一天一笑さんによる葉室麟の歴史小説『墨龍賦』の紹介記事、第六回目となります。一天一笑さん、どうかよろしくお願いいたします。
春日局は語る⑬石田三成に帯同、恵瓊と再会
1598年、石田三成が九州に赴く際、友松は同行を許されます。絵師としての地位を確立するため、石田三成の知遇を得る狙いもあったと思います。道中、瀬戸内辺りで、建仁寺再興に奔走する恵瓊に会いに行きます。
久しぶりに会う友松から、再会の挨拶もそこそこに、建仁寺再興に当たっての襖絵や障壁画を自分に描かせてくれと頼まれた恵瓊は、頭を垂れて懇願する友松の姿に仰天します。
「昔の友松殿の気性なら、そうはなさならかったでしょう」
「そうでしたかな?」
恵瓊は尚も言います。「絵師と言いながら武辺者でおられましたからな。そう、明智光秀殿の重臣、斎藤内蔵助殿の遺骸を奪って秘密裏に葬られたのは友松殿との噂も、伝え聞いておりますよ」
友松は、穏やかに笑うばかりでした。
恵瓊は建仁寺の絵を友松が描く事を即刻承知します。それは、自分が秀吉に気に入られ、6万石の大名に出世したのは、友松が帰蝶御前に書状を渡したのが始まりだと良く知っているからです。友松はそれについても、何も言いません。
友松は、建仁寺の絵を描くことに没頭します。数ヶ月後、絵を見た恵瓊は目を見張ります。
建仁寺の方丈を飾る絵には、水墨画の「竹林七賢図」「山水画」が配置されていました。それだけではなく、方丈の東側玄関に最も近い位置にある、下間二の間に描かれた「雲龍図」には、並々ならぬ迫力が感じられます。八面の襖の中に対峙する阿吽二形の蒼龍です。墨の濃淡を巧みに使い分けながらも、見る人を圧倒せずには置かない絵です。
恵瓊は思わず友松に、「真に見事だ。しかし、何となく懐かしく思えるのは何故だろう?」
友松は言います。「それは、かつて恵瓊殿が会われたことがあるからと存じます」
恵瓊は尋ねます。「会ったことがあるとは、どういうことなのかな?」
友松は、「雲龍図」を見つめて言います。「私はこの絵に武人の魂を込めました。ならば、恵瓊殿は今まで会われた武人、例えば山中鹿之助・清水宗治殿を思い出されたのはないのでしょうか」
今度は恵瓊が口を開きます。「ならば、友松殿がこの蒼龍の絵に込めた武人の魂とは、
明智光秀と斎藤内蔵助ですね。私が再建しようとしている建仁寺の襖絵に、主殺しの大罪人の魂を込めるとは、困ったことをされる人だ」
「私は明智様を大罪人ではなく、魔王信長からこの世を救った正義の武人と思っております」
「それゆえ、この寺に二人の魂を留めて置こうというのですね」
「いけませんか」
「いかんと言っても、もはや描いてしまったものは、如何ともし難い」
この会話の最中、友松はずっと微笑んでいました。恵瓊も可笑しそうに微笑んでいます。
友松は更に続けます。「私は絵とは人の魂を込めるものであると思います。どの様な権力者でも、人の魂を変えることはできません。絵に魂を込めたなら、変えることのできなかった魂を、後世の人は見ることになりましょう」
恵瓊の目には、墨で描かれた蒼龍が、今にも襖を破り、天に駆け昇っていくように見えました。
この「雲龍図」をあの世の永徳は、どう思ったのでしょうか?憎まれ口を叩くか、友松自身の絵を見つけたと、よくやったと褒めるでしょう?
又恵瓊の眼力と胆力・腹黒さは見上げたものですが、それゆえ6万石の大名に出世し、やがて京都六条河原で処刑される運命に殉じます。
春日局は語る⑭ 遅い結婚と絵師としての開眼
時間が前後しますが、1596年、海北友松は64歳で結婚をしています。相手の名前は清月で、まだ二十代です。近江浅井家に仕えた武士の娘で、友松とは遠縁にあたります。両親を亡くして狩野派の絵を学ぶために京都に出てきたところ、友松と縁がありました。
2年後には長男(後の友雪)にも恵まれます。祖父と孫の年齢差ですね。
恵瓊の伝手で、友松が建仁寺に「雲龍図」をはじめ、「花鳥図」「竹林七賢図」「山水図」「琴棋書画図」等を精力的に描いたのは1599年です。
この時、建仁寺の方丈や本坊に描かれた障壁画は約50点、周辺塔頭や末寺も含めると100点にのぼります。いずれも傑作揃いですが、中でも「松に孔雀図」は高評価を得ました。
孔雀も松も墨一色で描きながらも華やかな色彩を見る人に感じさせる、「墨は五彩を兼ねる」との水墨画の神髄を友松は会得していたのです。この時67歳。本格的な絵師としての活躍が、この頃からはじまります。やがて、墨を生かしながら、気迫を込めて描く画風は「友松様」と呼ばれるまでになりました。やっと友松独自の境地に達しました。
春日局は語る⑮秀吉病没後の世の中と恵瓊の動き
1598年8月、太閤秀吉はこの世に未練を残しながら(茶々や秀頼の行く末を心配しながら)この世を去ります。これを機に、徳川家康対五奉行(石田三成・増田長盛・長束正家・浅野長政・前田玄以)の関係悪化が進んでいきます。不倶戴天の様相を呈してきます。
秀吉により関東に移封させられた家康は、着々と実力をつけています。詳しくは門井慶喜『家康、江戸を建てる』をご参照いただければ幸いです。
才子の石田三成は、家康を倒すためには西国の大大名、毛利輝元を味方につけることが肝心と考えます。そこで石田三成と毛利輝元を結ぶ為に、安国寺恵瓊が暗躍します。この頃61歳の恵瓊は、南禅寺・東福寺の住持となり、更に明征伐により6万石の大名に出世しました。意気軒昂で、自分はまだ人を動かせる力を持っていると信じています。
恵瓊は、石田三成の居城佐和山城で、大谷吉継同席の会談を重ねた結果、毛利輝元の大坂城西の丸入りを実現します。恵瓊の腹は、家康(東軍)と三成等(西軍)の対立(関ヶ原合戦)に 乗じて毛利家が天下を掌握するチャンスを掴み、自分は軍師として辣腕を振るう野望を持っています。実は家康には勝てないとの意見の吉川広家(吉川元春家督相続人)とは意見が合わず、毛利家は以前ほど一枚岩ではないのが現状ですが、過去の実績に自信がある恵瓊には、時流が読めませんでした。 案の定、広家は黒田長政を仲介に、家康へ密使を遣わして、毛利輝元は大坂城を動かず、三成には合力せず(三成は美濃路から大垣城に入る)、全ては“安国寺一人之才覚”として、責任を恵瓊に負わせます。
家康は軍を率いて東上してきます。 数多くの戦場を踏んだ恵瓊は、輝元が大坂城を出ない以上、関ヶ原合戦の勝ち目はないと判断し、せっかく毛利家のために天下取りのチャンスを整えたのに、どうしてわからないのだと歯ぎしりしながらも、さっさと諦め、美濃・南宮山の陣から逃亡します( 関ヶ原合戦については岩井三四二『三成の不思議なる条々』をご参照ください)。(つづく)