忠政は磐城平藩10万石を振り出しに、山形藩24万石の藩主になりました。徳川家忠は家康に諮られたと怨んで死んでいったという話もあります。大御所と奉られながらも長生きした故に落魄の心情を語る家康の独白をお楽しみください。
「二人の半蔵」
家康と同い年で、服部半蔵正成と共に「槍の半蔵」と並び称され、徳川家中では「二つの香車」と呼ばれた槍の名手渡辺半蔵守綱の物語です。槍使いとしては同時代に<蜻蛉切>を携え、単騎掛けをする本田忠勝の方が有名ではありました。鳥居元忠は前田玄以からの伏見城受け取りに出てきます。守綱は裃半袴の姿で、露払い出迎えの役目を果たします。対面の際に家康から名物<松花>を下賜されます。家臣を将棋の駒になぞらえて無駄な駒はないと言う、その真意は何か?自分の年齢と時局を考慮しての答えは何か?半蔵も成香の駒になったのか?
帰宅すると、珍客羽織袴姿の古田織部が床の間に飾られた<松花>の前で2時間程正座しているという、しかも今日で三日目という。茶の湯の話をして歪んだ織部焼を土産に帰っていった。戦の無い、泰平の世になった後の身の処し方は?利休の「人は違うことをされよ」の意味は?家康から預けられたものは命懸けで守ることの意味とは?
「千の貝合わせ」
1614年大坂冬の陣の翌年、大坂夏の陣が舞台です。砲撃され揺らぐ天守閣から物語が始まります。登場人物は大蔵局、刑部卿局(淀の方の異母妹)、千姫の女性陣に加え、敵味方に分かれる浅井三姉妹のお茶々(淀殿)・お初(常高院)・お江(秀忠の正室)、徳川家康秀忠父子、真田信繁幸昌父子、大野治長・治房兄弟。
1600年の関ヶ原合戦の後、じりじりと衰退してゆく豊臣家の状況。この大坂城を家康の好きにはさせぬと焦る淀の方。自分は豊臣家の人か徳川家の人質なのかわからない千姫。太閤の遺志の枷から逃れられない秀頼。対する家康と比較されながらも天下を平定する確固たる意志を持つ秀忠。大坂方の長姉と徳川方の次姉に挟まれ和睦を願い使者に立つ常高院。最悪の事態を前に武家の作法に則り、正室千姫と侍女達に護衛をつけて送り戻しを決行する秀頼。秀頼母子に家康の助命嘆願を約束する千姫。千姫一行を預かる坂崎出羽守。
巨人と蟻の戦を模索する武将たち。お楽しみください。
「家康の遺言」
1616年1月21日、後顧の憂いが無くなり、息子たち(徳川頼信、水戸頼房)と鷹狩を楽しみ、夕餉に三代目茶屋四郎次郎献上の鯛の天婦羅を平らげた家康が夜更けに悪夢を見ます。
悪夢では家康と複雑な因縁を持つ真田信繁が家康に引導を渡し来たと言い、真田紐を家康の腹部(胃にあるシコリの部分)に括り付ける。それは淀殿をはじめ、家康に恨みを持っている人物の手に繋がっているらしい。紐が曳かれるたびに家康は胃癌末期?の激痛に苦しむ設定です。自分の寿命を悟った家康が周囲に何を言い残すのか?家康ご自慢のお手製の薬、万病丹と銀液丹は効能があるのか?真田紐を曳くのは、最初の正室築山殿、淀殿、浜松城下で会った織田信長。家康は夢の中で彼らとどの様な会話をするのでしょうか?百姓姿の秀吉は茶々を側室にするべきではなかったと泣きます。家康の気力を削ぐのが目的か?
伊達政宗(六男松平忠輝の岳父)が見舞いに来ます。家康は二人きりの面会を希望し、政宗に対し忠輝に天下取りの野望を焚き付けないよう念を押します。蟄居の松平忠輝がこっそり見舞いに来ますが親子の情より、天下の政道を重んじる家康は会いません。代わりに<乃可勢>と呼ばれる天下人の笛を渡すように指示します。父家康の心は忠輝に通じるのでしょうか?
更に侍医の片山宗哲を諏訪に流しますが、これは家康の死の責任を取らせない為の措置なので、秀忠に言い含めて2年程で駿府に戻せと指示します。家康の本復を願って加持祈禱をさせている茶屋四郎次郎を咎めてはならぬと言い残します。現在の将軍の秀忠には<貞観政要>を読み込むように勧めます。念には念を入れるが人生訓の家康は何時でも忙しいです。
夢の中で、秀吉が曳く真田紐を本田忠勝が蜻蛉切で切ります。周囲には鳥居元忠や井伊直政、石川数正、瀬名(築山御前)と長男の信康母子、次男結城秀康の姿が見えます。
彼らは誰を迎えに来たのでしょうか?
長くなりましたが、安土桃山時代全般に興味のある方、薬剤師顔負けの家康の姿や「しかみ像」を生んだ三方ヶ原の戦いに興味のある方、勿論伊達政宗をはじめとする武将に興味のある方にお薦めします。
一天一笑