
結び
[明記はしないが、多くの読者にとっては自明であろうと思われるもろもろの理由によって、われわれはここで、手もとにある手書き原稿から、作者に無断で一部を省略する。その部分において詳述されているのは、デュパンによって得られた一見些細な手がかりからの追加捜査である。要約すれば、望み通りの成果が得られ、警視総監はしぶしぶながら、デュパンとの契約を滞りなく履行した、とだけ言っておけばよろしいだろう。ポー氏の原稿は以下の言葉で終わっている。――編集部]*1*2
私は偶然の一致について語るので、それ以上ではない。この事件については、以上に述べたところで、不足はないに違いない。私自身は超常現象などまったく信じていない。理性のある人間なら、神と自然とは別物であることを否定するまい。自然を創造せる神なればこそ、意のままに自然を操り、これを修正し得ることは、疑いを容れない。私は「意のままに」と言う。なぜなら問題は意志に関するものであり、狂者の論理が仮定するように、力の問題ではないからだ。神が自然法則を修正できないと言うのではない。修正を必要とする可能性を想像することは、神を冒涜することになると言うのである。その起源からして、これらの法則は、未来において存在し得る、あらゆる不測の事態を内包して創造された。神にあってはすべてが現在である。
したがって、繰り返すが、私は以上の事柄を、ただ単に偶然の一致についてのみ語ったと記すにとどめる。さらに言えば、わが物語において、メアリー・セシリア・ロジャースの、周知されている範囲内での人生と、マリー・ロジェなる者の、ある時点から他の時点までの人生との間に、ある相似が存在し、その相似の精妙さには、理性を困惑せしめるものがあることは理解されよう。それは見られる通りである。とはいえ、私はマリーの物語を特定の時点から始めて、彼女の死に関する謎の解決に到るまでをたどったわけだが、その私のひそかな目的が、この相似を展開させたり、マリー殺しの犯人当てに用いられた方法や、同じ推理法に基づく他の何らかの方法を応用することによって、同じ成果が得られると暗示することにあるなどとは、一瞬でも考えてもらいたくない。
なぜなら、メアリーの支流について言えば、二つの事件におけるきわめて小さな差異が、二つの出来事のそれぞれの道筋を、まったく違ったものとすることで、結果的に、きわめて大きな誤差が生じるかも知れないからだ。それはちょうど、算数において、それ自体としては大したことのない一つの計算ミスが、計算過程におけるあらゆる箇所で乗算されることによって、正解から大きくかけ離れた結果をもたらすのと同じことだ。そしてマリーの支流について言えば、先に言及した確率論そのものが、相似の展開を一切禁じるということを、われわれは肝に銘じていなければならない。それは、この相似がすでに長く続き、かつ逐一正確である割合にまさに比例して、強力に、断固として禁じられる。それは一見、数学的命題とはまったく別物のように思われながら、実は数学者だけが完全に抱懐し得る、そんな例外的命題のうちの一つである。たとえばサイコロ遊びで、六のゾロ目が二回続けて出た事実は、三回目は出ない方にめいっぱい賭けていい充分な理由になるが、これを単なる一般読者にわからせることは大変難しい。すでに終わった投擲、今は完全に「過去」に属する二度の投擲が、「未来」にのみ属する三度目の投擲に、何らかの影響を及ぼし得るとは、到底思えないからだ。六のゾロ目が出る確率は、通常の場合とまったく変わらないように見える。すなわち、それは骰子投擲の他のあらゆる場合と、まったく同じ影響を受けるに過ぎないように思われるのである。これに対する反論の試みは、往々にして、傾聴よりも、人を馬鹿にした薄ら笑いをもって迎えられる。これに含まれる錯誤――有害な匂いのするありふれた錯誤を、残された紙数で暴くことはできない。また思慮深い人々に対しては、暴く必要もない。ここではただ、傾向として、微に入り細を穿って真実を追求しないではいられない、そんな「理性」の行く手に現れる、数限りない錯誤の連鎖のうちの一つを、それは形成しているのだと、それだけ言っておけば充分だろう。(完)
