魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ポール・ヴァレリー著『コロナ/コロニラ』

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ライナー・マリア・リルケ(左)と談笑するポール・ヴァレリー。中央に写っているのはヴァレリーの胸像です。

痴漢行為と癇癪玉の破裂とが、わが老年期の慰めに、
不可欠のものとなりつつあるのを見て、君らはぞっとしている。
若いころは、こんな難病ではなかったのだ。
私を歌へと駆り立てるものが、他にあるか?
(W.B.イエーツ「拍車」)

ポール・ヴァレリー著『コロナ/コロニラ』(松田浩則中井久夫共訳、みすず書房、2010年6月)を読む。
「まさか」というか、「やはり」というか、ヴァレリーの死後60年以上も経ってこんな本が出版されたという事実とその内容に、あらためて唖然呆然、と言ったところです。この一時は「ヨーロッパ最高の知性」と讃えられた栄誉の人、20世紀フランスを代表する大詩人にして大思想家が、1945年に74歳で亡くなる少し前まで、30歳以上も年下の女性に対して膨大な数の恋愛詩を書き送っていた。それが今回公表されただけでなく、その一部がこうして日本語に翻訳されて、言わばユーラシア大陸の端から端までこの醜聞が伝わってしまったわけで、ヴァレリーの霊は草葉のかげでさぞかし苦しんでいることだろうと思います。

ヴァレリーの輝かしいキャリアについては、ウィキペディア等の記事をご参照下さい。ヴァレリーは、日本では詩人としてよりも、批評家あるいは思想家として高く評価されてまいりました。その思想をひとことで言い表わすとなると大変ですが、まず「分析の極限を目指す」とする知性最優先の方針と、正確・明晰を重んじる反デュオニュソス的態度、ということになりましょうか。彼が若いころに選択したこの生き様がいちばん鮮やかに表現されているのが「テスト氏との一夜」と題された短編小説、というか小話で、そこでは「知性」の鍛錬に全身全霊を捧げたひとりの男性が、都会の片隅で、誰からも顧みられることなく、ただ自分だけの難問の解決に呻吟している姿が描かれております。このテスト氏(「頭脳氏」の意)なる人物が、オーギュスト・デュパンとか、シャーロック・ホームズなどのいわゆる「安楽椅子型探偵」と血縁があるのはわりと見やすいのですが、ただ新聞とか警察とか殺人事件とか、大衆のよろこびそうな小道具はすべて殺ぎ落とされております。
私もそうでしたが、この「テスト氏との一夜」を含むテスト氏シリーズを読んだ人は、「この作者は恋愛なんかしない人じゃかな」という印象を、何となく抱くのではないかと思います。それがそうでもなかったらしいとわかってきたのは、本当のところは、彼の死後ですね。

あっ、きみの両手だ。ひんやりとさわやか、花びらのよう。
ぼくの額には断然これ、他のどんな冠ももう考えられない。
私の精神も明晰だったはずが、さすが「愛」に包まれると、
涙のみなもとの優しい影に惑乱するよ。

きみの胸乳の奥からの熱を呼吸すると、
こころはただもう、大きなしあわせの溢れに身をゆだねるばかり、
きみの眼差しが指し示す、やわらかな行き先のご褒美に比べれば、
名誉なんぞは場ちがいのふしあわせでしかない。

こんな調子の詩を70歳の老人が山ほど書き貯めていた事実は、わりと早くから知られていたらしい。ただこれを送られた相手の女が遂にこれを売り飛ばし、いよいよ陽の目を見ようかという段階に立ち至った時、ヴァレリーの子どもたちが出版に猛反対したのは当然のことでした。

フランス第三共和制を代表する作家、知識人として、ド・ゴールの強い意志によって国葬をもって遇された父の栄誉を、こうした出版が著しく汚す恐れがあると彼らが考えたとしても不思議ではない。きわめて私的な書類を興味本位に扱って、面白おかしく語ろうとする輩はどの世界にもいるものであり、そうした恐れがヴァレリーの遺族を動かしたということは、十分理解できることではある。しかし彼らは、草稿の落札者にも厳しい条件をつけて、その慎重な管理を要求したために、長年にわたって、その草稿に基づいた真摯な研究でさえも、事実上、制限さらには封印されてしまうことになった。(松田浩則ヴァレリーあるいは黄昏時の優しさ」)

上の文章は、この本の前書き代わりに編訳者の一人が附した文章の一節ですが、私は大いに疑問に感じます。「きわめて私的な書類を興味本位に扱って、面白おかしく語ろうとする」ことと、「その草稿に基づいた真摯な研究」との間の線引きは、いったいどのように考えられているのでしょうか。「真摯な研究」と言いますが、学者らによって世間一般に「真摯」に行なわれている「文学研究」とか「作家研究」とか言われているものに対して、ヴァレリーがどれほど懐疑的であったか、思い出してもみないのでしょうか。原詩で読めるフランス人はまだしも、この本しか鑑賞の手がかりのないわれわれ一般の日本の読者は、ここに収録されたようなリズムもなければ韻もない訳詩からは、原詩の美しさを想像する手立てもない以上、「きわめて私的な書類を興味本位に扱って、面白おかしく語ろうとする輩」と同じ読み方、要するに週刊誌で有名人のスキャンダルを読み飛ばすのと同じような読み方しかしようがありません。これが「真摯な」学者らによる「真摯な」研究の成果というわけです。

亡くなるわずか三ヶ月前、相手の女から一方的に別れを告げられたヴァレリーは、このように書き遺しているそうです。

これらの詩篇を書いてしまったことを、私は恥ずかしいと思う。まちがいを犯してしまったのだ。詩よ、お前たちは、冠を飾る宝石だった…それなのに、私がその冠を捧げようとした女は、受け取りを拒絶した。
彼女は、将来、この金銀細工のような作品の保持者となることを、そして、これらの『魅惑』の数々に霊魂を吹き込んだとみなされることを望まなかったのだ。
だから、だれのことも信じてはならない、そして、どんな心情もあてにしてはならない…

これを読むと、やはりこの詩集は出さない方がよかったという気が私はしますが、いかがでしょうか。
ちなみに学生時代、ポール・ヴァレリーアルチュール・ランボーと並んで私のアイドルでございました。また機会があれば触れてみたいと思います。